日曜は二つの映画館掛け持ちで映画を見てきました。

 

映画「否定と肯定」 英・米合作

1996年に実際に起こされた名誉棄損訴訟の顛末を映画化したものです。

アメリカ人歴史家デボラ・リップシュタット著「ホロコーストの否定」(1994年)で、ホロコースト否認論者の一人とされた歴史学者ディヴィッド・アーヴィングは、イギリスで著者と出版社ペンギンブックスを相手取り、1996年名誉棄損の訴訟を起こします。

イギリスの訴訟法では、被告側に名誉棄損の根拠となった事実が実際にあったかどうか(名誉棄損をしていないことを)立証する義務があります。リップシュタットが実際にホロコーストがあったと証明できなければ、名誉棄損で有罪になるわけです。リップシュタットはイギリスの事務弁護士ジュリアスに弁護を依頼します。

ジュリアスは法廷弁護士や近代史・ホロコースト史・建築史・政治学の学者たちとチームを組み、毒ガス室存在の証拠・アーヴィングの(ネオナチとの関係を含む)政治的&差別主義的立場の証明・アーヴィングが歴史的記録を意図的に歪曲していることの証明・「最終的解決」というナチスの用語の解釈などについて検証し、アーヴィングが歴史家としては失格であることを訴訟の段階で明らかにしていきます。2002年アーヴィングは敗訴して控訴するも却下され、(以下は映画では描かれていない)200万ポンドの支払いを命じられ破産、2006年にはオーストリアでホロコースト否定禁止法に違反した廉で逮捕されています。

リップシュタットはアメリカ風の考え方で、アーヴィングと直接対決したがったり、強制収容所生き残りの人々に証言させようとしたり・・・・・・はじめのうちはなにかとイギリス流の訴訟方法に馴染めずに弁護士たちと対立しますが、冷静に作戦を立てて一つ一つ解決してゆく弁護チームが実績を上げるにしたがって、信頼関係が生まれます。この裁判の被告側が勝訴した理由の一つに陪審員ではなく、判事一人に判決を委ねたことがあげられます。証拠集めをはじめ、このような地道な法廷作戦が映画としての見どころです。

 

札幌駅にあるシネマコンプレックスまで大急ぎで移動して見たのが

映画「嘘八百」 日本

中井貴一、森川葵、佐々木蔵之介、友近、寺田農、近藤正臣、芦屋小雁、桂雀々、坂田利夫塚地武雄など巧くて癖のある俳優陣を使い、詐欺のあれこれを面白おかしく描いています。

なお、映画紹介にある「幻の利休の茶器」と云う言葉は間違い。茶器とは抹茶を入れる器のことで、映画で扱われているのは茶碗です。

うだつの上がらない古道具屋=中井、その娘=森川、才能があるのに売れない陶芸家=佐々木、その妻=友近、某鑑定家を彷彿とさせる(爆)古美術鑑定家=近藤正臣、鑑定家への復讐のための詐欺の舞台となる家の主=寺田農・・・・・・皆さん芸達者で楽しめます。

殊に、ワタクシのように茶道を多少ともかじり、道具についてもほんのちょっぴり知識がある者にとって、詐欺の過程・方法はなかなか面白かったですよにひひ

映画の中で見せてくれた、新しいものを古く見せるやり方は良く知られています。

でも(茶碗はあまり良いものに見えなかったので)劇中の人物たちが箱などに惑わされて騙されるのは・・・・・・日頃茶道具を見ている人物としてどうなのかなぁ。

古道具にベラボーなお金を払って偽物を掴まされるのは嫌なので、私は自分の好きな作家の窯元で直接求めます。同時期に窯出しされても焼き上がりは夫々、カタログなどでは確かめにくい手触り、口当たり、色合いなど、やはり<百聞は一見に如かず>ですから。

 

 

