千羽鶴プロジェクト

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千のいのり~世界の夜明け~

「生キトシ生ケルモノガ幸セデ在リマスヨウニ」との言葉が、平和を象徴する折り鶴のカタチとなって、いのりを表現しているこの作品の、平和への想いが、伊勢志摩サミット開催を、ひとつのきっかけに、各国首脳の方々、そして全世界の人々へ、平和の象徴であるこの日本の、魂のふるさとであると言われている伊勢志摩の地から届けようという、ムーブメントが、いままさに起きようとしています。
世界の舵をきってくださっている首脳の方々へ、多くの方々の平和を祈る気持ちを集めてそれを届け、日常で使っていただけるものとしてプレゼントすることで、少しでも平和へ向かう方へ世界がシフトしますようにとの、切なる祈りが込められた運動です。
ハチドリのひとしずくから始まったこの運動はご賛同いただきましたいくつかの伊勢志摩の地元企業のおちからをお借りして、カップ&ソーサーとなり、使っていただけるお土産として、具現化できるところまで進めることができました。

世界にはたくさんのものがあふれています。そのものの中には、こんなものはできるはずがないと言われながらも、世の中のためになるという信念を曲げずにやり続けて生まれてきたものもあるでしょう。どんな小さなものだとしても、使うひとがより使いやすいようにとこころを尽くして生まれてきたものもあるでしょう。
今回生まれるものは、多くの方々の目には見えない祈りが具現化し、その祈りを届けるという志を共有し、その祈りが届くという奇跡の軌跡があらわれるものです。

この作品のカップ部分は、「五穀豊穣」という言葉が稲穂のかたちになっている印と、「生キトシ生ケルモノガ幸デ在リマスヨウニ」と世界の安寧を願う折り鶴と、それぞれがそれぞれを補い合うかのように、シンプルに立っています。それぞれ、世界から貧困をなくし、豊かな実りと、大地への感謝を祈る、衣食住の神様である外宮と、人々の平和と安寧と幸せを祈る内宮をも象徴しています。
ソーサー部分は、折り鶴がよりそうことで、三重県の名産でもある連鶴ともなっており、連鶴が和になるエネルギーが真ん中に向けられることで、その夜明けの太陽から折り鶴が立ち上ってくる様となってあらわれるようになっています。和となった連鶴は集まった祈りであると同時に、太陽の輝きでもあります。そしてソーサー全体で、無私の祈りが集まって輝く、古代の「かがみ」のようになっています。
手をつなぎ和になっている折り鶴は全て同じもののように見えますが、千枚ほど書いた中から全て違う折り鶴を選んで使用しており、どこから見ても正面となる、調和と平等を象徴しています。

ソーサーにカップを置いているときは、太陽は隠れています。これは、日本の内に秘めるという美学に加えて、カップを手に取るという小さな行動が加わることによって世が明け、カップを口に運ぶと太陽が姿をあらわすというように、実際に手に取り使っていただけることで、そのかけがえのない時間と共に作品が完成するというようになっています。

このような、作品に込められた、よりそうこころや、足りないものを補い合う関係や、平和を祈る愛が、実際に使っていただくことで、日常の中にもあふれ、「世界」の最小単位でもある身近な「家族」や「職場」にも、輝く笑顔が生まれ、こころにも日が昇ることにつながりますようこころから祈っております。

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祈り鶴〜千の祈り〜 続き

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前回からの続きです。


『生キトシ生ケルモノガ幸セデ在リマスヨウニ』


この言葉を紡ぎ、何枚も何枚も書き重ねることで、平和を祈る折鶴のカタチへと結晶させてゆきました。

この折鶴というモチーフにはいくつもの意味と祈りが込められています。
ひとつは世界唯一の被爆国であることから、もう二度と凄惨な歴史は繰り返さないという「決意」と、「死を乗り越えた『生』」を。
そこからつながる「平和と安寧と長寿」を。
鶴は夫婦仲が大変良く、一生を連れ添うことから「仲良きことの象徴」を。
鳴き声が共鳴して遠方まで届くことから、「天に祈りが届くこと」を。
そして「恩返しの精神」を。

