2009-11-15 10:38:03

村上春樹『風の歌を聴け』を読む

テーマ:読書
 今年は村上春樹が何かと話題になった年です。エルサレム賞でのスピーチ、『1Q84』の驚異的なベストセラー等。個人的にも、主に村上訳の翻訳本やエッセーを何冊か読みました。
 この『風の歌を聴け』は最初に読んだ時とは違った所に今回は惹きつけられ、以前よりは重層的な作品の構造が見えてきました。
『ノルウェーの森』『ねじまき鳥クロニクル』を読んで、個人的にも何冊かの小説、翻訳本、エッセー等の読了後の今回の再読ですので、なるほど、最初の作品にその作家の全てが内包されているなぁと感じました。
 特にこの小説が村上春樹の「作家宣言」というか、これから書くであろう小説の予告編というか、かなり気合いの入った意図的な小説であるという点に気づかされました。水泳で言えば、背泳の時のバサロのように長く潜った後、顔を突きだしたような、潜水中の水圧を一気に噴出させて書いているような印象を今回は持ちました。村上春樹は精神の屈伸率を最大にしてこの最初の作品を書き、新人賞に応募したのではないかと。これまで蓄積していたものを「方法的」に「計算づく」で描いたのかもしれないと思いました。一度目に読んだ時にはそう感じなかったのですが。
 村上についての批評では、アメリカ文学の影響を超えてコピーというか、模倣的という意見とかポップでおしゃれな文体だけとかいう否定的な意見も目にして、この作家はむちゃくちゃのファンであるか、評価しないかに極端に分かれているなあという感想を持ったことがありました。忙しさにかまけている内に、あまり村上春樹の小説は読まなくなって、いつしかそのままになっていて、近年海外文学を読む中で村上の翻訳本に出会い、また小説も読み始めました。
 村上はデビュー直後こんなインタビューをしています。
「言うだけヤボなことは、ぼくは書きたくないんです。でも、ヤボだということを書かないと、小説としては〃軽い〃と思われてしまうらしい。ジャズでも、ジョン・コルトレーンとか、重い音楽の方が評価されやすいし。ぼくにだって、イヤなことやどろどろしたものはありますよ。人をだましたことも、だまされたこともある。でも、そうしたことを、ぼくは利用したくない。男と女のうまくいかない同棲などを描く小説も多いけれど、こんなことは書かなくていいじゃないかと思ってしまう。自我のぶつかりあいというのは、いわば既成の事実で、それをどう解決していくかが問題なんだと思う。そういうことは私生活だけで十分です。」(朝日新聞一九八〇年のインタビュー)  
 はっきりと近代文学、戦後文学への挑戦というか、新しい小説を書くという意気込みがあったようです。思いつきで書くのではなく、「方法的」に緻密な計算の上にこの『風の歌を聴け』を描いたというのが再読しての感想です。一度目には表層的でポップでおしゃれとしか見えなかった文体に、今回は意図を感じたという訳です。今までのスタイルを敢えて打ち壊して、新しいスタイルと文体を創造するという姿勢をうちだす強い意気込みがあったようです。
 ただ細部では小指のない女の子やその他の女性の描き方に、少しもやもや感がありました。まだうまく焦点化して言えないのですが、文体と物語のために人物の息吹とかを奉仕させているというか、もの足りない感じがありました。これはその後の作品の女性たちについても、感じる点でもあるので一度ゆっくりと考えてみたいと思います。
 今回、細部で特に印象に残ったのは、ジェイズ・バー、ミシュレの『魔女』、ビーチボーイズ、ハートフィールド等で、この小説は細部がよく効いていると再読して感じました。
 ミシュレの『魔女』は、一時期フランスで一世を風靡した歴史書だそうなので、特にバタイユが『文学と悪』で取り上げ話題になったりロラン・バルトも取り上げたりしている書物だそうで、私はサルトルとボーボアールが耽溺した本として記憶しています。二人はこの本によってインスパイアされたとはっきり言っています。もしかしたら村上春樹はフランスの作家たちに通暁していたというのが私の憶測で、アメリカナイズされていてアメリカ文学からの影響で語られることの多い村上が実存主義や哲学者たちの影響を受けていたのではと。1968年のあの激動の世界に村上も巻き込まれずにはいられなかった訳ですし、必然的にその頃の思潮にも影響を受けずには済まなかったということですが。(『村上春樹と小阪修平の1968年』新泉社・とよだもとゆき著 という本ではその点に注目して哲学者小阪修平と作家村上の接点について展開しています)
