伊東祐亨(すけゆき)は、あまり有名じゃないけど、どの本読んでも必ず出てくる名前。



それもそのはず、初代連合艦隊司令長官で、
海軍初の元帥。(陸海軍の最高位)
日露開戦となったら、東郷平八郎を司令長官にしようと考えたのも、伊東さんなのだそう。



つまり、後「日本海軍の父」と言われる
山本権兵衛はもちろん、東郷平八郎、島村速雄
鈴木貫太郎など、後の英雄全ての上司。
幕末~日清戦争を駆け抜けた先駆者なんだ。






天保14年(1843)生まれの薩摩人。
色白で背が高く、ガタイも良く、若い頃は
「桃太郎の人形」、「飯焦がし」と呼ばれた。



これは、若く凛凛しい祐亨が表を歩くと、
台所の下女たちが見とれて、釜の飯を焦がしてしまうから。よっぽどカッコ良かったんだね。







でも、幕末からの戦歴はスゴい。
まずは文久2年、島津久光上京のお供をしたので、京都で寺田屋事件、帰りは生麦事件、
薩英戦争では、「西瓜売決死隊」に志願した。



農民に化けて英国船に乗り込み、将兵を斬り殺そう!という血気盛んな若者は80名。


生麦事件の帳本人である奈良原喜左衛門と
有村俊斎を始め、大山巌、西郷従道、篠原国幹
スゴい面子。東郷平八郎も志願したけれど、
まだ少年なので許されなかったという。   
みんな命知らずだ~~


薩英戦争





英国海軍の凄さを知って、祐亨は海軍を志す。
勝海舟の海軍操練所に学び、
江川坦庵は既に死去していたけど、
江川塾で砲術も学んだ。




幕末もスゴいよ。
相楽総三と組んで鉞強盗を働き、江戸撹乱。
薩摩藩邸が焼き打ちされると、
関ヶ原の島津隊の如き、敵中突破で
虎口を脱し、迎えの翔鳳丸に乗り込むと
追撃してきた「回天丸」と初めての海戦!



続いて「春日丸」に乗り込み、幕府最強の「開陽」
と阿波沖海戦。この、日本近代海戦史上初の
本格的軍艦対決は、東郷平八郎も共に闘った。
東郷とは縁が深くて、のち仲人もしてあげる。


阿波沖海戦。手前「春日丸」、奥が幕府「開陽丸」






明治期、徐々に海軍が整備される中、
数々の船に乗り、「鬼の艦長」、どこでも雷を
落とす「雷艦長」と恐れられつつ、慕われた。



人柄の素晴しさは、日清戦争での丁汝昌との
友情エピソードが有名で、幾度となく手紙で
降伏と、日本への亡命を勧める。


甲斐なく丁汝昌が自害してしまうと、
大変悲しみ、戦利品である一船を返還して
勇将に相応しい葬儀が出来るよう取り計らう。

「威衛衝陥落  北洋艦隊提督  丁汝昌降伏ノ図」




これは明らかな越権行為なので、帰国後
天皇に御詫びをすると、明治天皇は、
「伊東よ、もうよい」と、遮った。陛下も
日本男児の武士道精神に満足され、新聞報道でも賞賛された。のどかな良い時期だったなぁ。






幼き頃、夜毎、父より切腹の作法を教えられ


「かくのごとく負け戦のときは
死のうと思えば生きるものじゃ」
    by 島津維新入道義弘       の言葉を胸に

数々の死地を潜り続けた、海の侍。





娘さんに与えた遺訓は、

「人は上下貧富の隔たりなく
忠孝仁義礼智信の道を守り、
至誠これを尽くすをもって人道とす」
身も心も、立派な人なのだー


字もとても上手かった!    号は碧海。
生涯を海軍に捧げる覚悟を表している。



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日本が日露戦争に勝てたのは、
ひとえに、児玉源太郎がいたからであーる!
これ全く大袈裟でなく、リアル真実。



まず、勝てる時期を逃さず開戦を提唱し、
財界を説得して、戦費調達に協力させる。

「陸海対等」を持ちかけ、海軍と調和を図り、
これを元に「最大のグズ」元老伊藤博文を説得。
一番大事な「挙国一致」体制を作り上げた。



日露戦争は太平洋戦争と違って、完全に
ロシアの侵略から国を守るためのもの。
負ければロシアの属国になっていたであろう..その危機を救った真の英雄。泣けるー







長州出身、身長1メートル55センチに満たない小男で
皮をむいた里芋のような頭?、ちょこちょこ
走り回るので、渾名は木鼠(キネズミ=リス)
あと「大声」。ガミガミがなりたてるクセがある




