アイロンかけ

あるバールでコーヒーを飲んでいるとお店の人が床掃除を始めた。

その業務用掃除機が最新式で、水を出して掃除しながら、乾燥させていく。

「へえ、洗って、乾かすのね。」と言うと

「洗って、乾かして、アイロンもかけるんだ。」と言われた。(床に?なわけなくて、ジョークなのだけど)

「アイロンがけも!ほんとだ、すごい。」と誉めておいた。


ところで、イタリア人はアイロンかけを重視する。

シーツはシワひとつなくあるためにもちろんだし、Tシャツやジーンズにもアイロンをかける人もいる。

一人暮らしの男性にいたっても、流行遅れでファッションには全然かまわなそうな人(友人のルームメイト)も毎回着る服にはアイロンかけするらしいし、暑い夏に「昨日と同じ服?汗臭くない?」と言いたくなるような人(同僚)もアイロンはかかさないらしい。面倒だから、クリーニング屋に出したり、洗濯は自分でやって、アイロンかけだけクリーニング屋に出す人もいるそうだ。


イタリアに旅行で来るときは「シワになりにくい服」または「アイロン」を持参しましょう。イタリア人のチェックの目は服のシワにまで細かいですから。(冗談です)



AD

働きすぎ?

最近、ローマ法王が「働きすぎないように」というメッセージを公表されたという。
この、働かないイタリア人にねえ、と思うのだけど(ebiさん によればイタリアは働くべき人の2割が働いているから何とか動いている、ナポリにいたっては1割いるか?とのこと。)その2割だって半分は外国人じゃないか、というのが私の印象。
本当は皆、仕事をもっていても、例えば8時間のうちどのくらいまともに働いているか、というと平均して2割以下ということなんじゃないかな。だから、進行するのが何事も時間がかかる。

聖書にマルタとマリア姉妹の話がある。

イエスたちが彼らの家を訪れ、客人のために食事の準備で大忙しの姉のマルタ、一方妹のマリアはイエスの傍らで、彼の話に聞き入っている。
「マリア、こんなに忙しいのだから、あなたも手伝ってよ。イエス様からも言ってください。」とマルタが言ったところ
「マルタ、あなたの妹は、正しいことをしているのです。」と言うイエス。

イタリア人とこの話題になったとき「これは、働いているマルタを非難しているのではなくて、目先の忙しさでイライラして、妹にあたっているマルタを非難したのだ。働いていても、日常の雑事をこなしていても、それしか見えなくなるのではなく、イエスのことを心にとめていれば、マリアのように距離的に間近にいなくても(僧や尼にならなくても)私たちそれぞれに正しい道がある、ということなんじゃないか。」という考えを聞いて、なるほど、と思ったことがある。

でも、そこまで考えているのは多分、ごくわずかな人で、マルタ-マリア、正しいのはマリア、信仰心から対照的なものとしての働くこと、「働くことが正しいというわけではない」「働く、働く、お金、お金というのは卑しいことだ」というふうに解釈されているのが大抵ではないか、と思える。

何となく、そういうものを彼らの根底に感じる、というのは、例えばユダヤ教の人たちはそうではなく「とにかく働く」ので(働かない)イタリア人から一種独特の目(白い目とは言えないけど、尊敬の目でもない)で見られているように感じるからだ。中には露骨にユダヤ教、あるいはイスラム教の人たちを非難する人もいる。


だからローマ法王の「働きすぎないように」という言葉も「そうだなー、休暇でのんびりしてると気持ちものんびりするけど、働くとイライラして精神的にもよくないからなー、できるだけ働かないってのがいいよなー。」と解釈するイタリア人が多いのではないか、と私は危惧してしまう。

日本のように「働くことが美徳」というのもどうか、と思うのだけど、「たくさん働くのがいいこと」とか「いや、働くのは卑しいこと」という問題ではなく、「いかに働くか」(働いているときの心の問題、キリスト教徒じゃないので、イエスを心に、とは言えないけど、心に良心を、金儲けのために、正しさの判断を失わないように、人を不幸・不快にさせたり、イライラして周りにあったりしないように)ということが必要なのではないか、と思うのです。

AD

昔の写真

イタリア人が昔のアルバムなどを見せてくれるとき、例えば

「これが私たちが結婚したとき」と60代の夫婦の20代の若かりし頃の写真だったりすると

なんて美しいの、二人とも」と言いつつ(えーーー?まるで別人。2人とも映画俳優のように美男美女なのに、どこがどうなってこうなっちゃったんだろう?)と思うことが多々ある。(大抵は丸太のような体型になるようで)


また、若い人でも5-10年前くらいの写真が別人みたいに雰囲気が違ったりする。顔の骨格が違うのだ。整形したというわけでもないし、年取ったというわけでもなく、顔の凹凸や目や口といったパーツの印象が変化するらしい。その別人のような写真のついた身分証明書を持ち歩いているのだから「ほんとに本人?」と言いたくなる。

