SPECIAL POLICE UNIT 誠の旗の下に

  新選組・幕末史関連の記事と紀行文、すみやかに異文化を取り入れた新選組隊士たちにあやかって、ちょこっと国際交流を書いています。


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                            義を貫く

 伏見が大地震に見舞われて、城が崩壊、秀吉一家は城を作り直すまで、大坂に引っ越してきています。

 秀吉は信繁に背負われて、大坂城天守閣に登ってきて、城下町を眺めながら、信繁に我が夢をしみじみと語っていました。

 「誰も見たことのない城を築きたかった。城の周りには大きな町を造り、驚くほどにぎやかで、騒がしくて、活気にあふれた日本一の町。思いがかなったのは、半分だけ。ゆくゆくは京から天子様を迎えたかった。平清盛が成し遂げたことをわしはできなかった。」

 秀吉の辞世は「露と落ち 露と消えにし我が身かな 浪花の事は夢のまた夢」ですし、伏見で亡くなりますが、大坂のことを気にかけていたのかもしれません。当地が「大坂」になるのは、15世紀に蓮如が書状に書いたのが初出です。それまでは、「難波・浪華・浪花・浪速(読みは全て、なにわ)」と呼んでいました。ただ、併用されていたようで、幕末期、「徳川実記」は家茂が大坂城に在城している項で、「華城(かじょう)」と記しています。浪華城ということでしょう。

 現在ある天守閣は江戸期の再建の際の場所で、秀吉時代は入り口に向かって右手(東側)で、高さも少し、低いです。展望台からの城下の見え方も今と少々、違ったでしょう。


 

 死期を予感したのか、秀吉は各大名や豊臣家の家臣たちにひたすら「秀頼を頼む」と頼み込んでいます。上杉景勝や直江兼次には、会津に移って、北から徳川をにらんでくれと頼んでいました。このとき、同席した三成・信繁・上杉らは皆、関ヶ原のときは反徳川勢力になります。

 信繁、信幸、昌幸等真田家の面々、家康も徳川家の家臣たち・・、皆、秀吉が亡くなった後、世の中がどうなるか腐心しています。絶大な権力をもった独裁者の最期は哀れなものです。

 

 出浦殿、大活躍ですね。吉野太夫に化けた忍び(くノ一だぁ!)をぶすっとひと突き。

 唖然として、昌幸が

 「どうした。」

と聞くのに、

 「この女は忍びだ。」

と一言。

 「なぜわかった。」

と聞かれ、

 「同類は目を見ればわかる。」

 なのだそうで。そういうものですかねぇ

 「真田幸村」と言えば、忍者が大活躍する話が描かれますが、今回の大河では忍者的な要素をどう物語の中に入れるのかと思っていましたが、31回の家康暗殺計画と同様、今のところ出浦殿がもっぱら引き受けてくれました。後半は修行を積んだ佐助が師匠の跡を継いで、がんばってくれるかな。

 

 最晩年の秀吉は認知症を患っていたという設定のようです。大昔のことはしっかり覚えていても、これほど身近に仕えていながら、秀吉に「こいつ誰?」と言われた信繁です。しかし、時折、ふいに記憶が戻るようで、信繁と出会ったときの場面を秀吉は思い出していました。

 「わしは利発な若者が大好きじゃ。お前のことは一目で気に入った。」

と、信繁に告げていました。これがあるから、17年後、秀頼に呼ばれたときに再び、豊臣家のために大坂城に参上した信繁です。

 人々の記憶に長く残り、語り継がれるであろう秀吉像を見せてくださった小日向文世さんに感謝です。

 

 
戦国時代日本地図1


2

 堺に昨年できた「利晶の杜」という千利休と与謝野晶子を顕彰する施設にあった16世紀の世界地図です。大坂はなくて、堺が記されています。


南蛮人壁画

 堺の旧港近くにこういう大きな壁画が設置されていました。当時の雰囲気が伝わってくるようです。400年前の堺の町は国際的で、さぞやにぎわっていたことでしょう。


バス

 楽しいバスも走っています。


高野山金剛峰寺1秀次

 高野山の金剛峰寺の内部です。この寺は火災にあっているので、400年前の建物ではありませんが、当時と同じように秀次自刃の間が再建されていました。

 


