黒猫の話

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nerina

大家兼同居人のCちゃんには猫がいる。もともと彼女のおばあさんの猫だったのだけど、おばあさんが数年前亡くなって彼女が引き取ったのだという。
おばあさんが亡くなったときはこの猫(ネリーナ、黒猫ちゃんという意味)2週間も餌を食べず、このまま、おばあさんの後を追って死んじゃうのかも、と心配したそうだ。
猫って、情が強いのかも、と思う。


このネリーナ、人見知りして、無理に触ろうとすると引っかいたりするけど、人によっては(雌だからか特に男性には)すぐになつくみたいだ。
私も慣れるまで2,3ヶ月かかったけど、その後は毎日帰って来ると玄関まで出迎えに来てくれるようになった。
3ヶ月前、引っ越して、アパートの最上階から1階になったので、ネリーナは外を駆け回りとても喜んでいる。
Cちゃんが「ネリーナに新しい彼ができたのよ。」というので、聞いた友達が
「ネリーナってそんなに若くはないでしょう?」と言うと、Cちゃん
「でも、美しいメス猫だわ。」と自慢していた。若いだけがちやほやされる日本と違ってイタリアは猫も年は関係ないのかも?

このネリーナが黒からグレーになった夢を見た。
色が変ったんだ、と思っていると、猫から人間になった。
それも少年で金髪の4,5才の男の子。(実際のネリーナは黒猫でメスで年も若くない、全然違うけど、夢だからしょうがない)
他の子供たちに挨拶しながら遊びにいってしまった。彼(彼女?)が残していった紙にいろいろしるし???)がついていて、それを見て
「ネリーナ、人間になりたかったんだ。」と思った。変な夢....

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BIBLIカフェ

多くのイタリア人は1日に1回以上はバール(カフェ)でコーヒーを飲む。でも、日本ではカフェで読書とか普通にできるけど、イタリアで、そんなカフェは数少ない。
カフェ(バール)はコーヒーをささっと飲むためで、ゆっくり座っておしゃべりできる店のほうが少ない。ましてや読書なんて、周りがせわしくてできない。だいたい女1人でカフェに入ってゆっくり座って、なんて男から声をかけられるのを待っていると思われかねない。

女一人でもカクテルが飲めるお店の特集なんか、日本の女性雑誌ではよくあるけど、イタリアでは、遠い世界だ。それこそ誤解されてもしょうがない。
そのてん日本、アメリカやフランスは気楽にカフェに入れる気がする。(他の国はよく知らないけどどうなんでしょう)カフェ文化の違いか女性への見方の違いか。(イタリアでは女はそもそも1人で行動するものではないのかもしれない。または男女に限らず飲食する行為自体1人でするものではないからか。)


関連記事 一人では食事ができない?

前書きが長くなったけど、このお薦めのBIBLIカフェはゆっくり読書ができるローマでも数少ないお薦めのカフェのひとつ。
何といっても本屋も兼ねていて、入り口は狭いけど、奥は何部屋もあって広い。奥の部屋は図書館みたい。中庭にオープンカフェもある。
また料理がすごくおいしい。昼食時はバイキングになっていて、食べ放題。種類もイタリア料理に限らず味付けもイタリア風じゃなかったりする。(コックがイタリア人ではないらしい)デザートも何種類かついている。
日本人(特に女性)って、パスタ一品でおなかいっぱいにするより、ちょっとずつ色々なメニューを食べるのが好きだと思う。まさにそういう人にぴったり。食事のあとはゆっくりおしゃべりするもよし。読書するもよし。昼寝するもよし。
もちろんコーヒー1杯で長居することもできる。(イタリアではこれさえまれなのだ)店の人たちも感じがいい。(イタリアでは顔見知りで無い限りこれも珍しい。何度か行くと顔見知りにもなるけど。)
喧騒を離れてゆっくりするのにお勧め。ときどきイベントなどもやっているらしい斬新な店です。
場所はトラステベレ。詳しい情報はBIBLIホームページ を。


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オランダの花

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オランダに夏休みに旅行に行った人から聞いた話。

空港におりると「お帰りなさい ○○ちゃん」とか書いたプレートとともに花束を持って家族(恋人同士ではない)が迎えに来ている人たちが何組もいたそうだ。さすがお花の国、オランダ。


