2011年12月11日(日) 22時00分16秒

9ヶ月

テーマ:ブログ
なんだかようやく、「時間の流れ」が感じられるようになった。
3月のあの日が、あっと言う間だったような、もうそんなに経ったんだ、というような。
そんな時間の経過に対する感情が、「普通」に感じられるようになってきたのだと思う。

また冬がやってきた。
夏も、秋も、地元へは帰れなかったから、どうしているのかな。
地元のニュースは、チェックはするようにしている。
でも、きめ細かな情報はなかなか伝わっては来ない。
相変わらず、見つかっていない同級生のその後の情報も入ってこない。
地元にいるみんなも、それぞれの生活を取り戻すので精一杯なんだろう。

被災地では来年のお正月を、どんな風に迎えるんだろう。
年賀状は出さないし送らない人が圧倒的に多いんだろう。
私も、どうしたら良いものやら考えあぐねる。
成人式やら同窓会やらは、どうするんだろう。
やってもやらなくても、きっと気持ちは同じなんだけれど。

…帰りたいな。
…会いたいな。

そういえば9ヶ月も経ってから、昔付き合ってた人の安否確認をしていないことに気づいた私…。
思い出しもしなかった…3年も付き合ってたのに!
まぁ10年以上前のことだからね…と思いつつ、
自分の超薄情な一面にちょっと凹みました。
震災の当時は名前くらい検索したっけな?
知ってる人の名前はとにかく片っ端から検索にかけた。
お世話になったGoogleのParson Finderを久しぶりに開いたら、
いつの間にかサービスが終了になっていた。
なんだか、色々なことが終わって行くような感じがして、少し苦しくなった。


少しずつ、震災前の生活に戻りつつあって、
少しずつ、出来る事はなくなっていって。

だけどけして、忘れることなんか出来ない。
以前のようには戻らない。


先日取材したとあるファッションブランドのお店を経営している方が、
「復興支援チャリティーの企画をしたい」と話をしてくださった。
「3月の当時、色んな企業が一斉に動いたけど、
半年経ったら半分以下に鎮静するだろうと思っていた。
でもその後も必要としている人は(支援をしたいという人も)絶対にいるはずだから、
体力を温存しておいて、半年後以降に動こうと決めていた。
今、復興のために必要なものは何だろうか?」と。
あの混乱期にそんな判断をする人がいるのだということ、
いまでも、被災地のために動こうとしてくれている人たちがいるのだということに
胸が熱くなった。

しかし、大船渡周辺や私の知る限りの情報では、
個人や小さな商店規模の支援はすでに「心のケア」方面にシフトしており、
具体的な活動で資金を必要としている動きがつかめなかった。
そこで、3月の当時に私を支援してくれた方で、
現在も宮城県の亘理町で瓦礫撤去ボランティアを継続されている方を紹介し、
その店舗でのチャリティー支援金の使用先として話がまとまったそうだ。
私はそのボランティアの方に、たくさんの助けをいただいたが、
一度もお会いしたことはない。
そのお店と亘理町のボランティアセンターは、何の接点もない。
だけどこうして、人と人が確かに結びついて、
支援の縁というものが繋がれていくのだから感動してしまった。




そして私は、この気違いじみた業界を引退することにした。
ディレクターとしていくつかの小さな番組は残したものの、
まだまだだったが、未練はない。
6月以降、通常のまた多忙な日々に逆戻り。
一度も地元にも帰れてないし、調べたり何かしたりする
プライベートな時間もないことに限界を感じていた。
きちんと時間を作って、自分が今一番向き合いたいものに向き合おう。
そう決めた途端、岩手に本社がある企業から声がかかった。

「被災地に雇用を創出するから、手伝ってほしい」

これからは、個人的な支援をする段階ではない。
(もちろん、まだ必要としている人たちは確実にいる)
雇用や教育の再構築に向かっていかなくてはならない。
逆に言えば、いつまでも寄付だの支援だのをしていてはいけないのだ。

