立場/力/個人について

テーマ:
社会人になるということは、力を持つということだ。
現実にコミットし、責任を負い、物事を判断したり、変えたり、実現したりする力。
引き替えに、個人の私は圧迫される。

私は力を持ったから、人の役に立つことができた。
けれど、私個人の自由は制限されている。

力を持つことは危険なことで、
それが個人の感情や好き嫌いによって使われることはとても危ないことなので、
そうならざるを得ないということもわかるのだけど、
それでは私が苦しく不自由で、
もっとより良いありかたがあるんじゃないかと思うんです。

個人である私と、力を行使する私は、世間的には別々ですということになっているのだけど、
私は生き物だしアナログの存在だし、きれいに割り切れるものでもないし、
すべての行動は感情と切り離すことができない。
それは皆うすうすわかっているけれど、立場上合意の上ないことにしているというだけで、
そうしていると個人の方が割りくって辛い、というのは人形浄瑠璃の昔から描かれてきたテーマではないのか?

裏を返せば、力を発揮するために個人の部分が原動力になることも多いわけで、
それを自己実現とかいって美化しておきながら、
個人はないことにする、っていうのもなんだかおかしな話だと思う。


もっといいバランスで、個人の私でありながら、
人のために力を使えるような、そういう立ち位置があるのではないか?
そこに立つにはどうしたらいいのか?
ということを最近考えています。

AD
・一度5時30分に目覚めたが、次に目を開けた時は6:30だった。

・1時間遅刻し、諦めるでもなく中途半端にあとを追いかける自分が決断や責任を負うことから逃げて、ただ傷つくのが怖いから人に合わせてもっとも怒られない手段を選ぼうとしているのではないか、
 その結果、より人に嫌われるようになっているのではないか、などという事を考えて自分に嫌気がさす。

・朝の空気が気持ちいいので、帰るのもなんだし、このまま御嶽渓谷でも散策するのもいいかもしれない、と思い出す。

・なんと1時間待ってくださることに。
 私がきちんとしていなくても、能力がなくても、だめなところがあっても、一緒に行きたいと思ってくれる人がいて、待っていてくれるということに、私はいてもいいんだと思える。

・しかも初めてさんがいたのに待たせてしまった。
 ナシダさん。なっしーさん。かわいい。
 名古屋出身らしく、ナガシマスパーランドの話をする。


・途中の分岐の先に、乳房観音があった。小さな祠がひとつ。
 ご神木からは乳根が出ていて、それが由来のもよう。
 乳房と観音は意外と結び付けられるのだなあと思う。

・途中うんこがある。

・登りがきつい。1200メートルをまっすぐに上がった感じ。駅が300メートルくらいなので、900メートル分。
 だんだん足が上がらなくなって、もつれるようになる。
 ふくらはぎが痛い。

・葉っぱやどんぐりがたくさん落ちていて、それらで意外と足がすべる。
 もしかしたらこの間の台風の時に落ちたのかもしれない。


・あそこで終わりか、と思って頑張ると、その先に壁みたいなさらなる傾斜があるということを3,4回繰り返す。
 同じ景色を3度見た。


・ARMYルートの事を思い出す。
 険しい道の横にゆるやかなルートがないか、いつも確認してしまう。
 そういう道があった時、心の中で武部さんとARMYルートを思い出す。

・汗で全身がびしょびしょになり(特に背中と脇)立ち止まるとすぐに体が冷えるので、途中から背中にタオルを入れっぱなしにしていた。

・昼食後、近くの分岐から下ろうとしたら、道なき道の急な傾斜で、じっとしていても滑って行ってしまいぜんぜん踏みとどまれないので、
 引き返してもう一度頂上まで登り、先の山まで進んで鳩ノ巣駅まで下ることに。

・派手に折れた木があった。これも台風のせいか。

・キノコらしい形の、みるからに毒がありそうな赤いキノコが生えていて、雄二さんが枝に刺していた。
 私に投げつけたらキノコは空中分解した。
 ほかにもたくさんキノコが生えていた。


