SPECIAL POLICE UNIT 誠の旗の下に

  新選組・幕末史関連の記事と紀行文、すみやかに異文化を取り入れた新選組隊士たちにあやかって、ちょこっと国際交流を書いています。


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  真田安房守 大活躍!

 平時の時には、ぼーっと孫の世話を焼いていた昌幸さん、いざ、戦さとなれば冴えわたっています。ほんと、乱世向きの方ですねぇ。

 息子信幸の居城、沼田に戻ってきた真田父子を、徳川方に付いた信幸の嫁稲(小松姫)は、追い返していました。稲の今ドラマ、一番の見せどころです。これには大殿も苦笑いで、引き上げていかざるをえないですねぇ。

 

 第2次上田合戦が始まりました。上田城は徳川秀忠の大軍(徳川軍の本隊はこっち、関ヶ原の方へ回ったのは、元豊臣方の大名たち)をもってしても落ちずに、秀忠はここで足止めされ、肝心の関ヶ原に間に合わなかったという大失態をしてしまいます。2度の徳川軍の大軍と戦っても落ちなかった上田城は、受験者たちに大人気だとか。大坂城は3度兵火に焼かれるという、これも珍しい例でしょう。

 徳川軍の本隊を上田に引きつけておいたのに、関ヶ原で西軍があっけなく敗れ去ったのは、なぜなんだと昌幸は嘆いたとか。

 我々は結果を知っているので、小早川の裏切りで、あっという間の半日で決着が着いたということをわかっていますが、当時、ライブで戦っている方はもちろん、そんなことは予想できず、家康も徳川本隊が到着せずに、薄氷を踏む思いだったことでしょう。

 

 さて、今回の大河の関ヶ原合戦です。眼目は第2次上田合戦なので、こちらが主流でよいですが、あまりにもあっけなく、終わってしまいました。昌幸・信繁ならずとも、えっええっ~ですよね。合戦を撮影すれば、時間も予算もかかりますし、ここは三成・吉継のワンシーンのみで、史上名高い関ヶ原の戦いは終わりにして、予算は天王寺合戦の方に盛大に回していただきましょう。こちらはもちろん、信繁が参戦します。

 

 上田城での局地戦に勝利しても、西軍が関ヶ原で負けてしまっては、降伏せざるを得なかった真田軍です。この後は、東軍についた信幸の戦いでした。舅の本多忠勝の助成もあり、何とか、昌幸・信繁の一命は助かり、高野山に配流と決まりました。上田城は徳川方に引き渡されました。勝った戦さを見るのもいいですが、こういう負け戦さをじっくり見るのも、歴史のロマンを感じます。

 命を助けたのは、生き地獄を味わわすためだと真田父子に伝える家康です。これから信繁の雌伏の時が始まりますね。

 

 写真は三成が3か月過ごしたと言う大垣城です。ここから関ヶ原へと出陣していきました。

 

 

 

 大垣の全昌寺には元新選組隊士、市村辰之助の墓があります。市村家の墓ですね。土方歳三の小姓で、箱館から土方の写真や兼定の佩刀を佐藤家に命がけで届けた鉄之助の兄になります。鉄之助もこの中に入っているのでしょうか。

 

 関ヶ原の古戦場です。本当に、今でも広々とした野原ですが、その周辺に武将たちの陣地跡がありました。家康の本陣です。

 

 本多忠勝(信幸の舅)の陣地跡です。

 

 田中吉政軍に三成は捕縛されたとか。

 細川忠興の陣地跡です。このように、たくさん石碑や銘板があり、一度にはとても回り切れません。

 西軍・東軍の首塚がありました。こういうのを現実に見ると、身に迫る迫力があります。現地ならではです。

 

 東軍の武将コース、西軍の武将コースという回り方があるそうで、NHKの番組で山本耕史さんが三成の本陣を訪ねていましたね。筆者の方は、時間がなくて、駅近くの陣地をめぐりました。

 近くに関ヶ原の戦いがテーマの記念館があります。ジオラマがあり、戦いの様子がよくわかるように展示されていました。関ヶ原で戦いがあったのは、1600年だけでなく、古代の壬申の乱の際も、当地が戦場になったそうです。

 

 

 

