説法・法話と発言の意味について考える。 その1
仮の話ですが、私の愛する家族がある日、通り魔や衝動的な犯罪行為に遭遇して尊い命を失ったとします。
不運であったとしか言いようがないのですが、犯人に対する怒りは筆舌に尽くし難いものであることは多くを語る必要もないでしょう。
犯人は現行犯逮捕、冤罪である可能性は無しです。
被害者の家族として、加害者に命をもって償ってもらいたいと思うのは特別な感情ではないはずです。
そんな素直な気持ちに冷や水を浴びせられるような発言が、著名な僧侶の口から飛び出しました。
報道でご存知の方もおられるでしょう。
先日、日本弁護士連合会(日弁連)が福井市内で開催した死刑制度に関するシンポジウムにおいて、作家で僧侶の瀬戸内寂聴さん(94)が寄せたビデオメッセージの中で、現行の死刑制度を批判したうえで
「殺したがるばかどもと戦ってください」
と、日弁連の趣旨に賛同してエールを送ったらしい。
会場内には全国犯罪被害者の会(あすの会)の会員やら日弁連に反旗を翻すように彼らを支援する弁護士らもおり、当然のごとく「被害者の気持ちを踏みにじる言葉だ」と、反発したそうだ。
さすがに日弁連側も、先ほどの寂聴さんの発言を擁護するわけにもいかず、翌日には「犯罪被害者への配慮がなかったことは、おわび申し上げる」と謝罪に追い込まれたのである。
一連の経過を眺めて、それぞれいろんな意見を過らせる方も多いと察します。
「坊主が政治に口を出すと碌なことはない」と聞いたことがありますが、歴史や現在の世界状況からの教訓なのでしょうか?
僧侶だって民主主義を構成する一因であるのですから、個々の表現の自由はあってしかるべきで束縛されるものでもありません。
しかし、同時に憲法にも謳ってある政教分離の概念も意識せずにはおられないのです。
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