私が若かりし頃、音大卒業後に師事していた松岡三恵先生が一昨年お亡くなりになり、
お別れの会に出席した事は、以前このブログでも
書きましたが、
やはり今は亡き音楽評論家の横溝亮一先生が
生前よく仰っていた
「三恵ちゃんのシューマンは絶品だね〜」
とお墨付きのシューマンのクライスレリアーナ
先生の息遣いまで聴こえてきそうです。
ショパンのファンタジーop.49の鮮やかな事!
1番驚いたのは、
先生のご主人であり音楽評論家の石井宏先生の
書かれた三恵先生の留学される前までのお話。
先生は桐朋学園の一期生で、それまでも
就いていた井口基成門下だったのですが、
桐朋に入る前も入ってからも、なんと
ご自分のピアノが無く!学校のを借りて練習していたそうです。
毎コン(現在の日コン)で一位に(この時の二位がフジコ・ヘミング)なった時もまだ無く、
その褒賞にやっとヤマハの社長からアップライトピアノを頂けたと、今の時代じゃ考えられない事が書かれていました。
終戦までは芸大出のお母様のを使っていらしたそうですが、戦争でなにもかもなくしたそうです。
昨年のピティナの講演会で、ピアニスト海老彰子さんのお話の中で、ショパコンでも浜コンでも審査員を務めた海老さんだからこそ言える
「何故最近日本人は中々最終まで残れないのか?」という素朴な疑問にこう答えてらっしゃいました。
「気骨が足りない」
その後で、「フィギュアスケートの羽生くんみたいな人がピアノ界にも現れてほしい。彼も震災で苦労なさったから今の羽生くんがあるのでは?」
と仰っていたのが印象的でしたが、
まさに三恵先生にはこれがおありになるんだろうな、
17歳で日本で一位になった三恵先生は
パリ音楽院に留学し、シァンピ(岸恵子の元夫の父)に師事されるのですが、そこでは、一からやり直し。
なんと子供の弾く「ピアノのABC」からやらされた話は、昔ご本人から聞きました。
ショパンのエチュードを持って行った私に
モシュコフスキーのエチュードからやる様に言われ、少し凹んだ顔をしたのでしよう。
ご自分のそのお話をして慰めて下さいました。
そのパリでも皿洗いから、ガイドまで何でもやって見事プリミエプリ(一等賞)で卒業なさいました。(二等賞まで卒業はできるそうです)
なんとあの川端康成さんがパリにいらした時にも
ガイドを務められたとか、、
写真も載ってました。
あたたかいお人柄に魅かれて指導を受けたお弟子さんは数知らず。
私も三恵先生にも習った事で目が開かれ、
今の奏法へと繋がる気がします