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 ちょうど74年前の8月26日、海兵67期出身の若き零戦隊分隊長・笹井醇一中尉がガダルカナルの空に散った。


 この日、三沢空と、数日前に戦列に加わったばかりの木更津空の一式陸攻16機が台南空分隊長・笹井醇一中尉(海兵67期)率いる零戦9機の掩護のもと、ガ島飛行場を爆撃。

 零戦隊はグラマンF4F十数機と約30分間にわたって空戦を繰り広げ、撃墜10機(うち不確実1機)と報告したが、指揮官笹井中尉、結城國輔中尉(海兵68期)、熊谷賢一三飛曹(乙飛9期)の零戦3機が未帰還となり、陸攻2機が自爆、被弾不時着2機、被弾9機、零戦1機が不時着大破という損害を出した。

 笹井中尉は、海兵出身の分隊長クラスとしてはいちばん若い(当時、同じ中尉の階級でも、68期はまだ分隊長にはなっていない)搭乗員だったが、比島作戦、南西方面作戦からラバウル進出にかけて常に台南海軍航空隊にあり、その卓越した素質と部下の心をつかむ人間的魅力も相まって、部隊としても個人としても、これまで抜きん出た戦果を挙げ続けていた。

 兵学校の席次は67期生242名中152番。兵学校の成績と、指揮官として、また搭乗員としての能力はまったく別である。
 従軍画家としてラバウルに来ていた林唯一が、「笹井中尉B-17撃墜の図」と題した3×5メートルほどもある壁画を慰安所の壁面に描き、だから、ラバウルにいたことのある海軍士官で、笹井中尉の名を知らぬ者はまずいない。



 笹井中尉の功はのちに全軍に布告され、二階級進級の栄に浴した。

 『機密聯合艦隊告示(布)第三十六号
      第二五一海軍航空隊附 海軍中尉 笹井醇一
 戦闘機隊指揮官又ハ中隊長トシテ比島、東印度及東部「ニューギニア」方面等ノ作戦ニ従事シ攻撃参加七十六回単独敵機二十七機ヲ撃墜シ友軍機ト協同敵飛行機百八十七機ヲ撃墜十六機炎上二十五機ヲ撃破セリ
 仍テ茲ニ其ノ殊勲ヲ認メ全軍ニ布告ス
   昭和十八年十一月二十一日
      聯合艦隊司令長官 古賀峯一 』

(注:台南空は十七年十一月一日付で二五一空と名称が変わっている。未帰還なので戦死認定が遅れ、その間は形式上「分隊長」の職を解かれ、隊附という扱いになっていたのであろう)


 笹井中尉は、坂井三郎氏の『大空のサムライ』で著名になり、残された写真や逸話から、いまも熱狂的なファンが多い。

 熱心な女性ファンのなかには、命日に墓参と墓掃除に行くような人もいらっしゃるし、私も、2度お参りしたことがある。一度は、日高盛康少佐とご一緒だった。
 余談だが、開戦時の台南空飛行隊長・新郷英城中佐(のち空将)の墓も、多磨霊園の隣の寺にある。

 笹井家は断絶してしまったが、笹井中尉の母が大西瀧治郎中将夫人の姉、つまり大西中将と笹井中尉は叔父甥の関係だったこともあり、私の知る限りではそちらのご親族がお墓を管理されている。お参りはともかく、ご親族に無断で掃除までするのは如何なものかと思わないでもない。


 笹井中尉を撃墜したとされるのが、米海兵隊大尉だったF4Fのパイロット、マリオン・カールである。あまり語られていないようだが、カールは戦後、日本での勤務が長く、日本と縁の深い軍人だった。

 

 以下、5年前に書いた記事を再録する。
 

 2011年06月18日




 昭和49年5月に撮られたこの写真、見る人が見れば、誰が写っているかわかるだろう。いや、外人さんのほうはわからないかな?でも、その名を聞けば、おや、と思うに違いない。

 向かって左が、坂井三郎さん。
 向かって右は、マリオン・カール(退役海兵隊少将)。
 二人とも満面の笑顔だ。

 坂井三郎さんは、言わずと知れた零戦有名人である。戦後、福林正之が書き坂井三郎の名で出版された『坂井三郎空戦記録』、フレッド・サイトウが書きマーチン・ケイディンが脚色した『SAMURAI!!』、高城肇が書き坂井三郎名で出版された『大空のサムライ』がいずれもベストセラーになっていた。写真が撮られた時期は、ちょうど『天下一家の会』と深く関わっている。平成12年9月、歿。

