僕は毎日夢を見るようになった。見るというよりも記憶できるようになったと言うべきかもしれない。確たる証拠はないのだが、僕は人は毎日夢を見るものだと考えている。だからそれを記憶できるかできないかの差で夢を見る、見ないと言っているだけだと思うのだ。
夢の記憶というのは特別な能力ではない。日々忙しく働いて職場への往復の通勤地獄に疲弊している人間は、あまり夢を記憶しない。多忙な生活とは無縁な夢のような無駄なものを記憶している余力がないからだ。反面、僕のように仕事がなく人づきあいもなく、時間を持て余している人間は夢を記憶できる余力が充分にある。余力というのは時間と興味である。時間は言わずもがな暇であるかそうでないかということである。では興味とは何だろう? 夢を面白がって記憶してみようと思う意思である。誰もが夢を記憶するぞと強い意思を持って眠らないだろう…。興味とはそういうことだ。時間と興味が合致した人間は夢を記憶できるのだ。
僕の夢には毎回同じ建物や風景が登場する。 ラブクラフトの小説に登場する街アーカムや港町のインスマスのように常に同じ街やその周辺の風景が僕の夢に現れるのだ。街は地方都市であり、昭和時代のデパートや映画館に市場のような建造物がある。これらは多分、小学生時代を過ごした青森や秋田の街の合成物だと思われる。低い建物だけでなく高層建造物もあるようだ。その間を縫って走るモノレールや、高速道路の高架に数えきれないほどの路線が複雑に絡み合った鉄道線路がある。この交通網の上からは後ほど登場するダム湖や管理釣り場やひと気のない峠道などが見える。これは会津の長く険しい峠道の記憶が反映されていると思う。
僕が働く会社は街中のビル内にあるようだ。時には狭小なビルであったり、8階建てほどのビル内にあったりする。骨組みだけの場合もある。僕は毎回、この建造物の中で迷ってしまう。抜け出られる可能性は低く、ほとんどがもがき苦しんだ挙句に抜け出られずに夢が覚める。ビル内の便所は常に不潔に汚れていて、濡れている。大浴場を無数に分割、仕切って作ったようなむき出しの便器や、部屋があっても暗く排泄できるようなものではない。
ビルはデパートや大きなスーパーの場合もある。中には怪獣のフィギュアや玩具がならび、大きな書店の場合もある。書棚には古い漫画や探偵小説が並んでいる。
郊外には温泉街があり、赤と黒に塗られた旅館や寺社などもある。それは伊香保や湯河原のようだ。温泉街の真ん中を川が流れている。街中にはちょっとした規模のダムがあって、水がせき止められている。街中にダムがあるということは街はかなりの標高にあると思われる。ダムの水が落ちるところが大きな湖である。その湖の岸辺にはたくさんの種類の大きな魚が泳いでいる。
湖は千葉のダム湖や故郷の猪苗代湖であったりする。水深は多様で海のように深ければ浅いところもある。深い海のようである場合には一度だけ旅した福井の東尋坊のような切り立った崖も見える。湖の場合には広大な田園のような四角形の湖が仕切りを付けられて並んでいることもある。
川の上流には管理釣り場があり、放流された魚を数人の男性が釣り上げている。
つづく