陸軍士官学校も陸軍大学校もない時代に育ち
外国へ留学したこともないのに、天才的な
智謀で大軍を動かせる指揮官で、
日本陸軍の父、メッケル少佐は日露開戦を
聞くと、「ゼネラル・コダマがいる限り
日本が勝つだろう」と、予言した。


児玉源太郎





日露戦争前、児玉はもう50才。内務大臣と
台湾総督を兼ねる重職にあったのを、
急遽、軍事作戦のデキる指揮官が必要になり
二階級下がって、大山巌の参謀次長についた。



どっしり構えて作戦は部下に一任、負けた
責任だけ取る、理想の大将ガマ坊(大山)と
リス児玉のコンビは、古今無類の名人事!



さらに大山は私情を捨て、竹馬の友・日高中将
に替え、東郷平八郎を常備艦隊司令長官に
起用する。「陸の児玉、海の東郷」  日本戦史上
二大傑作人事の誕生は、大山巌あってこそ。


大山巌





やっぱり国は人、だな~!  この時期の人材の
豊富さはどうであろう!維新の荒波を潜った
明治人たちの、鋼のような性根が眩しい。



児玉の親友、乃木希典と寺内正毅。
ウマが合った小村寿太郎、ロシア駐在田中義一
「今信玄」田村怡与造、「今謙信」小川又次、
空前絶後の作戦用兵家・川上操六。野津道貫、
黒木為禎、奥保鞏、長谷川好道などの猛将、
戦費調達に走る渋沢栄一、高橋是清・・・・


児玉の懐刀、後藤新平もスゴい人物のようだ。







児玉は軍事の天才だけど、他の軍人と違って
軍国主義は嫌いだった。ここがまた素敵な所!




第四代台湾総督に就任すると、前代までの
横暴な統治を改め、日本から来ている役人
1800人を首切り、台湾の民俗に合わせた施政
を断行したんだ。悪疫を除き、産業を興し、
台湾の基礎を築いた功績は長く感謝される。


だから江ノ島の児玉神社には、狛犬や扁額
など、台湾の人達からの寄贈が沢山なのだ。
泣けちゃうなぁ。







児玉さんは、日露戦争で命をすり減らしたか,
翌年54才の若さで脳溢血で急死してしまう。
最後まで、陸軍の大軍備拡張案を脚下し続け
ていたのに、、あと十年長く生きてくれたら
日本の方向も変わっていたはずだろう。



作者の生出さんは、
「児玉源太郎を失った日本陸軍は、糸の切れた
凧のようになってしまった」と、嘆いている。




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福沢諭吉が「学問のすすめ」を書いたのは
38才の明治4年から、43才になる明治9年まで
の5年間。断続的に発行された全17編の
小冊子で、どれも10頁ほどの薄いもの、
子供にも読める、易しい内容だ。




維新間もない時代。廃藩置県も敢行され、
新しい国づくりを迎えた「新・日本人」に、
今までとは違う「心構え」を一から教えている。







初編を共著した、慶應義塾のナンバー2
小幡篤次郎は、諭吉の死後「独立自尊居士」
という戒名を選んでくれたけれど、、

学問のすすめでも「人として独立すること」を
語る諭吉先生は、激アツなのだー!



人の独立があって、国は独立する。
一国の自由を妨げようとする者あれば、
世界中を敵を回すとも、恐れることはない。
役人に遠慮することなどないのだよ
政府に任せきってはいけないのだよ。。と、


まだ幕末の気分も残るだろう、活きの良さは
さすが居合いの達人!ワクワクするねぇ。






そして、★福翁自伝でも楽しかった
歯に衣着せぬ斬新なもの言いは、実に痛快。



「最も大きな不孝は子孫を残さぬこと」とは
何事ですか。
結婚して子供を産まないのが大不孝だなんて
孟子だろうと孔子だろうと、そんな事を言う
者に、遠慮するには及びません。
・・・当時の人は驚いたろう。今でも新しいわー


初編は小幡篤次郎との共著。







そんなだから、最初は批判も多かったんだ。
赤穂浪士や楠公に触れた箇所では、誤解を受けて、マジで暗殺されそうになったので、、


のち慶應義塾 五九楼仙万(ごくろうせんばん) 
のペンネームで別人となり、自分擁護文を
発表するんだけど、いわく、、


・・・最近福沢氏に対する批判をしている人達は

外交の困難を、福沢氏ほど切実に感じてない
日本国の独立を、福沢氏ほど深く考えてない
時代の変化を、福沢氏ほど詳しく知らない・・・
と、シレッと強気ぶちかます。面白い~