そして、今一番必要と思われるもの…「雇用」
その仕事に関われるというのだから、
こういう言い方は語弊があるが、私はラッキーなのだと思う。
そして、せっかくこういう機会を与えられたのだから、
やらなくてはならないのだと思う。
もっと現地の声が聞きたい。その声を求めている人たちに伝えたい。
孤独になんかさせない。

と言っても、岩手に帰るわけじゃないんだけどね。しばらく東京起点で。
(基盤が出来て必要になったら、盛岡か仙台に移動するかもしれないけど)



私、OLになります!
それともう一つ、震災1年の3月11日に向けて、
やりたいことが動き出しています。

それはまた、具体的に決まったらお知らせします。


毎日JPより
http://dailynews.yahoo.co.jp/fc/local/2011sanrikuoki_eq_iwate/?1323263537

岩手県警は7日、大震災発生直後、陸前高田、大船渡両市の沿岸部を津波が襲う様子を同県警航空隊のヘリコプター「航空いわて」が撮影した映像を公開した。

【動画】岩手県警が撮影した津波映像
http://video.mainichi.co.jp/viewvideo.jspx?Movie=48227968/48227968peevee438140.flv?inb=yt

 ヘリは3月11日の地震発生直後、内陸の花巻空港から出動し、発生から約30分後の午後3時20分ごろから約30分間撮影された。津波が大船渡湾の湾口防波堤を乗り越えて、押し寄せ、湾内で渦巻いている様子が映し出されている。また、陸前高田市の市街地が水没し、高田松原も完全に姿が見えない。その後、市街地を襲った津波が海に向かって帯状に激しく引いていく様子も分かる。【安藤いく子】



映像は、まだ全部は観ていない。(30分くらいある)
映像の出だしから私の生まれ育った町から始まっていて、全部観るまで気持ちが持たなかった。

でも、近いうち、ちゃんと全部観たい。
2011年10月11日(火) 19時25分01秒

7ヶ月。天を恨まず

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震災から、7ヶ月が過ぎました。

ここ最近は、つとめて「普通の生活」「震災前の生活」を
取り戻すようにしています。
被災地からの声は、聞こえにくくなりました。
被災地でもまた、みんな「普通の生活」に戻るべく、
日々を過ごしているのでしょうから。

だけど、忘れたわけじゃない。
故郷を思わぬ日など、一日だってない。
いつだって、今、自分にできることとは何か、
そしてこれから自分がすべきことは何か、探している。
きっと誰もが口にしなくなっても、故郷を遠く離れている人は、
みんないつもそう思ってる。
今でも、故郷の風景写真に涙が溢れる。
富来旗をはためかせ船出する港の映像に、胸が熱くなる。

そして、「復興者」となったふるさとの人々が、
強く明日に向かって笑って生きていることを、
静かな仮設住宅の中で、布団にくるまって涙する夜もあることを、
私たちはけして忘れない。
こころはいつも、東北のあの小さな町とともにあるよ。



半年がすぎ、今、あらためて目にした気仙沼の階上中学校の卒業式の映像。
卒業生代表の梶原祐太くんの答辞が胸に深く深く染み込んでゆく。

「防災教育といえば階上中といわれるくらい、
 防災には力を入れてきました。
 
 それでも自然の力は大きく、災害の前にわたしたちは無力で、
 大切なものが容赦なく奪われていきました。
 悔しくて、辛くて、たまりません。

 それでも、私たちは天を恨まず、
 助け合って生きていこうと思います。

 それが私たちの使命だからです。」

http://youtu.be/OoDgQ3DQTH4



なんて、なんて高潔な言葉。

「天を恨まず」

溢れてどうしようもない涙を拭いながら、
一言一言を絞り出しながら、
たった15歳の少年が、すべての哀しみとまっすぐに向き合っている。

そのまなざしを守るために、私たちにできること。
それはこの少年の尊い希望が、けして穢れてしまわぬように
絶望して、静かに諦めてしまわぬように
そんな世の中を、今、示してあげなければいけない。
それが私たちおとなの使命でしょう?