茶道具が出たところで、初釜のお話。私は三客で、とっても楽なポジションでした。

亭主を務めた方の都合で、いつもより早めに始まりました。

今回は、あいさつの後、前茶形式でまず薄茶をいただきました。次は料理。

初釜では、懐石形式ではなく、料理を盛り合わせて一度に出し、亭主、半東も一緒にいただくことにしています。

主菓子をいただいたら、席をあらためて濃茶です。主菓子は薯蕷でした。焼き印が<あれれ、これは何?顔?>と不思議な模様です。ひょっとして犬じゃない?・・・というわけで、一件落着。お菓銘を訊ねたら、どんぴしゃり、何の工夫も無い”戌”でした爆  笑

茶碗は決まりものの嶋台。茶碗の内側に塗られた金箔・銀箔がだいぶ剥げてきて、使われた年月を感じます。”不二”と名付けられた茶杓は、節より上が白、下が黒っぽくて、冠雪した富士山に因むのでしょう。若い方は、不二から富士山は(漢字が違うので)連想しにくいらしく、竹取物語を例に不死、不尽などほかにもいろいろな当て字があることを説明しました。

竹取物語は短くて読みやすいのに、古文で全文習わないのかしら。

かぐやちゃんの異常な成長ぶりや五人の貴公子への無理難題と失敗の可笑しさ、羽衣を着たとたんに地上のことを忘れてしまうシステム、貴種流離譚の変形は、様々なエピソードを取り入れていて、飽きさせません。こんなに面白いのに、読まないのはちょっと勿体ないですね。

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"不実な美女”たち

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本日のお題は光文社古典新訳文庫のHPに連載されたコラム《”不実な美女”たち~女性翻訳家の人生をたずねて~》からお借りしたものです。

”不実な美女”とはー原文と訳文の距離をめぐる翻訳論争において長く使われてきたー喩えです。(ー・・・・-:コラムの前文より抜粋)

 

第1回は「闇の左手」や「アルジャーノンに花束を」、アシモフをはじめ様々なSFや推理小説を翻訳した小尾芙佐さん(1932年生まれ)。

小尾さんは翻訳について

 「翻訳という仕事は、異なる文化のしみついた言葉を、別の異なる文化のしみついた言葉に  

 おきかえていくこと」であり、また使う言葉については「若いひとが知らないから使わないとい

 うのもおかしい。若者が学べばよいのだ」「使わなくなれば、言葉が貧しくなってしまう」

とその姿勢について述べておられます。小尾さんの言葉から、いかに美しくかつ豊かな日本語におきかえるか腐心してこられた翻訳家の姿が浮かんできます。

第2回は中村妙子さん(1923年生まれ)。

(サーシャさんが取り上げたアガサ・クリスティ「春にして君を離れ」の翻訳をしています)

私にとって中村さんは、モーリス・センダック「ロージーちゃんのひみつ」などの絵本から中高生向けの大長編ジーン・M・アウル「大地の子エイラ」(”始原への旅だち”シリーズ*)など、児童書の翻訳家として大きな存在です。リブログしたのはそうした児童書の1冊、中村さん訳のシーラ・バンフォード「ベル・リア」を取り上げた回です。

第3回は数々の推理小説を訳した深町真理子さん(1931年生まれ)。

私が一時嵌っていたルース・レンデル**をはじめ、たくさんの推理小説を翻訳しました。

第4回は松岡享子さん(1935年生まれ)。

マイケル・ボンド「くまのパディントン」シリーズ(福音館)***の愉快な訳が忘れられません。石井桃子さんと一緒に東京子ども図書館を立ち上げ、お話会用のテキストを作るなどの功績を残しました。

 

*「大地の子エイラ」は、大地震で両親を失ったクロマニヨン人の少女エイラが、住処を失ったネアンデルタール人の集団に出会い、(異質な外見と、新しい洞穴を見つけたことにより)ある種の霊的能力を認められて受け入れられ、ネアンデルタール文化の中で成長する・・・・というお話です。訳者の中村さんは原作にある露わな性的表現を避け、結果として評論社版のこのシリーズは抄訳になりましたが、全4部各上・中・下に分かれ、12冊に及ぶ大長編となりました。執筆当時の考古学的、人類進化上の知見が取り入れられ、フィクションとしては良く出来ていると思いますが、色白・金髪で高身長のクロマニヨンと毛深く低身長のネアンデルタールという描写は、ヨーロッパ系=進化した新人、類人猿に近い風貌=劣った旧人という欧米人が抱きがちなステレオタイプな表現であるという批判があります。