2

 山手の方に、秀次のお墓もあるとか。

 

 

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                      秀次自刃

 

 第28回は盛り沢山な回でした。関白秀次は出奔して大坂城に隠れているかと思えば、高野山金剛峯寺で自刃するし、信繁には縁談がふってくるし・・、まして、同時に側室話まで!この頃、信繁は28歳だそうで、縁談話がくるにはいい頃です。秀次の娘が信繁の側室だったのは史実で、どういう具合に話がつながるのかと思っていましたが、この回のように三谷さんが道筋をつけてくれました。

 信繁は、秀次の一大事に聚楽第・伏見城(京都)・大坂城・堺(大阪)・高野山(和歌山)と飛び回っています。生涯で一番、元気なころだったのでしょう。

 

 高野山にかってに蟄居した秀次を護衛して、お供してきた信幸です。わが身の不幸を嘆く秀次に、信幸も自分も周りに振り回される人生だと嘆いていました。「偉大すぎる父、私の言うことだけ聞こえない祖母、病気だかどうだか分からないかつての妻(実際、だんだん、おこうさんは元気になってきていますね。妊娠までされました。)、心を開かない2度目の妻、恐ろしくおっかない舅・・。」真面目な信幸、確かにお気の毒です。

 この方、90過ぎまでご存命され、戦国時代では超長生きなお方ですが、一番振り回されることになるのは死後の信繁(幸村)でしょう。まさか、弟が大坂の陣で亡くなった後、これほど有名になるとは・・だっただろうと思います。松代藩初代藩主ですが、いまだ400年たっても大河ドラマで「信繁の兄」なわけでして。お気の毒といえば、お気の毒な。

 

 秀次がクリスチャンだったというのは、初めて聞きました。心のよりどころを西からきた宗教に求めたのかも。突然、フイリポ・リッピのマリア像が画面に登場して、おお~となった筆者です。16世紀、同時代ですねぇ。

 細川ガラシャも物語にからんできました。小西行長の名も。高山右近は出てこないのかな。本人がクリスチャンだった黒田官兵衛の大河の時は、あっさりキリシタン関連はスルーでしたが、今回の「真田丸」は案外、じっくり描いています。秀吉が行ったキリシタン弾圧をクローズアップするためかもしれませんが。

 

 豊臣政権の終わりが近づいてきました。今回のドラマは家臣団の文官系の人々の右往左往を描いていて、おもしろいです。三成は秀吉の秘書官でしたから、そば近くにいるのはわかるのですが、信繁がそんなに秀吉本人と親しかったかは??ですけどね。

 

 三谷さんはかつて関連していたドラマに出演されていた役者さんを、再登場させるのがお好きですが、今回はルソン助左衛門役で松本幸四郎さんが再登場されていました。「黄金の日々」ですね。

 

ルソン助左衛門1


ルソン小さい



 助左衛門と言えば、堺です。この像は、「黄金の日々」放映を記念して建てられた像だとか。旧堺港を眺めています。

 


灯台1

 旧堺港から海上を望んでいます。この燈台は明治10年に建設されたもので、できた当時は臨界工場地帯が無く、燈台より向こう側には建物は何もなく、海が広がっていたのだとか。140年前の木造の洋式燈台が見事に残されています。


灯台2


3

海の日ということで、年に1度、内部が公開されていました。


南蛮橋1


2

 こちらは南蛮橋にたたずむ南蛮人です。スペインかポルトガル人ですね。夜に知らずにこの橋を渡ったら、ぎょっとするかもしれません。


利休屋敷跡1


 千利休の屋敷跡です。当時の井戸が復元されています。

 利休の家業は魚屋さんだったとか。だから、屋号が「ととや」なのですね。



井戸


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            左衛門佐登場

 小田原攻めが終了し、今度は明へ攻め入ろうと、文禄・慶長の役と後年呼ばれるようになる戦さが始まりました。さすがに、戦さ場面をロケするのは難しいようで、佐賀県唐津の名護屋城内での様子をドラマ化していました。表題の「瓜売」は長期間、城に滞在している各大名たちに、仮想大会をさせようという趣向です。

