史上初の学術調査

 NHKの伊藤ディレクターのご講演の後は、学者の先生方のご講演でした。まずは大阪府教育庁文化財保護課の森屋直樹氏、次いで、奈良大学教授の千田嘉博氏が話されました。

 

 

 森屋氏は実際に真田丸の痕跡を求めて、発掘調査をされた方です。テレビ番組でやっていたように、真田丸と推定される地域の周りから、堀跡らしき痕跡がセンサーで提示されたのを受けて、本格的に掘ってみようということになりました。ただ、玉造周辺は現在、町のど真ん中でして、空き地がありません。そこで、駐車場の一部を掘らせてもらうことになったそうです。

 細長いトレンチを掘って、地層の中に堀跡(人工で掘って、再び埋め戻した)がないかと探してみましたが、残念ながら、このトレンチでは堀跡は見つかりませんでした。ということは、現在の明星学園からかなり南ということになります。もう少し、南側で掘れば、堀跡が出てくる可能性があります。

 現地の地形を歩いてみますと、明星学園の南側が一番高い地形で、それから南に向けて、緩いカーブで下がっていきます。さて、どのあたりが実際の真田丸の南限になるのでしょうね。

 ぜひ、もう少し南側で再挑戦してもらいたいものです。

 

 千田先生からは、真田丸の意義についてお話がありました。真田丸は徳川の大軍(その中には井伊虎松、後の井伊直政の息子、直孝がいました。)を迎えて、落ちなかった出城です。その真田丸の位置づけを解明することは、城郭史上、有意義なことなのだとか。

 真田丸は寛政年間、家光のころにはもはや、どこにあったのか不明になったようです。そこで、現代にその場所を探そうというなら、絵図や伝承、文字資料など「一視点画」では限界があり、学問分野を横断した「多視点画」的な研究方法が必要だろうとのことでした。こういうのを「学融合研究」というそうです。

 真田丸は従来、丸馬出しの典型と言われてきました。しかし、伊藤さんの発見もあり、台形と考えるほうが地形上、合理的なのは明白です。また、1670年代の地図には、大坂城の南側には「山」が二つあり、東側は宰相山、西側は「真田曲輪」と表記されていて、大坂の地元には現在の明星学園周辺が真田丸だったという史料も残されています。

 また、心眼時の寺伝では、当寺が真田丸の東端であるという伝承もありました。

 千田先生によると、1615年時点ではすでに、玉造周辺は市街地化されていただろうとのことです。ただ、千葉で撮った大河ドラマのオープンセットでは予算がなくて、周りは野原ということになりました。それでも、本当によくできたセットだったと千田先生は話されていました。

 

 明星学園美術部の素晴らしい真田丸のジオラマを受けて、友人が真田丸のケーキを作ってくれました。いつも、物語性のあるケーキを作ってくれる友人ですが、今回のケーキはお菓子と思えないほどの力作です。

 

 下は高さ感を出すためにスポンジが3段になっています。石垣はチョコレートで、塀はウエハースでできていまして、ちゃんと2階建て構造風になっています。旗と内部のお寺のフィギュア以外は全部食べられます。

 

 ナイフを入れたのは筆者です。冬の陣後、真田丸を壊した徳川軍の気分でした。もちろん、とっても美味でしたよ。友人に大感謝です。

 玉造周辺は、大河ドラマのおかげで、史跡顕彰が進んでいます。明星学園の壁にはこのような巨大な絵が描かれました。

 心眼時さんの山門横には、大阪市が銘板をつけてくれました。

 さて、今年も5月5日(金)の2時半から、心眼時さんのご住職にお願いして、真田信繁・大助父子の法要をしていただくことになりました。参加自由ですので、どうぞ、たくさんご参加ください。

 大阪あそ歩で筆者がご案内しますが、ご希望の方は、「大阪あそ歩」のホームページにアクセスしてください。5月5日の玉造のコースです。

 

 

 

 

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        「真田丸」の復元

 

 真田丸の跡地で真田丸発掘推進委員会の現地説明会があり、真田丸の面影を偲んできました。まずは、NHK「歴史秘話ヒストリア」担当プロデューサー、伊藤敏司氏の講演がありました。

 伊藤氏は今まで、主に「歴史ヒストリア」の古代史関連の番組の制作をされていたそうで、戦国時代をやってみないかと言われ、古文書を調べる番組よりは、城郭発掘の番組を作ろうと思われたとのことです。「発掘する」という考古学的思考で「お城物」の新たなジャンルを開拓しようと考えられたそうです。