その折鶴の脇には、『五穀豊穣』という篆書の文字が稲穂のかたちになっている篆刻印が押してあります。平和を享受できるのは最低限の豊かな実りがあるからこそで、その豊かな実りをあたえてくれる自然への敬意や感謝をあらわしています。そして物質的にも精神的にも豊かな世界になっていってほしいとの願いが込められています。


平和にもそれぞれに思う平和があると思います。
平和のモチーフとして折鶴を選び、「生きとし生けるものが幸せでありますように」との言葉に託しましたが、この言葉のなかにある「幸せ」。この「幸せ」も、それぞれに幸せのかたちがあり、ひとつとして同じ幸せはありません。そして何を幸せに思うかもそれぞれです。

世界の平和という大きな理想を考えたとき、それは途方もない夢か幻のように感じるかもしれません。しかし、いますぐにでもできること、それは平和なイメージをし、いのり、感謝すること、そして、そのイメージで、ごく身近な家族や近しい世界から幸せにすること。少しだけ相手の立場になってよりそうこと。はじまりはそんな小さなことかもしれません。ひとりでは小さないのりや小さな行動も、集まって、そのイメージがひろがってゆけば世界はきっと平和な方向へと進んでいくはずです。その小さなひとつひとつの意識こそが、世界をかたちづくる大切なひとピースひとピースであるかもしれないのです。
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祈り鶴〜千の祈り〜

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詩と書と造形が三位一体となっている表現をいまのところ「言葉の結晶作品」と呼んでいます。それらの言葉や文字から生まれる作品が持つ社会に対する役割は何なのかと考えたときに、調和や、平和のメッセージを発信するということが大きなテーマのひとつとなってゆきました。
言葉の結晶作品という詩と書と造形の表現が、それぞれの表現の垣根をこえて調和している作品であると同時に、目には見えない大事なものがあらわれる表現でもあるからです。

ここ数年は、詩と書と造形だけではなく、音楽や、ダンス、写真、映像など、様々なジャンルの方達と調和を図り空間を創るという表現も試みてきました。LIVEの表現はその一環で、多種多様な表現で空間を満たすことにより、多種多様な価値観がよりそえるきっかけとなればと思い始まった活動です。そして最近ではそこで表現するひとだけではなく、空間を感じてくださるひとたちの意識もLIVEに盛り込んだ表現をと思っており、どなたでもその場に加わることができて、そのLIVEという名の通り、今この時代を生きているということを実感していただけるような空間を創りたいと願っています。



今年のサミットが伊勢志摩で開かれることになっており、このことは何かしらの意味があると思っていました。そう思っていた同時期頃にフランスのテロの事件のニュースを知り、さらに平和とは何か、どうすれば平和へとつながるのかということを真剣に考えました。作家はどこまでいっても作品で訴えてゆくことしかできません。しかし、それこそが世界に対する志事のひとつであると思っています。それは、本当に小さな蝶のはばたきほどの小さな小さな力かもしれませんが、その平和への小さな祈りがやがて大きな平和へのうねりとなるようにとの想いからいくつかの言葉が生まれました。


「ホシハイマ 大イナル日ニ極マリテ セカイヲ救ウ ヒトツナギノ和」



「平和への 小さないのり 風となり 大きなうねり 歴史動かす

人類の 意識のしんか 世界から 争いのひの とわにきえたひ」



「無垢で小さい ぼくのては

未来をまもる かのうせい

無垢にかがやく すいしょうの

わたしのひとみ なかよしな

けしきをいっぱい うつしたい

こころふるえる はじまりの

はじまりはじまり

あたらしい きせきのとびら

いまひらく」



これらの言葉は、世界のどこかの誰かが真剣に平和を祈るイメージが切り取られて生まれた言葉であったり、これから生まれてくるであろういのちの視点に立って、未来へ平和のバトンを渡したいとの思いから生まれてきた言葉です。

しかし、真摯に平和を祈る言葉として、もの足りなさや、言葉かずの多さを感じていました。
前回にも少し触れましたが、ある方にお会いして、お話を伺い、感じていたもの足りなさのひとつに気付かされました。それは、人類という視点からだけで切り取られていた言葉であったからです。
平和という状態を生み出しているひと以外のもの全てへも「当たり前」ではなく「有り難い」という感謝を感じ、今だけではなく、過去、現在、未来、とつながる全てにも感謝できたとき、今回の作品の言葉は私の詩ではなく、いままで祈られてきた、そしてこれからも祈られてゆくであろう普遍的な言葉から選びたいと思うようになりました。そしてたどり着いたのが