「学問のすすめ」執筆当時の福沢諭吉。
明治9年5月






とにかく全編おもしろいんだけど、
読んでると諭吉が徹頭徹尾、政府に出仕せず、勲章も拒んだ訳も、よく解ってくる。



少年時代から立身出世を志し、役人にさえなれば偉い、、という根強い風潮を覆そうと、
諭吉先生は一人、身をもって戦っていたんだ。



「国の文明を進め、自由独立を維持するのは
民間人の事業なのだ」   という信念。



これができるのは政府ではなく、洋学者でも
力不足。じゃぁどーすんの? と思ったら、、



「これは私、福沢に課せられた任務です」



!!!   私はここでいったん本を伏せ、
男泣きに泣いた。。女だけど、男泣きだよ。



福沢くん、君、エライよ。本当に。
こんなにも重く、決然と、悲壮な一人きりの
宣言を、ワシ、聞いたことないッス!!   



この本も読みたいねえ。





この大事な時期に、福沢諭吉先生が存在し、
一般民衆を導いてくれたことに感謝です!  と
感極まって御礼を申し上げる。けど・・・



その後日本は、慢心の末敗戦し、アメリカに
占領されて、今も日本のあちこちに米軍基地
があるんですよ、とは、チト報告できねえなあ。



きっと、めっちゃ怒るだろうなぁ。。
政府は国民の生活を守るべき、だけど、
国を守るのは、私達国民なのだ。





これも読みたいねえ。



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オッペケ節で有名な川上音二郎の話かと思ったら、出だしが慶應義塾の運動会?!なに?


で、ほぼ全編にわたり「福沢家の人々」・・とも
言うべき内容で、それはそれで興味津々。



実は川上音二郎の妻である、マダム貞奴こと
「川上貞」は、福沢家と浅からぬ因縁があり、

杉本さん著の「マダム貞奴」と、それを福沢家
の側から描いた、この「冥府回廊」の二作が、
大河ドラマ「春の波涛」の原作なんだって。






主人公は福沢諭吉の次女房子と、その夫桃介。



慶應義塾の教え子の中から、特に優秀で
華があり、才気闊達な有望株と認められ、
福沢家の婿に迎えられた、岩崎桃介は、、



福沢家に隠れて株で大儲け、「福桃」  「飛将軍」
「早逃げの桃介」と兜町で異名を取り、後には
「電力王」と呼ばれる大事業家にのしあがる。

福沢桃介





てもその活躍を陰で支えたのは、妻房子では
なく、マダム貞奴こと、川上貞だった。。



貞奴は若い頃、伊藤博文の愛妾として有名で
川上音二郎と結婚後は、川上一座としてヨーロッパに渡り、物珍しさからパリ万博で大成功を修めてしまう、、こちらも並みの人物でない。

ベルリンでの貞奴





川上音二郎も元慶応の学僕だったし、若い頃
から縁があったのか、、桃介の財力✖貞奴の
政界人脈を互いに求め、そして何より同種の
人間として引き合うものがあったのだろう、、



舅の諭吉や音二郎の死後は、大っぴらに事業
パートナーとして行動を共にすることになるんだなぁ。。これはちょっと運命的。。。


川上音二郎と貞奴


福沢桃介と川上貞





とはいえ、前半に描かれる福沢家の様子が、
上品かつ高尚・・理想的に素敵すぎるので、
そこに入り込んだ「桃介」という俗なる異分子
の相容れなさ、、が、読んでいても堪らない。






福沢諭吉は北里柴三郎を支援。日本で受入れ
場所のない伝染病研究所を、私財で提供した。

伝染病研究所は今、東京医科学研究所







福沢桃介は木曽川の水力発電に情熱を傾ける。
「ダム」という言葉も知られない時代、

発電、送電、売電、全てを統合した大同電力
を興し(後関西電力)、発電所や大井ダムを
築く一大事業は、「人間業でない」と噂を呼び
「桃介音頭」なるレコードもあったんだ。

大井ダムと大同電力

桃介橋






川上貞は、女優育成や「川上児童劇団」や
「川上絹布株式会社」を経営して大富豪となり、自費で寺院まで建立した。

名古屋電灯社長時代、貞奴と住んだ「双葉御殿」



貞奴が自費で建てた、岐阜県各務原市「貞照寺」





みんなそれぞれにスゴいんだけど、、
実質、桃介に捨てられた妻房子のプライド、
その子供たちの自殺、狂気・・・
誰も悪くない、、と思えるだけに諭吉亡き後
福沢家の不幸は悲しく、やりきれない。




春の波涛はあまり視聴率良くなかったらしい
けど、キャストを見るに面白そう。
再放送しないかなあ。。


「春の波涛」    音二郎と貞奴


登場人物は伊藤博文、山県、井上、大隈、
黒田、大山、板垣、桂など政治家多数に、
市川團十郎、尾上菊五郎、
坪内逍遙、内村鑑三、堺利彦、幸徳秋水、
中江兆民、平塚雷鳥、、、ううむ、見たい!

