2007-02-28 09:47:42

闇―光の傷──吉田可南子『言葉の向こうから』

テーマ:読書
 吉田可南子という名前を以前見たことがある。それは多分、『ユリイカ』のマルグリット・デュラスの特集の記事で、詩人でフランス文学者としての吉田可南子の評論だったと記憶している。言葉の振り幅が大きく、一語に込めている厚みを感じさせる評論で、この人の他の文章が読みたいと思っていたら、昨日、偶然、吉田の本をみつけた。
 たまたま他の本を予約していて、初めてのその図書館を一巡していたら、この本に出会った。新しく出来たのは知っていたが、来たことがなかった。大きい建物で、なかなか手に入らない本もちゃんと置いてある。あちこちで黙って本を読んでいる人がいる。静かに机の前で資料を広げている人がいる。静謐で雰囲気のいい図書館だった。
図書館といえばサルトルの『嘔吐』のオジエ・ペという人物を思い出す。本棚のAから順に読むことを企てた男。本好きならかなりあの男に魅惑される筈だ。世の中の本を順序立てて全部読んでしまいたいという欲望。絶対に成就しない見果てぬ夢。それに、たとえ全部読んだところで、それがどうしたという種類の話ではあるし。久しぶりの図書館でまた、オジエ・ペになりたくなった。
 何冊か借りてほくほくした気分で、帰りのバスの中で本を広げる。特にこの『言葉の向こうから』という吉田可南子の本は美しい装丁で、文章が独特の音色を奏でている。
 最近、女性の詩人の書評や評論に面白いものが多いと思う。
 小池昌代の『井戸の底に落ちた星』、蜂飼耳の書評。言葉の使い方がそれぞれ独自で立ち止まり、言葉にとらわれながら、知らない間に魅せられている。詩人の書く散文は魅惑的だ。
 この本で吉田が取り上げているのは、ソニア・リキエル、デューブッシェ、デュパン、ジャコメッティ、ブラン・ヴァン・ヴェルデ、宮沢賢治、中原中也、有間皇子、世阿弥、和泉式部、与謝蕪村、芭蕉、須賀敦子、ロラン・バルト。万葉集、フランス文学、現代詩。
 言葉の森に分け入り、言葉の向こうから聞こえてくる声に耳を澄まして、「わたしなりの世界との出会い」を書いている。「世界とは、もちろん目の前の可視的な世界ばかりではない。ひそかな隅に影のようにうずくまっている、私一人のではない、わたしたちの記憶。まだ生まれていない、でもやってこようとしている光の息吹き。そして詩や文章に漉かし出されるように、言葉の向こうから立ち上ってくる」世界。
 吉田の詩が途中に出てくる。
「   闇

  光の傷
   *
闇って 
夢のなかで   
  眼をあけているのです

  
    愛
 
  あなたの闇で出会いたい
   * 
  闇 
  それが星です   」
  
 いないことでいることを書く。そして、闇が星なのだという。
 この吉田の感性が捉えたカミーユ・クローデルという彫刻家の肖像はこうだ。
「カミーユ・クローデルの作品には、深い内面性がある。師ロダンとの恋の情熱で有名になってしまったが、彼女の内面世界は静かに澄んでいる。内面性──あるいは魂のはばたき。
 どれほど心が憧れても人間が人間の外へは出てゆけないように、ブロンズや大理石の像も、重さを離れて飛び立つことはできない。けれど、まなざしが、遥かな彼方へと向けられる。そして、断ち切られたはばたきの哀しみが、逆に彼方の広がりを呼びよせる。
 遥かな空間と魂の呼び交わしが、固い物体をしかし柔らかく波立たせる。彫刻の内部へと引きこまれて、わたしたちはいつしか耳を傾けている──「炉端の夢」の女のように──遠くて、けれども実は近くにあるものと。
 この希有な彫刻家の作品に出会うとは、遥かなものへと誘われながら、同時に、わたしたち自身の最も深いところで息づいているものと対話することではないだろうか」
 長く引用したのは、吉田のブレスを感じるためだ。吉田の息づかいを感じさせる言葉。「おののきの底」の言葉。詩。
 吉田可南子は世界の分厚さに分け入って行く。素手で、口ごもりつつ、見つめて、見つめ返す。そして、言葉の向こうから、聞こえてくる声はいつしか「宇宙とひびきあう」のだった。