イタリアではそんな風景は見たことないけど、日本人も発想もしないのではないか。迎えにくるってこと事体、充分ありがたいことではないでしょうか。


私はお花は何かプレゼントとして買うことはあっても、家族に対しては「そんなことにお金を使うよりは他のことに使ったほうが」と、貧乏性だから考えてしまうのだけど、気持ちを表現するひとつとして、お花というのもいいなあ、と思った。


日本人はつい現実的な目で物事を計算したり、将来のことを考えたりするけど、、をよりよく生きようとする人たちを見ると、そういう今の楽しみ方、というのもあるんだな、と思って。

儚いお花に託して。


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日本人知人がバールでランチを食べていたら、観光客の日本人女性が近寄ってきて、

「あなた、日本人ですか?私、初めてイタリアに来たのだけど、イタリア嫌いになりました。よく、こんな汚いところで食べられますね。」

と、言われたという。

彼女に何があったのか、イタリアの何が気にいらなかったのか、町がごみだらけなのが嫌だったのか、知る由もない。

でも、他人にそれも食事中の人に言うことじゃないでしょうに、と思った。かなり失礼ではないか?

「初めてイタリアに来て、大好きになりました。住んでいるなんて、いいですね。」とはよく言われるけど....住むとまた、違いますよ、と初対面の人に実状を話すわけにもいかないから、私はこうしてブログに裏話を書いているわけだけど。


外国に住んでいる日本人で「日本人が嫌い」という人にも会った。そういう人はだから日本を出たわけで、特にイタリアとかどこか、とかの何か特別に興味があったわけでもないように見える。

「同じ日本人であることが恥ずかしくなる」とも。

私も変な客や感じのわるい客や無反応な日本人客に会うと、

「あー、日本人って、まったくもう」

と、思うこともあるけど、(関連記事 反応してください ) いちいち気にしてもいられないし、それって「嫌い」になるほど大した問題じゃないと思う。


イタリアにしても日本にしても、自分が所属しているからか、自分が好きだからか、嫌いって言われると悲しくなってしまうのです。

イタリア人の料理について

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大家兼同居人のCちゃんの料理はおいしくて、イタリアの家庭料理をよくごちそうになる。
遊びに来て、ごちそうになる彼女の多くの友人たちも、皆「おいしい」と言うので、「料理上手」と言えるのだろう。
でも、日本で「料理上手」というのはときどき「あり合わせの物で、アイデアを利かしてパパパッと料理を作る」ことを言ったりもするけど、Cちゃんをはじめ、多くのイタリア人はそうではない。
また、イタリア人が料理するのを見てると、時間がかかるなあ、と思うことがある。これをするあいだにこれをこうして、とか、そういう要領が悪い、というか。

まずイタリア語で「料理が上手」というときは単純においしいことを言うだけで、手際がいいとか発想とかは関係ない気がする。包丁さばき、なんて論外なのだ。(キャベツの千切りとか魚を三枚におろす、とか日本の基本がイタリアには存在しない)
夜の8時の夕食のはずが、9時ごろまだサラダを作っていて、パスタにありつけるのが10時半すぎってこともしょっちゅう。

私の見たイタリア人は、いくつかのレパートリーがあって(それもイタリア料理に限られていることが多い)、この料理にはこれとこれが必要、となったらそれだけの買い物をし、材料を見て、何かを作ろうとして、何かの代わりに何かを使うとか、アレンジすることに興味がない、ような。
もちろん、料理雑誌を見ると、色々なレシピがあって、工夫や創作がうかがえるのだけど。アレンジや創作をするのはそういう料理家だけで、一般人はせいぜいときどき本を見てレシピを参考にするくらい?それだってごく一部の人で、大部分の人はマンマのイタリア料理を受け継ぐだけのように見える。(そういう目で見るとバリエーション豊富な日本人は皆、料理研究家みたいなものだ?)


