SPECIAL POLICE UNIT 誠の旗の下に

  新選組・幕末史関連の記事と紀行文、すみやかに異文化を取り入れた新選組隊士たちにあやかって、ちょこっと国際交流を書いています。


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                   真田丸の戦い

 素晴らしい真田丸のロケでした。さすがにタイトルロールですね。ここでドーンときました。

 真田丸での戦いの戦法は、真田家お得意の、敵を引き付けるだけ引き付けて、待ち構えていた2段構えの鉄砲隊が、銃弾を浴びせるといったものでした。徳川方は前田軍・井伊軍・越前松平軍など、いずれも大将は20代の若者たちで、そこは熟練の豊臣方の浪人衆、誘いこんでものの見事に返り討ちにしました。

 徳川方は各藩、先を競い合った結果、お互い引くに引けずで、大損害をこうむりました。8人の組で真田丸に突撃し、5人撃たれて、起き上がれない者もいたと書かれた報告書があります。1万人以上、当地で亡くなったと伝わります。

 夜には、大御所・将軍のお怒り甚だしく・・となり、その晩の徳川陣営は大変だったようですよ。

 

 豊臣方の方は、大勝利に沸いたことでしょう。この戦いで、真田信繁の名は歴史に刻まれました。今回のドラマでは「日本一の兵(ひのもといちのつわもの)」という信繁への評価を上杉景勝が叫んでいました。

 秋に大阪歴史博物館でやっていた「真田丸」展の後半にこの信繁への有名な評価が載った原本が展示されていました。史実では島津藩の記録で、慶長20年6月11日付けの報告書です。夏の陣が5月8日に終わりますので、直後の記録ということになります。この評価の出展の現物をぜひ見たかったので、今秋、本物が見れてよかったです。島津藩の重厚な記録文書の中に入っていまして、国宝です。

 

 三谷ドラマのおもしろさは、真田丸の勝利の後、信繁が自分を憧れの目で見る若い木村重成を呼んで、「こんな大戦さは自分も初めてだ。心臓がぱくぱくしている。」と、本音を語らせたあたりでしょう。実際、その通りだと思います。やっている方は、薄氷を踏む思いでしょう。

 

 写真は、春に明星学園の裏側(心眼寺坂側)に建てられた真田丸の顕彰碑です。天王寺区役所建立とあります。今年の「真田丸」に関連して、天王寺区役所はよくやられていたと思います。ありがたいことです。ただ、本当のところは、区がばらばら「真田丸」の関連史跡やイベントを大阪市で一貫して開催すれば、より大規模に継続してできると思うのですが、なかなかそうは動いてくれないことが、歯がゆいところです。

 

 

 

 心眼寺さんに大阪市が貼った銘板です。

 こちらは玉造駅近くの商店がで展示されていた真田丸の模型とグッズです。幸村ロードと命名された楽しい小道があります。

 

 

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                  今福蒲生の戦い

 第45回はもりだくさんの内容だったので、2回に分けて書いてみようと思います。まずは、前半の今福鴫野の戦いについてです。ドラマの方では、ワンシーンで終わってしまい、残念でしたが、あの天下分け目の関ヶ原よりは、時間が多かったので、よしとしましょう。その分、「ブラタモリ」と「真田丸紀行」でしっかり放映していただき、よかったです。

 

 慶長19年(1614)11月26日、徳川方の上杉景勝軍と佐竹義宣軍がそれぞれ鴫野砦、今福砦を攻めました。鴫野村・今福村は大坂城の北東部にあります。現在でも、ここから旧今福堤を歩いて30分もあれば、大阪城に着きます。

 400年前は、鴫野村と今福村の間に巨大な旧大和川がありました。(1704年に改修して、現在、大和川は大阪市の南側、堺市との間を流れています。)

