誕生日会

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最近、誕生日パーティーに呼ばれる機会が2回続いた。イタリアでは年齢に関係なく、誕生日会をするし、たとえパーティーは開かなくても、学校や職場の仲間にケーキやお菓子や飲み物を誕生日当人が持参していったりするのだ。


先週のパーティーでは、50人くらいの人が集まり、私は夜、9時ごろに行ったものの、まだ数人しか来ておらず、実際、始まったのは10時すぎ

家でパーティーをするから、とだけ聞いていたので、夕飯は食べずにいったら(前回はパスタや揚げ物などがあったのだけど)ほとんどつまみ(オリーブやチーズ、サラミ)やスナック菓子ばかり、今回は夕飯を食べてくるべきだった。皆、そうして遅く来ていたのだ。


ワインを持っていったのだけど、まぎれてしまって、いつ、誰があけて、飲んだのか、わからず。また、私も、誰が何をプレゼントしたのかは、見ることもなかった。誕生日当人は(記憶があれば)覚えているだろうけど。


特に席やテーブルもなく、広いリビング、キッチン、ベランダを開けはなして、皆、適当にソファーに座ったり、ベランダの椅子に座ったり、そのうち音楽にあわせて、踊りだしたり。

私の知っている人も何人かは来ていたけど、皆、自分の友達同士で「やあー、ひさしぶりー」と挨拶し、固まってしまうし、私も知っている人、知らない人にも挨拶ぐらいはするものの、それ以上会話がすすむこともなく(音楽がガンガンにかかっていて、話をするという雰囲気ではなかった)早く帰りたいなー、と思ってしまった。


来ている人たちは皆イタリア人、30代、40代、それも皆、独身に見えた。(ゲイも含め、カップルはいたけど)照明を暗くして、蝋燭をたくさん点けて、賑やかな音楽をかけて、ミラーボールまで回っていて、ディスコテカ(今の日本語では、ディスコ?クラブ?それともまた別の言葉が?)かロカーレ、パブ(日本語のパブではなく、イタリアで言うところの)かという雰囲気を作り、そこへおしゃれして集まることに意義がある集まりだったのかもしれない。


本来はそこで、自分から知らない人にも話し掛けて(皆、友人の友人であるし身元は知れているのだから)その場を楽しめばいいのだろうけど、「暑いねー」とか、そこにある食べ物などを「これ、食べた?おいしかったよ」とか、そういう当り障りのない話しかできずじまいだった。

実際、音楽がガンガンで、話してても「え?聞こえない」という状態に私は疲れてしまって、早めに退散した(それでも12時すぎ、まだ来たばかりの人たちもいた)のだけど、その家から200mくらい離れたところでも、野外コンサートでもしてるのか、と思う程、音楽が聞こえていた。近所の人たちは文句言わないのだろうか?


それから、今週の誕生日会は、10人ちょっとの集まりで、誕生日当人は朝から3度も買い物に行き、1日中料理していたという、手の込んだお料理がたくさんあって、温かいホームパーティだった。


国籍も様々、それぞれに半分くらいは顔見知りだけど、初対面の人たちもいたので、食べている途中で「自己紹介しあいましょう」ということになり、それぞれ自分のことや誕生日当人とのつきあいなどを言い合い、「何か質問は?」「何歳なの?」とか、質問しあったり。


また、例えばドイツに旅行した人がドイツ人にその感想を言ったり、それぞれの職業に興味をもって「今度、見学させてもらえる?」とか、話はあちこちでつきなかった。 プレゼントを見たり、友人たちと知り合い、彼らの人柄を見ることで、いい友達に囲まれた誕生日人の人柄が知れるようで、またおいしいご馳走(やはり、料理って大切ですよね?)にも満足して、後ろ髪ひかれながら帰宅したのでした。


1件目の家でも、過去、数人か10人前後くらいのときは、そこそこ楽しかったこともあるんですが、人数の差、なのか、メンバーの違いなのか、音楽ガンガンな雰囲気がますます苦手になってきている自分のせいなのか、今回はほとほとうんざりしてしまった。


私にとってはこの2回は続けてあっただけに、対照的な誕生日パーティーだったと感じるのだけど、共通して言えるのは「誕生日当人は買い物などの準備から、その場をもりあげようと気を使ったり、後片付けまで、大変だーーー。」 ということ。


日本では自分でも誕生日を忘れてしまうくらいあっけなく過ごしてしまうこともあるけど、イタリアでは「誕生日」が幾つになっても、重視されてるな、と思う。占星術や歴史的にも「いつ、どこで生まれ」ということがキーポイントである伝統によるものなのか、それとも単なるお祭り好きによるものなのか、わかりませんが。

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泥棒をつかまえて!?

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地下鉄の中で、イタリア人女性が大声で騒ぎ出した。

あー、泥棒。今、財布を取られたわ!まだ、ここにいるのよ!