こんなに長いものになるとは知らず、面白さに惹かれて買い始めた私はちょっと後悔したものです。 なお、集英社から新訳の完全版が出ています。

**ルース・レンデルは小尾芙佐さんと深町真理子さんが分担して訳しています。

***「くまのパディントン」絵本版は中村妙子さんが訳し偕成社から出ていますが、画家もオリジナルのペギー・フォートナムではありません。

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また本の話

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本「浮世の画家」 カズオ・イシグロ 飛田茂雄訳 ハヤカワ文庫

 

夫が去年のうちに買ったうちの1冊です。

著者は小津安二郎や成瀬巳喜男の映画がお好きだそうですが、この小説からは、まさしく小津の世界が彷彿と浮かんできます。

主な登場人物は、戦前はかなり高名だった画家である語り手の私と、結婚して息子もいる長女、これから結婚するらしい次女。

物語は1948年10月、1949年4月、1949年11月、1950年6月という章立てになっています。

しかし、時間は私(小野)のふとした回想に従って、戦時中や最近まで脈絡なく移ります。

私は自分は変わらず誠実に生きているつもりですが、戦後の価値観の転換についていけなくなっていることを周りの人間の言葉の端々から感じざるを得ない日常。

物語が進むにつれて、終戦を境に周囲の目が変わった原因が少しづつ明らかにされるのですが・・・・・。

次女の縁談がすすまないこと、長女とその夫からの視線、かつてはおべっかをつかってすり寄ってきた弟子や知り合いなどと、時代に合わせて器用に生きることができない私との齟齬の描き方が、小津が描いて見せた世界と重なります。

普遍性があるとは云えない、限られた時代背景の日本を描くこの作品が<イギリスで>評価された(ブッカー賞は逃した)ことに驚きます。

イシグロの小説はどれを読んでも静謐な印象を受けます。

原書と翻訳を併読中の夫は(英語としてなら全体を掴むことはできるけれど)原書の雰囲気を壊さずに日本語に移し替えるたいへんさを思い、「わたしを離さないで」や「忘れられた巨人」の土屋政雄訳に感心しています。

翻訳の飛田さんは、後書きで、文体をどうするか悩んだが翻訳書を読まれたイシグロのご両親が”第1級の翻訳”という太鼓判を押してくださった、と書いています。

”日本人から見て不自然なところは指摘して欲しい”というイシグロとの綿密なやり取りがあって生まれた翻訳は、先に日本語で書かれたのではないかと思えるほど自然な感じがします。

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五行、十干、十二支、五色、五季は、昔の暦&時間や方位の要素です。

 

ことしは戊戌(つちのえ・いぬ=ぼじゅつ)

戌は方向としては西北西、時刻なら宵・初更・甲夜といい午後7~8時台の2時間を指します。

五行では真ん中の土、色は黄色で、数字は五です。

(陰陽道の九星のうち五黄は土星のことで、位置ー本位ーは中央。最強の運勢”五黄の寅”ってここからきているんですよ)

十干に十二支をあてはめていくので、同じ組み合わせになるのに60年かかる(還暦)という訳です。

西暦と合わせて十干十二支表を作っておくと、古典を読んだり、日本や中国の歴史を調べるうえで何かと便利です。

たとえば

天智天皇の時代につくられた(課税のための)全国的戸籍、庚午年籍は西暦670年

(かのえ・うま)

天智天皇の長子大友皇子対大海人皇子の戦い、壬申の乱は西暦672年

(みずのえ・さる)

次代はぐっと下って明治新政府対旧幕府との戦いである戊辰戦争は西暦1868年

(つちのえ・たつ)

中国では、今年と同じ年廻りにあたる120年前に戊戌の政変という出来事がありました。

西太后が、甥を帝位につけ(光緒帝)摂政として実質的支配を図ったところ、光緒帝が立憲君主主義という急激な政治改革に乗り出したため、袁世凱などと組んで起こしたクーデタです。

