SPECIAL POLICE UNIT 誠の旗の下に

  新選組・幕末史関連の記事と紀行文、すみやかに異文化を取り入れた新選組隊士たちにあやかって、ちょこっと国際交流を書いています。


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若江岩田の戦い 木村長門守重成

河内国若江村(現、大阪府東大阪市)に陣を張っていた木村重成軍は、徳川本隊と激突!激戦を繰り広げながらも、多勢に無勢で敗退してしまいます。重成は討ち死にしました。ドラマでも、なかなか壮絶な戦いを繰り広げていました。戦場で討ち死にして、兜首をあらためられたとき、見苦しくないようにと、前夜に兜に香をたきしめていたというエピソードが残されています。伝わっている話では、重成の兜首を検分した家康が、「いい匂いがする。」と言ったとか。六文銭の家紋の意味と同様、重成の覚悟を示すエピソードです。

この重成、奥さんはいましたが、子はいず、美男で有名でした。重成討死の方を聞いた大坂城の女たちが涙したというエピも残されています。享年23歳。

 

今でこそ、大坂の陣5人衆の中では信繁が一番人気ですが、大正期には重成の人気は最も高いものでした。「木村長門守」という無声映画が作られています。筆者は弁士付のこの映画を見たことがあり、なかなか見ごたえがありましたよ。もちろん、兜に香をたきしめるエピも入っていました。

もう一つ有名なのが、冬の陣の後、豊臣方の特命大使として、和議の証書に家康の血判を押してもらいに行った話です。このエピもドラマ化してほしかったのですが、残念ながら、「真田丸」には出てきませんでした。

 重成は家康の本陣、茶臼山(大阪市天王寺区)に行き、家臣が居並ぶ中、家康に血判を押してもらいます。しかし、その血判がうすかったことから、重成は再度、血判を押すことを要請しました。もちろん、家臣たちは色めき立ちますが、重成は引かず、家康はしぶしぶ2度目の血判を濃く(ぶすっと指を切って)押すことになりました。

この時の重成の副官だったのが、旗奉行郡主馬良列(こおりよしつら)です。郡は北摂の武将で、荒木村重の配下でした。黒田官兵衛が村重の居城、伊丹の有岡城に幽閉された折、官兵衛の世話をした武士の妹婿だった縁で、豊臣家に仕官したようです。黒田家との結びつきは強く、郡の息子たちは黒田家に仕官しています。また、郡の子孫が江戸期に高槻藩に仕官していて、昨年の夏、高槻しろあと歴史館で郡主馬の特別展をやっていました。

郡も嫡男と共に、豊臣家の譜代の武将として大坂城落城の時、自害しました。

 

誉田(大阪府羽曳野市)から大坂に戻ってきた真田信繁軍は、古市街道を通り、平野(大阪市平野区)で休憩しますが、その折に、近くの志喜長吉神社で戦勝祈願をしました。信繁はこの神社に六文銭の旗と刀を奉納しています。残念ながら、刀の方は戦争中に拠出したそうですが(もったいない!!)、旗は無事に残されています。いよいよ最後の戦いが近づいてきました。

 

写真は木村公園です。

 

木村橋や木村交差点もあります。

 

公園の中にある木村重成の墓碑です。若江の戦いで、重成を討ち取った武士のご子孫が、江戸期に墓碑を建立されたのだとか。

 

こちらは連城寺というお寺です。お寺の方に頼めば、鍵を開けてくださいます。ここに重成の位牌堂があります。立派な絵が掲げられています。

 

重成の位牌です。地元の方に愛されている重成です。

重成の陣地跡と伝わる場所には、重成の座像が建立されています。像に近づけないのが残念です。

 

東大阪市主催で、木村重成の400回忌を記念して、イベントが行われ、無声映画の上映や、パネルディスカッションが行われました。大盛況でしたよ。映画の方も、無声映画をめったに見ないのですが、おもしろかったです。

 

 

 

 

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  誉田・道明寺合戦 

      後藤又兵衛基次

4月にまず、泉州樫井で戦いの火ぶたが切られました。すでに周りの堀を埋められ、裸になった大坂城に籠城することはできず、豊臣方の武将たちは野戦を強いられることになります。樫井では、本町橋夜討ちで活躍した塙団右衛門が討死しました。ドラマでは、塙の戦死が大きくクローズアップされていました。冬の陣では、名のある豊臣方の武将は討死しなかったこともあり、この塙の死はこれに続く多くの武将たちの討死の始まりとなりました。特に、遺体を目のあたりにした淀の衝撃は大きかったようです。

 

夏の陣の初めは、東から大坂へ入って来る徳川軍が通った、南河内付近が戦場となりました。

徳川方の伊達政宗軍と衝突し、後藤が討死した5月6日の戦いは道明寺の戦いと言われますが、実際の戦いは小松山と呼ばれる玉手山古墳群でした。現在の大阪府柏原市にあたります。ここには立派な後藤の顕彰碑や夏の陣での戦死者を弔った石碑があります。当地で華々しく討ち死にした豪傑後藤は、地元の方々に愛されていますね。