周りの人たちはいっせいに彼女を振り返った。「彼よ、彼。この男!」と、彼女は目の前の若いイタリア人の男性を指差したので、周りは皆、彼に注目。

その時、彼女は自分のバッグが開けられてもおらず、当然、何も取られていないことに気がついた。

「あら、あったわ。失礼しました。」と言う変わりに、彼女は

「でも、バッグに手をかけていたわ。そういう行為をするのが悪いんでしょ。」と開き直り、その後も彼を責め続けた。


人を泥棒呼ばわりしたあげく、謝罪もなく、その後も非難しつづける、しかも大騒ぎ、とは、「いつも私が正しい」人の典型でした。泥棒呼ばわりされた男性は「は?」という顔で、特に反論もしなかったのは、賢かったと思います。

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ナポリ方言と似ている国

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ナポリ方言とルーマニア語は似ているらしい。

「何々ってナポリでは何ていう?」

「×××」

「ルーマニアでは×××○」

という会話を聞いていて、へええ、と思ったことに、どちらも標準イタリア語とは全然違うので理解できないのだった。元々、ルーマニア語はイタリア語に似ているのだろう。イタリアに来て間もないのにイタリア語ぺらぺらのルーマニア人は珍しくない。

また、バリバリのナポリ方言は単語そのものがイタリア語と違うものも多く「何言っているか、わからない」という事態が発生する。(イタリア人同士ではないかもしれないけど)


ナポリ人とルーマニア人が自国語で会話して話が通じるのに、イタリア人には理解ができない、ということも有り得るかも。

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私は「イタリア人って」と、このブログにも書いているようなことを日本人やイタリア人や外国人とも話題にしたりするけど「日本人の目から見て」「私個人的には」と言うだけでイタリア人はこうだ、と決め付けたり、文化や価値観の違いをどっちがいいとか正しいとか私が決めることができるものではないと思っている。


弁護士で敬虔なクリスチャンであるM君と話していて議論になったことがある。
君は自分はこう思うとかいうだけで、あとはどうでもかまわないの?イタリアはギリシャ・ローマ時代から哲学があって、今でも学校でアリストテレスとか読むけど、日本人はそういう基盤がないから、絶対的な真実に対する正しさ、というものが欠落しているよ」と言う。
日本は死刑というものがあるよね。人を殺すというのは、絶対的に悪いことだ。どんな事情があっても。死刑はあっていいものだと思う? 」と。
私も人の生死を人が判断できるとは思わないから、死刑はどうか、と思う。でも、日本が死刑という制度をとっていることに対して、私は何も説明できない。 」と言うと
また、私は思う、か。じゃあ、別の例にしよう。例えば、自分の友達がパートナーがいるのに別の相手と浮気しているとする。何か言う?それともほっておく?
その友達や状況によりけりかな。親しければ、やめなよ、と言うけど。 」と、言ったのだけど、実際私は以前そういうことがあって、でも、何も言えなかったことがある。

以前住んでいたルームメイトで、朝、起きてパジャマでキッチンに行ったら彼女の彼氏ではない知らない男性がベランダから出てきて「おはよう、僕、マリオ(仮名)、よろしく」と握手......ものすごーく、びっくりしたのだけど、彼としてもそうするしかなかったんだろう。


男女関係はプライベートなものだし、相談されるとか心を開かれれば、聞いてあげたり、意見することもできるけど、そうでもないのに自分の考えを押し付けるのは厚かましい、強引だと思うのは日本人だからだろうか。


M君に言わせると「浮気は絶対に悪い。してはいけないことだ。僕はしたことがないし、一生しないだろう。自分の彼女じゃなくても、友達がしていれば、やめさせようとするよ。それが友達ってものだろう?見て見ぬふりして心の中では不快に思いながらも表面だけ仲良くするのが友達と言える?状況によりけり、そのときによりけり、なんて発想は日本人的だ。絶対的な真実というものがある。道ですれ違って、見なかったふりをして、挨拶もしない人がいる。見た、僕に気づいた、というのは真実だ。僕の方から近づいていくと、今、気がついたような顔をしたりさ。そういう小さなことの積み重ねが大きな嘘になるんだ。」と言う。
言いたいことはわかるけど、私は、同意はできない。言論は自由なのだから、誰だって自分の好きなように言うことはできるし、あなたが「日本人はこうだ」と言おうと、本を出版しようと勝手だけど、それは個人の意見にすぎない。日本人はこういう考え方をする、イタリア人はこういう傾向がある、一夫多妻の民族もある。どの国も戦争をしてきたし、それを理解して分かり合えないと、自分の価値観で人を計るのはよくないでしょう? 」と反論すると
いや、絶対的な真実というものは国や時代を問わず、存在するよ。僕はカトリック教徒だから、イエス・キリストの教えが絶対なんだ。 」と平行線のまま。