半年がすぎ、自分のできることがなくなってくる焦燥に、
苛立ちは募り、
私はいつも、何かに怒っていた。

心ない言葉に。
なまぬるい決意に。
次第に薄れてゆく関心に。


だけど、東北の人々はいつだって優しかった。
あの日からずっと。
あの日よりももっと前から、ずっとずっと。

国内の不実な「復興応援」の態度にも、
国外の非人道的な野次にも、
「私たちは、そんなことの相手をしているほど暇ではないし、
 そんなことで絶対に負けたりしない。

 国内だろうが国外だろうが、一部の心ない人はいるものだし、
 だけどそれ以上に、たくさんのあたたかさに助けてもらったこと、
 たくさんの応援の気持ちがあることをちゃんと分かっているから」

今なお瓦礫の中で、まだ海の底で見つかっていない大切な人がいる中で、
被災地の人がそう言うんだよ。
もうね、恥ずかしいよね。
私は被災地にもいないくせに、遠くで射切りたって何やってんだ、と。


男は強くなければ生きていけない。
優しくなければ生きていく資格がない。

まぁ私いちおう女ですが。
本当に、そう思うわけです。



この連休に、上京してからの学生時代からの友人の結婚式があったんです。
彼女は「ゆきがこんな時に結婚式の話とか言い出せなかった」と言っていて、
実際、華やかな結婚式って気分にはどうしてもなれなくて
正直気乗りがしなかったんだけど、やっぱり行って良かった。
大切な友達の幸せそうなきれいな花嫁姿を見て、
素直に感動して泣ける自分に安心して、
「幸せになってね」って心から思えた。
大切な人には、幸せでいて欲しいよね。すごく、シンプルなことだ。
震災直後に助けてくれた東京の同級生のみんなにも会えた。
なんだかすごく、意味のある一日でした。

そして実は旦那さまが業界の方で(彼女も業界だったけど)
あのKANさんが列席。
披露宴でピアノの弾き語りで「愛は勝つ」を歌ってくれた。

新郎新婦のための唄だけど、そこはお得意の勝手に脳内変換。
地元の仲が良かった友達がKANの大ファンで、当時何度もCDを聴かされた。
そんな想い出も相まって大号泣。


震災から7ヶ月、私はもう一度、
必ず最後に愛は勝つって信じようと思う。

あの15歳の少年に、「心配ないからね」って言ってあげられるくらい
強くて優しい信念のもとに。





心配ないからね 君の想いが
誰かにとどく明日がきっとある
どんなに困難でくじけそうでも
信じることを決してやめないで

Carry on carry out
傷つけ傷ついて 愛する切なさにすこしつかれても
もう一度夢見よう
愛されるよろこびを知っているのなら

夜空に流星をみつけるたびに
願いをたくし ぼくらはやってきた
どんなに困難でくじけそうでも
信じることさ 必ず最後に愛は勝つ

Carry on carry out
求めてうばわれて 与えてうらぎられ 愛は育つもの
遠ければ遠いほど
勝ちとるよろこびは きっと大きいだろう

心配ないからね 君の勇気が
誰かにとどく明日がきっとある
どんなに困難でくじけそうでも
信じることさ
必ず最後に愛は勝つ

2011年09月19日(月) 16時28分26秒

怒り

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「震災復興」をうたいながら「やっぱ放射物質こわいからやーめた」というニュースがあるたび、
はらわたが煮えくり返る。

mixiに書いていた日記を一部転載する。


○被災地の松、「送り火」使用断念…専門家は批判
私の故郷である陸前高田市の松を、京都の大文字にて送り火に使用する計画が、
直前になって放射物質への懸念により中止

8月8日の日記

陸前高田の人たちが侮辱されたようで本当に腹立たしい。
私の高田の知り合いも、何人か亡くなったよ。
その慰霊をこんなふうに振り回されて…
ご遺族や今も高田でがんばっている人が、
落胆してこの薪を手にしていると思うと、本当に涙が出てくる。