これが更に子どもの頃の写真になると、もう面影もない。金髪だったりクルクル巻き毛だったり...。


日本人の場合、子どもの頃の写真も現在と同じ人だとわかりやすかったり、小さい子どもと親がそっくり顔だったり、友人と長年ぶりに会うことがあっても「全然変ってないねー。」と言いあうものだけど、欧米人は滅多にそういうわけにはいかないように思う。


私の推論だけど、体の凹凸が激しいと成長が(衰えも)目に見えて歴然なように、顔の凹凸が大きい欧米人はその成長、衰えもはっきりしているのかもしれない。

あるいは感情を表情に顕にする分、顔の筋肉が動いて、別人のように変化していくのか...


日本人、アジア人が若く見えるとはよく言われるけど、年に伴う顔の変化が欧米人ほど極端じゃない、ということもあるかもしれない。

タルクィニア

ローマの北、エルトリアの町、タルクィニアに日帰りで行ってきました。(鉄道で80分くらい)

イタリアの古い小さな町というのは高いところにあることが多く、その分、景色も最高なのですが、タルクィニア駅の周りも何もなく、バスで5-10分ほど坂を登ったところが城壁と町になっていました。城壁を入ってすぐに国立博物館があり、古代エルトリア時代の石の墓石や石棺、壷などがたくさんあって。

感動したのが、3階の奥の部屋にネクロポリから持って来た壁画で美術館内にネクロポリ(地下の墓)を再現してあったのでした。
最初、コピーかな、と思ったのだけど、よーく見ると本物。色の落ちているところも修復された跡の色もはっきりしていて......。
どうやって、地下の壁画の絵を持ってきたのだろう、と興味深々で解説を読むと、布地を溶剤(gomma lacca bianca)により貼りつけ、壁画の模様を写し剥がした、とありました。その様子を想像しただけでゾクゾクしてしまいます。

壁画に限らず、あらゆる物はあるべき場所にあってこそ、その印象やメッセージは強いというのが私の考えですが(日本で寺にあるべき仏像が美術館に展示されるのを見てつくづく思った)それでも、わけあって移動されても、ここまで壁そのままに写しとられると圧巻で、そこが美術館の3階であることを忘れてしまいます。


tarquinia1

美術館を出て、ネクロポリまでは徒歩で20分くらい。ローマのネクロポリやカタコンベは地下に広くつながっているのに対し、タルクィニアのはポツンポツンと点在した小さな家のような入り口があって(上写真)、階段を10段ほど降りた、地下浅いところに1部屋または2部屋くらいの壁画に囲まれたスペースがそれぞれありました。(下写真)受付で地図を渡されるだけ。ガイドはなし。


tarquinia2

もちろんそれぞれ階段を降りた部屋の前からのぞくだけで、中には入れないのですけど、どの絵もそれぞれ違うもので、古代ローマとはまた全然違って(もっと古い。紀元前7,6,5世紀)興味深く見学しました。
ただ、8月はまだまだ暑い。ポンペイなどもそうでしょうけど、野外を歩き回って見学しなければならないというのは、春か秋がいいでしょう。ほんと、暑かったー。

マルタ騎士団広場

sp


マルタ騎士団広場の鍵穴から覗いたサン・ビエトロ寺院。

日本でもテレビで放送があったとかで、有名になったみたいですが、行ったことなかったので行ってみました。

マルタ騎士団とは第一回の十字軍遠征のときに組織された修道会、と地球の歩き方には書いてあります。

それほど名所というほどでもないので、個人の観光客がちらほらしてましたが、待つことなく鍵穴は覗けました。

この鍵穴、なんてことないのだけど、ちょうど、サン・ピエトロ寺院が見えて、だまし絵のようなトリックにかかったような錯覚になります。本物なんだけど。


この近くのサンタレッシオ教会で見つけたニュース

missing

写真が暗くてよく見えなくてすみません。

絵があるべきところが壁むき出しになっていて、その横にこの立て紙。


「この絵が行方不明です。4月5日までありました。4月6日以降に引き剥がされ、盗まれました。誰か見かけた人はいませんか?」


困った人がいるものです......