 

 2014年のテーマは「大坂の陣」(開戦から400年)に決まり、豊臣・徳川双方で30万人の大軍が激突した大事件について、調べることになりました。

 ただ、大坂の陣というのではあまりに広範囲なので、局地戦に持ち込もうということで真田幸村(信繁)に的を絞ったとのことです。

 最初は、馬上から家康を狙ったと伝わる「馬上宿許銃」が大阪にあることから、この短銃を主役に番組を作ったら、「謎の巨大要塞 真田丸」と銘打った真田丸の復元の方が話題になり、今度はこちらで番組を作ろうということになったそうです。

馬上宿許銃は紀州徳川家に伝わる短銃で、信繁が天王寺合戦で取り落としたのを徳川方が拾い、それが家康の息子の家系に伝わりました。「南紀徳川史」には、この銃の分解設計図が載っているとか。筆者はこの短銃を実際に拝見したことがあります。徳川方のカルバリン砲というのも舶来の新兵器ですが、この豊臣方の馬上宿許銃も新兵器だと、伊藤さんはおっしゃっていました。この銃、大河ドラマの最終回、天王寺合戦で実際に登場しましたね。

 

その次は本格的に真田丸の復元ということで、資料をい探していると、「浅野文庫諸国古城之図」(広島藩)の中に「摂津真田丸」という絵図があり、これを基にCGを作ろうと、奈良大学教授 千田嘉博先生の示唆を受けることになったそうです。この絵図そのものは昔から知られていて、当時はこの変わった四角形の真田丸は異端だったようで、学界でも重視されていませんでした。

しかし、伊藤氏が実際に現地を歩いてみると、従来言われていた半円形の丸馬出しの形ではなく、四角形の方が現地の地形に合っているのではないかと、思われたそうです。このことを当時、ドイツにいらした千田先生に知らせると、先生からは「すごい!定説を覆す新発見かも。」と、絶賛のメールが届いたそうです。伊藤氏の現地を実際に歩いて調査したことに新発見の鍵がありました。

 

真田丸の場所ですが、元禄41691)年の大坂の古地図には、大坂城の南側に2つ小山があり、西側に「真田曲輪」の記載があり、東側に「加賀築山」とあるので、東側には徳川型の射撃陣地があったのではないかとのことです。

伊藤さんは以前に京都見廻組の「桂早之助」の墓の調査をされたことがあり、心眼寺を御存じだったそうです。ただ、このときは筆者も期待しながら見ていたのですが、早之助の墓碑は番組に登場しませんでしたねぇ。早之助は慶応3年11月15日の近江屋事件に関わったとされる人物です。来年の大河には早之助が登場するかもしれません。

4年前の「ヒストリア」の放映では、信繁の銃よりも、真田丸のCGによる復元図が話題になったことでもあり、今回、大河ドラマが「真田丸」になった時、より深く真田丸の跡地を調査しようと思われたとか。

 

そこで、真田丸そのものの探求が始まりました。方法はレーザー探査と千田先生による立体視で、これらにより堀跡が分かってきました。すでに他のビルの建設時に大坂城の南惣構堀跡(空堀)は判明していました。そのより南側が真田丸で、城からは独立した出城であったことが、今回、明確になりました。東西220m、南北230mほどの四角い出丸です。

浄土宗の資料に、心眼寺の創建は白牟(はくむ)和尚により1593年とあり、この心眼寺坂に並ぶ寺は、文禄・慶長年間の創建と思われることから、真田丸は3つの寺を取り込んで、建造されたとのことです。真田丸の攻防が終了した後、1622年に心眼寺は現在の形に再建されたということになります。

 

真田丸の南側には寺町が広がり、攻防は狭い道を通って、南側から徳川軍が真田丸を攻めたことになります。ただ、大河のロケは千葉の山の中で撮影され、市街地のセットまでは予算の都合で組めなかったそうです。実際は、真田丸の戦いは市街戦を考えた方がいいのではないかとのことでした。確かに、秀吉の大坂城下建設から20年は経ち、大坂城のすぐ南側に市街地ができていただろうことは容易に考えられます。

 

実際に真田丸の跡地を発掘してみようと、地元の協力を得て、真田丸発掘推進協議会(千田嘉博会長)を立ち上げ、発掘してみようということになりました。

 

 

 写真は、説明会のあった明星学園での校内です。今まで何度もこの学校の周りを歩いてきましたが、中に入ったのは今回が初めてです。現在はキリスト教の男子校です。まさに、真田丸の現場です。こちらに400年前に信繁は立っていました。