2007-02-20 22:32:57

砂漠の中の言葉──アゴタ・クリストフ自伝『文盲』

テーマ:読書
 二月になって映画ばかり見ていた。揺れ動く画面の前で考えていたのは、「書く」ことについてだった。何本も見た映画の中でジム・ジャームッシュの『ブロークン・フラワーズ』が面白かった。昔の女たちに会いに行く喜劇仕立ての映画だったが、いつもながら、画面の中の出来事への斬新な作者の視線を感じて、くすくす笑いながら、その笑いが苦く残って、作品に宿っている固有の「強さ」を受け取っていた。作品の強さとは何かを考えていた。映画のカメラワークと小説の文体。
 何本かの映画を見ながら同時に考えていたのは二回読んでそのままにしていた『文盲』というアゴタ・クリストフの自伝の中の次の章句だ。  
「もし自分の国を離れなかったら、わたしの人生はどんな人生になっていたのだろうか。
もっと辛い、もっと貧しい人生になっていただろうと思う。けれども、こんなに孤独ではなく、こんなに心引き裂かれることもなかっただろう。幸せであったかもしれない。
 確かだと思うこと、それは、どこにいようと、どんな言語であろうと、わたしはものを書いただろうということだ」『悪童物語』という強い作品を書いた作家の言葉だ。
 ある人は映画を、或る人は絵を、そして、アゴタ・クリストフは「書くこと」をどんなことがあっても続けるのだという。
 アゴタの文に込められた彼女の生きてきた歴史。この『文盲』という短い自伝の中から、その全てを知ることはできない。出来事の細部を書かずにその本質だけを簡潔に記したこの自伝はきらびやかな飾りを一切排して「書く」ことという行為の一番肝心な事柄の確信だけを書いている。
 ちりばめられた章句から、読者はアゴタ・クリストフにとって「書くこと」は生きることという、単純な事実を知らされる。書くことは、呼吸のようなもので、それは生きていくことの苦痛と困難さと同等の営みなので、二つは切り離されない出来事なのだ。
「人はどのように作家になるか」という章では次のように書いている。
「まず、当たり前のことだが、ものを書かなくてはならない。それから、ものを書き続けていかなければならない。たとえ、自分の書いたものに興味を持ってくれる人が一人もいなくても。たとえ、自分の書いたものに興味を持ってくれる人などこの先一人も現れないだろうという気がしても。たとえ、書き上げた原稿が引き出しの中にたまるばかりで、別の原稿を書いているうちに前の原稿のことを忘れてしまうというふうであっても」(75ページ)
 アゴタ・クリストフはどんなときも書かずにはいられない。
 胸のすくような名作『悪童日記』が世に出ることになった経緯は物語のような偶然が重なっている。しかし、この『悪童日記』はどんなに埋もれていても、必ず世に知られることになるという作品の必然を担っていた。たとえ二十六歳から学んだフランス語であっても、「文盲」であっても、彼女は『悪童日記』を書いた。どんな状況であっても、彼女は書いただろう。強い作品とはそのような作品のことをいうのだろう。
「ベルリンでは、その日の夜、朗読の夕べが開かれる。人々が集まってきて、わたしに会い、わたしの声を聞き、わたしに質問を投げかけるのだという。わたしの本について、人生について、わたしが作家になった経緯について。さて人はどのようにして作家になるかという問いに、わたしはこう答える。自分の書いているものへの信念を決して失うことなく、辛抱強く、執拗に書き続けることによってである、と。」
 ハンガリー生れのアゴタ・クリストフは1956年のハンガリー動乱の折に、乳飲み子を抱いて夫とともに脱出して、難民となってスイスに移住する。生活圏の言語(フランス語)の読み書きが出来ない状況に置かれる。そして、時計工場で働きながらのフランス語の習得。持ち込んだ原稿がパリの大手出版社から出されるや、『悪童物語』は世界的なベストセラーになる。
 堀茂樹はあとがきでアゴタ・クリストフのスタイルを「偶発事の向こうに運命のように存在した歴史であり、その歴史に起因する状況の本質」を捉えて書く作家で「自分の臍をじっと覗き込むようなナルシシズムから百里離れている作家」で、「一辺の気取りもない語り口と淡々としたトーンが、ありがちな自己陶酔と無縁なA・クリストフという人のあり方」だという。高等教育を受けていなかったということが彼女の文学の美質として作用していると堀はいう。その美質が作品として結実していく。「意外性のある独創的な傑作」だと脚光を浴びる。
 亡命者にとっては砂漠に見える国で、母語ではない言語で生きていかなければならない人たち。亡命生活の中で書き続けていくアゴタ・クリストフ。
 彼女は『文盲』をこう締めくくっている。
「わたしは、自分が永久に、フランス語を母語とする作家が書くようにはフランス語を書くようにはならないことを承知している。けれども、わたしは自分にできる最高をめざして書いていくつもりだ。この言語を、私は自分で選んだのではない。たまたま、運命により、成り行きにより、この言語がわたしに課せられたのだ。フランス語で書くことを、わたしは引き受けざるを得ない。これは挑戦だと思う。そう、ひとりの文盲者の挑戦なのだ」」
 何故書くかという問いへの一つの答えが、きっぱりと、さし出されていて、その言葉のまばゆさにずっとたじろいでいる。