『生キトシ生ケルモノガ幸セデ在リマスヨウニ』


という言葉でした。
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作品の役割

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「詩」や「書」や「造形」など、作品を構成している要素について書く前に、この作品に社会に対するなんらかの役割があるとしたら何であるのかということが頭をよぎりましたので、そのことについて少し書こうと思います。以前、作品が「あらわれる」と書きましたが、どこからあらわれるのでしょうか、何も無いところからだけ生まれるのでしょうか。それだけのはずがありません。何かの意識、誰かの意識、感じたこと、見てきたこと、知っていること、そのようなところからも生まれているはずです。世界で起こっている何か、どこかの場面、誰かの意識、そのようなものが切り取られて昇華され作品となっているのではないかと思います。「私」のことを書いたように思っていても「あなた」のことを書いているかのように感じたりするのは、ことばというものの不思議ももちろんありますが、「私」も「あなた」も「誰か」も「世界」もどこかできっとつながっているからではないでしょうか。

藝術作品や藝術家は、社会や世界が育てる、あるいは社会や世界から育てられる、という風に形容されたりします。それは、その時代だからこそ、そのような表現が生まれているという時代背景があるからです。
専門家や愛好家の方には別として、昔のままの表現の古典藝術が現代の一般に生きている人々にストレートに響きにくいのは、時代は絶えず変化しているのに、その時代に合わせて表現が変化していないからだと思います。もちろん時代が変わっても変わらないものや価値観、表現があり、そんな作品を生みたいと思っていますので、古典藝術をないがしろにしていいと言っているいうわけではありません。特に書道藝術にとっては、古典は「今」を表現するために欠かすことのできない大事な要素です。それは「今」という瞬間が、過去に生きたご先祖様がいないと存在しないのと同様に、その藝術作品が藝術作品として存在できるのは、途方もない数の先人達がいのちを削ってその藝術を切り拓いてきた歴史があるからです。
そう思うと書跡を残してくださった方々へは、ご先祖様と同様に感謝と尊敬の念を抱かずにはいられません。そのように考えると臨書はお墓参りのようでもあります。
感謝をすることで、過去に在ったいのちの才気が、今を生きるいのちを応援してくれることもあるかもしれません。
遡れば全ての起源はつながっています。DNAの奥底でその才気がフタを開けてくれるのを待っているかもしれません。

先人には敬意を払い、感謝もしますが、しかし「今」を実際に生きることができ、「今」を感じて表現し、「今」という時代を担えるのは、「今」を生きているいのちだけです。
当たり前かもしれませんが「今」という時は、「過去」ともつながっていて、「未来』ともつながっています。本当に当たり前につながってきて、つながってゆくのでしょうか。「当たり前」という言葉の反対の言葉は「有難い」であると聞きました。感謝をすればするほど様々なことが当たり前のことではないように思えてきて、だからこそ、この世界に在るという奇跡の瞬間を使って、その限られた時間のなかで何を切り取るのか、何が表現できるのか、この藝術でしか、このいのちでしか出来ない役割は何であるのか、そのような問いが無意識に発せられ続けます。そしてそのことは作品が生まれてゆくきっかけともなってゆきます。

現代もうすでに、あるいはもっと先の未来においてかもしれませんが、すべてのひとが、藝術家と同じように創造性が要求されることがあるかもしれません。過去、現在、未来をつなぐ創造性です。
現代においては、誰しもがその創造性を共有し発信することが可能であるので、ひとりひとりが世界に与えうる影響はますます大きくなってゆくことでしょう。
そんなときに大事にされるのは機械では判断できない人間的な感覚であると思います。
そのような人間感覚を呼び覚ますこと、調和の世界を模索すること、かたより過ぎないバランス、これらは冒頭であたまをよぎった、結晶作品の社会に対する役割であると考えています。
いのちをかけて、実験的に挑みながらそれらの価値観を試し、その漠然とした未知なる価値観を美として表現し、なんとかかたちにすることで、あるときは旗ふりとなって、またあるときは世界の鏡となり、より喜びの多い世界を創造するための叩き台であれたらと思っています。そして作品に触れてくださったひとが身も心も豊かになってくださったなら、作家冥利に尽きるのかなと思います。