京都側も、なんとなくフワッとした東北応援ムードだけで
「被災者慰霊とかしてあげへ~ん?」「あ~それマジええやんか~」
みたいに決めたんじゃねーか。中学校の文化祭か!
部活だったら、放課後に一部が「それええや~ん」とかって盛り上がって
いざミーティングで出したら一部に反対されてテンション下がりましたって話も
まぁ分かるけど、
大文字なんて歴史あるイベントでオッサンらが雁首そろえてなにやってんだか。
やると決めたからには毅然としろや。放射能の検査したんでしょ?潔癖なんでしょ?
被災地はお前らの偽善を満足させるためにあるんじゃねーんだよ。
やりとげれば偽善でもなんでもいいとは思うけどさ。



○■放射能心配…市民の抗議で福島産花火の使用自粛
東日本大震災の被災地の復興を応援しようと、
愛知県日進市で18日夜に行われた「にっしん夢まつり・夢花火」大会で、
市などでつくる大会の実行委員会が、
福島県川俣町の業者が生産した花火の使用を市民からの抗議で急きょ取りやめていたことがわかった。

9月19日の日記

何度同じ事繰り返すんだか…
いいかげん、どいつもこいつも中途半端に「震災支援」とか言うのやめろやカス。

しない善よりする偽善派だけど、それはあくまで「行動を起こして結果を出すなら」って話。
結局しないという結果になる「言っただけ偽善」「自分が気持ち良くなっただけ偽善」は本当に反吐がでるわ!
「復興支援」はファッションの流行とはわけが違うんだよ!


高田松原の松の時もそうだった。
福島の花火職人さんたち、
傷つけられるのはそういう偽善者どもの善意を信じて乗せられた人たちだ。

自分たちのふるさとが「死の町」「汚れた町」として扱われる事が、
どれほどこころ引き裂くか。
たとえそれが現実であったとしても、ただでさえ苦しみの中にいる人たちに、
さらにアゲて落とすような真似すんじゃねえよ。

「偽善じゃなかったんです~」「ほんとにやろうと思ってたんです~」
やり遂げる強い意志と共に闘う信念もないやつが、中途半端にいい人ぶんなボケ。
それくらい、震災後の原発汚染問題は深刻なんだよ。
偽善者じゃないなら、被災者の痛みをなめてたって話だろ。

人でなしどもが。


中止を肯定する意見の人は、
◎「なんとなく不安に思うのは仕方ない」
→なんとなくって理由が世の中でまかりとおると思ってる、救いようのないバカ。
キメ台詞は「専門家じゃないので細かいことは分からない」「どう感じるかは個人の自由」。
この発言に何の羞恥も感じない、もはやただの歩くバカ。
「なんとなく不安」に思うのはもちろん個人の自由だが、ただ思っていることと
それを発言することの決定的な大きな差を理解していない。
社会としては、「なんとなく」を明確にし不安を払底するべきだし、
これこそまさに「風評被害」を作り出す根源である思想。
っていうか、こういう意見の人はとりあえず「風評被害」そのものが
改善しなきゃいけない問題だと思っていない。

◎「心苦しいが、少しでも疑わしきは排除。自分の身は自分で守らないと」
→ならとっとと日本から出てけば?今日本は食品偽装、放射能データの隠蔽、
疑わしきことばっかりよ?
それは受け入れて、今回は受け入れられない違いはなに?

◎「放射能から子供を守らないと」
→だからと言って「検査結果は放射能なし」と言っているものを疑い、
自分たちから言い出した企画を保護にして平気で被災地を侮辱し、
風評被害を肯定し増長させるような中で、子供の情操教育はどうなるんだ。
体の健康さえ守られれば、心や思想の健全さは二の次なのか。
私は図体ばかり立派で福島の子らに石を投げるような思いやりのない子よりも、
たとえ体が弱かったとしても、心根の優しい、人の痛みが分かる子の方が良いと思ってしまうが。
もちろん、元気で健康で明るく優しい子になってくれるのが一番だけどねw