●黙阿弥 @河竹登志夫

テーマ:
河竹黙阿弥は、江戸末期から明治にかけて
の狂言作者。つまり「歌舞伎の脚本家」で
現役名は、二代目「河竹新七」という。




この時期、他に高名な作者は無く、
正に歌舞伎界の大黒柱。世話物、白浪もの
で人気を博し、私もTVで「三人吉三」を観た時、余りの面白さにビックリしたっけ。

カバーは黙阿弥が父の五十回忌に配った
浴衣の模様、「五十(いそ)の浪」。
白浪作者から「五十」を「磯」に見立てた。








黙阿弥と名乗るのは、明治14年の引退後なんだけど、「●阿弥」は、一遍上人の時宗の
名前なので、ちゃんとココ藤沢の清浄光寺
(遊行寺)に来て、授かったそうだ。(^^)v




この「黙」の字には意味があり、この本では
通説よりもさらに深い、黙阿弥の秘めた
想いを探る。血縁こそ無いものの、河竹家を
継いだ曾孫であり、演劇評論家の登志夫さん
ならではの研究考察は、とても貴重。








なんだけど、それより興味深いのは
歌舞伎の地位の低さと、その変遷!
将軍や大名お抱えの「能」とは、扱いに
雲泥の差があったんだなあ。



七代目團十郎→五代目海老蔵に。今と逆だー




天保の改革では風紀を乱す元凶とされ、
江戸三座は埋立て地に強制移転(猿若町)、
関係者は一般人と交わらぬよう、
芝居小屋の近くに住むべし。



外出時に編笠を被らない役者は召し捕られ
一匹、二匹、と数えられた。ひどいもんだ






維新で自由になるかと思いきや、新政府は
歌舞伎を娯楽から、「教化の具」とする。



貴人や外国人が見物するので、親子で見るに
耐えないような場面を禁じ、羽柴秀吉を
「真柴」とかにするのも、子供が誤って覚えるからダメ、狂言綺語(虚構)もやめよ、と。




「散切物」(ざんぎりもの)というやつで、
文明開化の風俗を登場させ、お金は両じゃなく円、時刻は何時何分、衣装は洋服。
大衆劇作りのプロ黙阿弥は、そんな世相をも
反映し、書き続ける。多少皮肉まじりに。。







さらに演劇界に親しい医師、松本良順の
紹介で大久保利通、伊藤博文、福地桜痴ら
政府高官も介入する。。歌舞伎の地位は
高まったけれど、芝居界は上流化され、
高尚まじめ、史実尊重の芝居が至上命令に。




伊藤博文の婿、末松謙澄が中心となって
「演劇改良運動」も始まり、
これの極みが、明治20年、井上馨の私邸で
行われた、「天覧歌舞伎」。




各国公使も招待され、社会の底辺だった
歌舞伎は、「条約改正の為の洋化政策」を
推進する、政治の道具にされてしまった。

天覧歌舞伎。「勧進帳」






ところが、天覧歌舞伎と併せて行われた、
仮装舞踏会でのスキャンダルが報道されると
これを口火に第一次伊藤内閣は崩壊、
鹿鳴館時代は終わり、演劇改良会も消滅する。



その後、演劇改良は別の流れとなって
帝国劇場建設、女優の登用、新派、新劇
などの、セリフ劇を産むに至る・・・




福地桜痴は現在に繋る「歌舞伎座」を建設。
お蔭で歌舞伎は妙ちくりんな洋化を免れ、
旧路線に復したわけで、伊藤博文の女グセの
悪さに感謝・・・・かな?  (^^;


明治22年。第一期の歌舞伎座誕生。





歌舞伎って、政治の影響をずーっと色濃く
受け続けてきたんだなぁ。



官憲学者らド素人に、脚本を勝手に添削されたり、無理難題の注文をされたりしても
全てに耐え、求めを受け容れ書き続けた。


色々説はあるけれど、これはもう、
どう考えても、崇高なる「黙阿弥」だ。


明治期の「幻の七宝家」、並河靖之は
古代エジプト期から存在する七宝を
独自の研究で極めた、最高峰といわれる。



その超絶技巧は一代限りで受け継がれず、
現代の技術では到底、再現不能なのだ。



ほとんどの作品は輸出用に作られ、ヨーロッパで大変な人気だった。それを最近になって買い戻し、日本で身近に見られるようになるのは、ほんの十数年前のこと。







思ったより作品は皆小さく、ほとんどの
花瓶や壺は手の平サイズなので、単眼鏡が
貸し出され、みなみな腰を屈め、
まじまじまじまじ、四方八方から眺める。


とにかく緻密で繊細!美しい事この上なし。   しかもデザイン、カッコ良すぎ!



