同級生

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日本人男2人女1人の接客をした。皆60代くらいで、とにかく賑やか。

冗談を言いたい放題言っている様子と、1人が「奥様用」にお土産を買われたので、「彼らが夫婦って感じでもないな」と思って
「皆さん、仲いいですね。」と言うと
「そう、同級生なの。皆1940年生まれ。」って聞いてもいないのに答えてくれた。
65歳になって、冗談を言い合える同級生と海外旅行するほど、仲がいいなんて。
いいなあ、素敵だなあ、と思った。

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美容整形について

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日本人の友達が持ってきた雑誌AnAnをイタリア人女の子と見る。
AnAnって何年たっても変らなくて、とページをめくりつつ、後半の広告のページに。
整形、整形、エステ、整形.....
今では日本では整形も普通だと聞いたりする。エステ感覚なのだろうか。
イタリアも(以前りくまうさん も書いていたけど)首相自ら整形している整形大国なのだけど。

前記の髪の色の話にも重なるけど、イタリア人に言わせると
「えー、一重から二重に目の手術をするの?欧米人に近づきたいの?その方がきれいだと思うの?知らなかった。」と、言っていた。
彼らにとっては、一重の方が神秘的な魅力がある、のかもしれない。


整形して、本人がそれで幸せなのなら、別にいいんじゃないか、と思う。
「手術前」「後」の写真を見ると、明らかに後者の方が美しいと、誰もが肯定するだろう。
ただ「整形はいいことです、皆さん、どんどん、やりましょう。」と言っているようなマスコミ、メディアの強さが怖い。
日本人は特に「流行」に流されやすい国民だと思うし。

体や顔は、私たちにとって「乗り物」みたいなものであって、(それが高級車かポンコツ自転車かという違いはあっても)生きていくうえで、何を見て、何を感じて、どこ(内面的な意味で)に向かうか、は本人次第なのだから....

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髪いろいろ

日本人は天然パーマの人よりストレートのほうが多いと思うのだけど、欧米人ではストレートヘアのほうが少ない。私の印象だけど。
それも日本人のようにサラサラの流れるようなストレートの人ってめったにいない。
そんなサラサラ髪のストレートのことをイタリア語では「スパゲッティ」と言う。
逆に多くの人がふんわり軽い天然パーマで、日本人にもいるその程度の天然パーマは「ストレート」の部類に入る。
だって、「Ricci:カールの髪」というのは天使のようにクリクリソバージュが天然の人を言うから。
イタリアでは男性が髪を染めているのは見たことがないけど、女性はよく染める。染色のバリエーションもすごい。
それでも日本人が髪にしているのは「せっかくの髪なのに」と言うのを聞く。
日本人が髪にするのも髪のイタリア人が金髪にするのも同じ発想だと思うのだけど。
サラサラのストレートヘア、というだけで珍しいのだからイタリアでは黒髪ストレートがオリエンタルな魅力なのかもしれない。


私は今のところ染めていないのだけど、別に黒髪にこだわっているわけでもない。ストレートでもないし。
一度染めると、プリン状態にならないために、ずーっと染め続けなければいけないみたいで、いずれは染めるにしてもできるだけ先延ばしでいいかと思って。


イタリア人の女の子がストレートの髪をある日クリクリにしてきたから「キャンディ・キャンディみたい」と言うとけっこう喜んでいた。
(テレビ放送がかなり有名だったらしく、誰でも知っている。本当に日本のアニメってすごい)


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Non ce la faccio piu`. 
ノン チェラ ファッチョ ピュ
「もう限界。やってらんない。」ってところ。

このフレーズ、しょっちゅう耳にする。
イタリア(ローマ)人の口癖か、と思えるくらい。
それとも私の周りに、疲れたイタリア人が多いのか。

陽気で明るい」はずのイタリア人、顔は笑顔で陽気に振舞いながらも、その実「やってらんない。」と愚痴をこぼしているのだった.....

