※たぶん『春琴抄』の一コマ。京都撮影所? 撮影/石崎泰弘

わたしは昭和45年から昭和57年まで、芸能記者を13年間やった、つまり、1970年から80年までの11年間の日本の芸能界の激動・盛衰を現場で体験した人間である。

その芸能記者時代の13年の内訳を言うと、月刊の『平凡』に約5年間、そのあと、『スタア』という芸能人を取材対象にした新雑誌を1年間経験し、この雑誌がけっきょく、思ったようにうまくいかなくて、そのあと、昭和51年から7年間『週刊平凡』という大人向けの芸能週刊誌の特集記者をつとめた。

自分でこの13年間で最大の出来事はなんだったかと、自問してみたのである。

いろいろなことがあった。殺人事件もあったし、離婚した夫婦もいたが、芸能が社会の動きをシンボライズしているという意味ではやっぱり山口百恵の引退と結婚が最大の事件だったのではないかと考えている。

これは昭和55(1980)年11月のことで、考えてみれば、単純に一人のアイドル歌手が結婚して引退した、それだけのことに過ぎないのだが、昭和45年の11月に自衛隊の市ヶ谷駐屯地に乱入して自刃した三島由紀夫の死が1960年代の激動をある位置関係で象徴しているのと同じに、彼女のただの目立たない女の子から、幼虫、蛹、そして美しい蝶のような大人のアイドル歌手へと変態していった、ある種の成長譚は、日本社会の1970年代という時代の変容と成熟の10年間をある形で象徴しているのではないかと思う。

それは彼女の芸能活動と引退、そして結婚して主婦、という形があらゆる意味の70年代の人生をシンボル化したものである、というような意味だ。故人であるが評論家の平岡政明は『山口百恵は菩薩である』という本を書いた。わたしは彼女を菩薩だとは思わないが、ある観念を具現した存在になって、太宰治や三島由紀夫などと同様の、彼らは現実の自殺者だが、山口百恵は観念的自殺者、社会通念を自死させた人間として日本の大衆文化の現代史の、一つのメルクマールになったと思う。

彼女が『としごろ』を歌ってデビューした昭和48年5月ころ、わたしがなにをしていたかというと、じつは、その前年にデビューし、瞬く間にトップアイドルに上ってしまった天地真理(46年10月デビュー)と郷ひろみ(47年8月デビュー)のふたりを担当してめまぐるしい編集者生活をしていた時期である。なにしろ、郷と天地、二人とも人気投票の男女の一位だったから、毎月ごとに相当量の編集ページを作らねばならず、かなり忙しく、新しいタレントを持つ余裕がなかった。

山口百恵はホリプロからデビューするのだが、わたしは和田アキ子のところでちょっと書いたとおり、ホリプロは出入り禁止の鬼門で、ホリプロのマネジャーたちからは仕事はできるが危険人物、と思われていて、森昌子や石川さゆりのデビューにも縁がなかったのである。ただ、そのころはテレビの歌番組というのが大全盛で、その歌番組を生放送するテレビ局の楽屋というのが、一種の芸能界の社交場のようになっていて、デビューしたての新人歌手とか、ヒット曲を連発中の歌手とか、芸能プロのマネジャーたち、レコード会社の宣伝部員、それからわたしたちのような芸能雑誌の編集者、スポーツ新聞の記者、等々の人間たちが曜日替わりで日本テレビ、TBS、フジテレビ、テレビ朝日(当時はNET)、テレビ東京(当時は東京12チャンネル)と、民放各局のその、歌番組の楽屋に集まって一種の社交場か、クラブのようになっていて、わたしもそこの常連のひとりになっていた。女性のアイドル歌手でいえば、天地・小柳・南沙織の新三人娘だけでなく、アグネス・浅田・麻丘の「あ」の字三人娘、サンミュージックの桜田淳子、芸映の岩崎宏美、オフィス21の伊藤咲子、研音の浅野ゆう子なども集まってきて、自然とみんなが顔見知りになっていたのだった。わたしはデビューしたころの百恵の取材をやったかやらなかったか、はっきりした記憶がないのだが、郷ひろみとの対談企画とか、集合もの企画のコメントをもらったりとか、そういう取材でデビューしたばかりの百恵の取材をやっているのではないかと思う。なにか、二、三回おしゃべりした記憶はある。