 旧大和川の南側が鴫野村で、北側が今福村・蒲生村になります。今回のドラマでは上杉景勝や直江兼続がよく登場するので、鴫野砦の方をドラマ化するかと思っていましたが、意外とドラマでは今福・蒲生の戦いをやってくれました。佐竹義宣の方は、名前だけの登場でしたね。佐竹氏は水戸の戦国大名だったのが、三成に恩があり、関ヶ原では徳川方に組みしませんでした。戦後、水戸から秋田に移され、幕末まで秋田藩主として残ることになります。いずれじっくり、大河ドラマで佐竹氏を取り上げてほしいものだと思います。前田や上杉、徳川、毛利、島津と並び、豊臣六大将の一人です。

 

 佐竹義宣は、家康の呼びかけに応じて、大坂の陣には参戦してきました。今福砦を攻めることを命じられ、一旦は押し込むものの、それを城から見ていた木村重成軍が駆けつけ、押し戻されてしまいます。今度は対岸の上杉軍に援軍を求めますが、旧大和川に阻まれて、なかなか合流できずに苦戦します。

何とか交流して、城側へ押し寄せようとしたのを城から見ていた秀頼が後藤又兵衛に木村軍の援軍に行くように命じ、後藤が船に乗って、城から参戦してきます。後藤が上杉軍に撃たれて、軽傷を負ったのは史実です。

この戦い、「ブラタモリ」でやっていたように、周りは低湿地帯だったので、戦さができたのは今福堤と呼ばれる土手ぐらいでしょう。タモリさんは自然堤防だと言っていましたっけ。結構な高低差がありますよ。その堤の上を豊臣方と徳川方が行ったり来たりしたのが、今福蒲生の戦いでした。死体を川に捨てたので、川が真っ赤に染まり、紅葉が流れているようだったと地元に伝わっています。

佐竹軍側は家老が戦死するなど、被害も多く、今福・鴫野の戦いは、冬の陣で最大の野戦だったと伝わります。この戦いで名を挙げたのが、木村重成です。初陣でしたが、見事に戦いました。今福砦は落ちていましましたが、その夜には、木村長門守が秀頼から褒美をもらったという資料がありますので、そう簡単に負けたわけではありません。

 

 鴫野の戦いの跡碑です。大正時代に当地が人々に忘れられ、工場の排煙にまみれてしまうのを憂えて、建てられました。明治初期まではのどかな田園だった当地も水運の好さと平らな土地があることから、中小工場が立ち並ぶようになり、繁華な場所となりました。JR鴫野駅から徒歩5分、駅の東側の城東小学校校庭内にあります。

 

 こちらはつい最近、400年を記念して、100年前の石碑と並んで建てられています。

 

 「真田丸紀行」にも登場した八剣神社です。城東小学校の裏側すぐにあります。境内には、大坂城築城時の残念石も残されています。

 

 今福蒲生の戦い跡碑です。「真田丸紀行」で大きく取り上げられました。地下鉄長堀鶴見緑地線の蒲生4丁目駅下車、徒歩5分ほど、南東方向へ歩いてください。城東診療所前です。

 

 側面には、後藤又兵衛と木村重成の奮戦の跡と刻ませていただきました。放映後、何人かの人が写真を撮りに来られていて、びっくりしました。こんなローカルな場所にようこそです。建立にご尽力いただいた皆様に、ひたすら感謝です。今まで、石碑を5基、建立させていただきましたが、大河ドラマで取り上げていただいたのは、初めてです。

 

 旧今福堤、現在は京橋付近より西側は野田海道、東側は古堤(こてい)街道と呼ばれています。結構、高低差がある堤です。街道沿いに古い民家が残されていたのですが、最近、どんどん建て替えられて、寂しい限りです。写真は旧蒲生村の南側付近です。

 こちらは木村・後藤軍と戦った佐竹義宣の本陣跡と伝わる若宮八幡宮です。

 

 立派な石碑があります。最近、改修されて、よりきれいになりました。

 

 嘉永7年建立の石の鳥居もあります。ペリー来航の翌年ですね。

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    信繁、ついに城主に

 大坂城は、北は淀川と旧大和川、東は平野川と猫間川、西は東横堀川と三方を川に囲まれた上町台地の北端にあります。三方を川に囲まれ、その周りは湖や海岸が徐々にかわいてきた低湿地帯だったので、東・西・北方面の守りは万全でした。