ニュートラルゼロ

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前回、アートは「あらわれる」と書きました。あらわれてきた表現にはちからがあると書きました。
宇宙とつながってできた、作為的でない、あらわれるアートには魂に響く感動と、万巻の書物も超えるような情報が詰まっていると書きました。つながっている「宇宙」とは、宇宙空間のすべて、かもしれないし、人体という宇宙のなかのDNAの記憶、なのかもしれません。あらわれるときは「無」もしくは「空」という状態で、言葉の結晶作品はその状態が生まれやすいと書きました。そこには、あるバランスが存在するからではないかと考えました。無作為で、エネルギーが高いものが生まれやすいバランスです。


結晶作品には大きく分けて三つの要素があります。「詩」と「書」と「造形」です。この三つのバランスが三位一体となって表現されているのが言葉の結晶作品です。

この三つのバランスというのは、ちょうど良く三つが集まっているというバランスではありません。
「詩」は「詩」として、「書」は「書」として、「造形」は「造形」として掘り下げて掘り下げて掘り下げたところに立てる柱、その三つの柱が交差する場所で繰り広げられる小爆発の結果です。しかも、爆発が起きるときには、掘り下げて掘り下げて得たもの、それら全てを捨て去ってもいい覚悟が必要です。偶然の線が次の爆発のきっかけになったり、言葉自体が治まる場所を要求してきたりします。掘り下げて得たものに執着しているとそれらを見逃します。だったら掘り下げなくてもいい気もしますが、掘り下げておいた方がいいです。なぜ掘り下げておいた方がいいのかは「書」を考察するときにまた詳しく書きます。とにかく、感覚を研ぎすませて、ヒントに耳を澄ませ、尚かつ力を抜いて、しかもそれらのことを忘れながら、ただただかいていくのです。そうすると、その三つが調和するときがやってくるのです。


そして、あらわれた作品を見てみると、書は書をとどめたまま造形にかたちをゆずり、造形は造形として存在しながらも書にかたちをゆずっています。そして両方が両方ともデフォルメされて、あらわれていて、何とも不思議な感じです。言葉はそこに存在しているはずですが、まるで言葉を発していないかのように内面に留まっているようです。読めないこころのうちなのか、それとも、どこかで誰かに触れられるまでは、たちあがらない宇宙空間を漂う何かのようです。
詩は書でもあり造形でもあり、書は詩でもあり造形でもあり、造形は書でもあり詩でもある、『平面でも立体でもない何か』になっているのです。



結晶作品がエネルギーを持つのは、書を書こうという意識と、造形を創ろうという意識と、詩を表現しているのだという意識が、それぞれに高められた三本の柱の交差点で、ゼロになっているポイントでできているからだと思います。そして、尚かつ、そこから一気にそれぞれの高めたポイントまで移動できるニュートラルなポイントであるからだと思います。


出来上がりだけを一見すると、文字が集まって絵にみえる、紙に描かれた二次元的な作品であると思うのが普通です。機械的に分かりやすく説明すると、確かに、文字が集まって絵になっています。
しかし、人間感覚的に説明するとそれはやっぱり違うのです。
「詩」と「書」と「造形」とで、時間と空間をこえて、こころのなかに描かれていくという表現がぴったりです。描かれている場所は見ている、その紙の上ではなくて、見ているそのひとのこころの中です。
三つの表現方法で表現されていることもあり、時間と空間を超えて、「詩」「書」「造形」それぞれの点と点がつながり線となり、面となって、こころに情景が描かれてゆくのです。
描かれてゆく情景は、展示場所、季節、展示風景でも変化しますし、感じる人間が変わっても変化します。同じひとが同じ作品を見て、同じように感じるとも限りません。
かいた本人すらも想像し得ないほどの情景がこころに描かれるのです。