実物はもっともっと小っちゃいんだ!





あんまり混んでなくて、ゆっくり見られたけど(6日木曜)、作品数が意外に多く、目を見開き続けて、疲れちゃったよ(◎-◎;)







京都の武士の子に生まれた並河が、
七宝を始めたのは、なんと28才。遅い~


10才で青連院門に仕え、審美眼は磨かれたのだろう。。23才で維新を迎え、外貨獲得のため新政府が奨励する工芸品の世界に飛び込んだ。


そこから、既存の技術や釉薬にあきたらず
開発した技術の数々は、全てオリジナル!






もともと室内装飾に使われていた七宝は、
幕末に有線七宝の技術が確立し、工芸品が作られるようになる。

少数精鋭の並河工房。弟子を見守る。





並河は釉薬の仕切りである金線、銀線も
叩いて伸ばし、厚みを変えて、デザインの一部とする。元々の厚さ1ミリの金線に
こんな気の遠くなるような細工を施すのは
並河だけなのだ。






一枚の葉っぱにも、奥行きや表情をつけるため、微妙に違う釉薬をのせる。
植物ごとに違う緑を作り出し、桐の葉だけで、15種類もの「葉色ぼかし」があった。



暇があれば庭の木々を眺めていた、というのは、鶏を眺める若冲と同じだねえ。。






並河にはライバルがいる。
「無線七宝」を編み出した東京の濤川惣助。


なぜか同じ、「なみかわ」で、共に現在の
人間国宝たる「帝室技芸員」に選ばれた。


西の並河、東の濤川。評判を二分した。





無線七宝は、釉薬を乗せた後、銀線を外すことで、ぼかしが入り絵画のようになる。






この柔らかさで焼き物の模様。不思議だ。






このライバルに対抗するべく、並河が繰り出した必殺技。それが「黒色透明釉」ダー!

海外で「ナミカワの黒」と絶賛される、
光輝く透明で、吸い込まれるような深み。ほんとにコレ、宇宙の色・・・だと思うよ。


これは展示が無くて残念だった・・・・
皇室の名宝、「四季花鳥図花瓶」  
テレビ見た特集番組より。






しかも機械で分析すると、藤の花瓶の黒は他と違って青みが入っている。
柄によって釉薬の配合を変えることで
単なる背景でない効果を生んでいるんだ。


このイカシたデザインを見よ!







東京都庭園美術館は目黒にある。
桜の名所、目黒川も大賑わいだったけど・・



本日の桜は、並河靖之の圧勝!




蝶々だって、飛んでるよー



●渋江抽斎 @森鷗外

テーマ:
エレカシ30周年記念!というわけでは
ないけれど、ようやく読んだ
「渋江抽斎」   by   森・鷗・外!




宮本さん渾身の名曲「歴史」

♪『歴史・・・名作山椒太夫。
   そして渋江抽斎に至って輝きは極限。
   そう、極限に達した。
   凄みのある口語文は最高さ』



という歌詞を見て、読んでみるものの、
難しくて挫折した・・というファンあるあるの、課題図書。わたくしに至っては
これ「人名」か!と、最近気づいた次第。テヘ








渋江抽斎さんは幕末の人で、
江戸詰めの津軽藩士。漢方医として
将軍の奥医師を務め、古書を研究して、正しい意味を探る「考証学」の学者でもある。




でも、全然有名じゃない人。なのに
鷗外がなぜ史伝を書いたか?というと、
「自分に似てる!」と思ったかららしい。









森鷗外は相当マニアックな人らしく、
江戸時代の「武鑑」を集めていて、
→(武士の名簿や知行、石高、位官のデータ
一覧表or図鑑みたいなもの)


その過程でたびたび目にする「渋江蔵書」という印が気になる・・・
しかも自分と同じ医者で、官吏らしい。



各藩の武鑑が、たーくさんある。






「耳をすませば」で、雫が「天沢蔵書」の印に
惹かれたのとちょっと似てるかなぁ。。
そんな尊敬と、恋心が混じったような、
運命的な出会いの力に引き寄せられ、、




森鷗外は「渋江さん探し」に没頭する。
しかも、渋江抽斎の存在を調べる過程から
事細かに説明し始める、という、これまた
マニアック、及び型破りな構成で。。



裏表紙の解説






しかも三分の一くらいは、渋江抽斎の家族や友人の、出自等の説明に終始する。
抽斎が影響を受けた名もない趣味人の
先祖、妻、妻の親、その弟、弟のエピソード・・・と話題が拡散してゆくので、
なんじゃこれ?まるで宮本さんのバラエティーでのトークではないか?、、と。