 マリオン・カールは、その坂井氏が台南空時代の分隊長・笹井醇一中尉を撃墜したとされる米海兵隊のパイロットである。戦後は沖縄に駐留していたこともあり、意外に日本と縁が深かったらしい。ベトナム戦争でもずいぶん働いたようだが、この写真の集いの前年、海兵隊を退役している。

 坂井さんのどの本を読んでも、笹井中尉との、海兵出、操練出の垣根を越えた友情が話の柱の一つになっている。坂井さんの家の応接間に入ると、奥に鎮座する神棚に笹井中尉と本田二飛曹の遺影が置かれ、訪問者はまずそこで、手を合わせることとなっていた。某宗教団体の新聞記者が、「ウチは宗旨が違うので・・・・・・」と手を合わせることを渋って坂井さんに叩き出されたという話は、坂井さん本人から聞いた。

 ともあれ、この写真を見ると、何か拭いがたい違和感を感じる。

 「昨日の敵は今日の友」?・・・・・・にしても、敬愛する分隊長を殺したとされるグラマンF4Fの搭乗員と、こうも笑顔で握手ができるものなのだろうか。当事者の気持ちは当事者にしかわからないから、けっして非難しているわけでも、否定するわけでもないけれど。


 このときのことではないが、実質的な戦歴は坂井さんを遥かに超える角田和男さんは、零戦搭乗員の会合に出てきた「エース」と称する米搭乗員に、
 「エースだと?貴様、俺の仲間を何人殺したんだ。何をのこのこ日本に来たんだ」
 と詰め寄っている。

 また、大東亜戦争では坂井さんより長く、より強くなった米軍機と戦い戦果を収め続けた大原亮治さんは、「誰」が「誰」を撃墜したと決め付けたがる取材者や風潮に対し、不快の念を隠さない。
 「あんたがこの人を殺したって、そんなことを報せてきてどうする。嫌な気がするだけじゃないか。墜とさなければ自分が墜とされるんだよ」


 まあ、坂井さんもマリオン・カールも、いろんな思いを呑み込んだ上での握手なのだろうが・・・・・・。


 ちなみに二人が手に持つ軍艦旗の寄せ書きには、
 「日本零戦搭乗員会 代表 坂井三郎」の名がある。
 この時期、中野忠二郎大佐が会長を務める(旧)「零戦搭乗員会」という会があり、「日本零戦搭乗員会」というのはあくまで、坂井さんの対外的な箔づけに利用された実体のない会の名称である。
 「誰も何も言わないけれど、坂井さんのそういうところが好かれなかった」
 という、元搭乗員の声もある。残念なことだが。


 寄せ書きの下のほうには、叩き上げの下士官兵出身搭乗員数名の名前が見えるが、巨大ネズミ講組織『天下一家の会』東京事務所を務めていた甲飛12期(天下一家の会代表・内村健一と同期)Y・S氏の名前も見える。
 ネズミ講が社会的問題になりつつあり、ここにある名前の人のほとんどは、その後、内村に担がれた坂井さんとは袂を別つ。


 当時の「零戦搭乗員会」は、新橋五丁目にあったY・S氏の会社に事務局を置いていたが、同事務所がネズミ講に使われていることがわかって、不名誉なトラブルを避けるためにY・S氏に事務局を返上させ、昭和53年2月、解散した。
 そして同年、新たに、相生高秀中佐を代表世話人に、全国組織として新生「零戦搭乗員会」が発足、これが現在のNPO法人「零戦の会」の基になっている。


 マリオン・カールはその後、1998年6月28日、オレゴン州の自宅で、押し入った強盗にショットガンで射殺された。妻・エドナを守ろうと盾になったとも伝えられる。マリオン・カールは82歳。19歳だった犯人はのちに死刑判決を受けたが、2015年、再審で仮釈放なしの終身刑を言い渡され、目下、服役中のはずである。


 当時、日本の新聞にも、マリオン・カールの小さな訃報記事が載っている。


 昭和40年代、高城肇氏が書いた戦記読み物ふうに書くならば、戦闘機乗りのジンクス「撃墜王は畳の上では死ねない」・・・・・・を地で行くような、マリオン・カールの最期であった。
 あ、でも、アメリカ人はそもそも畳の上では暮らしてませんね。これを英語に翻訳したらどういう表現になるんだろう。



 

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20日土曜日23時から、私が企画を提供した番組がアンコール放送されます。番組ディレクターは名作ドキュメンタリー「おじいちゃんと鉄砲玉」の久保田瞳さん。この番組は、3月に放送され、大反響を呼びました。ご覧いただければ幸いです。