当日、後藤軍と合流するはずだった真田軍は戦さに間に合わず、誉田地区(現在、応神天皇陵付近)で伊達軍と会いまみえることとなりました。ドラマでは殿(しんがり)を務める信繁たちを伊達政宗は追わせず、「もういい。弾はつきた。」と。なかなかかっこいいじゃないですか。

信繁の方は、「関東勢百万と候え、男は一人もなく候」と言ったとか。(筆者はまだ、原文を見たことがありませんが。)

遠く東北から大坂までやってきた伊達政宗、豊臣方をとことん追い詰めようとは思っていなかったのでしょう。その心を汲んだ信繁、娘の梅の身柄を伊達家家臣、片倉小十郎に預けました。その梅を頼って、戦後、真田大八(次男)も伊達家の家臣となり、幕末を迎えます。(仙台真田家)伊達家は信繁の子孫を江戸時代を通じて、かばったのですね。ただ、江戸期は信繁の直系だということは名乗れず、徳川方についた真田家の親戚ということになっていたそうです。

戊辰戦争時には仙台藩は奥羽列藩同盟に加盟し、真田家の当時の当主は六文銭を翻して、新政府軍と戦われたのだとか。

 

近鉄河内国分駅から出発して、道明寺合戦の古戦場めぐりをしたことがあります。写真は小松山と呼ばれる玉手山古墳群です。実際は山と言うより、地方豪族の古墳群です。

 

古墳群を巡って行きました。こういう石棺が展示されています。

 

こちらは夏の陣で亡くなった兵達の供養塔です。

 

後藤又兵衛の巨大な顕彰碑です。

 

山頂近くの玉手山遊園には資料館があり、大坂の陣関連の資料が展示されていました。

 

近鉄藤井寺駅近くに道明寺合戦の記念碑が建立されています。

 

こちらは道明寺合戦の名の由来となった道明寺天満宮です。(大阪府藤井寺市)400年前にはこの付近のめぼしい建造物はこの天満宮ぐらいしかなかったので、この神社のある道明寺村の名が戦いに付けられたのだろうとのことです。

 

 

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       夏の陣 決戦へ

49回・50回はあまりに内容が濃いので、何回かに分けて感想を書いて行こうと思います。そもそも最後の決戦、夏の陣を2回で終わるのは、もったいない話です。

まずは、決戦が始まるまでの話です。大坂城内では徳川軍の進軍に向けて、対策を協議しています。信繁は亡き父推奨の案、「素早く京都を襲撃して、家康を討つ」案を提案していました。結局、昌幸の立てた渾身の案は豊臣方に採用されず、江戸から京を通り、奈良・河内回りで大坂の南側から入って来るであろう敵を討つ案が採用され、大坂の南側を固めることに決まりました。確かに史実はそうなのですが、もし、京へ奇襲をかけて、家康を討っていたら・・歴史は変わっていたかもしれません。

 

小野お通という不思議な女性が、今回のドラマに登場していました。信之の彼女かな?ですが、伊達政宗が大坂からお通に向けて、大坂の役の結果を知らせた書状が残っています。政宗ともこのお通さん、付き合いがあったようで、筆者も不思議に思っています。

江戸の信之は、死ぬ覚悟かもの弟を心配しています。家康から、信繁を信州40万石で誘うようにとの命を受けた叔父の信尹に同行して、信之も大坂へ向かうことになりました。後藤又兵衛にも播磨35万石でどうかという話がきます。家康も牢人衆を自分の方へ引っ張り込もうといろいろと画策してきますが、又兵衛も信繁もそれには乗らず、豊臣家への忠義を貫きました。まぁ、ここで転んでいては、大河の主役にはなりませんけどねぇ。彼ら牢人衆は、大蔵卿の心配をよそに、結局、最後まで豊臣家を裏切りませんでした。武士ですね。もっと、この日本史上最大の内戦がクローズアップされてもいいのにと、常々思います。

 

慶長20年(1615)3月14日付、義兄、小山田(松の夫)宛ての信繁最後の書状が残されています。「(城内で)殿様は懇意にしてくれるけど、豊臣の譜代ではない自分は、万事気遣いが多い。」と嘆いています。そして、「この世は浮世にて、明日のことは知れない。私のことなど、この世にいるとは思ってくれるな。」と記しています。

この書状、城内での信繁の立場や心情をよく表しています。それを現代まで伝えてくださった小山田家のご子孫さんに感謝です。

4月にまず、泉州樫井の戦いから夏の陣が始まりました。ここで、本町橋の夜襲で名を上げた塙団右衛門が討ち死にし、豊臣方に暗雲が立ち込めます。その後、続々と徳川方が奈良・河内を通って大坂へと押し寄せてきます。

 

大阪城の南東、玉造稲荷に千利休の顕彰碑があります。屋敷がすぐ近くにありました。

玉造稲荷には豊臣秀頼の胞衣(えな)塚があります。もちろん、当時はこの玉造稲荷は大坂城内です。

 

こちらは、旧「岡山」、現在の御勝山です。冬の陣の折、秀忠の陣所となりました。間違いなく、前方後円墳です。

 

 

戦に勝利したので、「御勝」山と名称が変わりました。現在では、かわいそうなことにこの古墳、道路で分断されています。秀忠が陣を置いて、かなり破壊したそうですが。

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