皆さんが、「わからなくて挫折した」というのは、意味がわからないんじゃなくて、
なんのこっちゃ?という意味不明につき、
読む忍耐が続かなかった・・という事らしい









さらに斬新なことに、抽斎の伝記でありながら、本の半分で抽斎は死に、
後は明治〇年・抽斎の死後〇年目・・と、
家族と友人の様子を淡々とレポートし続け
これが死後50年以上続いちゃう。





で、面白くないかと言えば、これが結構
面白かった!   最初は忍耐&
あ~無理っぼい・・・という挫折感しかなかったが、幕末の動きが出てからは、
知ってる偉人も出てきて楽しくなった!



でも、明治の文豪に傾倒する宮本さんみたいな感動には、当然至らず。。。
こういう文章に親しむので、初期エレカシ
の歌詞は、ちょいちょい文語調なのよ。
ロックなのに。。たまらぬ魅力。(^^)v









この時代の人々の寿命の短さには驚かされる。妻や妹、弟が2、30代でどんどん死んでゆくし、産まれた子供も次々夭折してしまう。離婚も多いよ。キッパリしてるー




そして、知人、親類筋の結び付きが濃い!
家には常に「食客」として、学を志す知人の息子やら、親類筋のそのまた知人やら、、
面倒みてあげる他人が同居していて、



習い事の為、知人に弟子入りするとか、
就職、家探し、縁談の口利き、喧嘩の仲裁
・・・人間関係、超濃密だわー。。。




鷗外はいちいち、〇年〇月〇日、
この時抽斎〇才、妻〇才、子供〇才、〇才、〇〇から〇年後の出来事で、〇と〇は〇才の年の差がある。。と、めちゃめちゃ
数字を挙げて解説するんだけど、
きっとご本人も、抽斎に成り変わって
茶の間に座り、時々の情況をシミュレーションする為、必要な作業だったのかも。









表紙の絵は、妻の五百(いお)さん。
抽斎4番目の妻となった賢夫人で、抽斎より、この人の方がオモシロイ。



ここ、抽斎が金目当ての狼藉者に襲われるのを救った、坂本龍馬のおりょうさん以上の武勇伝で、唯一声出して笑えた場面(^^)







渋江抽斎を敬愛した、森鷗外。
その森鷗外を敬愛する、エレカシ宮本。
皆、似た感じの個性を持っているようだ。





戊辰戦争・海戦バージョン。


明治元年8月20日に品川沖を脱出した
榎本艦隊は8隻。



旗艦「開陽」を始め、回天、蟠龍、千代田形
咸臨丸、長鯨丸、神速丸、美嘉保丸。
乗組人数二千余、途中で増えて約三千。
フランス軍人も「雇ってくれ~」と増え
10人もいたんだね。









宮古湾海戦は、新政府の旗艦「甲鉄」を
海上で奪い取ろう!という、ほぼ海賊チックな非常手段!明治2年3月25日。




当初の海軍力は榎本艦隊が上だったのに、
途中で旗艦「開陽」が座礁沈没、、逆に
新政府軍には米製の装鉄軍艦「甲鉄」が加わり、完全に戦力逆転してしまったんだ。。



大隈重信が入手した「ストーンウォール・ジャクソン号」→「甲鉄」 と命名。







勝利の道はこれしかない!悲壮な決意に
フランス海軍伝統の敵艦斬り込み戦術の
直伝を受け(アボルダージ・ボーディング!)
函館で激しい調練を繰り返した。


しかも奇襲のため、出撃まで船員にも攻撃意図を秘匿する・・・まるで真珠湾攻撃だ。




だけど、3艦一体の攻撃の筈が、途中で2艦脱落。。結果、「回天」一つで敵艦8隻停泊する港に突っ込む!という無謀な展開に・・

「甲鉄」に乗り上げる「回天」。おわー






斬り込み隊長は、土方歳三!!  