レストランでさえも、イタリアは土地によってのオリジナルなものがあったりするけど、メニューや味付けは大差なく(イタリア人の舌に言わせれば、もっと差が感じられるのかもしれないけど)「ここのレストランオリジナルのメニュー」なんてものは珍しいがする。日本のレストランや居酒屋のメニューの幅広さに比べたら....


日本ではテレビでもお料理番組は定番だけど、材料や作り方まで丁寧に説明する料理番組はイタリアでは見たことがない。(プロが何やら作ってるのは見たことあるけど、レシピは紹介してなかった)

ブロッコリーを茹でてサラダに入れていたら、
「へー、ブロッコリーをサラダに入れるなんて。ブロッコリーはパスタの具に入れるとしか思っていなかった。」と言われたことがある。
シチューを作っていたら「何それ?日本料理?違うの?見たことない。北イタリアのほうではあるのかも。」とも。

「生ハムとメロン」「トマトとモッツァレッラチーズ」「じゃがいもとローズマリー」という究極の?組み合わせがあるのもわかるのだけど、これの組み合わせはこれ、という固定観念にしばられているように思える。
見たことがないもの、味の想像がつかないものには箸もつけない人もいる。(箸はないけど。)それはそれで、慣れ親しんでいる味が最高の味、で、本人は満足しているに違いない。


私が出会った数少ない人を基準に「イタリア人は、日本人は」とも言えないのだけど、敢えて言うと、日本人の味の好奇心ってかなり旺盛なのだな、と。食べるだけでなく、作る面から見ても


結論から言うと、本当は「おいしいこと」が一番大切だから、手間をおしまず、心をこめて作った料理に勝る物はない。どんなに研究と経験を重ねた一流シェフが作っても、イライラしながら作ったのでは、きっと味も台無しだろう。最終的には心なのだ。

エアコンの故障

働いているお店のエアコンがしょっちゅう壊れる。少なくとも2ヶ月に1度は壊れている感じだ。冷風が利かなくなるだけでなく、水がタラタラ落ちてきたり、噴水のようにジャーーッと噴き出したり、信じられない。
その度に電気屋に電話するのだけど、たいてい来るのはその2,3日後。(それまで暑いのを我慢)


この電気屋がいかにも軽いノリの男で、店の店員をからかったり、口説いたり、ちゃんと仕事しろ、と言いたくなる。(イタリア人ではないが)
で、修理の度にガスがどうの、とかチューブがどうの、とかもっともらしい説明をし、200ユーロ(3万円弱)とか請求する。しばらくエアコンは動くのだけど、またすぐに壊れる。おまけに店のドライバーなどの備品までなくなっている
「社長、あいつらは泥棒です。詐欺です。別の電気屋に変えましょう。新品を買ったほうがよっぽどましです。」と皆で何度も訴えたので、今回は別の電気屋が来た。
エアコンのモーターを見た彼らは「これじゃあ、冷風がいかないはずだよ。」と修理してくれた。このまま、もつといいのだけど。
このエアコン、そんなに古いものでもないらしい。数年とか。それでこんなに壊れるのだから。本当に、新品を買ったほうが安くつくんじゃないか、と思えるのだけど、社長(イタリア人)は今、大金を払うより、少しずつでも小額払うほうがいいらしい。


過去関連記事 イタリア人の支払い感覚

それにしても、「エアコンがきかない」という話はよくきく。某日本食レストランもそうで、すき焼きとかすると暑くて大変だとか。また、インテリアショップで働いている人からも。
「暑くて、入った客も逃げちゃうよ。」と。

皆、口をそろえていうのは
「経営者がケチだから、エアコン代、払いたくないんだよ。」と。
経営者がケチなのはイタリアに限ったことじゃないだろうけど、エアコンがこんなにしょっちゅう壊れて、それでも暑いのを我慢しなければいけないのは、とってもイタリア的ではないでしょうか。

クスクスサラダ

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お米サラダのお米の代わりにクスクスを使って作ってみました。
具はズッキーニ、にんじん、じゃがいも、グリンピース、トマト、オリーブ、モッツァレッラチーズ、バジリコってベジタリアン。
酢は入れませんでした。クスクスは茹でるのが一番簡単だけど、蒸すほうがべちゃべちゃしなくて、おいしくできます。
蒸すとき、オイルと塩を入れ、かき混ぜ、時々、熱湯を足しながらかきまぜるのです。(セネガル人が作ってるのを見て試してみました)