彼女のデビュー曲の『としごろ』はブラトニックク・ラブへの憧れを歌にしたような、そのころの天地真理が歌っていたような内容のあまり刺激のない歌で、たいしたヒットにはならず、百恵自身、このあとなにもなければ、ホリプロでいうと、比企理恵とか甲斐ちえみのようなその他大勢タレントとして扱われるようになっても(片平なぎさもアイドル歌手としては失敗作だった)仕方のないような、デビュー曲ではそういう勢いしかあたえられなかった。じっさいにそのころの百恵はなんだかちょっとおどおどしているような感じがついて回っていた、この子、怖がってるのかな、というような感じがあった。

それが、次作の『青い果実』、そのあとの『ひと夏の経験』で、要するに歌の内容は処女喪失を歌ったものなのだが、まだ14歳で「あなたに女の子の一番大切なものをあげるわ」と歌うのだから、中三トリオで当面のライバルとなった森昌子や桜田淳子はいうに及ばず、「水色の恋」とか「ちいさな恋」などで肉体関係をシャットアウトした歌で人気者になっていた、トップアイドルだった天地真理でさえも敵うわけがなかった。

これは天地真理のところでもジャニー喜多川の話を書いたところでもふれたが、わたしが所属していた月刊の『平凡』では毎年、夏休みに人気投票をやっていたのだが、まず、昭和48年の女性部門で(全体の投票結果は天地真理のブログの部分を参考にしてください)山口百恵はベストテン第10位で得票数5274票しかとれていない。この年の第1位の天地真理の得票数は実に86974票だった。それが、一年後、昭和49年の同じ夏休みの人気投票では次のような結果になるのである。

 

 第1位 山口百恵 33451(5274)票

 第2位 アグネス・チャン 28680(30353)票

 第3位 桜田淳子 14299(9144)票

 第4位 浅田美代子 14198(29239)票

 第5位 南沙織 10155(15944)票

 第6位 天地真理 8193(86974)票

 第7位 麻丘めぐみ 7740(17436)票

 第8位 森昌子 4907(9855)票

 第9位 風吹ジュン 4320(前年未登場)票

 第10位 小柳ルミ子 3605(11471)票

 

()内の数字は前年の投票数である。全体の投票数も下がっているのだが、天地真理が膨大な票数を失い、浅田、麻丘、小柳ルミ子らもある程度の大きさの被害を被り、それらの一部が山口百恵の票に流れたという分析でいいのではないかと思う。天地真理の持っていた大量の支持票はごっそりどこかに消えてしまった印象がある。

じつはわたしはこの時期に、別の部署に異動になる。この経緯は『平凡物語』という本のなかで書いているのだが、こういうことである。 

それで、48年度の人気投票のあと、年明けに、わたしはいまの女房と恋愛に突入して、こんどはホントに性能の悪いロボットのように、急に動きが鈍くなるのである。この時期は自分の都合だけで行動していた。個人的な話ばかりして恐縮だが、結婚しようと思ったとき、貯金が殆どなく、1年間かけて百万円貯めた。わたしが生涯で一度だけ、真面目に貯金をした時期である。デートはそれほどめちゃくちゃな贅沢をしたわけではないが、かかる費用は全部取材の概算金でまかなった。(524頁)

それで、わたしが月刊の平凡編集部を出ていく(出される)ことになったきっかけというのを書いておこう。入社5年目の昭和50(1975)年の5月(だったと思う)に新雑誌の『スタア』という雑誌をテコ入れするために、当時編集局長だった斎藤茂に連れられて異動するのだが、この2ヵ月ほど前の3月にわたしは結婚した。知り合って2ヵ月でプロポーズ、1年目に結婚式という段取りで所帯を持ったのだが、その、女房と知り合ってつき合った昭和49年の春から翌年の結婚式までというのは、これが同じ仕事ばかりしていたアイツかと思われるほど、働かずに好き勝手なことばかりやっていた。一週間に3回くらい、夕方、勤めを終わらせて鎌倉(実家)に帰る途中の未来の女房と会ってデートした。食事したり、お茶を飲んだり映画を見たりして、それなりに楽しかった。このときは、わたしの耳には入ってこなかったが、「アイツはチャンと働いてないじゃないか」ぐらいのことをいわれていたかも知れない。