その後の清朝の弱体化・西欧支配に対抗して起きたのが辛亥革命(かのと・い=1911年)ですね、この時も袁世凱はうまく立ち回って大総統になりました。

 

”え”は兄、”と”は弟。

五行の 木・火・土・金・水 夫々に”え”&”と”を当てはめて十干になります。

 

タイトルにした三つの漢字、とても良く似ていますね。

どれも矛を意味する古字”戊”と関りがあります。

戊は、ほこ=武器を指し、茂るという意味もあります。

戍は、人+ほこで、辺境を武器を持って守る人。国境警備兵といったところでしょうか。

戌は、ほこを一文字に断つ、滅ぼす、断ち切るなどの意味があります。

いい加減に書くと、意味が変わりますから、注意しなければなりませんね。

・・・・・・・・・・・・というわけで、私はおっちょこちょいに気を付ける年にします。

 

皆さまにとって良い年になりますように。

訃報

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まことに残念なことですが

 

札響 打楽器奏者の藤原靖久さんが

急性リンパ性白血病のため12月29日逝去されました。

享年56歳。

まだまだ活躍していただきたかったですね。

謹んでご冥福をお祈りいたします。

R.I.P

 

 

札響のホームページに掲載されましたので、謹んでお知らせいたします。

お暇ならどうぞ

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本「まるでダメ男じゃん!」 豊崎由美 筑摩書房

 

表紙にちっちゃく”「トホホ男子」で読む、百年ちょっとの名作23選”とあります。

28日「プラハのモーツアルト」を見に行った後、本屋によって血迷って買いましたにひひ

豊崎女史の歯に衣着せぬ書評は大好きで、ワタクシの高校の先輩、渡辺淳一をジュンちゃんと呼び宮本輝を輝ちゃんと呼ぶあたり、小気味よく感じております(ククク・・・・・・( ´艸`))

著者が感想文集と云うこの本、取り上げたのは

「ボヴァリー夫人」 「カマーゾフの兄弟」 「舞姫」 「にんじん」 「トニオ・クレーゲル」

「坊ちゃん」 「毒薬を飲む女」 「新生」 「黒髪」「狂乱」「霜凍る宵」 「グレート・ギャッツビー」

「猫と庄造と二人の女」 「フェルディドゥルケ」 「ガラスの動物園」 「抹香町」 「子犬たち」

「空気頭」 「暗室」 「火宅の人」 「岬」 「シャイニング」 「存在の耐えられない軽さ」

「アメリカン・サイコ」 「どうで死ぬ身の一踊り」以上23人と、あとがきにかえて―「屋根裏の法学士」のあわせて24人が俎上にあげられています。

ま、まな板の上で切り刻まれてもしょーもないヤツばかりです。

 

のっけから空気読めない鈍感な俗物シャルル・ボヴァリーが登場。はい、ワタクシもこれを読んだ当時(高校生)、この夫にイライラして、エンマにいたく同情したものです。豊崎女史もシャルルのダメ振りを味わいつくすことこそキモであると云っています←だよねー。

続く「カラマーゾフの兄弟」、やはり高校生のころ”いちおう”読みました。ぜんぜんわからなかった”大審問官”のあたりはすっ飛ばして、父親殺しの犯人捜しの推理小説として読みましたよ。ワタクシ的には、私生児スメルジャコフが贔屓です。殺されてもしょーがないオヤジのフヨードル・パーブロヴィチをはじめ、一家揃ってダメ男オンパレードですねぇ。我が家には結婚するころに買いそろえて、<専業主婦の無聊>の慰めにした米川正雄訳:河出書房新社のドストエフスキー全集があります。亀山訳を買った夫から”こっちの方が読みやすい”と勧められたのに面倒で読んでいなかったのですが、再読してみようかしら。