・下りでは、まっすぐ降りるよりも、スキーのボーゲンのように、坂に対して垂直にエッジを立てて、
 左右に往復しながら下りていく方が楽だと思う。
 まっすぐ降りると靴の中でつま先が痛くなる。


・下り地獄。
 えんえんと同じような下りの岩道が続く。途中草が深くなったり、崖があったり、赤土のすべりやすい斜面があったりする。

・下りきったところに彼岸花がたくさん生えていた。
 コスモスや他の花も。

・鳩ノ巣駅 おつかれさま の看板

・猫が多い。

・駅前に斎場があり、中ではクラシックが流れているが、その隣の茶屋でかき氷を売っていてシュール。
 メニュー表は

 しそジーユース
 山いもスライ
 おしたし
 ラッキゥ
 ハトノスヤキポテてト


 そのお店のおばちゃんも猫を飼っている。まだ子猫らしい。
 いろんなものに興味津々でかわいい。触られても逃げないし、おばちゃんが呼ぶとちゃんと来る。


・立川の牛繁でたらふく焼肉を食べる。
 みんな食べきれないくらいたくさんだったけれど、冷麺がとてもおいしくて一人でやたら食べてしまった結果、冷麺吉田になった。


・思っているよりも時間が早いと嬉しい。
 帰りはもう22時くらいの気分だったけれど、時計を見るとまだ19時台で、とても得した気分。
 20時過ぎには家に帰ってゆっくりできる。


・武蔵小杉と思われるビル群の近くに、空が明るくなるほどの強い白い光が見えた。
 (のちほど調べたところ、等々力競技場でサッカーの試合が行われていたとのことなので、それではないかと思われる)
AD

私のいる世界の今の前

テーマ:
銃撃が始まって以降、死傷者が路上に倒れ、その周りには血だまりが広がっていた。デモ隊のキャンプは、かつて公園や子どもたちのための美術展覧会の会場として使われていたが、今では野戦病院と化していた。


http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20130815-00000049-reut-m_est


Yahooニュース『エジプト現地ルポ:混乱と流血、銃弾の痕に芽生える「聖戦」』ロイター 8月15日(木)12時21分配信


ジエン社の予告文かと思うような文章だった。
この文章を書いた人は本介さんと言語感覚が似ているかもしれない、と思うと同時に、
これが創作の描写ではなくて、現実の描写であるということになんというか、感銘する。
感銘というほど、プラスの方向のイメージではないのだけど、でも感銘、という言葉しか見当たらなかった。

私には最近、こういうことが多い。
適した言葉を見つけられないまま書いてしまうようなこと。
なにか不自由になっている気がする。
適した言葉を見つけるまで探究する気力がなくなってしまったのか、諦めてしまったのか、
もともと見つけられたつもりになっていただけだという事に気づいたのか。

$あかりや日記



話は変わるけれど、最近、わたしは自分が子供のころに戻ったような気がする。もしくは十代のときのような。
ものごとの感じ方とか(たとえば電車に乗っていて、ああ、空がきれいだなあと思うときとか)、
休日の午後の感じとか(ゆっくりと流れる、なんでもない、予定のない、所属もない感じ)、
本を読みたい、映画を観たい、音楽を聴きたいと思う衝動とか(かといって、まだ実行に移しているわけではないのだけど)。
悩みぬいて午前四時まで夜更かしをして、夜明けの青い光に手をかざしていたあのときの感じ。
午前2時から映画を見始める感じ。
学校の帰り道、ゆうがた、何時間も目的も持たず、一人でぶらぶらしていたときの。
はまった音楽を繰り返し聞いて、昇る朝日が窓の外の足場に反射してきらきら輝いて、
その時間・空間にも感動したあのときの感じ。



それはある意味不自由さとか、保護されている感じなのかもしれないし、
逆に忙しくて忘れていた周囲の豊かさにあらためて気づいた、ということなのかもしれない。
まだ解釈は分からないけれど、とにかく何か私に変化が起きているような気がする。
AD