ETV特集「名前を失くした父〜人間爆弾“桜花”発案者の素顔〜」

 

http://www4.nhk.or.jp/etv21c/x/2016-08-20/31/47/2259517/

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昭和20年8月16日未明、軍令部次長大西瀧治郎中将は、特攻で死なせた部下たちに謝し、世界平和を願い、次世代に後事を託す遺書を遺して自刃した。部下たちの苦悩、苦痛を思い、なるべく長く苦しんで死ぬようにと、介錯を断っての最期だった。

巷間伝えられているように、2000万人特攻、本土決戦などと本気で考えていたのなら、遺書の後段のような言葉が出てくるはずがない。遺書は、あらかじめ用意されていたもので、割腹の直前に書かれたのではない。大西の徹底抗戦論は、まさに命を懸けた大芝居であったのだ。

*

八月十六日の未明、大西は畳の上にシーツを敷き、一人その上に座ると、日本刀を引き寄せた。古来の切腹の作法どおり腹を十文字にかき切り、返す刀で首と胸を突いた。

発見したのは、官舎の管理人である。急報で、多田海軍次官が軍医をつれて駆けつけた。次いで、副官と児玉誉士夫も官舎に急行した。

大西は、近寄ろうとする軍医を睨んで、
「生きるようにはしてくれるな」
と治療を拒み、多田と児玉に
「介錯不要」
と言った。
大西は、自分の掌にぬくもりを残して飛び立っていった特攻隊の多くの若者たち、そしてフィリピンに置き去りにしてきた一万五千人の将兵のことを思い、なるべく苦しんで死ぬ道を選んだのだ。


夕方六時頃、大西は、自らの血の海のなかで絶命した。享年五十四。腹を切って十五時間あまり、軍医も驚嘆する生命力だった。
大西が遺した遺書には、特攻隊を指揮し、戦争継続を強く主張していた人物とは思えない冷静な筆致で、軽挙をいましめ、若い世代に後事を託し、世界平和を願う言葉が書かれてあった。


〈特攻隊の英霊に曰す
善く戦ひたり深謝す
最後の勝利を信じつゝ肉
彈として散華せり然れ
共其の信念は遂に達
成し得ざるに至れり
吾死を以て旧部下の
英霊とその遺族に謝せ
んとす

次に一般青壮年に告ぐ
我が死にして軽挙は利
敵行為なるを思ひ
聖旨に副ひ奉り自
重忍苦するの誡とも
ならば幸なり
隠忍するとも日本人た
るの衿持を失ふ勿れ
諸子は國の寶なり
平時に處し猶ほ克く
特攻精神を堅持し
日本民族の福祉と世
界人類の和平の為
最善を盡せよ

海軍中将大西瀧治郎〉



「矜持」の「矜」の字が誤字になっている。
そして、遺書の欄外には、

〈八月十六日
富岡海軍少将閣下 大西中将
御補佐に対し深謝す
総長閣下にお詫び申し上げられたし
別紙遺書青年将兵指導
上の一助とならばご利用ありたし
以上〉

との添え書きが細い字で書き加えられている。
淑惠に宛てた遺書は、

〈瀧治郎より
淑惠殿へ
吾亡き後に處する参考として書き遺す事次乃如し
一、家系其の他家事一切は淑惠の所信に一任す
淑惠を全幅信頼するものなるを以て近親者は同人の意思を尊重するを要す
二、安逸を貪ることなく世乃為人の為につくし天寿を全くせよ
三、大西本家との親睦を保続せよ
但し必ずしも大西の家系より後継者を入るる必要なし
以上
之でよし百萬年の仮寝かな〉


と、丸みをおびたやさしい字で綴られていた。


大西の自刃は、八月十七日午後四時、海軍省から遺書とともに発表された。富岡少将への添え書きどおり、「青年将兵指導上の一助」として利用されたのである。大西に面罵され、対立していたかに見えた富岡は、大西の遺志にしたがい、それを忠実に、しかも手回しよく実行に移したのだ。


大西自刃の記事と遺書は、八月十八日の新聞に掲載された。
第一航空艦隊で大西の副官だった門司親徳が、台湾の新聞でこの遺書を読んだのも、この日のことである。



写真は、門司親徳さんから私が譲り受けた大西中将の書の掛け軸。

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特攻、あるいは大西瀧治郎について書かれた書物やテレビ番組は数多いが、門司親徳にも、歴戦の零戦搭乗員で特攻隊員だった角田和男にも会わずしてあれこれ論評、あるいは非難、罵倒しているものは、すべてインチキであると私は思う。


そんな、取材をしないで発信される情報の氾濫に一石を投じるべく上梓したのが拙著『特攻の真意〜大西瀧治郎はなぜ「特攻」を命じたのか』(文春文庫)。この本は、その前に講談社から上梓した『祖父たちの零戦』をお読みになった半藤一利さんが文藝春秋に推薦してくださって書いたものだ。


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