誰かがくしゃみをすると「Salute」と言う。(サルーテ、本来は健康という意味)英語でいう「Bless you」。
強いて日本語で言えば「お大事に」といったところか。

誰かがくしゃみをすると、イタリアでは必ずといっていいほど、くしゃみの合言葉のように「Salute」が言われるから、言われたほうは「ありがとう」と答える。たとえば路上で他人同志でも。

ある友達のおじさんの話。おじさんはくしゃみしたあと1人で「Salute、Grazie、Prego」(サルーテ、グラーツィエ、プレーゴ)と言っていたとか。
「お大事に、ありがとう、どういたしまして。」
何か、かわいい。

修復学校は朝8時くらいから午後2時すぎまで昼休みなしで毎日6時間あったのだけど、お腹がすくから間食したり、私はそのあとバイトに行っていたので、サンドイッチなどを持参したりしていた。
イタリアの昼食はだいたい2時くらいが普通なのだけど、遠くから学校に通っていて家に着くのは4時くらい、その後昼食している、という子がいた。
「お腹すかないの?パニーノくらい食べれれば?」と聞くと「もちろんお腹すくけど、1人で食事するのって嫌なの。1人で食事しているということ自体が寂しいから。それだったら我慢して遅くなったほうがまし。」
というので、へーーっと思ったのだ。そんなことしていたら私はとうの昔に餓死している。

彼女が特別なわけでなく、そういうイタリア人が大多数だということに気がついた。
私の周りだけに関してだけど例をあげると。
イタリア人は30過ぎても両親と同居している人が多いし、家族と離れて暮らしていても、夕飯はいつも誰かといっしょ。
もし、どうしても1人で食べなければならないときは実に簡単なワンパターンな料理(トマトソースのパスタ、とか肉を焼くだけ、とか)更には料理さえ自分だけのためにするのが嫌(何も料理がきらいなのではなく、自分1人の為に料理するのが寂しいから)という理由で食事抜き(軽い朝食程度をつまむ)なんて人もいる。コンビニなんてないし。

イタリア人にとっては食事は会話の場であって、単に食欲を満たすだけではない。
彼らが食事を始めると、だらだらだらだら、おしゃべりが続き(アルコールの量は関係ない)、夜中までおしゃべり、ってこともしょっちゅう。子どもがいても関係ない。
イタリアは住宅の作りが、家族かカップルか他人でも共同でシェアして住むのが普通で、1人暮らしっていうのが日本みたいに一般的ではないから、1人でいることに慣れていないのかもしれない。(日本人の多くに比べて)
共同でシェアして住んでいても、食事はたいてい各自自分の分だけ作るわけだから、1人で食べる機会もあるのだけど、イタリア人はできるだけ1人で食べないように、また1人の時はできるだけ簡単に済ますようなのだ。(意外と寂しがりや?)
レストランで1人で食べるなんて問題外。それこそ食べた心地もしないのであろう。

実際、食べてくれる人がいると料理も作り甲斐があるものだけど、健康な体あってこそ。
1人だろうと何人だろうときちんと食事して栄養とって、何よりも食事はおいしく楽しまないと、と思うのだけど。
そういう下地のある日本、様々なお惣菜パック1人でも気軽に入れる定食屋さんまで選り取り見どり、ニーズに合わせて至れり尽くせり、さすが日本と思う。

微妙な女心

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"Signore","Signora"、シニョーレ、シニョーラ、という呼びかけ、英語でいう"Sir", "Madam" とても便利だと思う。
日本語で、お店だったら「お客様」でいいんだけど、例えば、前を歩いている女性が何か落っことして、呼びとめたいとき、イタリア語では「シニョーラ!」と言えばいいのだけど、
日本だったら「おばさん」?では失礼だし「お姉さん」?「お嬢さん」?は限界があるでしょうし、どちらにしても馴れ馴れしい。

独身の女性には"Signorina, シニョリーナ(お嬢さん)というのだけど、シニョーラとシニョリーナの間がすごーく微妙だ。(女にとっては気になる問題)
英語、仏語でのマダムは大人の女性に対して言うものだから、そう呼ばれて普通なのだけど、イタリアではシニョーラと呼ばれたり、シニョリーナと呼ばれたりする。
シニョリーナと呼ばれたほうが若く見られているのかしら、と思いがちだけど、実はちょっと違う。
本当はシニョーラというのはマダムというのと同じ意味なのだけど、イタリアでは大人の女性に対してもシニョリーナを使う傾向がある。
ちゃんとしたお店や公共の場所(銀行や郵便局とか)ではシニョーラだけど、市場のおじさんおばさんたちはシニョリーナと呼んでくる。


