「きっと不倫の恋も恋だから」と自分で言っておきながら、最近「恋」と「不倫」に

 

は大きな差があるように思えて、改めて、スタンダールの「恋愛論」という古典に近

 

い「小難しい本」を読んでみた。

 

彼の恋愛論の中で、よく繰り返されるのが結晶作用(Crystallization)という言葉

 

だ。この結晶作用とは、雪の結晶が出来るのと同じように、恋愛心理も同じように

 

変化し結晶するいうことだ。英語で読めば「クリスタリゼイション」だが、彼の

 

母国語であるフランス語で発音すると「クリスタリザシオン」となる。何とも文学的

 

で良い響きだ。

 

相手の男のする行為、言うことがすべてが、立派にみえる。相手の欠点も時には長所

 

に映り、性格の粗暴さは「男らしい」、女々しさは「温和」と捉えるようになる恋愛

 

中の心の動きのことを言っている。

 

有体に言えば「惚れれば、アバタもえくぼ」ということを、この論文の中で、小難し

 

く言っている思って結構だ。

 

 

スタンダールは、恋愛を、情熱恋愛、趣味恋愛、肉体的恋愛、虚弱恋愛の4種類に分

 

類している。

 

 

「情熱恋愛」は、ことの善悪や利害関係を越えて情熱を一身に捧げる恋だ。それは

 

「天災」ようなものであり自分の意思とは関係のないところ生まれる恋心のことを言

 

っている。どこか「不倫の恋」に似ていて興味を唆られる。

 

スタンダールは、この情熱恋愛に「結晶作用」という恋愛の本質を見出したようだ。

 

 

参考までに他の三つ恋愛を簡単にまとめると「趣味恋愛」は、シネマティックな恋愛

 

だ。その本筋は、人の目をひくような恋愛で、見栄をはるということを除くと、心に

 

残るものは何もない。これは、現代ではクラブホステスと中小企業の社長の恋愛の姿

 

に見ることが出来る。

 

「肉体的恋愛」は言うまでもなく、動物の雄と雌のような「欲情」に基をなす恋愛で

 

ある。「情熱恋愛」の深遠さと目的から見て「肉体的恋愛」はスタンダールにとって

 

は「情熱恋愛」の従属的な位置にすぎないかも知れないが、我々平成の世に生きる者

 

にとってはかなり重要な位置を占める。

 

最後の「虚栄恋愛」は、幼児期に十分に愛されなかった愛情欠損症からくる不安や寂

 

しさから肥大した「虚栄心」を満たすための恋愛だ。これは、ひとつ間違えるとスト

 

ーカー化の原因になる。

 

 

このスタンダールの「情熱恋愛」のアイデアを基本に「不倫への道」の辿ると様々な

 

事が見えてくる。特に、女性側の不倫に対する「想い」に酷似しているようで、興味

 

深いものある。

 

 

先ず、不倫の芽生えは、相手への関心だ。「あの人に、あんなこと・こんなことされ

 

たらどんなにいいだろう」と頭の中で一人芝居。

 

やがて、具体的な「願望」が頭を巡る。願望は向こう見ずな性格と、発達した想像力

 

があればより幅が広がるという。「不倫の恋」が生まれると、この想像力の作用が

 

始まる。

 

それが、第一の「結晶作用」である。結晶作用とは、繰り返しになるが恋愛によって

 

「愛する対象」を美化させてしまう心理のことだ。

 

「自分を愛してくれている」と確信が持てる時「不倫相手の魅力」が、他人の懸念や

 

誹りなど無視して、自分の胸にどんどん染み込んでくる。相手の身のこなし、何気な

 

い一言、些細な気遣い、不倫相手の男は、多くの美点で彩られていく。

 

 

しかし、突然ある日「懐疑心」が訪れる。全ては、己自身の一人芝居・思い過ごしで

 

はなかったのか。相手は、本当に自分に心から好意を寄せているのだろうか。「軀」

 

だけが目的ではないのだろうかと、今まで心の拠り所にしていた「至福の時」を疑い

 

始める。この眼と肌で感じていたと思っていた信頼への根拠に対して、疑念が生まれ

 

相手への深い猜疑心に苛まれる。

 

やがて内面的な葛藤を乗り越え、不安と確信の間を彷徨った末「相手が自分に与え

 

る悦びは、彼以外は、誰も与えてくれはしない」という「疑う余地のない真理」に

 