 そこで、なんと、秀吉と昌幸の出し物がかぶってしまいました。しかも、昌幸の方がうまいというゆゆしき事態に!今回は信繁よりも、昌幸主役の回でしたね。瓜売りに扮装した昌幸が、懸命に練習を重ねるものの、秀吉よりもうますぎたのが災いして、周りの人々に出演を取り消すよう説得されていました。秀吉に役を譲り、縁側でふて寝しているのが、何とも気の毒な次第です。このあたり、小大名の悲哀がにじみ出ていました。

 淀殿が再び、ご懐妊で、男児出産!!いよいよ秀頼の誕生です。この子を巡って、大坂の陣が回っていくわけです。信繁にとっても、運命の子です。

 叔父秀吉に関白の地位を譲られた秀次ですが、秀頼誕生に戦々恐々としています。今後の暗い未来を予感しているような・・。

 

 秀次は秀吉の顔色をうかがう日々です。関白まで出世はしたものの、秀次の人生もつらいですねぇ。

 長らく秀吉に仕えた信繁、長年の功労に応えて、官位を授けてくれることになりました。「従5位下真田左衛門佐豊臣信繁」の誕生です。従5位下は国司クラスだそうで、江戸時代の中小の大名はこのぐらいです。左衛門佐(さえもんのすけ)の官位をもらったことで、今後、武将仲間からは「真田左衛門佐」殿と呼ばれるようになることでしょう。実際、残された同時代資料を見ていると、信繁の諱はまず登場せず、「真田左衛門佐」と書かれているケースがほとんどです。


 同時期に「豊臣」の姓ももらったと考えられます。豊臣姓は天皇からもらった姓で、「源平藤橘」と同様に武士の本姓になります。土方歳三は源義豊ですし、沖田総司は藤原房良となります。だいたい「源平藤原」が多いですが、坂本龍馬は珍しく紀直柔です。(霊山墓地の墓碑に刻まれています。)

 秀吉は配下の武将に「豊臣」姓を与えて、疑似家族のような処遇をしています。徳川秀忠も源ではなく、豊臣を名乗っていた時期も資料に残されているとか。関ヶ原以後、豊臣姓は無くなっていきますが、信繁は豊臣秀頼配下の武将として、亡くなったと考えられますので、死ぬまで真田左衛門佐豊臣信繁だったことでしょう。


 

この官位、弟の斡旋ということで、兄の信幸はすねていますが、なければないでみじめなものです。せっかくだから、「もらえるものは、病気以外はありがたくもらっておけ。」とは父昌幸のセリフです



 
しろあと博物館


 

「鉄砲と和時計」展(高槻しろあと歴史館)

 大阪府高槻市で、徳川期の鉄砲展(個人コレクション)をやっていましたので、見学してきました。高槻市は京都市と大阪市の中間にあるベッドタウンで、淀川の西岸にあります。江戸期には、譜代大名の永井

氏13代が3万6000石で統治していました。

 江戸期には天守閣や石垣のあるお城がありましたが、明治になって、天守格は壊され、鉄道建設のために石垣の石も使われ、現在は城跡公園になっています。旧高槻城跡の三の丸跡に、しろあと歴史館が設置されています。ありがたいことに、特別展も無料です。


「なんでも鑑定団」に鉄砲や火縄銃、古時計などの鑑定に登場される方の個人コレクションが展示されていましたが、見事な物です。写真撮影もOKでした。

 


信繁の短筒1


2

 こちらは、馬上短筒です。江戸初期の物だそうで、馬上から真田信繁が家康を狙った物だろうとのことです。

 


護身具


2

 護身具ですが、六文銭の家紋がついています。松代真田家の物でしょう。



桜田門外の変1


2


4


3

 桜田門外の変で使用された短筒だとか。歴史ヒストリアで短筒が襲撃のカギだったと、放映していました。

 


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