「現れる」と同時に「洗われる」場合も多くあります。全てが報われる瞬間だからでしょうか、それともこの三位一体の表現に何か秘密があるのでしょうか?
次回は結晶作品の三つの主な要素、『詩』『書』『造形』『文字』『言語』などについてそれぞれ書いていこうと思います。



ニュートラルバランス

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アートには様々な解釈があり、まさに、人間ひとりひとりが全て違うのと同じように、それぞれのアートにそれぞれの宇宙があるため、それはちょっと違うんじゃないかとか、意味分かりませんとかもあるかもしれませんが、作品の宇宙を探ったままに書いておりますので、ご容赦ください。
あなたの宇宙に置き換えて楽しんでいただけましたら幸いです。


前回は、藝術は分からないもの、不可知なものと書きました。
なぜかというと、それは宇宙から現れるからです。
宇宙というものは、いまだ、誰にも解明できておらず、分からないもの、不可知なるものです。
分かっている部分もありますが、分かっていない部分にくらべるとほんのわずかです。見えている部分より見えない部分の方が多いのです。そんな宇宙から現れてくるアートが分からないものであることは当然であると言えます。

重要なのは、宇宙から現れてくるということであろうと思っています。
創るのではなく、あらわれてくるのです。
あらわれたときに、そのアートは高いエネルギーを持ち、そこに見え隠れする叡智から、様々な情報を受け取ることができます。


書において、よく、作為が見えすぎる、とか無作為の書である、とか言われたりしますが、それが「創る」と「あらわれてくる」の違いと同質のものではないかと思います。作為と無作為については、書についての考察の折に触れてみたいと思います。


宇宙の一部があらわれてきているときには、表現者自体は「無」です。

「無」という状態なので、予測にしかすぎませんが、意識は宇宙とひとつか、この世にないか、もしくは人体という宇宙の奥か。あるいは、いま挙げた、全部か。

とにかく、創りましたという作為のものではない、あらわれてきたアートが生まれてくるためには、宇宙とつながっている「無」という状態が必要だという感覚があるわけです。

絶えず宇宙も人体も意識も変化していますので、あたりまえですが、アートも絶えず変化をすることを要求されます。そして、「無」だからといって、ただただ宇宙の波に翻弄されて漂う一枚の葉っぱにならないように、意識下で、やっておくことがたくさんあります。

そこで、前回少し触れた「ニュートラルバランス」なる言葉を思い、そのバランスが重要だなと感じていました。

今回「ニュートラルバランス」という言葉を使うにあたって、検索してみました。どうやら、サーフィンでもその言葉を使うらしく、トッププロサーファー達に共通する波に乗るときのバランスの位置で、いい波に乗って、乗ったあとのライディングやスピードがいいひとはみんなそのバランスなのだそうです。


やっぱり、宇宙の法則は全て一緒か、と、たまげました。無という状態がやってくることを波がくることに例えるとすごく納得できました。

まずはその状態がくるところまで行って、尚かつ、その状態がきたときにいいバランスにないと、その流れに乗れないのです。乗れたとしても、いいはしりができないのです。


バランスはひとそれぞれ、違いますし、表現、職業によって適したバランスの位置は違うとは思います。しかし、宇宙の法則が同じなら、何かのバランスを深く考察することで、そこから見えてくるものがあり、応用が効くかもしれないのです。

次回、言葉の結晶作品のニュートラルバランスを考察してみます。そして、一見、作為的にみえる言葉の結晶作品が、なぜ宇宙とつながる状態を生み出しやすい無作為のバランスなのかを考えてみます。







みなさまのおかげさまで、言葉の結晶展、開催、第十五回目となりました。
ありがとうございます。

少しずつ、作品について、想うところを文章化してみるということも、進めていこうと思っています。
表現や解釈は無数にあり、アートに関してはどれが正しく、どれが間違っているというものはないと思っています。
分かりにくいところもあるかとは思いますが、もしかしたらこうなんじゃないかと自由に楽しんで読んでいただけたら幸いです。



作品はひとつの宇宙であり、それを感じる側もひとつの宇宙であると思います。
素敵なケミストリーになることを祈りまして。。。



詩と書と画を同時に表現する、言葉の結晶作品は、
『詩』というエネルギーにも、『書』というエネルギーにも、『造形』というエネルギーにもアクセスできるように、絶妙なバランスを保ち三位一体となって成り立っている表現です。そのどれが欠けても成立しません。

