天地真理のこと。

 

杉村太郎、木滑良久、石川次郎と、わたしと個別の人間とのかかわりを書いてきて、ほかにも、自分の昔の知り合いのことをいまの自分がどう考えているか、形にして書き残しておきたいなと思いはじめた。

木滑、石川は会いたいと思えばいつでも会えるが、杉村太郎のように、もう二度とこの世では会えない人もいる。生者死者織りまぜて、わたしの人生の中で出会って、再び会わなくなってしまった人たちがたくさんいる、そういう人たちの、消息のわかっている人もいれば、どこでなにをしているかわからない人もいる。たぶん、その人たちの想い出を書くことは、自分の過去と自分がどうやってその時代を生きようとしたかを記録することなのではないか。

 そう考えたのには理由がある。じつは昨日のことだが、引き出しの中を整理していて、小さな桐の箱を見つけたのである。その箱は便宜があってそうしたのだろうが、いつのことだったか子細を忘れてしまっている。箱の中に入っていたのはわたしが四十数年前に月刊の『平凡』という雑誌でいっしょに仕事をした、天地真理というアイドル歌手の三十枚あまりのネガフィルムだった。その写真の一部を紹介しよう。

※これが素顔。かわいい子だった。

 天地真理は昭和47年から48年にかけて、一世を風靡した人気絶頂のアイドルだった。わたしはその月刊『平凡』の彼女の担当編集者だったのである。これらのネガフィルムがどうしてわたしの手元にこの形で残っていたのか、なにしろもう四十年以上前のことだから、はっきり覚えていないが、本人ひとりの写真だけでなく、沢田研二、渥美清、郷ひろみ、西城秀樹らといっしょに撮影したカットもそのなかにまじっていた。

※沢田研二と。

※渥美清と。

※郷ひろみと。

※西城秀樹と。

わたしが月刊平凡の編集部にいたのは、昭和45年から49年までの五年間で、天地真理がタレントとして元気に活動していた時期とほぼ重なっている。そういうことがあって、もしかしたら自分のそのころの仕事の記録としてこれらの彼女の写真を自分の手元に残しておきたいと思ったのかも知れない。

 おぼろげな記憶だが、天地真理と初めて会ったのは昭和46年のある日のことだったと思う。TBSのスタジオへ、そのころ仲良しだった堺正章を訪ねていったのである。楽屋で雑談をしていてマチャアキから、一人の女の子を紹介された。

「今度、『時間ですよ』の看板娘になるンだよ、天地真理っていうの。取材して雑誌にのせてあげてよ」

 これが彼女との一番最初の出会いだった。渡辺プロダクションの所属、という話だった。翌日、わたしはカメラマンを連れて、TBSに彼女の写真を撮りにいって、ちょっと話も聞いて、新人紹介の原稿を書いた。

 あとで慌てて渡辺プロの担当者が編集部に挨拶に来たのを覚えている。

 たぶん、これが彼女にとっても初めてのマスコミの取材だったのではないかと思う。そのあと、テレビに出始めた。そこからわたしと彼女の本格的な付き合いが始まった。そのころまでのわたしは、テレビドラマや映画のページを担当していて、木下恵介劇場の『冬の雲』とか森田健作の『俺は男だ!』とか、桜木健一・吉沢京子の『柔道一直線』とか人気番組がいろいろあり、その仕事はけっこう忙しかった。しかし、タレントの編集担当としては男性タレントでフォーリーブス、堺正章という大物を抱えていたが、女性タレントというと吉沢京子ぐらいで、吉沢京子には悪いが彼女は女優でトップアイドルというわけでもなかった。

 天地真理は『時間ですよ』でマチャアキと絡んでデビューし、CBSソニーから発売したデビュー曲『水色の恋』も大ヒットして、たちまち、女の子のアイドルのトップに登りつめてしまった。先にデビューしていた小柳ルミ子、南沙織と新三人娘を結成することになるのだが、その人気の実態をいうと、48年の9月に雑誌で人気投票をやったのだが、このときの女性アイドルタレントのベストテンはこういうメンバーである。

 