 村上作品では主調音を音楽で表している作品が多いのですが、この作品でビーチボーイズを選んでいるのもかなり意図的です。今回ビーチボーイズを何曲か聴いてみて、あの頃に確か耳にしたという既視感と共に、「カリフォルニア・ガールズ」という彼らの曲の中でも特に脳天気に明るく軽い曲を村上が選んだのも意図的なのだと感じました。
 加藤典洋は「多分この「気分がよくて何が悪い?」というポップスの気分によって書かれた最初の小説である。」という解釈をしています。つまり「世の中の矛盾が大きかった過去の時代には、多くの人々に共感される現実性を帯びていた。しかし、高度成長以後の一九七〇年代をへて、国民の大多数が「中産階級」を自任するように変わると、そのいわば「社会の諸矛盾の上にモラルを築くあり方はその足場の現実性を失っていく。(略)鼠の「金持ちなんて・みんな・糞くらえさ。」という過去のモラルのバックボーンである否定感情の前に、「気分がよくて何が悪い?」という、まったくの新たな肯定の感情が流れてくる。この小説は村上がそういう時期に見せた独特のコミットメントの里程標なのにほかならない。」(『村上春樹イエローページ』1、60ページ、加藤典洋)と。ビーチボーイズの軽くて明るい曲をこの小説の主調音にしたのも、宜なるかなというのです。
 ジェイズ・バーというのも、今回私の中で大きくクローズアップされました。このバーは三部作で出てくるバーで、このバーが魅力的なのは言わずもがなですが、このジェイという中国人のバーテンの魅力もなかなかのものです。個人的に所用で毎週芦屋に通っています。インターネットで調べるとある人がジェイズ・バーのモデルの店を突きとめていて(これは作品によって三回変わっているようですが)その場所は、なんと毎週通っている場所のほんの近くで、震災後変貌したとはいえ、この小説の芦屋のその周辺の雰囲気は何となく感じますし、この小説に感じる風は、芦屋の町に突然吹き付ける海からの風と山からの風を感じる場所の「風」なのです。一度目は読み取れなかった「風」が、今回はその土地に吹く独自の「風」というふうに感じました。芦屋の国道二号線周辺の雰囲気というか、その「風」はこの小説にはずっと流れている感じなのです。前回読んだ時には未知であった土地に行ってみて何か作品世界の「風」というものを強く感じました。
 最近出た『モンキー・ビジネス』という雑誌の中で村上春樹は作家と物語についてこう書いています。(この原文は二〇〇五年に書かれたものだそうです)
「(略)物語というものは、聞き手の精神を、たとえ一時的にせよ、どこか別の場所に転移させなくてはならないからだ。おおげさに言うなら、「こちらの世界」と「あちらの世界」を隔てる壁を、聞き手に越えさせなくてはならない。あちら側にうまく送り込まなくてはならない。それが物語に課せられた大きな役目のひとつなのだ。」(15ページ)
 この辺はデレク・ハートフィールドという架空の作家にもこの方法論を語らせています。「文章を書くという作業は、とりもなおさず自分と自分をとりまく事物との距離を確認することである。必要なものは感情ではなく、ものさしだ。」そして、また鼠の小説ということで、その優れた点としてセックスシーンのないことと、人が死なないことという点を挙げているのも、小説論として興味深いです。
 その他、作品の方法論のひとつの作法として、一冊のノートに線を引くという方法をこの小説で挙げています。まるで創作の手の内を明かすように。ポジとネガを分ける線を引いて両方に振れる振り幅。その振れた結果は読者に委ねるという村上作品の構造の一端はこの小説にも現れています。
 翻訳本を読んで、特にチャンドラーとカート・ヴォネガットの影響が色濃いと思いました。その屈折した作品の構造と二重性、暗喩、隠喩。台詞に凝る。アフォリズム、シニカルさとユーモア、風俗を頻繁に織り込む。意図的な文体等。
 多少のもやもやも共感も含めて、これを契機に小説家村上春樹を意識して読みたいと思います。まず、買ってきたまま読んでいない『1Q84』を早速引っ張り出してきて机の上に置きました。

夕なぎ

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