だいぶ前、お店のイタリア人同僚Fちゃん(20代前半)が若いイタリア人女性客(20代半ば)に「Signora、シニョーラ」と呼んだので
「彼女、若いのにシニョーラって呼ぶの?そりゃあなたが彼女にシニョリーナって呼ぶのも変だけど。例えば彼女より年上の私が、彼女みたいな若い客にシニョーラって呼んでもいいの?」
と聞いたら「もちろん。お店ではシニョーラが敬称なんだから。私だってお店ではシニョーラって呼ばれるよ。マダムと全く同じだよ。」ということだった。


大人の女性に対して使う「シニョリーナ」というのは別に若く見えるかどうかより、シニョーラを親しみを込めた言い方なのかな、ってくらいだ。
まさか「その年でまだ結婚していないシニョリーナ」という蔑称ではあるまい。


アメリカで"Sir"と呼ばれたことがある。え?私?と思ったら本当に私だった。
きっと、女性が既婚未婚(あるいは若く見られるかどうか)で呼び方が変るのを男女差別だとか何とかで廃止しているんだろう。
シニョーラ、シニョリーナ、マダム、マドモアゼル、なんて問題外、性別までなくすとは。
かといって"Sir"と呼ばれても、うれしい気はしない。結局は慣れの問題なのだろう。

それも微妙な女心と関連しているのだ。

自国語の国際性

海外旅行に行くと誰でも気づくこと、日本語って日本人にしか通じないんだ!(日本語を勉強した外国人は別として)
もちろん、海外に出なくてもわかっていることなんだけど。
例えば、旅行にいっしょに行ったつれの日本人の友達や家族などと日本語でおしゃべりしても、周りの外国人には通じていない。
だから「あの、おじさんの服、すごい趣味だね。」とか「この人、感じ悪いね。」とか、本人目の前にしてとても日本では言えないようなことも言えてしまう。
実際はいつどこで日本語のわかる外国人が聞いているかもしれないし、他の日本人も近くにいるかもしれない。実は他愛もないこと言っているだけなんだけど、自分たちだけに通じている、というのはちょっと楽しい。


私もイタリア人の前で日本人の友達と話していると「何話してるの?」とイタリア人に言われることもあるし。(気になるらしい)
またイタリア人以外を前にしてイタリア人がひどいことを言うのを見たことがある。言葉は通じなくても、様子は伝わるから
「何といっているの?何があったの?」と言われても、本人には言えないし
「何でもないんです。彼女いつもあんなふうで。気にしないで。」と、ごまかすしかなかった。
イタリア人は外国人に言葉が通じないと思って言いたい放題言っているのではなく、ただ単純に言いたい放題言っているにすぎない。たぶん。
お店やレストランで、ぞんざいな扱いをされても、イタリア人に日本並みの接客を期待してはいけない。
「やってらんないわ、まったく、ぶつぶつ...」とか言われても、別に客がイタリア語わかろうが関係ない、と見えるから。


気がついたのが、英語圏の人たちはそういうことはしないってこと。
人口的には中国語やスペイン語を話す人たちが世界的には多いにしても、非英語圏の人々は外国語として勉強するから、英語はいつどこで誰が聞いているかわからない。
アメリカ人、イギリス人は海外でも自国で外国人を目の前にしても、聞かれちゃまずいことは言えないのだ。
というか、そういう発想自体、ないだろう。
周りには通じない自国語を話すちょっとした楽しみがないわけだ。
それでも、彼らはどこにいっても英語で話すし、通じるのが当たり前、だと思っていられる(そういう人が多い)ので、やはり英語は強いな、と思う。

同姓婚

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今日の新聞によると、スペインで同姓の結婚が認められたという。養子受け入れも認可された。
ヨーロッパではベルギー、オランダに続いて3番目。


