久しぶりに日本でコンサートをしました。オープンカフェです。お役所仕事の手続きは現地の出演者にお願いし、初めて私からはネットでの宣伝のみという形にしました。
出演者が高校の同級生ということもあり、同級生が来場。私には、18歳でお別れしてからの再会!がうれしかったです。すごい。インターネット、顔本さまさまです。
そのまま同窓会に突入しないで立ち話できたのが、カフェのいいところです。
この機会に、他の地でもやはり中高の同級生に会えたりしました。
ありがたい、としか言えません。有難い、と漢字で書きます。
一方、実家では消えていく思い出とのたたかい。「もの」のことです。
私は家を離れて長い年月が経っています。父が他界して、ようやくいろんな物の確認をし始めましたが、いつ行っても
私の服が一枚も出てこないんだわね。
ってのはどうなんでしょう。それはそれとしてうけとめるか、「ねずみがかじっていった服」がすべて私の服に偶然当たる、と考えるか。もちろんセーラー服が出てきても着られませんけども。今回はグッチのポシェットだけみつかりました。(大きな方はねずみにさしあげていた)
一応、服もかばんも亡くなっても平気です。できれば、自分の目で再確認して捨てたい、というだけ。でも後ろを見てもしかたない。
父の死後にいろいろ残っていたものも、だいぶ片付きました。すっきりしてきたな、と思ったら本箱がカラ。本はブックオフが見ていったという話で、気が付けば、子供の頃の愛読書50巻以上が亡くなっていました。自家へお邪魔する楽しみはその本くらいだったのですが。
もちろん、死ぬ前に全巻を読見返すような時間もないので、忘れるつもりではいましが、いくつか、もう一度読みたいな、とか、イラストを見たいな、という作品があったのです。(小学館だと思いますが、里中満智子さんが描かれたものもありました。)
特にフィンランドの部は、とっておきたかったです。あとは、強烈な、日本古事記は読みたかった。というわけで、愛読書が亡くなりました。
母に話すと「それ、私が買ってあげた本?」と言っていましたが、私が子供の頃に仕事に出かけることもできなかった母にはお金はないはずです。ええ、会社帰りに、月1で新品の本をもってきてくれた父の姿を思い出します。
かくいう私も、自分の子供の本は適度に処分していますが、読み聞かせして大うけした本は・・・捨てて・・・捨てた・・・かも・・・
でも。物をもって死ぬことはできない。
家事や災害で、いきなり一気にすべてのものを失うこともある。
と自分をなだめております。
好きなものも棺桶の中に持っていくことはできない。と書こうとも思いましたが、そもそも棺桶に入れるとも限らない。
自分が死んだらまわりに迷惑をかけないようにしよう、と思うばかりです。