「舞姫」は、”余”(太田豊太郎)の手前勝手な自己愛にうんざりして、鴎外が意外にかっこ悪い男だと気付いた小説ですてへぺろ

金髪碧眼に憧れる(その悩みがウザい)トニオやら、甘ったれの自己チュー坊ちゃん(でも、中学生にとっては面白かった)。読んだ時に吐き気がした「新生」の岸本捨吉(=島崎藤村)。

結局無駄死にしただけのギャッツビー。気持ち悪さにもう呆れて途中で読むのをやめた庄造の変態振り。テネシー・ウィリアムズの残酷な視点に呆然とした「ガラスの動物園」(とうぜんダメ男はとてつもなく優しいジムですよ!)。なぜそうまで?とその無頼振りを最後まで理解できなかった「火宅の人」。皆さんが褒めまくる「岬」は好きになれずじまい。岩野泡鳴、近松秋江、川崎長太郎、宇野浩二などは他の作品さえ読んでいません。

自分の抱いた感想と照らし合わせながら、時に爆笑しつつ読みました。

 

ブンガクを読むのにちょっとずらした視点をもちたい”アナタ”、ダメンズに悪態ついて留飲を下げたい”アナタ”におすすめ。

 

 

 

つづいて先ほど見てきた映画

カチンコ「サーミの血」 2016年 スウェーデン・デンマーク・ノルウェー合作

 

サーミ人のアイデンティティを捨てて都会で生きるクリスティーネは、ある日妹の訃報を受け取ります。息子や孫のようにサーミであることを受け入れられず、故郷に帰っても親戚からは異邦人のように見られます。

1930年代のスウェーデン北部、トナカイ遊牧で生活を立てているサーミ人の子供たちは、寄宿学校に入りスウェーデン語の教育を受けています。優秀な成績のエレ・マリャは教師になりたかったのですが、サーミ人は知的に劣るという偏見のために上級学校へは行けないことが判明します。この時代、ナチスにも利用された社会ダーウィニズムによって、各民族ごとに継承(遺伝)された形質的特徴があり、それは知性や身体能力、文化などにも現れるという民族観が支配的でした。解剖学的数値を得るために、エレ・マリャたちを記録する屈辱的な場面があります。こうした”劣等民族”への扱いや周囲の眼から見世物のような立場を意識し、エレ・マリャは自立と自由への希求が強くなっていきます。スウェーデン人の青年の言葉に誘われ彼女にも道が開かれたかのように見えますが、衣装と名前を捨てただけでは、身に付いた立ち居振る舞いから”ラップ人”(辺境の人と云う意味の蔑称)であることが分かってしまいます。それでも諦めない”クリスティーネ”が父の銀のベルトで学費を工面する(だろう)ところで回想が終わり、妹の亡骸に許しを請う・・・・・・・、民族のアイデンティティ=生活様式も含めた文化・言語・信仰をいったん捨てて、違う人間になろうとしたクリスティーネが妹に請うた許しとは何だったのでしょう。

文化・伝統を守ることは、必然的に故地に人を縛ることになるのでしょうか、あるいは自立と自由を求めることと対立する考えなのでしょうか。

(形質人類学などの)学問を装った差別や、教育と称して言語を奪い文化を蹂躙するなどの教化政策は、時に家族を引き裂き、最小限の社会を破壊しかねません。

年の瀬に色々考えさせられた映画でした。

モーツアルト

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映画「プラハのモーツァルト」 2016年 イギリス・チェコ合作

 

ウィーンでは人気に陰りが出ていたモーツアルト、「フィガロの結婚」が大評判となり、プラハに招待され、その歓迎ぶりに気をよくしたのは有名な話ですね。

「フィガロの結婚」の人気を反映して、プラハのエステート(スタヴォフスケ)劇場の依頼により作曲、初演されたのが「ドン・ジョヴァンニ」ですが、その顛末を、歌手との色恋沙汰や、恋敵の非道振りにフォーカスして(無理やりこじつけて)作られたのがこの映画ーと私は見ました。

 