それは、ただ単にそのような「技法」ということではなく、生命エネルギーの発露の結果です。
その発露の具合が、一見、爆発というよりは、結晶と呼ぶくらいなので、統合結合して輝くというエネルギーの発し方をしているわけです。

宇宙は大爆発からはじまって膨張と収縮を繰り返しているという話を耳にしたことがありますが、最初のインスピレーションが爆発だとすれば、結晶作品は、その初動エネルギーが、幾多の洗練の行程を経て、結合してできたエネルギーの塊みたいなものです。
そのインスピレーションは、詩から始まることもあれば、造形から始まることもあれば、書(線)から始まる場合もありますが、最終的にそれらが、紙に換算すると数百枚から千枚くらいの枚数を経て、ゆっくりと集まって、結晶化してゆくのです。



「詩」というエネルギーと、「書」というエネルギーと「造形」というエネルギーの結合、統合です。
この三つのエネルギーの話を個々にした方がよいのですが、始めたらそのひとつひとつがなかなか終わりませんので、また別の機会に書きたいと思います。。。


これらの考えには、科学的な根拠は全くありません。機会があれば科学的に検証していただけたらとも思うこともありますが、科学的な根拠はないほうがいいんじゃないかとも思ってしまいます。
感覚が全てだと思うからです。本当のところは誰にも分からないものなのかもしれません。
分からないからこそ、知りたいし、探求したいし、胸も高鳴るし、まだ垣間みたことのない景色を見てみたいのです。
その「分からない」ということと、「感覚」というところにこそ、他の分野にはない「藝術」としての役目があるように思います。


作品が生まれる瞬間は、作家そのものの感覚は「無」という状態であることが多いといわれますが、その場合の「無」というものを言い変えますと、それは、宇宙空間そのものか、生命の底、もしくは生命の始まる前、もしくは終わったあと、という状態です。
限りなく謎の状態です。
この世界がどのようにしてできていて、なぜ人間は今ここに存在しているのか、人体、脳、とはどういう仕組みなのかという謎が、完全に解けて証明されたことはありません。
藝術作品というものが本当にそのようなところからやってきているならば、分からないという感覚こそは大正解だと思うのです。


何か分からないものを、分からないまま表現できるのは、およそ藝術だけであろうと思います。「美」を介して表現されているという暗黙のルールはあるかもしれませんが、その「美」も何を美しいとするかは千差万別です。


「美」についても多くの方々が研究、発表、発信されていると思います。言葉の結晶作品の「美」という要素のひとつには「精神性」というところが深く関わっていきます。いきなり抽象的な話から始まったのはそのためです。それは言葉の結晶作品が「詩」と「書」と「造形」からなる三位一体の表現というところとも深く関わっています。
その美意識、及び精神状態を『ニュートラルバランス』と呼んでいます。
次回はその「ニュートラルバランス」や「無」について書きたいと思っています。



言葉の結晶展開催のお知らせです。



桑名会場:五大茶屋 後援:「日野原重明先生『いのちの授業』普及活動 エフ・フィールド」

〒511-0074 三重県桑名市南寺町45

駐車場 商店街利用者無料駐車場あり



2014年 3月1日(土)~16日(日)



10時半~16時

定休日(月)(火)9日

作家在廊日 (木)(金)(土)(日)

*2(日)12時~14時半 の時間帯はコンサートのため貸し切り
9(日)終日はエフ・フィールド講師育成会のため貸し切りとなります。

高山会場:遊朴館

〒506-0084 岐阜県高山市上一之町26番地えび坂下
tel 0577-32-8883



2014 3月20日(木)~25日(火)



営業時間 10時~17時

定休日 (水)

作家在廊日:全日

駐車場 専用駐車場あり



作品展示はまだ観たことがないという方のため代表作と、新作とを織り交ぜて展示する予定です。
ご家族、ご友人お誘い合わせのうえ、楽しんでいただけましたら幸いです。
尚、会場では、ご希望の方にコトバの花「コトバナ」の実演販売も行っております。ご希望の方は作家在廊日をご確認ください。