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真田家の一大事

 真田左衛門佐信繁が段々、武将らしくなってきました。これまでは、父昌幸、お館様上杉景勝、主君豊臣秀吉、上司石田三成に翻弄された人生でしたが、ここへきて、信繁も成長しました。徳川家康が家来になれとせっかく?言ってくれているのに、「お断りします」と信繁はきっぱり断言していました。

 実際にこういう場面があったのかどうかは知りませんが、やっと信繁が自己主張してきましたね。

 大坂にこの頃の伊達政宗の起請文が残されています。文書では、政宗は熊野権現(神)に誓うという形をとって、家康への忠誠を誓い、その傘下にはいることを取り次いでくれるようにと、今井宗久に願っています。時代の流れは政宗のようだったと思いますが、あえて、反家康に徹する信繁です。

 

 村上新悟さんの直江状朗読、よかったです。低い、いいお声の直江状を聞かせていただきました。この長文の書状を送りつけられた家康、さぞや、立腹したことでしょう。

石田三成と加藤清正・福島正則らの対立が、ますます激しくなってきました。家康の仲裁で、一旦は領地の佐和山に蟄居した三成ですが、一発逆転を目指して、虎視眈々と狙っています。

豊臣家の桐の紋章を借り受け、上杉征伐に意気揚々と出かけた徳川軍ですが、その隙を見て、三成が挙兵!いよいよ三成VS家康の戦いが始まります。

 重篤な病いの大谷吉継ですが、こちらも長年の友、三成に同調。戦さをやるならば絶対に勝利をと、病いを押して筆を取っています。

 

 この状況の変化に、上杉征伐軍に形ばかりは従ってきた真田父子が、上州犬伏で家族会議をしていました。真田家にとっては、のるかそるかの一大事です。

 彼らの親子会議、見ごたえがありました。再びの乱世を望む昌幸は、三成に付こうと言いだし、家康嫌いの信繁は父に同調。徳川家の養女を嫁にもらっている信幸ですが、父に従うとのことで、一旦は上州まで来たものの、三成の挙兵で苦渋の決断を行いました。

 よく、父昌幸がお家存続のために、息子2人を豊臣と徳川に分けたと言われますが、今回のドラマでは、兄信幸が2つに別れようと主張していました。小大名が乱世に生き残りをかけて、苦肉の策ということでしょう。

 

 前田利家が大坂 前田屋敷で亡くなりました。前田屋敷跡は現在、大阪女学院になっています。真田丸の特定地にも近く、豊臣期の大坂城内の南端になります。

 校内を改修したときに、前田家の家紋付の瓦が出たとのことなので、この場所が前田屋敷で間違いないでしょう。利家の終焉地の石碑がほしいところです。

 

 こちらは「越中井」と大阪で呼ばれている史跡です。越中とは細川越中守忠興(ただおき)のことで、ここは、細川大坂屋敷の井戸跡ということです。屋敷の台所があった場所でしょう。

 

 道の真ん中にわざわざ囲いを作って、当時のまま置かれています。もちろん、大坂城周辺に数あったであろう豊臣期の大名の屋敷で、この細川屋敷のみが明確に場所がわかるように井戸が残されたのは、当地で細川ガラシャが亡くなった逸話によります。

 

 西軍側の捕虜になることを嫌ったガラシャが屋敷に火を放ち、キリシタンゆえに自害できず、家臣に突き刺されて亡くなったという話は当地の出来事です。

 

ガラシャの有名な辞世です。この時代、女性も潔いです。

「散りぬべき 時知りてこそ 世の中の 花も花なれ 人も人なれ」

 越中井の横にこの辞世を刻んだ石碑が建立されています。題字を書いたのは、同志社で新島襄の弟子だった徳富蘇峰です。「八重の桜」でドラマ化していたように、蘇峰は新島からキリスト教を学びますが、途中、キリスト教からは離れて、ジャーナリストになります。キリスト教関連で、ガラシャの石碑の文字を頼まれたのかも。能書家だったようですね。

 

 

 

 近くにある玉造教会のガラシャ像です。教会の中には、堂本印象が描いたガラシャの絵が見れます。

 