話を聞かない男、地図が読めない女」(アラン・ピーズ&バーバラ・ピーズ著)によると

 

受精してから6-8週間の時期に胎児に男性ホルモン(テストステロン)が不足した場合、ゲイかトランスジェンダー(生物学的の男女と本人の脳が逆)が生まれる。
テストステロンを抑制するもの、それはストレス病気、そして一部の薬物(経口避妊薬や糖尿病の薬)だ。
レズビアンとゲイの割合は1:8ないし9である。
ホモセクシャルの大半は生まれつきで、自分で変えたり選んだりできないものではないことが科学的に立証されている。
「ゲイ遺伝子」男性のおよを10人に1人が持っており、浸透度にしたがってそのうち半数がゲイになる。
自殺したティーンエイジャーの3割はゲイかレズビアンであり、トランスジェンダーの3人に1人は自殺するというデータもある。

 

つまり、ホモセクシャルは生まれつきで、遺伝または胎児の時期の母親の男性ホルモンのバランスによるもので、母体のストレスが原因にもなりうるってこと。

 

古代からホモセクシュアルは容認されていて「皇帝ユリウス・カエサルはすべての女にとって理想の男であり、すべての男にとって理想の女だった」という。
しかしキリスト教は同性愛に眉をひそめた。神は堕落したソドムの町を滅ぼした、という伝説もあって、ホモセクシャルは禁じられ、19世紀後半のビクトリア朝ではその存在すら認められなかった。
現在に至っても、ホモセクシャルが「自然に反した」行いだと、思っている人も多い。

世間がホモセクシャルを受け入れれば、ゲイやレズビアンは自尊心が傷つけられたり、拒絶や嘲笑を受けることも少なくなるはずだ。ホモセクシャルと、そうでないヘテロセクシャルを隔てているのは、双方の無知に他ならない。


この本を読むまでは、同姓の結婚について、あまり関心がなかったのだけど、こういう科学的に裏づけられた事実を知ると、今回のスペインのようにホモセクシャルを法的に認め、世間が同姓のカップルを自然に受け入れられること、どんどん広まっていけばいい、と思う。

新ローマ法王ベネデット16世は保守的で同姓婚に関して反対らしい。そんな矢先に...「スペインよ、よくぞやった」(と私は密かに思うけど)まだまだ世を騒がせそうである。

そのうち同姓婚も普通になり、同姓のカップルも違和感なく生活する日も近いのではないかな。

ちなみにこの本、その他の章に対しては、「なるほどー」というよりは「そんなものかな」と流して読んだ程度でした。

The Jacket / John Maybury 監督

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jacket

 

  「初めて私が死んだとき、27歳だった。」

湾岸戦争で負傷したジャック(エイドリアン・ブロディ)は後遺症を伴ったまま、負傷兵として帰還し、警察官を殺害した罪で起訴、精神病院へ。
病院では強制的に(暴力的に)地下死体安置ロッカーの中に閉じ込められる。(これって治療か?)
その中で彼が体験すること、それは失った過去の記憶?未来?事実?現実とリンクしている?
(過去、未来を彼は見るのではなく、その場にいて、行動を起こす。ってことはタイムトラベル?)


結構入り組んだ内容で、私のイタリア語では時々??と思う場面があって(例によって吹き替えなので)、もう1度見直したいのだけど、日本語で見たとしても1度では完璧には意味が分らなかったかも、と思う。
(言葉の問題だけでなく私が映画そのもののストーリーについていけなかった感じ)
主なストーリーは理解できるけど、まだ疑問が残っていて、今いちすっきりしない。
まあ、ドキドキした後、なんとかハッピーエンドってことで
「あー面白かった。」って言えるくらい、細かいことは気にしないタイプの人にはお薦めです。
私としては、詳しいストーリーを読んで、すっきりしない疑問を晴らしたいところだけど、今のところ日本では公開されていないみたいだし、ざっと調べたところでは英語でもストーリー前半しか書いてなかったり。それ以上書くとネタばれになるんだろう。
誰か見た人いたら、詳しい解説つきでアップしてくれないかなあ。