ノーマルマン

テーマ:
働いているお店でラジオを流していて、暇なとき聞いているのだけど「ノーマルマン」というコーナーがあってけっこう笑える。(イタリア語読みでは normalman ; ノルマルマン)

ノーマルマンはスーパーマンに対して「普通の正義の味方」ってことなんだろう。
ノーマルマンは弱い。無力だ。普通の人の100分の1の力しかない。ノーマルマンに変身して、やっと普通の人並になる。

ある真夜中、人通りのない道で、ひとりの婦人が車のタイヤを交換していた。そこへ通りかかったノーマルマンに婦人が
ねえ、助けてください。私は今まで1度もタイヤの交換をしたことないんです。
ノーマルマン「いや、できません。急いでいるんです。遅刻しているのだから。」
婦人「そんなこと言わずに。お願いします。
ノーマルマン「残念ですけど、できないんです。では。
と、去ってしまう。ちょっと先まで行って、ノーマルマンに変身して(着替えて)、大急ぎで婦人の所まで戻ってきた。
どうしたんですか?タイヤ?私に任せて。
やっと人並みの人間になったノーマルマン、タイヤの交換をしてあげる。
婦人「どうもありがとう。あなたって、天使だわ。
ノーマルマン「いやいや。私は天使じゃなくて、スーパーヒーローです。
パッパカパーン(という音楽)「僕らのヒーロー、問題解決、ノルマルマ ーン」とアナウンス

毎回こういう小さなトラブルを解決しているノーマルマン。ノーマル、普通の人とはいえ、世の中がノーマルマンのような人ばかりだと、皆、助け合って、もっと幸せな(ましな)世の中になるんじゃないかな。

「用心棒日月抄」/ 藤沢周平

テーマ:

イタリアとは関係ないけど、最近読んだ本の中で、面白かったので書いてみたい。

「用心棒日月抄」を1作目に、4作目まであるのだけど、一気に読んでしまったほど。


青江又八郎は26才、故あって人を斬り脱藩、国許からの刺客に追われながらの用心棒稼業.....
藤沢周平の本は、江戸時代のミステリーとしても、市井の人情物としても、どれも大好きなのだけど、とりわけこのシリーズはユーモラスな表現がときどき出てきたり、又八郎と佐知との秘めた恋愛感情を読み進めるのも、他の藤沢作品にはない味わいだと言えると思う。

藤沢作品の男たちは優しい。人を斬る剣の名士でも、世知辛い上下関係に調子よく生きていけない者も、皆、心情が細やかで、自分の都合や気持ちより人の気持ちを優先する優しい人ばかりだ。

司馬遼太郎の男たちは「かっこいい」と思うけど、藤沢周平の男たちはひたすら「優しい」。


このシリーズに登場するヒロイン、佐知は女からみても「いい女だなあ」と思うほど、美しくて、かっこよくて、優しくて、控えめで、影の女、まさしく「男の理想(妄想)」じゃないか、と思えてくる。
後書きのコメントで常盤新平氏が「現実の女性たちは初めは可憐でも、月日がたつにつれて、彼女たちは怪物と化していく。佐知は読み進むにすれて、いっそう可憐になってゆく。それで私たち読者はますます佐知に惹かれる。」と記している。


このような人物像たちを作り出す、藤沢氏自身がどんなに心が繊細で、優しい人だったのだろう、と思う。(そうじゃなければ優しい男の心情は書けまい)

三島由紀夫の本が世界中で翻訳されるのもわかる気はするけど、こういう藤沢周平の本こそ翻訳されて、日本人の心情を伝えられたらよいのに、と思う作家の1人です。

三島由紀夫?

テーマ:

mishima


本屋で見つけたのだけど、三島由紀夫の本。

別に彼の写真というつもりはなくて「ある日本人の男」というイメージなのだろうけど、これって、芥川龍之介?ちょっとふくよかで違うかもしれないけど、もし、そうだったら、大変いいかげんな間違いですよね。

大抵の三島由紀夫の本は日本女性の表紙です。

farnesina


初期ルネサンスの豪華なファルネジーナ荘。

ラファエッロのフレスコ画があって、ボルゲーゼのもの(油絵)より迫力はあるかも。(最も迫力があるのはヴァチカン美術館の中のラファエッロの間と絵画館のものだと思う)


幾部屋かあり、壁、天井のフレスコ画が圧巻です。

「修復の跡が見られるけど、ずいぶん傷んでいるのものもあるようだけど、いつ、修復したの?」と係員の人に聞いたら

「この部屋は6年前、あの部屋は3年前、二階は去年。」という。

「どうりで。」

「違いが歴然でしょう?」

「6年で、こんなに傷んでしまうの?」(ぼろぼろなので)

「そう、数年ごとに修復が必要なんだ。」と言うことでした。


ファルネジーナ荘、観光客も外国人個人客がチラホラしている程度。のんびり、ゆっくり絵の鑑賞ができます。

トラステベレ地区にあり、同じ通りの向かい側はコルシーニ美術館。こちらも小さな美術館ながら良い作品が揃っているので、2つはしごで見て、トラステベレの散歩をするのも楽しいかと思います。


ヴィラ・ファルネジーナ

住所 Via della Lungara 230 (開館時間は、9時~13時)