ちなみに新政府艦隊の「春日」からは、
若き日の東郷平八郎が「回天」を攻撃。この奇襲を受けた体験、後に役立ったとか。



「回天」の戦闘は30分。甲賀艦長は死亡。






3艦のうち脱落していた「高雄」は、追撃されて自沈する。船員は陸に逃れるんだけど地元の人々は親切に匿い、厚くもてなしてくれたそうだ。。ええ話し。


てか、皆やっぱり幕府を尊敬していて、
新政府は嫌いなんだよね~。威張ってるからホント、どこでも評判悪いよなぁ。。

「高雄」は艦を放棄、南部藩田野畑村に上陸






日本海海戦とか、レイテ沖海戦とか
海戦って、読んでてスゴく面白いんだ。
とうも船に感情移入しちゃう。操舵が上手いと小さな船が、莫大な戦果を上げる。



函館湾海戦。手前は新政府の「春日」「甲鉄」






函館湾海戦でも、新政府は「甲鉄」含む8隻
榎本艦隊は僅か3隻、、でも「蟠龍」が一人で活躍して「朝陽」を撃沈!さらに
動けなくなった「回天」を尻目に、5隻を
相手に走り回って奮戦する!カッコイ~


「朝陽」を撃沈する「蟠龍」  明治2年5月11日







そもそも榎本武揚が函館を目指したのは、
徳川八百万石の家臣救済のため、蝦夷地を
くれ、という要求だったんだね。



で、蝦夷地を領収する徳川将軍家の血筋の者が来るまでの間、指揮者を定めて行政・兵制組織を確立しよう、と、日本初の投票
を行ない、榎本が総裁となったんだ。



てことは、これ実現していたら、
北海道は徳川王国になってたん、、かね。


榎本武揚。


幕末ずーっと長崎詰めだった佐賀藩(肥前)
の大隈重信が、彗星のように新政府に現れたのは、外交能力が求められてのこと。



幕府倒壊直後、長崎で外国領事達の苦情や
貿易上の難問を次々に処理。→(やるなぁ)

京で英国公使パークスをやり込め、キリスト教解禁の要求を退ける。→(スゲーな・・)
↓↓↓
横須賀の製鉄所と、アメリカ製の軍艦を一隻、分捕って来てくれ→(君しかいない!)



・・委細任せる!という、木戸孝允の雑な
指令。戦争してない維新事務方のドタバタ
行き当たりばったり・・は、リアルだなぁ。









ということで、江戸に出た慶応4年5月。
ここで、大隈の臨機応変な太っ腹が
さらにその評価を高めることになる。




江戸の騒乱が収まらないことには、
外国との交渉が一歩も進まないことを
理解するや、運んできた公金25万両と
佐賀藩の兵力&アームストロング砲を
そっくり、大村益次郎に渡したんだ。




これにより、大村益次郎は僅か一日で
彰義隊を殲滅する。大村の神業を可能にし
新政府に対する諸外国の信頼を回復した、
大隈重信の、超ファインプレー。(^^)v




しかもその後ちゃーんと、イギリスから
金を引き出し、横須賀製鉄所の接収、
軍艦ストーン・ウォール号回収、東北の
軍資金調達、全て成功させた。グッジョブ!









もっとも、最初の25万両を工面したのは
「龍馬の置き土産」ともいうべき、
越前藩の由利公正(三岡八郎)だ。




とにかく「金がない」新政府の財政を任され
獅子奮迅の働きで金を集め、太政官札も
発行した功労者、ではあるけれど、、




あくまで「応急処置」だったので、
あちこちに綻びが出て、四面楚歌になった
由利は、僅か1年で表舞台を去る・・・

経綸のとき~由利公正


太政官札





そして「外交と会計」。切っても切れぬ両方
に達者な、大隈が後を引き継ぐ。
目的は、「外国のお金と正しく交換できる
統一された貨幣」を創り、近代国家たる
礎を築くこと!  30才。




無くてはならぬ右腕は、伊藤博文。
この人だけは、陣営関係なく誰からも頼り
にされて、ホント凄いと思うよ。。
そして、井上馨、五代友厚、渋沢栄一。




長州人は仲間同士で助け合い、薩摩人は
指導者を押し立て協力する。けど、佐賀人
は個人プレー・・・と、司馬さんの言う通り
藩の先輩である副島種臣、江藤新平、
大木喬任とは連携なし。。なんだね。。