2007-02-10 21:42:33

感動禁止小説──藤枝静夫『空気頭』

テーマ:読書
 この小説を書いた意図は最初に明示されている。「私はこれから私の「私小説」を書いてみたいと思う。」「私小説にはふたとおりあると思っている。」「そのひとつは、瀧井氏が云われたとおり、自分の考えや生活を一分一厘も歪めることなく写して行って、それを手掛かりとして、自分にもよく解らなかった自己を他と識別するというやり方で、つまり本来から云えば完全な独言で、他人の同感を期待せぬものである。もうひとつの私小説というのは、材料としては自分の生活を用いるが、それに一応の決着をつけ、気持ちのうえでも区切りをつけたうえで、わかりいいように嘘を加えて組み立てて「こういう気持ちでもいいと思うがどうだろうか」と人に同感を求めるために書くやり方である。訴えとか告白とか云えば多少聞こえはいいが、もともとの気持ちから云えば弁解のようなもので、本心は女々しいものである。」そして、藤枝は「ほんとうは前のようなものを書きたい欲望が強いから、これからそれを試みてみたいと思うのである。」(144ページ)
 この小説はそういうはっきりとした意図の元に書かれた。読んでいる途中で何回もこの最初の文章を思い出した。この藤枝の意図はまた藤枝の決意でもあり、かなり思い切った宣言でもあるといえる。「人に同感を求めるために書くやり方」を取らないと、はっきりと最初に提示しているのである。読者はこの挑戦的な態度に自分の読み方を決めなくてはならない。
 以前『感動禁止』という新書本を読んだが何よりも、その本の題に驚き納得したことがある。その本は安易に感動してしまうことを
煽る現代のカルチャーをたしなめて、感動とは何かを定義し直そうとしていた。藤枝のこの小説を読んで「感動禁止小説」という言葉を当てはめていた。
 この小説は四部の構成で成り立っている。一部で著者は最初の「私小説を書く」という意図を明示する。二部は妻の発病と入退院と現実の生活の暗澹とした日常を書く。三部は二部の現実に対応する内面のリアリティを妄想的に、パラドキシカルに書こうとする。四部は、日記の後に著者と思しき人物の現在の心境が書かれる。この構成はまるで著者が苦闘してきた四つの事柄に対応しているかのようである。その事柄というのは、「一は、父の結核の伝播と、貧乏による栄養不良で、つぎつぎと兄妹姉妹が死んでいったことである。二は、一族の淫乱な血と性欲に苦しむ自己の像が重なるところに発生した自己嫌悪である。三は、妻の発病、入退院のくりかえしに起因するたえざる生の危機意識である。四は(中略)マルクス主義にたいする「漠然たる正義感」の克服である。」(川西政明・解説)
 小説の前半は、絶えざる自己凝視の緊張感で日常もまた凝視して、怜悧に克明に書く文体で貫かれている。事実を見る眼の鋭さが文体になっている。人間の身体と心理を冷静に見る医者という職業の毎日が、はっきりと文学的な修練となって文体として現れている。