◎「検査結果そのものが信用できない」
→これは私も分かる。今まで「大丈夫」って言ったじゃんか!ってことが多かったものね。
でもそれを言ってたら、「さぁ、日本から出ておゆき」としか言いようがない。



総合的に、今回の中止の判断を肯定する意見っていうのは、
すべての風評被害に通ずる概念なんだよね。
「可哀想だけど、風評被害もしょうがないじゃん。
風評被害可哀想だから食べる、受け入れる、っていうのは違うと思う」
「子供は大人が守ってあげないと」っていう。
一見筋が通ってるように見えるかもしれないけど、
それがまかり通ったらどんな世の中になってしまうと思っているのか。
それが日本全体の問題で、結果的にその中の一部である自分の生活にも
影響があることがなぜ分からないのか。
「風評や漠然とした不安にまどわされず、正しい判断をする」
「その上で、同じ日本人どうし、支え合い助け合う」ための努力をなぜしようとしないのか。
まぁ考えたり調べる努力が面倒だから排除ってことなんだろうけど。
で、その考えたり調べたりしてる機関は信用できん、ということか…。
2011年09月11日(日) 22時59分09秒

半年

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半年…早いものですね。
あの悪夢の日から、もう半年…いや、たったまだ半年。

東京での私の仕事はすっかり通常通りに戻り、
それどころか月1本のレギュラーを抱えてしまい、
地元に帰る時間もままならなくなってしまいました。

家を失った知人らは、みな仮設住宅などに入り、
町内の避難所として使っていた場所は、すべて解散になりました。
友達の店も、新しく店舗を作り直し、再開したそうです。
忙しさの合間に時折聞こえてくる声は、とても前向きに頑張っています。

地元のスーパーなどはなかなか安売りが出来なく、
生活は苦しいのに物価は高めという状態が続いています。
海沿いの街は壊滅して、もう新しい街は作れない(地盤沈下で浸水地域になり危険なので)ため、買い物はとても不便になりました。
これまで中間地点で仮設店舗を出してくれていたイオンも、先月で撤退。
全国チェーンはさすがに物価を安く提供してくれていたので大助かりでしたが、
その店舗がなくなってしまったので、
住民達はとてもガッカリしています。


何度も言っていますが、「生活補助的な援助」は必要なのだと思います。
買い物は、やろうと思えばなんでも出来る。
できるだけ、自分が欲しいものを欲しい時に買う方が良い。
仮設住宅は狭いので、ものを増やせないため、必要最低限。
衣料品などは、もう私が出来ることはないですね。
民間の企業にまかせるべきだと思います。
(以前紹介したドンドンダウンさんとかがやってくれてますので、
もっと行政はそういうところとの協力体制に力を入れるべきなんですけどね…)
私に出来ることは、洗剤や調味料などの日用消耗品の支援くらい。
買える金額だけど、100円でも200円でも、ちょっとでも家計が浮いたら嬉しい。
その程度しかできませんが…




町内には、津波で壊滅したエリアと高台で家が残ったのが
半々くらいの地区もありました。
家に残った人と、仮設に入った人。
家が流された人は、同じ場所に家を建てることは、もう出来ません。
仮設に入った人と残った人は、地区活動を分断することになったそうです。
そりゃそうかもしれません…家がある人たちは、またこれまでの生活を取り戻して行かなければいけない。
仮設に入った人たちは、もう「その地区の人」ではなくなってしまったそうです。

どうしよもないけれど、悲しいですね。




東海新報では、毎日、震災前の町の写真が掲載されているそうです。
これまでの取材で残っていた多くの写真。
震災がおこる前の、なんてことのない町の風景。
失う前は、何とも思わなかったような「ただの」風景写真。
それらが、毎日、毎日、掲載されてるのだそうです。
「やっぱり涙が出るんだっけ~」と母は言います。

半年たっても、みんな元気で笑顔で頑張ってても、
見えないところで、ふとしたところで、夜、布団の中で、
泣いてるんだろうな、って思います。
でも泣いたところでどうにもならないから、
また涙をぬぐって頑張るしかない、って。