こういう人は「自分の中の真実、正義」が絶対だから、他の人にもそれが絶対だと信じて疑わない。人が傷つくようなことも不愉快になることも平気で言い「だって本当だから」と言うのだろう。
別な意味でそういう人は日本人にもいるだろう。
そういう私も、「イタリア人って、日本人って」と、うざったいほど話題にしているわけで、自分の考え方を公に表現していることに変りはないし、不愉快になる人もいるかもしれない。
ただ、「私はこう思う」という個人的な見方にすぎないのです。

酒飲み

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イタリアに10数年住むドイツ人が言うには

「イタリア人にはあんまりアルコール中毒っていないね。ドイツは多いよ。きっと、イタリアより個人の感情をおさえなければならない社会で、発散するところがないから、アルコールに頼っちゃうのだろう。イタリア人は飲まなくても、普段から言いたいこと言って(とまでは言ってなかったかもしれないが)いるから、あまり飲まなくてすむのかも。」と。


「きっと、日本はドイツよりもっと抑圧された社会だから、もっとアルコールに頼っている傾向があるんじゃないか。」と思った。


私のまわりのイタリア人を見ていると、料理をおいしくいただくために、4-5人でワイン1本飲むくらい。個人差はあるだろうけど、例えば、どんなにお祭り騒ぎになっても、嘔吐する人は見たことがない。もともとアルコールには強いのにそれほど飲まないから。


ローマの中心からちょっと離れると、ロシア、東欧人と思われる人たちがたむろしてビールなどを飲んでいるのをよく見かける。大人数だったり、バスの中にもアルコールの臭いをプンプンさせて乗って来られるのは、ちょっと恐い。特に夜。(昼間でも異様な感がある)


彼らがもともと「アルコール好き」な体質の国民なのか、それとも「飲まざるをえない状況」からそうなっているのか、そうだとしたら、日本人の吐くまで飲む状況も、異常な社会が作り出している結果なのだろう。

日本人はもともと飲むことが好き(味だけでなく、飲むという状況が)だいうのもあると思う。単にそれがもっと、もっと、と行き過ぎているのかもしれない。





偽物バッグ

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イタリアではよく黒い人(だいたいはアフリカ人かバングラデシュなどのアラブ人)たちが、路上に商品を並べ、売っているのを見かける。

それは不法な商売なので、警察が来たら、彼らは商品を急いでまとめ、逃げていく。

それでもそういう方法でしか、生活していく道がない、という彼らを見ると、なぜ、イタリアは白人と黒人では職種も違ってくるのだろう、とよく思う。


実際は、彼らはその不法商売によって、けっこう儲かっているらしく、イタリア人に雇われて働くより、ずっといい、という話も聞いたことがあるけど。


よく見かけるのがプラダやグッチなどの偽物バッグ。もちろん買う方も偽物とは100も承知で、それでも単にデザインが気に入って安いからという理由で買うのであろう。


昨日の新聞で、海岸でその偽物バッグを買ったイタリア人が、「偽物を買った」という理由で、警察に200ユーロ罰金を支払わされた、というのがあった。200ユーロって、約3万円!

その上、そのバッグは一度も使われることもなく、没収されたのだとか。

売る方も不法なら、買う方も不法なのだ。知らなかった。私もCDとか買ったことがあるし。

偽物を買うときは、周りに警察がいないか、注意してください。


直観力

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イタリア人ラテン人は「情熱的」だとはよく言われるけど、感情を表に出さずにはいられない性格は「感情的」だとも言い換えることができる。


それに対して日本人はよく言えば「理性的」だとも言えるけど「現実的」だとも思える。もちろん情熱的(感情的)な日本人もたくさんいるし、理性的(現実的)なラテン人もたくさんいるから、どっちかというと、という傾向での話だけど。


イタリア人は現実的に見ると理想的じゃない選択をするとき、よく言う。

じゃなくてに聞いた」のだと。
よく「理性と感情のバランス」とも言われる。でも、それだけの問題だろうか。


Donald Walters 著「Intuition」を読んでいて、「直観力の大切さ」を感じている。

正しい直観力というのは
「答えに何にも執着や欲望を持たないことが大切である。」
「本当の直感は感情的な状態にいるときには来ない」
「自分にとって正しいと思えても、それが周りとのハーモニーを崩すことになるのなら、その方向は間違っていることがありうる。」
「誰も発見していない、新しい真実を見つけるのは不可能だ。新しい現象はありうるとしても。」
「個人的な感情が含まれている直感は信用できない」等など