天地真理 86974票

アグネス・チャン 30353票

浅田美代子 29239票

麻丘めぐみ 17436票

南沙織 15944票

小柳ルミ子 11471票

森昌子 9855票

桜田淳子 9144票

岡崎友紀 5679票

山口百恵 5274票

 

次点、和田アキ子。以下、小林麻美、山本リンダ、佐々木ヨーコ、水沢アキ、という順番になっている。天地真理が実に全体の4割を独占している状態だった。ちなみに男性の一位は郷ひろみ(90158票)だった。このころの郷はフォーリーブスと同じジャニーズ事務所の所属だった。これも二位、三位に野口五郎(52320票)、西城秀樹(45059票)、四位にフォーリーブス(15331票)がいるのだが、郷が天地と同じように全体の4割近くを占めていた。じつは郷ひろみ、フォーリーブスもそのころはわたしの担当で、わたしの担当するタレントが雑誌の全体の半分くらいを占有していたのである。これがわたしの月刊の平凡の編集者としての絶頂期だった。45年に編集部に配属になったとき、雑誌の発行部数は69万部で、落ち込みがひどく過去最低を記録したという話だったが、僅か三年のあいだに、部数は153万部という、恐るべきところにたどり着いていた。これは、基本、天地、郷の二人の大物アイドルを中核にした新しい世代のスターたちを取り込んで成立した部数だったと思う。自分ではわからないが、これはかなりの部分でわたしの手柄だったのではないかと思う。

 話が自慢話めいてきてしまったが、どうしてそういうことになったのか、自分でもわからない。幸運もあったのかも知れないが、タレント本人たちの努力も、編集者としてのわたしの努力もあったと思う。とにかく、このときもわたしはよく働いた。

 天地真理の所属している渡辺プロには他に、アグネス・チャン、小柳ルミ子という女性アイドルがいて、わたしは本当は渡辺プロの担当ではなく、田湯茂さんという中年のおじさんが担当編集者だったのだが、わたしが天地真理がデビューする経緯に絡んだこともあり、特例で彼女だけはわたしが担当する、ということになった。

 天地真理はかなりわたしを頼りにしていた。頭の悪い子ではなく、「塩沢さん、あたし、どんな本を読めばいいですか」と聞かれたりして、たくさん詩集を読め、といって野村英夫という詩人の『司祭館』という表題だったと思うが、詩集を買ってあげたことがある。わたしたちは毎月かなりのページ数を作って、写真撮影でいろんなところに出かけていったし、色んな人と顔合わせして対談ページも作った。自叙伝のようなものも代筆してあげた。それらの仕事の足跡が、昨日見つけた桐の箱に収まっていたネガフィルムなのである。

 

いまでも克明に覚えている想い出では、ハワイで渡辺プロ製作のテレビ番組があったとき、彼女もハワイに行ったのだが、このとき、マスコミの招待スタッフにわたしを指名してくれた。冬になって、当時の値段で10万円くらいする毛皮のコートをプレゼントしてくれた。

 芸能記者になってわかったことだが、芸能界で働く若い女性タレントたちはみんな、恋愛対象に飢えていた。まわりには芸能プロダクションのたたき上げの、学歴もそうあるとは思えないむさ苦しい男ばかりなのである。一流大学を出たばかりで、出版社の何百倍という就職活動の難関をくぐり抜けてきた、まだエリート学生のにおいのする若い男の子が彼女たちにもてるのは当たり前のことだった。ここではくわしいことは書かないが、わたしも同じだった。

 天地真理のわたしに対する個人的な恋愛感情がどのくらいあったのか、わたしにはわからない。最初のうち、大して人気がないあいだはそれでもまだ自由で、新宿のお母さんのやっている小料理屋でいっしょにご飯を食べに行ったりした。それは楽しかった想い出だが、歌が次々にヒットしてトップアイドルの座に納まると、いつもやることなすことに渡辺プロのマネジャーたちの監視の目が光っているようになった。会いに行ってもいつも誰かに見張られていて、お互いに好き勝手なことを言い合えないような環境になっていった。彼女もいきなりトップアイドルに祭り上げられてしまったことに戸惑っていて、「塩沢さん、どうしよう」などといいながら、日々の仕事に追いまくられるようになってしまった。

 天地真理は一人の女性としてもかわいい女の子だったが、わたしはそのころ、他にも付き合っている女の子が(まずいことに複数)いたし、その子たちとの恋愛合戦でも忙しかったのである。

