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 4月7日は、戦艦「大和」が沈んだ日である。昭和20年のこと。

 若い人は「大和」が読めない人が多いらしいが、念のため、「だいわ」ではなく「やまと」である。

 日本人が覚えておくべき日の一つだろう。

 

 名著『考証要集』(文春文庫)の著者にして私が師と仰ぐNHK考証担当チーフディレクター大森洋平さんの亡き御父様は海軍予備士官である。

 

 

 「大和」が沈んだとき、御父様は佐世保の電測士だった。

 電文で、「我が方の損害、沈没戦艦一」というのを最初に受信して、

 「戦艦一っていったって、動けるのはもう『大和』しかないじゃないか」

 と、目の前が真っ暗になったとよく話されていたという。

 

 戦闘が終わり、佐世保軍港には生き残った駆逐艦が、救助した重油まみれの将兵を載せて帰ってきている。大森さんの御父様は彼らを迎える立場だったという。

 

 折しも満開の桜が散り始め、駆逐艦の重油に汚れたデッキにも桜の花びらがはらはらと舞い落ちた。

 それを見て、

 「チクショウ、桜が咲いてやがる」

 と、悔しがる乗組員がいたという。

 つい先ほどまでの激戦と、そのなかで戦死した幾千の戦友、それと内地で何ごともなかったかのように咲き誇る桜の風景の間に、あまりにもギャップがありすぎたのだろう。

 

 

 「大和」といえば、よく「戦闘機の護衛もなく、裸で進撃させられた」と言われるが、それは半分ウソである。4月7日、早朝から敵機が来襲する直前まで、二〇三空と三五二空零戦隊が「大和」の上空直衛に飛んでいる。

 

 最後の上空直衛の指揮官となった、三五二空先任分隊長の植松大尉は昨年までご存命だった。戦争のことを語ろうとしない植松さんに、何度かお話を伺ったことがある。

 

 『機種は零戦52型丙、機数は16機だった。昭和20年4月7日、〇六三〇、笠ノ原基地を出発。当日天候は曇り、雲高500メートルで視界が悪く、「大和」を見つけるまでに2時間かかった。〇八三〇、「大和」以下、輪型陣のわが艦隊を発見。植松大尉以下16機は、高度300メートルで「大和」上空を旋回、甲板で手を振る乗組員の姿がはっきり見えた。植松大尉機は、離陸時に増槽が落ちてしまい、燃料がなくなるので、一〇〇〇、海兵72期の中尉に指揮を託して単機で引き返し、残りの15機はその後30分ほど、一〇三〇頃まで上空直衛に任じ、その間敵を見ず、全機無事帰還した。植松大尉は一一三〇頃笠ノ原基地帰着、間もなく指揮所に、無電室より「大和」が敵機の攻撃を受けている旨報告があった』

 

 このときの編隊に加わった、歴戦の佐伯義道少尉にも、同様のお話をうかがった。佐伯少尉は、開戦当初、台南空第四分隊の先任搭乗員で、マッカーサーがフィリピンを脱出するため用意した輸送機を地上銃撃で燃やし、戦後、GHQに行方を追われたという人である。

 

 零戦隊の上空直衛の様子は、「大和」艦上からもよく見えた。

 最後まで司令塔にいながら奇跡的に生還した「大和」副砲長・清水芳人少佐にはしばしばお話をうかがったが、

「護衛というより、死出への餞のようにも思えましたが、心強く、ありがたかったですよ」

 と、おっしゃっていた。

 

 同行した駆逐艦「濱風」水雷長の武田光雄大尉も、同じようにおっしゃってたっけ。

 

 植松大尉はその後、4月15日に南九州が敵艦上機の空襲を受けたさい、15機のグラマンF6Fの編隊にたった2機で劣位から空戦を挑み、撃墜され足に重傷を負った。

 戦後、大手商社に入った植松大尉は晩年までゴルフを続けられていたが、そのときの後遺症でちょっと足をひきずっておられた。

 

 

 ところで、「佐世保」というのを、海軍の古い人はたいてい「サセホ」と発音する。佐世保は「サセボ」か「サセホ」か、どちらが正しいのかということを、佐世保勤務の長かった故・松永市郎大尉にあるとき問うてみた。

 「それは、『ほぼ』同じです」

 とはぐらかされて、それっきりである。(一応、松永さんとしては会心の駄洒落のつもりである)

 いまはみんな「サセボ」と濁っていうが。

 

 どうなんでしょう?

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