 二部から三部は、文体の転換で表される。「ですます体」への移行とともに、リアリズムから「シュールなリアリズム」への突然の転換である。この唐突な転換は二部の終わりの「「夫婦は二世」という忘れてしまったような言葉が頭に浮かんで、自分もやはり「夫婦は二世か」と思った。」(183ページ)という文章の続きに出てくる。極めて暗示的な展開なのだ。著者は何よりも、妻に寄り添って病状に一喜一憂しながらやってきた。しかるに、その妻が「わたしはこのお墓に入るのは嫌です」と云ったのである。著者はお墓に格別の思い入れがあり、墓の中で一族が戯れる至福を夢見たりしていた。妻も一族の一員であると思い込んでいたのに。意外な妻の反応に夫は「他者」に突然切り返される現実の寂寥感に浸される。この小説の妻は夫の側から一方的に書かれる小説の中で、ときどき夫に云う言葉で自分の位置(私小説で一方的に客体として登場させられること)への抵抗を試みている。そしてここでも、私小説によって作者を絶対化しないという藤枝の小説観が出てきている。
 妻の言葉で「他者」に突き当たった著者はその「他者」と身体上の付き合いとしての「性」を追求する。まるで「他者」の内面を知ることは不可能とも、無駄とも考えているかのような諦観。妄想を極限まで膨らませていく。悪夢のような滑稽なイメージの世界。だが無限の自由があって、頭がふわふわして、身体が飛翔していく自由がある。ここでは同じ墓に入ることを拒否する「他者」ではなくどこまでも身体を受け入れてくれる女たちが登場する。見果てぬ夢とも妄想ともいえるイメージを書きなぐっていく。女達は快楽を与えるという交換条件で著者に関わってくれるので、その関わりの道具としての性器を機能させることが、何よりも重要なことなのだ。ここでの「他者」はクールで、内面など人間にはないかのようにふるまっている。「愛」などというものはなく、相手に快楽を与えるということが「他者」とのかかわりの全てというパラドキシカルで滑稽な世界が展開される。想像と創造の自由な(不自由な)世界が垣間見える。
 この小説は感動と偽善を禁止するという著者の厳しい設定に、著者が今までの作家生活を込めて跳躍しようとした意欲的な作品なのだと思う。破綻を恐れず、読者の不満を恐れず、一回とことんやってみようと試みたに違いない。その決断の凛々しさに感動した。その決断には従来の「私小説」を体現してきた、という著者の自負と、新たな「私小説」を創るという意気込みがあったのではないか。三部の破天荒な物語は、そのまま今のパンクでロックな若者の現代小説に見まがう禍々しさがある。この禍々しさと汚辱に満ちた自己の否定は、そのままそっくりと自己の肯定につながっていく。この作品で藤枝は新たなる「自己」と、そして「他者」とも、遭遇したように思える。



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