アフリカ料理のクスクスも今度、作ったら報告します。

お米サラダ

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イタリアの夏の定番料理。

お米をパスタのように、沸騰したお湯で塩茹でにする。こうすると、パラパラした感触になります。

あとは有り合わせの野菜でも温野菜でも適当にまぜ、好みで鶏肉でもツナ缶でもハムでもゆで卵でもチーズなど適当に入れ、塩、コショウ、オリーブオイル、ワインヴィネガーかバルサミコ酢、好みでオレガノやバジリコかパセリなどを加えて混ぜるだけ。

簡単で、おいしくて、具や調味料を変えるとバリエーションも広がるので、いろいろ試しています。

ちなみにイタリアにはサラダ用のお米があります。

合宿裏話4

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ヨガの合宿のときに印象に残った話のひとつ


人の精神的レベルは次の4段階があるという。

1.第1段階
原始的レベル。自分のことしか頭にない。何もやる気がない。人のことも気にならない。
仕事もやる気がない。つまらないテレビを見てボーとするだけ。このような人と付き合うのは大変なのだけど、「いっしょに掃除しましょう。」とか言って、できるだけ体を動かす仕事を一緒にして目覚めさせることから始める必要がある。

2.第2段階
人生に積極的。仕事も積極的。人にもオープン。色々なことに興味を持って、活動的。周りの人にも好かれていたりする。でも愛情の対象が「自分の家族、地域、国、宗教圏、知っている人たち」に限られていて、それ以外のことは無関心。また、何かトラブルにぶつかると逃げようとしたり、原因を周囲の環境に起因したりする。

3.第3段階
エゴというものがない。完全に自由な人。他人のことも自分のことのように考えている。トラブルが起こると原因を自分の中に見つけ、対処する。常に満足している。(エゴを取り去ってしまっているので)

4.第4段階
これ以上、上があるのかと思えるのだけど、聖人のレベル。人に与えることに慣れてしまった段階。問題は起こらない。仮に起きても、奇跡が起きて切り抜けたりする。

私は3になりたがっている2の段階で、時々1のレベルに落っこちたりしている、何て初期の段階なんだろう、と思った。
でも、1の人は2になる可能性があり、2の人は3に、3の人は4になれるのだという。
この現代社会で生きていたら、普通の人は大抵、2の段階なんじゃないか、(1に近いか3に近いかで大きく違ってくるし)と思えるのだけど、3か、あるいは限りなく3に近い人がたくさん存在するのを知って、(実例を見たので)彼らの状態に近づくことが私の目標です。


目の前の沢山のトラブルや悩みや壁で、押しつぶされそうでも、日本に帰っても解決しないのは分っているし、問題をイタリアに要因することなく、自分の中に見つめ直さないと......難しー。3になるのはこの世では無理かも。

ダヴィンチ・コード展

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ポポロ広場に面したGalleria L'Agostinianaで「ダヴィンチ・コード展」を見てきた。

レオナルド・ダ・ヴィンチのデッサンやノートの展示だった。

学校の先生をしているイタリア人のFさんが

「子供たちがね、ダ・ヴィンチは宇宙人なの?って言うの。実際そうかもしれないわね。」と言う。私も、そう思う。

彼の発明アイデア日記は有名だけど、本当に並みの人間じゃない、と思う。実際の彼の絵や彫刻の作品もさる事ながら、彼の鏡文字に書いたノートとデッサンのすごいこと。その内容を知るとまた、彼のすごさが増すのだろうな。


ところで、本の「ダヴィンチ・コード」はまだ読んでいない。「天使と悪魔」(さすがにローマが舞台なので、周りのイタリア人も読んでいる人が多い)を読みかけ中だけど(英語なので何ヶ月もかかっている...)、インディージョーンズみたい、と思って。地下鉄の時間潰しに読んでいるだけで、この本で私はダン・ブラウンのファンにはならなかった。

ダヴィンチ・コードのほうは日本語が手に入ったら読むかもしれないけど、映画化されるほうが先かも...