私自身も今まで「現実的」じゃない判断を色々してきたけど、それは自分の感情や願望が先行していたかもしれない。

では、どうしたら、正しい直感力を磨くことができるのか、というと....
この本によると、呼吸法をはじめ、瞑想の方法が解説されている。ときどき、とか答えが必要なときだけやるのではなく、毎日続けるうちに、鋭くなるのだとか。
続けることによって、欲望や感情や現実(物的)世界から距離をおくことが目的なので、ギャンブルなどのための直感には効かないでしょう。

日本人のイメージ

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ブルガリアの女の子と話していたら映画の話題になって。

「「タイガーアンドドラゴン」や「ヒーロー」って日本の映画?」と言うので

「違うよ。中国の」

「女優たちがきれいだったわ」

「ラストサムライはトム・クルーズ以外はほとんど日本人だったよ」と言うと

「えー、そうなの?あのラスト(最後の)サムライの男優も?ゲイシャの映画にも出ていたでしょ。あの人かっこいいわー。へえ、日本人だったの。」


と言われました。

映画好きな外国人だったら、「ケン・ワタナベ」って有名なのでしょうけど、名前は知らなくても、日本人だったの?とは.....でも、これまでの外国映画で日本人は「かっこよくない」役が多くて、そういうイメージが「ラストサムライ」等によって覆されつつあるのは、喜ばしいことかもしれない。


彼女が日本と中国が区別できないのを見て、私もブルガリアのことなどは何も知らないなあ、と改めて思ったのでした。

原語に忠実であること

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塩野七生著書エッセイ「イタリア遺聞」を読んでいたら「地名人名で苦労すること」という話で「イタリアではミュンヘンとは呼ばず、モナコ・ディ・バヴィエラで押し通す」と同じことが書いてあった。実際日本人なら皆、一度は疑問に思うことなのだろうけど

他に面白い例として、プラトンはPLATONE、英語になるとPLATOになるとか、ユイウス・カエサルも、英語だとジュリアス・シーザーなのに、イタリア語ではジュリオ・チェーザレとなるからややこしい。とか。更に塩野氏は「反対に、隣の国の地名人名を自国語ふうの発音で押し通すヨーロッパ人は、遠い支那や西域のこととなると、やたらと原語に忠実なのである」と下記のような例をあげている。

Mao Tse Tung(マオ・ツュートゥン、毛沢東)
Ciu Enlai(チュー・エンライ、周恩来)
Hua Guofeng(ファー・グォーフェン、華国鋒)
Deng Xiaoping(デン・シャオピン、鄧小平)
Confucio(コンフーチョ、孔子)

といった具合。私も孔子とか老子とか、何のことかと思っていたら「中国の昔の哲学者?あー」とわかったことがあるので、古代中世の膨大な量のラテン語古文書を読まれている塩野氏も現代イタリア語で「地名人名はややこしい」と私と同じ感覚を持っていたとは、と思ってしまった。

中国語をアルファベットにしたとき、漢字を解さない国の人たちは、単純にアルファベットだけを読むのだろうけど、日本人は共通の漢字文明があるから、日本語読みにした結果、原語から遠ざかったのでしょう。
日本語読みにしても、中国はおろか、どこでも通用しないというのに。
でも「毛沢東」と書いて「マオ・ツュートゥン」なんて読めないよ、とも思うし、しょうがないですね。ミュンヘンをモナコと呼ぶイタリア人と同じことなのかもしれない。

ワールドカップも開催されているドイツのミュンヘン、イタリア語ではこのミュンヘン、何と発音するでしょう?
答えは「Monaco:モナコ」。モナコ公国(Principato di Monaco)と区別するために「Monaco di Baviera;モナコ ディ バヴィエラ(バイエルンのモナコ)」とも言う。
ちなみに「monaco」と小文字にすると「修道士」という意味になる。発音は同じ。まぎらわしい.....。

チャールズがイタリアではカルロになる 、って、固有名詞が変化するから、まぎらわしいという話を以前も書いたけど、私が更に苦労したのは化学用語。

H;水素が Idrogeno, O;酸素は Ossigeno くらいは想像できる。
Na;ナトリウムは Sodio,

Cu;銅は Rame、既に混乱してくる。
CO2;二酸化炭素は Diossido di carbonio, または Anidride carbonia というし、

HCl;塩酸は Acido cloridrico

H2S;硫酸は Acido solfidrico ......


そのうえ、日本の高校では勉強しなかったs,p,d,fという原子の軌道の形だとか、勉強したけどすっかり忘れてしまった六角形だとか....

更に更に、イタリアの授業では先生は日本のように丁寧に黒板に書いて説明してくれず、ペラペラ口で説明されるだけで、試験も口頭なので、頭で理解できただけではダメで、ちゃんと説明できなくちゃいけなかったので、化学、大変でした。

化学記号という世界共通の原則があるのは当然として、読み方も世界共通になればいいのに、と思うのは私が日本人だからでしょうか。