 ガラシャにキリスト教を伝えた高山右近は、来年、福者に列せられるとのことです。2017年2月に大阪城ホールで列福式があるそうです。福者は聖人の次の位だそうで、右近はカソリックの間では、世界的な有名人になるのですね。右近を国外追放させたのは、もちろん、家康です。

 

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 秀吉の亡き後、世の中は・・

 秀吉亡き後、早速、伏見を舞台に権力の後継者争いが始まりました。お互い、戦々恐々としながらも、徐々に徳川家康が台頭してきます。信長が死んだ後、信長には成人した息子が何人かいたにも関わらず、秀吉がさっさと天下を取ってしまったのを横で見ていた三成としては、気が気じゃなかったと思います。

  家康が天下を取ってしまう前に、何とか武力ではなく、統治の力で、共和制のような合議での政治形態を進めてはいきますが、まだ、この国にはそれができるほどには進んでいなかったようですね。成功したら、日本史の中でも誇るべき時代になったのでしょうけど。

 

 何よりも、合議制を推し進めねばならない立場の三成が、家康を殺す気満々です。真田の刺客は失敗し、次いで、三成が武力蜂起しようとしますが、事前にもれて、周囲の者が必死で止めて、何とか三成も諦めました。奇襲がばれたら、「奇襲」にはならず・・ですよね。筆者は戦国物をじっくりドラマで見たのはほとんど初めてなので、物語の展開に「へぇ~そうだったのか。」の連続ですが、天下分け目の関ヶ原の戦いに向けて、布石が打たれてきました。

いずれにせよ、家康=内野聖陽さん、三成=山本耕史さんががっぷり組んで、関ヶ原まで突っ走っていってくれることでしょう。

 

 真田昌幸は平和な時代には、大分くたびれてきましたが、戦さとなれば、いきいきしてきましたね。どこで手に入れたのか、徳川邸の絵図まで用意して、徳川陣営に集まった並み居る武将たちを前に張り切っていました。こちらも、第2次上田戦争で、御手並みを見せていただけることでしょう。

 

 この夏、香港マカオに行ってきました。マカオは400年前から、日本と関わりが深いそうです。フランシスコ・ザビエルらカトリックの神父たちに布教されて、日本にも多くのキリシタンが生まれました。しかし、カトリックは寺院に土地を寄進することから、カトリック教国の日本の領土侵略を懸念した秀吉や統制貿易を企てた家康によって、キリシタンは弾圧を受けることとなります。

 そこで、多くのキリシタンたちは、国外退去され、イエズス会の本拠だったマカオにやってきたのだそうです。

 

 天主堂は1600年代初めごろ完成しますが、後ろ側はすでに焼失して、ありません。現在、前面のファザードが残されています。建物があった時は、東洋一の規模だったとか。

 このファザードの建造に日本の職人たちが関わったのではないかと伝わります。彫刻はなかなか見事なものです。菊の花の彫刻があったり、中国の象徴であるドラゴンを聖母マリアが踏んづけたりしています。外国人の関わりが疑われるそうです。

 


 

 天正の少年遣欧使節団の一人、原マルチノは帰国後、神父になりますが、国外追放となって、マカオで生涯を終えます。この天主堂の地下に墓があるそうです。

 

 マカオは60万人都市に世界遺産が30か所あるという史跡だらけの町でした。とりわけ、400年前にポルトガルの支配地となり、以来、イエズス会などのカトリック系の宣教師たちがアジアのキリスト教化の拠点としました。すてきな教会がたくさんありました。

 

 

 今回の我々の目当ては、その中の一つ、聖ジョゼフ教会です。当教会にマカオ近郊の島で亡くなったフランシスコ・ザビエルの上腕骨が保存されています。

 ザビエルの遺骨を日本の宣教師たちが欲しがったため、日本に運ばれるはずが、秀吉・家康のキリシタン禁教のため、日本に入れず、マカオの教会を転々とし、現在、当教会にあります。

 

 りっぱな祭壇の中のガラスの中にザビエルの上腕骨の遺骨が納められています。マカオはおおらかなもので、写真もOKでした。

 

 この方のおかげで、日本の文化は随分、華やかにもなり、悲劇も生まれました。日本史の中の超有名人の墓参りはよくしますが、ご本人の遺骨を直接目にしたのは初めてです。

 

 

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