 大坂城のある上町台地の東側の湖がかわいてきて、土地になったのが平安時代頃ですが、戦国末期にはまだまだどろどろの状態で、蒲やれんこんの産地であったそうです。

 西側の海岸線は、徐々に西へ後退していきますが、秀吉以降は太閤下水を設置して、排水が進み、今の船場地区(城下町)が形成されていきました。

 南側は高台で堀を掘っても水を流すことができず、当時から空堀と呼ばれていました。このあたり、「ブラタモリ」でタモリさんが歩いておられましたね。空堀は埋められてしまいましたが、場所は現在、道路になっていて、分かっています。ビル建設の際に人工的に掘った遺構が出てきたと聞きました。正しくは、大坂城南総構堀跡といいます。

南側が城の弱点であることは、城に住んでいたこともある家康たちも十分わかっていて、南側から攻めてくるだろうことは、城内の豊臣方も承知していました。

 

空堀の外側(南東)に出丸を造ろうとしたのは、後藤又兵衛と真田信繁でした。秀吉の命で、大坂城築城の縄張り(グランドデザイン)をしたのは黒田官兵衛なので、その配下にいた後藤は、官兵衛から南が弱い、その弱点を補うなら出丸を造ることだと、教えられていたのかもしれません。

同じく、城の弱点に目をつけ、出丸を築こうとしたのが信繁で、こちらも長年、大坂城に居ましたしね、当時の豊臣官僚たちの間で、そんな話がでていたのでしょう。後藤と信繁で話し合って、後藤が譲ったのは史実です。

 

豊臣家の内部には、牢人衆への不信があります。大坂城から義兄の小山田に宛てた信繁の書状にも、「殿様(秀頼)は良くしてくれるが、(譜代の家臣への)気遣いも多い。」と書き残しています。

城内の主導権争いには苦慮しながらも、何とか真田丸築城に成功しました。14年間、ずっとこの時を待っていた信繁です。

江戸時代から真田丸は半円形に描かれた地図が大部分で、元々は「武田の馬出し」がモデルだろうとのことで、それが半円形なので、真田丸もということのようです。何しろ、冬の陣の後、速攻で真田丸は壊されたので、三代将軍の頃にはすでに、真田丸の形状は不明だったようです。

 

しかし、「大坂冬の陣図屏風」に描かれた真田出丸の形には、角があり、四角形に見えます。分度器の形ではありません。不思議だなぁと筆者は思っていました。

近年、芸州浅野家や島根松平家の真田丸を描いた絵図の研究や、「歴史ヒストリア」での地面センサーによる堀跡の発見などで、真田丸は台形の形だったのではと言われるようになりました。

筆者は、天王寺区餌差町の真田丸跡を何度も歩いています。「ブラタモリ」ではないですが、地形から考えると、まず、真田丸は台形ですね。現地は谷やら高台やらがあり、平らな場所ではありません。半円形を造ろうとするなら、よほど大工事で土地を造成しないといけませんが、真田丸は実際のところ、あっという間に出来上がったようですし。実際の地形をうまく利用して、真田丸が造成されたように思います。

真田丸周辺は起伏があって、段差も多く、段差ー(ダンサー)のタモリさんにはぜひ、来訪していただきたいものだと思っていましたが、訪問していただいて、よかったです。

 

心眼寺坂です。タモリさんに「いい坂だ。」と言われていました。

明星学園です。この学校の敷地がほぼ、真田丸にあたります。当時の表現で、真田丸は1間(いっけん)四方、または2丁ばかりと書かれています。1間は1.8m、1丁は100mほどです。

今年、学校の西側、テニスコートの横に真田丸の顕彰碑が建てられました。

 

心眼寺側です。

 真田信繁・大助親子の菩提寺、心眼寺です。寺の由緒書が残されていて、信繁と大助の菩提を弔うために建てられたお寺であると伝わっています。真田丸の東端にあたり、門前には真田出丸跡の石碑が建てられています。

 境内には信繁の墓碑がありますが、それはまた、いずれ。

  こちらは明星学園の南側の斜面です。徳川勢は天王寺方面、南から真田丸に攻めてきました。

 

 

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