大蔵省と民部省を合併し、租税徴収と
造幣、会計という大権力を一手に握り、
苦難の末、造幣寮が稼働したのが
明治4年2月15日。「新貨条例」は5月布告。





両、分、朱、などの単位を「円」に統一し
四角いお金を円くする!
四進法を十進法に改め、金本位制とする。



造幣寮を完成させ、新貨幣を鋳造し、
太政官札を廃止、贋札の出来ない精巧かつ
美麗な「明治通宝」は、ドイツで印刷した。


2ヶ月後、“第二の維新” たる 廃藩置県。


明治通宝1円紙幣。別命「ゲルマン札」







その後、金本位制が崩れたり、紙幣乱発で
インフレになったりするけど、一貫して
政府の財政責任者として君臨し続ける。





大久保利通とはずーっと対立したし、
仲の良かった先輩、副島種臣にも疎まれる
大久保亡き後、明治14年の政変で、大隈を追い落としたのは、なんと伊藤博文だった。



渾名は「大口」




@他人の意見を聞かず自説を押し通す
@無能な者を徹底的に糾弾する無慈悲
@話し方が大声で不快。罵詈雑言もダメ。
というのが、友人・五代友厚の忠告で・・



傲岸不遜な態度とあまりの権力集中で、
政府内では嫌われた。。
けど、その後は政党を作ったり、
復帰して総理大臣になったり、
もちろん早稲田大学を創ったり、
国民に大人気の政治家になったのだー(^^)





でもね、この若き日の「円創り」こそ
最大の功績、、なんじゃぁないだろか。







●歳月 @司馬遼太郎

テーマ:
薩長土肥の「肥」ってナンダヨ・・・って
実は密かに、うっすら思ってたのよ。
今さら人に聞けない..ってヤツね。。




このモヤモヤ一気に氷解!さすが司馬遼センセイ、毎度優しく、易しく、ありがとう。




倒幕せず、戊辰戦争せず、僅か一ヶ月の
志士活動で新政府の参議になった、
肥前藩(佐賀藩)の「江藤新平」を読むことで
「薩長じゃない維新」も見えてきた。









肥前藩って、本当に特殊だったんだなぁ。



「三百年来の傑物」と言われる藩主
鍋島閑叟(かんそう)=直正の完全独裁で
藩を完全洋式軍事化。



「佐賀藩の奇跡」と言われる、その実力たるや、もし日本に内乱が起これば、佐賀一藩で幕府も諸藩も平らげてしまえるほど。




しかもこの藩内事情を極秘にし、藩士が
他藩と交流することも厳禁!これが
「佐賀の二重鎖国」  スゲーな。



鍋島閑叟






佐賀には独自の学制があり、進級試験に
合格しないと、家禄没収!もある。なので
学生は狂ったように?勉強するんだって。



「政治は土佐、学問は佐賀」



こんなスゴい実力を有しながら、藩士には
志士活動させないよう、京都藩邸には
“わざと” 愚鈍な者を置いてたんだって。
「京には牛をつないでおく」って、
あの幕末に、なんちゅう藩方針。( ・∇・)






大政奉還後にようやく、江藤新平が動き
肥前藩の兵力を提供することで、ようやく
「薩長土肥」が並び立ち、



さらに実務の江藤を始め、外交の大隈重信
学識の副島種臣・大木喬任が重きをなし、
あれよあれよ、佐賀の頭脳集団無しに
新政府は成り立たない、、ようになる。



佐賀藩製のアームストロング砲






「ワシがこの世に生まれてきた意義は
日本に法治国家たる基礎を建設すること
にある!!」        という江藤は、




江戸開城後、三日間書庫に籠り、
書類や帳簿を研究、江戸行政を一手に把握すると、新政府の制度を次々に立案する。




司法権を行政から独立させて、奉行所を
裁判所に改め、判事と検事を設ける。
警視、警部、巡査などの警察制度を創始し
廃藩置県も推し進めた。



司法卿・江藤新平





新国家の制度を創るのは肥前だ!という
自負をもつ江藤は、権力を我が物顔に握る
「薩長の無学者ども」を激しく憎む。




井上馨と山県有朋の汚職を暴いて
獄に叩き込む!と息巻き、
「長人は狡猾で、薩人は愚鈍である」から
薩摩を抱き込み征韓論で分裂させ、長州を討たせる「薩長退治」を執拗に画策した。




大久保利通は、そんな江藤の野心を見抜いて、事々に対立したし、渋沢栄一も
「精神が中庸を欠いている」と批判した。



確かに頭は鋭くて、法制を立案し、文章化する「実務家」としてはピカイチなんだけど
周りを動かす「政治力」に欠けるんだなー。
いや人間力、というべきか。





佐賀の乱   @明治7年2月~3月(1874)






「佐賀の乱」は他愛のない暴発だったんだなぁ。。幕末の不満のはけ口が「攘夷」だったように、新政府に対する不満のはけ口が「征韓論」・・という解説。なるほどだ~





ここでも西郷を下野させた、大久保利通が
憎悪の対象。大久保ひとりが、こんなにも憎まれ役って、あんまりだわ~と思うけど


・・政敵・江藤新平を、佐賀の乱にかこつけ
ここぞとばかり、瞬時に葬った政治手腕は
お見事すぎて、超冷酷。。でも、、


これがモノホンの政治家なのかな。。