 翌年、山口百恵が『青い果実』、『ひと夏の経験』という、きき方によっては処女喪失ソングに聞こえる、天地真理にはとても歌えない衝撃的な歌を歌って、前年の女性アイドルのヒエラルキーを完全に破壊し、彼女がトップアイドルの座にすわる。そこからの天地真理の人気の失墜はひどかった。翌年の人気投票での獲得票数は8193票と、前年の十分の一以下に激減してしまった。それと並行してのことだが、まずいことにわたしも、月刊平凡という十代の子ども向けの雑誌に完全に興味を失ってしまっていた。子ども向けの原稿書きには飽きてしまっていた。わたしがやる気をなくしたのには別件もあった。これは、天地真理の問題ではなく、もうひとり、わたしが担当している、大物のアイドルなのだが、当時、ジャニーズ事務所に所属していた郷ひろみが事務所ともめて、バーニングプロへ移籍するというトラブルが起きたのである。

わたしはそれまで郷ひろみともかなり仲良しだったのだが、事務所ともめているという噂が伝わってきて、ひろみ本人から「塩沢さん、ジャニーさんのやり方、どう思います」と質問されて、「ジャニーはジャニーで、考えていることがあるんだと思うよ。ジャニーを信じてあげたほうがいいんじゃないの」とアドバイスした。このことはまた、別の話で、ジャニー喜多川のことはあらためて書くが、そのことがあってから、郷はわたしになにも相談しなくなり、ある日、突然バーニングに移籍していった。それでわたしは必然的に彼の担当編集者からはず(さ)れた。この話は天地真理には関係ないのだが、天地の人気の低落が明確になってきたころと同時期に起こったことだった。それで、ある日、わたしは上司に呼ばれて、「塩沢、今月から天地真理を担当しなくていいよ」といわれるのである。この時点で、彼女は毎月レギュラーでページを割く主要なタレントではなくなったのだった。人気投票の得票数が一年のあいだに十分の一になってしまったら、それは当然のことだろう。ただ、この年に一位になった山口百恵も33451票と、天地の前年の87000票に遙かに及ばなかった。昭和48年の天地真理がいかに大衆に熱狂的に支持されていたかがわかる。山口百恵はここから五年かけて、また別の変容進歩を遂げるのだが、それは別の話。山口百恵のこともいずれ書こう。48年に存在していた天地真理のファンは8万人以上が、ごっそりどこかに消えてしまったのである。

 わたしは上司から担当替えをいわれて、自分が担当の編集者からはずれることを当時渡辺プロを担当していた編集者(前出の田湯茂さん)といっしょ彼女に話しにいった。テレビ局の彼女の楽屋を訪ねて「今月から、ボク、真理ちゃんの担当じゃなくなるから」と切り出した。彼女は「塩沢さん、わたしの担当じゃなくなるんですか」といって、泣き出した。わたしはなにも言えなかった。帰りに、田湯さんから、「マリちゃん、シオちゃんのこと好きなんじゃないか」といわれたことを覚えている。

 この一連の出来事は、彼女にしてみればどうしようもない、坂道を転がり落ちるような人気下落にともなって起こったことだった。何ヶ月かして、彼女が精神的に不調を来して活動休止にはいったという話を週刊誌の記事で読んだ。わたしが新雑誌への異動を命じられたのは、それからしばらくしてのことである。

 先日のことだが、一度、「あの人はいま」系統のテレビ番組で六〇歳を過ぎて、介護施設で生活しているという彼女を見かけた。画面の中で彼女はどこにも往年の面影がなくなっていて、その映像は衝撃的だった。わたしは悲しかった。見なければよかったと思った。こんな書き方をしたら残酷かも知れないが、たぶん彼女はあの時壊れて、誰もそれを治してあげていないのである。わたしのせいもあるかも知れないと思った。

 天地真理ほどかわいいアイドルはいなかった。

偶然見つけたネガフィルムを見ながら、そう思った。天地真理は一九七〇年代の前半の時代を象徴する最高のアイドルだった。わたしはいまでもそう思っている。

 ※写真撮影/たぶん全部、石崎泰弘

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