新雑誌の『スタア』の方は前出の浜崎廣らが清水達夫の肝煎りで創刊したハイブローな芸能の月刊誌だった。前年に創刊したのだが、材料は芸能のくせに料理の仕方が上品すぎて、本の仕立ては家庭画報のようで、部数が低迷、あまり売れずに苦戦していた。それで、わたしは現場の援軍として追加で投入された、というわけだった。

これはもちろん、『スタア』をなんとかしなくちゃという、会社の都合もあったのだが、月刊の平凡の現場的な話からいうと、わたしはもうこのとき、編集部にいてもいなくてもいいような編集者のひとりになっていた。(530頁)

というようなことである。

わたしはこの『スタア』という雑誌で三浦友和のインタビュー取材を行っている。このころの彼は、要するにバカではないのだろうが、マスコミに対して用心深い小動物のようなところがあって、マネジャーがやたらにうるさい人だった記憶がある。人見知りなのかあまり軽薄な冗談も言わず、人慣れしていなかった印象がある。世間ずれしていない折り目の正しい青年、という書き方をしてもいいかもしれない。じつはこのブログで、このシリーズとは別口で『廃市』という小説を同時掲載しているのだが、そこ(『廃市』[20]第三章 青い果実04~第四章 北ウィング01)では三浦友和のことをこんなふうに書いている。

明智(小説の主人公)と三浦友和は、友和が百恵の相手役で売り出した頃からの顔見知りで、彼がある朝、ウンコがしたくなって会社の地下のスタジオのそばのトイレでしゃがんでいたら、隣のトイレで唸っているヤツがいる、用を足して頃合を見計らって出たら、間が悪いことに隣の男もちょうど出ようとするところではち合わせして、えらいバツの悪い思いをした。それが三浦友和だった。早朝からスタジオに入って、ポートレートの撮影をしていたのだった。そんなことがあって、なんとなくバツが悪いのが持続して二人は心の友になりそこなった。

これは場所は会社のスタジオのそばという仕立てで原稿を書いているが、じつはそうではなく確か大阪のホテルで、彼をインタビューしたのだと思うが、その時の実話である

それで、わたしの話にもどるが、芸能総局あげて創刊に挑んだ『スタア』はけっきょく読者層を確立することが出来ず、休刊することになり、そこからわたしは芸能週刊誌の『週刊平凡』という雑誌に異動することになる。

このときの編集長というのは,入社試験に合格したあと、会社に呼ばれてアルバイトで編集の手伝いをした時の編集長と同じ人で、新堀安一というのだが、異動が正式に決まったとき、わたしに特集記者をやってくれないかと言うから、わたしは「スキャンダルを追いかけるのはイヤだ」といった。芸能人の誰と誰がひっついたとか、離婚しそうだという話を面白がる人たちもいるだろうが、そういう話しはわたしにはバカバカしいどうでもいいことに思えてしょうがなかった。それで、そう言ったのである。新堀さんはそれに対して、「シオザワ君はきちんとした文章が書ける。新しく企画特集デスクというのを作るから、そこで読み応えのある原稿を書いてくれないか」といわれたのである。そういうことならわたしにとっても有り難い話だった。これはじつはあとからわかったことなのだが、新堀さん(編集長)はこのときの社長の清水達夫から『週刊平凡』はくだらない原稿ばかりだ、ちゃんとした読みものを作らなきゃダメだ、と怒られている最中だったのである。それでわたしにその役目を托す、ということになったのだった。わたしは、『週刊平凡』で自分で面白そうなテーマを選んで、隔週で6ページくらいのノンフィクションやルポルタージュを取材して書くという役目をあたえられて、週刊誌記者の生活をスタートさせるのである。

このあと、わたしと三浦友和・山口百恵とは不思議な因縁を描いて軌跡を交錯させることになる。そして、話として最後に三浦友和の家で生まれた仔犬がわたしの家にたどり着くまで、まだあと10年くらい、三浦友和のお姉さんの〝三浦弘子さん〟から「全ては美しい思い出。わたしをそっとしておいて」といわれるまで40年の歳月の経過がある。

 ※このあとも話しが長く続くので、原稿を上中下の三つに分けることにします。

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