元々舞台劇としてよく練られた戯曲(ピーター・シェイファー作)を映画化した「アマデウス」は、

”サリエリの視点”を軸に、今まで流布されてきたモーツアルトに関する噂をうまく取り入れ、しっかりした作りになっています。

この「プラハの・・・・」は、かつての成功にあやかるように”もうひとつの「アマデウス」”と喧伝されていますが、台本上の弱さは覆うべくもなく、話としては極めて退屈でした。

                                  ・・・・・・・・ちょっと寝てしまいました爆  笑

ワタクシ的興味の的

1:エステート劇場として撮影に使われた(世界に二か所しかない)現役のバロック劇場(チェスキー・クルムロフ城内)の様子から、当時の歌劇場の構造が窺えること。

平土間のベンチ、それを囲む貴賓用のボックス席、舞台裏、場面転換のための装置などを、厳しいアングルから撮影しているので、まるで劇場にもぐりこんでいるかのような映像です。

2:モーツアルト役のアナイリン・バーナードが、コンスタンツェが一番本人に似ていると云った

”ヨーゼフ・ランゲが描いた肖像画”に近いこと(特に横顔)。

3:「ドン・ジョヴァンニ」序曲作曲時の写譜の様子。

 

演奏はプラハ市立フィルハーモニー管弦楽団。

年の瀬にも拘らず

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映画「ダンシング・ベートーヴェン」 

を見てきました。

東京バレエ団創立50周年を記念して、同バレエ団にゆかりの深いモーリス・ベジャールによる2014年の「第九」の上演を記録したものです。

この上演にはダンサーの数もさることながら、フルオーケストラ・ソリスト・合唱団と、「第九」の演奏に必要な演奏家の数も半端ではありません。

1999年のパリ公演以来上演が途絶えていたのは、上記のような物理的難しさもあったと考えられます。

この映画のナヴィゲーターは、現在モーリス・ベジャール・バレエ団を率いるジル・ロマンの娘、マリヤ・ロマン。出演者たちに短いインタヴューをしたり、自身の経験(両親共ダンサーだったが自身はその道を選ばなかった)を交えながら踊ることについて語ったりしています。

バレエ・ファンにはお馴染みのプリンシパルやソリストたちを見る楽しみに加え、ダイナミックで見事なアンサンブル、音楽と踊りの融合性、ベジャールが表現したかった世界観に圧倒されました。

演奏はズビン・メータとイスラエル・フィル。(さすが!)イスラエル・フィル、練習中、演奏について団員同士でああでもないこうでもないと議論がはじまり、メータが、”はいはい、議論より演奏(練習)だよ!”と云う場面には思わず笑ってしまいました。ま、彼らの娯楽ですから。

 

バレエバレエ:

エリザベット・ロス、ジュリアン・ファブロー、カテリーナ・シャルキナ(途中降板)、大貫真幹、

那須野圭右、オスカー・シャコン、キャサリン・ティエルヘルム

モーリス・ベジャール・バレエ団

上野水香、柄本弾、吉岡美佳(芸術スタッフ)

東京バレエ団

音譜演奏:

ズビン・メータ指揮イスラエル・フィル

栗友会合唱団

クリスティン・ルイス、藤村実穂子、福井敬、アレクサンダー・ヴィノグラードス

 

追記

ベジャールは「第九」の構成を下記のように考え、シンボル・カラーを当てはめました。

また、ソリストは以下の通りです。

第1部 地=茶 上野水香、柄本弾

第2部 火=赤 キャサリン・ティエルヘルム、大貫真幹

第3部 水=白 エリザベット・ロス、ジュリアン・ファブロー

第4部 風=黄 オスカー・シャコン、那須野圭右

 

 

カヴァコスとユジャ・ワン

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木曜午後のNHKFMで、このお二人のブラームス「ヴァイオリン・ソナタ 第1番」を聴きました。

実は、このお二人、私の苦手な方たちです(ユジャ・ワンは映像でしか聴いていない)。

しか~~~し!<音だけ>で聴いたこのブラームスの素晴らしさ!