私の同級生も、未だに見つからず、DNA鑑定をしても確定できず、
まだお悔やみすら出せていません。

もう町として機能できない場所なので、瓦礫も片付きません。
中心部の、瓦礫が片付いた場所も…写真で見る限り、
まっさらな更地になってしまって延々と何も無い場所が広がっているだけで、
その何もない感じがまた寂しいです。


半年たって、表面上に見えていた混乱は、影をひそめました。
だけどその分、精神的肉体的な疲れや、仮設住宅の中で孤立していく老人など、
見えにくい不安が静かにとぐろを巻いています。


まだ、終わってはいないのです。
被災地にいない被災地出身者が、できることってなんだろう。
2011年07月11日(月) 23時01分59秒

4ヶ月

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あれから四ヶ月が過ぎた。

震災直後に帰省した時、夕暮れの中に、一本だけ生き残った松の木が美しかった。
やがて塩害で静かに枯れてゆくのであろう運命が、悲しかった。


だけど私のそんな予想に反して、多くの人がこのシンボルを守り抜こうとした。
そしてそれは私をひどく感動させ、また、私は私の気持ちの弱さを恥じた。


しかしもうひとつの予感を、私は松の木に見た。
せっかく生き残っても、きっとやがて朽ちるであろうさだめ。
おそらく今後は、自殺者も多いのであろうと。

だがしばらくは、それも杞憂に思われた。
故郷の人々は、私が思っているよりもずっと強かった。
たぶんここまでは、生きることに必死だった。


実はなかなか文章に書くことが出来なかったのだけど、
5月に帰省した時、町内のとあるお店の店主が自殺されたという話しを聞いていた。
3月の帰省の時はまだ電気が通っていなくて、夜友達の家に会いに行ったら大きなろうそくが使われていた。
「こんな立派なろうそく、良く手に入ったね」と驚いたら、
「あそこの店のところに、みなさんご自由に使ってくださいっていっぱい出てたよ」と教えられた。
「そうだね、こんな時だもんね」とその店の店主に感謝した。

私たちの真っ暗な生活に明かりを灯してくれたその人は、
その後、自らの灯火を消したのだ。



5月の帰省の時、少しずつ仮設住宅に引っ越す家族が増え始め、
私の家の近くの、もう20年近く使われていなかった県営住宅にも、
数世帯が入居した。
その中に同級生の家族も居たので、みなさんから寄付していただいた義援金や差し入れを持って訪ねに行った。
表札などもまだ出ていないので、どの部屋か分からずウロウロしていたら、
一人のおばあちゃんが出て来た。
私は声をかけて同級生の家を探していると話したら、おそらくお隣の家族だろうとのことだった。
生憎留守だったので、私はしばらくおばあちゃんと話しをして、
友達の家族に渡すはずだったお菓子や石けんなどの差し入れを半分、
そのおばあちゃんにあげた。
私は、「とりあえず、家族だけで住む所が決まっただけでも、まず良かったねぇ。また支援物資もってくるからね」と言った。
おばあちゃんは恐縮していたけど、喜んでくれていた。

先週、県営に住んでいるおばあちゃんが亡くなったという情報を聞いた。
まさかと思った。

あの時のおばあちゃんだった。


6月末のある日の夕方、町内放送が流れたのだそうだ。
「町内の◎才のxxさんが、行方不明になっております。みなさん探してください」というアナウンスを聞いて、母は「暗くなる前に見つかればいいな」と思っていたそうだ。

おばあちゃんは、せっかく助かったその身を、海に投げた。



私はあの時、おばあちゃんの手を取ってこう言った。
「家族で落ち着いて住めるところが決まって良かったね」
「また支援物資持ってくるからね」

おばあちゃんは、「どうもありがとうね」と言ってくれた。


ありがとう、って。



おばあちゃん、辛かったね。
大変だったね。


わたしは、無力だよ。



これが、4ヶ月経った今の現実。これが津波の爪痕。
復興に向けて、確かに色んなことが動き始めてる。前に進んでる。
だけど、目をそらしちゃいけない。






お墓にひなん 南相馬93歳自殺
ニュースの文章を以下、保存用にコピーします。

「私はお墓にひなんします ごめんなさい」。福島県南相馬市の緊急時避難準備区域に住む93歳の女性が6月下旬、こう書き残し、自宅で自ら命を絶った。東京電力福島第1原発事故のために一時は家族や故郷と離れて暮らすことになり、原発事故の収束を悲観したすえのことだった。遺書には「老人は(避難の)あしでまといになる」ともあった。