たどり着く。

 

 

片手で「疑いの余地のない幸せという確信」に触れながら辿るこの恐ろしい、未来の

 

ない「修羅の道」が、この「第二の結晶作用」だ。

 

不安と期待に苛まれる毎日が続きながらも、絶えず「愛の確信を噛み締める状態」が

 

続く。この状況が続いた後、愛することに疲れ、未来を望めない恋の虚しさに襲われ

 

もう「不倫なんて」と止めようと思う。

 

この「止めよう」とする迷いが、還ってこの「修羅の道」への執着心を煽ることにな

 

って、この「第二の結晶作用」は、不倫の恋を確実に持続させることになる。

 

たとえ、人の道を外れようが、他人にはどう見えようとも、相手の男の魅力の全てが

 

「心」にも「軀」にも染み込んでしまう。

 

 

不倫をするような不埒な男は、スタンダールには申し訳ないが、こんな複雑で面倒な

 

心理作業には、もっとも遠いところにいる。

 

このスタンダールの恋愛論に「不倫の恋」を当てはめてみると「不倫」と「恋愛」の

 

違いは紙一重ではあるものの、その紙一重の隙間に、大きな「危険」が隠されている

 

ことに自ずと気付く。つまり、男は「恋愛と不倫は、全く別物だ」と思っているので

 

「不倫も恋愛だわ」と信じている女性は、僕にはとても危うく観える。

 

男にとっての不倫は、男の股間に住み着く邪悪なものを「恋愛化」しているに過ぎな

 

いと思って欲しい。

 

 

そもそも、こと「不倫」に関して、男と女は、求め合いながらもその真剣度が違う。

 

男は、軽い火遊びのつもりが、女は心から燃えていることが多い。稀ではあるが、逆

 

に女は軽い遊びのつもりでも、男が本気で追いかけてストーカー化することも、ない

 

ではない。

 

一見、素敵で好ましく見えるカップルでも、二人の心の底まで見ると、一致している

 

訳ではない。概ね、男は家庭を捨てる気など毛頭ない。しかし「不倫」を恋愛化して

 

しまった女はたちまち男に心を奪われ、本気になってしまう。当然だが女は、男を離

 

したくなくなり、そんな女の気持ちを振り切って「妻の許(もと)へ帰る男」を見る

 

うちに嫉妬と憎悪が高じ、復讐を考えるに至る。

 

キリスト教・カトリック派だったスタンダールとは違って、仏門に身を置く寂聴さん

 

は、そんな女の心の有り様を仏教の言葉で「渇愛」と呼ぶ。つまり「死ぬほど喉が渇

 

き、水を激しく求めるが如く男に執着する修羅場」となる。

 

このときから、男と女の間は「愛」とは無縁の陰惨な修羅場と変わっていく。しかし

 

その過程をつぶさに見れば、男と女がとった行動は、それぞれに納得出来るところは

 

ある。なぜなら、最初にちょっかいを出した男が逃げ腰になり、女が復讐したい気持

 

ちになる事。これが、不倫という恋物語の最終章の姿だからである。

 

 

この「恋愛論」から、誤解を恐れずに言わせて頂くと、不倫の恋で「割り勘でも幸

 

せ」とか「好きな彼となら牛丼食べても幸せ」と語る女性の心理状態が見て取れる。

 

しかし、繰り返しになってしまうが、男は「不倫」と「恋愛」は別と考えている。

 

デートで、ラブホ割り勘や、牛丼でも「相手の女」を「幸せに思わせている男」は

 

誠実さと優しさというお面をかぶった卑怯者だ。

 

だいたい不倫するような男が「誠実な」わけがないのだ。言葉巧みに格安で遊んでい

 

る卑怯者だ。女性をなんだと思っているんだ。

 

本当の「女好き」の男とは、もっと女を大切にするものだ。金も使うし、気も遣うも

 

のなのだ。

 

 

「倫太郎にだけには言われたくない」と怒る読者も多いと思うが、未来が約束できな

 

いなら、恋愛と不倫の間に「金銭」というツールで、明確に、一線を引くべきなので

 

はないだろうか。それが、我々不埒者のせめてものルールあって、相手の女性に対し

 

て守らなければならない「礼儀」ではないのだろうか。

 

 

 

にほんブログ村 恋愛ブログ 浮気・不倫相談へ
にほんブログ村

コメント(12)