以前、とある歴史の論文集を読んでいて知ったのですが、関東に移った徳川家康の本拠となる城を築城する最有力候補が浦和、そして江戸でした。

 

NHKの番組「英雄たちの選択」で、以前「なぜ家康は江戸を選んだのか?」というテーマが取り上げられていました。しかし、その番組では、秀吉の命令で小田原の選択肢はないのに家康が小田原を候補地としていたかのように放送し、家康が最有力候補としていた浦和を無視していました。先日その動画を再度見る機会があり、気になったので記事を書きます。

 

岡崎の小領主から「東海一の弓取り」と言われるようになった徳川家康。豊臣秀吉が1590年に小田原を本拠とする戦国大名・北条氏を攻め滅ぼすと北条氏の遺領を与え、代わりに家康が所有していた三河、遠江、駿河、信濃、甲斐の五か国を没収します。

 

北条氏の遺領の方が石高が高く、一見気前のいい恩賞に見えますが、当時の江戸は粗末な家が100戸ほどしかない、大きな池や沼が広がる湿地帯でした。北条氏の本拠・小田原城は、豊臣秀吉の命令で徳川家臣の大久保忠世に与えられ、本拠とすることができません。

 

一から本拠の城を作ることを迫られた家康ですが、古都・鎌倉は狭くて天下を狙う野心を疑われる可能性があります。そこで有力候補となったのが浦和で、浦和が本拠として相応しいか代官に調べさせ、家康自身も浦和を訪れて見分したことが古文書に残っています。

 

何故、家康が浦和に注目したのかというと、浦和は交通の要衝に近く大宮台地という台地が舌状に伸びていて、東と西に大きな川があり、大規模な城を築くのに適していたからだと思われます。しかし、海に面していないために港がないこと、秀吉からも江戸を勧められていたこともあって、本拠の城は江戸に決まります。

 

代わりに浦和には鷹狩用の御殿が築かれ、家康は周辺で鷹狩を楽しんだようです。しかし、鷹狩用の御殿は、鷹狩をしなくなったという理由で江戸時代初期に取り壊されてしまい、その後は林となり、現在は浦和地方裁判所と常盤公園という公園になっています。

 

もし、家康が「江戸は湿地が多すぎるから、浦和にしよう。」と判断したら、江戸時代は浦和時代、江戸文化は浦和文化になっていたかもしれません。NHKの番組の視聴率的にはちょっとな話ですが。。。

 

 

参考

村上 直(法政大名誉教授)

「徳川氏の関東入国に関する一考察」 法政史学 第四十七号 1~19