放送を聴いてうっとりするなんて滅多に無いことです音譜ラブ

<無駄に肌色たっぷりのユジャ>や<無表情のカヴァコス>というヴィジュアルに邪魔されずに聴くと、二人の優れたところだけが分かってたいへんヨロシイのです。

いやぁ、今まで、苦手だなんて<予断と偏見に満ちた>聴き方ばかりしていて、失礼いたしました。反省しています。

タイミングよく、イギリスにお住まいの方のブログで、ロンドンで最近開かれた彼らのリサイタルについて読みました。ヤナーチェク、シューベルト、ドビュッシー、バルトークにアンコールがシマノフスキ。これ、なかなか魅力的なプログラムですねぇ。

ワタクシ的ツボは、勿論、ヤナーチェク、バルトーク、シマノフスキです。

このブログで、カヴァコスを”無表情、直立不動、音だけで表現できる”ヴァイオリニストだと述べています。私は、あまりにも無表情で捉えどころのない彼の<演奏スタイルが>気に入らなかったのだ、と気付いたしだいです。

無駄に肌色が多いというユジャに対する偏見は、まだ和らいでいない。 

m(_ _ )mごめんね!ユジャ。

でも、もしかして演奏家の鍛えられた筋肉を見せたいだけ?なんて、すこーし譲歩しつつあります。(けっこう、左右されやすいミーハーなワタクシ( ´艸`))

 

機会があれば、お二人の演奏を是非とも<目をつぶって(笑)>聴いてみたい。

お薦めです

テーマ:

 

本「私たちが孤児だったころ」 カズオ・イシグロ 入江真佐子訳 ハヤカワepi文庫 2017年

 

ただいま読んでいるところです。 あともう少しです。

彼の特徴である一人称に徹した描写は、特に子供時代の出来事に対するぼんやりした印象―自分が見聞きしたことと真相との乖離―を強めていて効果的です。

だからこそ、少年時代を上海で過ごしたクリストファーがイギリスで大学教育を終え、両親失踪の謎を追って上海に戻り、関係者を探し求めるに従って次第にはっきりしてくる事件の様相の記述が生きてくるのです。

主人公が大学を終えたのが1923年、経験を積み探偵としてそれなりに名を上げるのが1931年。いよいよ両親失踪の謎を追うべく上海に行くのが1937年で、比較的短期間のうちに目的に近ずくのですが・・・・・・。

読みながら真っ先に浮かんだのが、スピルバーグが映画化したジェームズ・グレアム・バラードの自伝的小説「太陽の帝国」。この小説の背景は(太平洋戦争初期の)マレー作戦で日英直接対決に至った時代で、バラードはクリストファー少年と同じように上海のバンド地区にあるイギリス租界で育ちました。そして、「私たちが・・・」で軽く触れられている日本軍占領下の収容所に入れられているのです。

そしてもう1冊、連想したイギリスの中国支配下の犯罪に関するノンフィクションが、リブログした「真夜中の北京」(ポール・フレンチ 笹山裕子訳 エンジン・ルーム/河出書房新社)。

こちらは、まさしくクリストファーが両親失踪の真相を求めて上海にいたのと同じ1937年に、北京で実際に起きたイギリス人少女誘拐・殺害事件です。このノンフィクションでは、中国の警察体制の(イギリスとの)二重性が事件解決を長引かせる一因となったことを明かしています。

 

作風は違うのに、ふと浮かんだ作家が奥泉光。

彼の小説に「『吾輩は猫である』殺人事件」(新潮社)という、夏目漱石ファンには嬉しいような憤慨するようなハチャメチャな小説があります。こちらの舞台も、時代は少々遡りますが上海。

そして、生年の近いカズオ・イシグロ同様、奥泉光もバンド活動をしたことがあったんですね。

因みに「『吾輩・・・・」は漱石の文体を模倣し、「夢十夜」などのエピソードも潜り込ませたかなりマニアックな作りになっています。

さて、私の手元には、父が残した”MAP of SHANGHAI”があります。

イギリス占領下に上海で出版されたバンド地区を主とした地図で、各租界ごとに色分けされています。地図好きにはちょっとワクワクする手書き風。

版元はOrienntal Publishing House Shanghai 出版年は不明ですが、Road Index もついていてこの時代の小説などを読むときにとても便利です。