 女性は同市原町区の静かな水田地帯で代々続く田畑を守り、震災時は長男(72)と妻(71)、孫2人の5人で暮らしていた。長男によると、以前から足が弱って手押し車を押していたが、家事は何でもこなし、日記もつけていた。

 第1原発の2度の爆発後、近隣住民は次々と避難を始めた。一家も3月17日、原発から約22キロの自宅を離れ、相馬市の次女の嫁ぎ先へ身を寄せた。翌日、さらに遠くへ逃げるよう南相馬市が大型バスを用意し、長男夫婦と孫は群馬県片品村の民宿へ。長距離の移動や避難生活を考え、長男は「ばあちゃんは無理だ」と思った。女性だけが次女の嫁ぎ先に残ることになった。

 4月後半、女性は体調を崩して2週間入院。退院後も「家に帰りたい」と繰り返し、5月3日、南相馬の自宅に戻った。群馬に避難している長男にたびたび電話しては「早く帰ってこお(来い)」と寂しさを訴えていたという。

 長男たちが自宅に戻ったのは6月6日。到着は深夜だったが、起きていて玄関先でうれしそうに出迎えた。だが緊急時避難準備区域は、原発事故が再び深刻化すればすぐ逃げなければならない。長男夫婦が「また避難するかもしれない。今度は一緒に行こう」と言うと、女性は言葉少なだった。「今振り返れば、思い詰めていたのかもしれない」と長男は話す。

 住み慣れた家で、一家そろっての生活に戻った約2週間後の22日。女性が庭で首をつっているのを妻が見つけ、長男が助け起こしたが手遅れだった。

 自宅から4通の遺書が見つかった。家族、先祖、近所の親しい人に宛て、市販の便箋にボールペンで書かれていた。家族には「毎日原発のことばかりでいきたここちしません」。先立った両親には「こんなことをして子供達や孫達、しんるいのはじさらしとおもいますが いまの世の中でわ(は)しかたない」とわびていた。

 奥の間に置かれた女性の遺影は穏やかに笑っている。近所の人たちが毎日のように訪ねてきて手を合わせる。「長寿をお祝いされるようなおばあちゃんが、なぜこんな目に遭わなければならないのですか……」。遺書の宛名に名前のあった知人が声を詰まらせた。葬儀で読経した曹洞宗岩屋(がんおく)寺前住職、星見全英さん(74)は「避難先で朝目覚め、天井が違うだけで落ち込む人もいる。高齢者にとって避難がどれほどつらいか」と心中を察する。

 取材の最後、長男夫婦が記者に言った。「おばあちゃんが自ら命を絶った意味を、しっかりと伝えてください」【神保圭作、井上英介】

 ◇女性が家族に宛てた遺書の全文

(原文のまま。人名は伏せています)

 このたび3月11日のじしんとつなみでたいへんなのに 原発事故でちかくの人達がひなんめいれいで 3月18日家のかぞくも群馬の方につれてゆかれました 私は相馬市の娘○○(名前)いるので3月17日にひなんさせられました たいちょうくずし入院させられてけんこうになり2ケ月位せわになり 5月3日家に帰った ひとりで一ケ月位いた 毎日テレビで原発のニュースみてるといつよくなるかわからないやうだ またひなんするやうになったら老人はあしでまといになるから 家の家ぞくは6月6日に帰ってきましたので私も安心しました 毎日原発のことばかりでいきたここちしません こうするよりしかたありません さようなら 私はお墓にひなんします ごめんなさい

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