博物館明治村 帝国ホテル中央玄関ロビーにて

Drums 音鼓義男 カケル 書 小林勇輝

流れのままに、しかし、ぶれることはなく、力強く進んで生こうという、勇気の発露。

素敵な風が吹きますように。






作品はしばらくのあいだ、博物館明治村内、帝国ホテルのロビーにて展示させていただくことになりました。

応援にかけつけていただいた皆様本当に有り難うございました。


あっという間に今年も終わり、また新しいとしを迎えようとしています。
今年の出来事全てに感謝しながら、来年もやります。

1月4日と5日に
新春の書ライブを明治村よりご依頼いただきました。

両日共に、午後一時から始まります。

場所は、博物館明治村内(住所 愛知県犬山市内山1)にあります、
旧帝国ホテルのエントランスロビーです。

この建物は20世紀を代表する建築家、フランク・ロイド・ライトの名作で、和と洋が出会い、
新しい文化が生まれていった明治時代を代表する建物です。
ドラムと書との共演となります。二階からロビーを見渡せるようになっているため、はじめて地面でライブの書を書くことができます。近代建築の名作のなかで感じる書を是非お楽しみください。

元旦より19日まで、博物館明治村内、テレビドラマ、「坂の上の雲」のロケ地にもなった旧三重県庁舎の、展示室内で言葉の結晶展も同時開催させていただきます。
(10時から16時 在廊予定日は1・2・3・6・7・11・12・13・18・19日となっております)
明治時代を題材にされた映画やドラマは、日本中から重要文化財の建物を集めた、この博物館明治村をロケ地にすることが多いようなので、明治時代や、明治時代を題材にした名作のファンの方にはたまらないかもしれません。

今回の言葉の結晶展のテーマは「開化」です。
明治という時代は和と洋が出会い、文明が開化した時代でした。
現在、私たちが生きているこの時代は、
人類の「意識の開化」が進むことが必要とされている時代です。
この変化と進化の時代を生き抜くための、強くてやさしい言葉たちを『言葉の結晶作品』として
発信してきました。

言葉というものは、湧き上がっては流れてゆくものですが、その流れていってしまう言葉たちが
『詩』として紡がれ、その詩文が『書』として磨かれ、その書線をもってして『造形』となり
結晶化した作品が『言葉の結晶作品』です。
結晶化された作品が三位一体となってみなさまの意識に触れ共鳴したとき、言葉たちはその意識のなかで再び流れ出し強い生命エネルギーとなるのかもしれません。
時代と共にあるべき表現の姿を絶えず模索しながら、みなさまの意識の開化と共に少しずつ作品の可能性の扉も開いてゆきたいと思っております。

2014年は作品に対して認識していることを少しずつ文章化することも試みようと思っており、図録の制作案も立ち上がっております。少しずつ開いてゆけるように精進いたしますので、お楽しみに、あたたかく見守っていただけましたら幸いです。
『モノガタリの行方』


琵琶湖にたまりし 地球(くに)中の

何千万の哀しみは

龍が一気に飲み干した


富士の肚の奥底の

何千万の憤り

龍が一気に吸い込んだ


龍のしずくの情けある

十月十日と燦々と

注ぐヒノモト冷やさむと


龍の焰の慈悲深く

十月十日と粛々と

落つる泪のかはくよに



龍のいのちのタチアガル



龍のからだにすみついた

かわいいかわいいにんげんの

にっこと笑顔のたつさまを

ひとめ見ようと目を覚ます


てからくちからこころから

めからみみからあなたから



龍のいのちのタチアガル



春夏秋冬 転生輪廻

万物流転 喜怒哀楽

四つの大地とエレメント

全てのところの祈りから



龍のいのちのタチアガル



てからくちからこころから

めからみみからあなたから


世界は争うことを止め

変化と進化と激動の

カオスの調和に向かう旅


龍のからだにすみついた

あなた自身のモノガタリ







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魂に

焼べる薪の音(ね)

パチパチと

天地を貫き

生命の爆ぜる





撮影:安藤紀夫 長原武夫
*画像は是非クリックして全体写真で龍の炎を感じてみてください。