 

 

 美術部が真田丸の復元ジオラマを作ったとのことで、見学させていただきました。なかなか見事なできばえです。ぜひ、どこかゆかりの地で展示していただきたいものです。校内にあると、関係者以外は見れないですし。

 

 

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真田丸第50回その3

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    大坂城落城 豊臣秀頼自害

 天王寺合戦で徳川軍が勝利し、豊臣方の武将が次々と倒れる中、軍勢は総崩れとなり、徳川軍が北上してきます。ドラマでは信繁の死でもって、その後の大坂城落城の様子はあっさりと終わってしまいましたが、1670年代に書かれた「大坂御陣覚書」を基に、ご紹介してみましょう。

 慶長20年5月7日夕刻、徳川方の兵が大坂城内にどんどん入って来るようになりました。真田信繁らに出陣要請を受けていた秀頼は、支度にとまどり、本丸の正門にあたる桜門まで出てきましたが、もはや天王寺で味方が総崩れの報を聞き、前線への出陣をあきらめます。

 大広間にあたる千畳敷では、自害する者、落ちのびようとする者などなど、統率者がいずにごった返していました。秀頼は天守閣に登り、自害しようとしますが、周りの者に止められ、その夜は天守閣の北側にあった朱三矢倉(現在、山里丸付近)で過ごします。天守閣は焼け落ちていまいました。豊臣方は千姫を父、秀忠のもとに秀頼の助命嘆願の使者として送りますが、秀忠の答えは翌朝、矢倉の外から鉄砲を撃ちかけることでした。

 

 真田信繁の長男、大助幸昌は足を負傷したこともあり、秀頼に出陣を要請するために城に帰されていましたが、このごに及んで、「秀頼公最期のお供をせよ。」という前日の父の遺言に従い、自害しました。周囲の者は「真田は豊臣譜代ではない、落ちのびよ。」と勧めたにも関わらず、矢倉の中は狭く周囲を汚してはいけないと、藁をしいて外で自害したと大助の豊臣家への忠義を「覚書」は後世に伝えています。享年16歳でした。「真田丸」でも大助の自害のシーンをドラマ化してくれたらと、願っていました。

 心眼寺さんに信繁のお墓を造らせていただいたのですが、その折に、この大助幸昌の自害を銘板に記しておけばよかったと、心底悔いています。心眼寺さんは信繁と息子大助の菩提を弔って、今日に至っています。今年も、5月5日の信繁法要の折には、ぜひ、大助の冥福も祈っていただくように、お願いしておきます。

 

 慶長20年(1615)5月8日昼頃、矢倉の中から多くの人々の声明の声が聞こえ、男女20数名が自害していきました。その後、内部に火をつけ、皆燃え尽きてしまいました。ここに豊臣家は滅亡しました。秀頼、享年23歳。淀は39歳だったと伝わります。

 この日、「秀頼生害の報」を茶臼山で聞いた家康は、駕籠に乗り、お供を連れて城内の焼け跡を見廻りに来ます。そして、大坂城陥落を見届け、そのまま京橋口を通り、京街道を関目・守口・枚方・淀・・と二条城へダッシュで帰還します。この日、昼間は快晴だったようですが、家康は「このような大戦さの後は、必ず雨が降る。急げ。」と予言します。実際、枚方あたりから空が曇ってきて、伏見まで来るとざざぶりの雨になったと「覚書」は記しています。

 この家康の速攻帰洛(上洛)は、他の人の日記にも登場する話で、史実でしょう。この日の大坂は落ち武者だらけで、皆、狙うは「家康の首」ですので、それを懸念した家康は京へさっさと戻ることにしたとか。

 

 秀頼には千姫の間に子はいませんでしたが、側室との間に8歳の国松と妹がいたと伝わっています。その後、国松は捕まり、京の六条河原で斬首となりますが、女の子の方は、千姫の助命嘆願もあり、鎌倉の東慶寺で尼になったそうです。

 

 

 「大阪城」といえば「難攻不落」のという枕詞がつき、「難攻不落の大阪城」と言われ、現代も多くの観光客でにぎわっています。実は、大阪城は日本史上、3度兵火に焼かれています。それでも、太閤秀吉が造った「難攻不落の大阪城」と今も言われ続けているのが、大阪城の大阪城たるゆえんでしょう。

 慶長20年、大坂の陣で猛火に焼かれ、徳川250年の平和な時代が訪れました。慶応4年(明治元年)1月9日、戊辰の役で本丸が焼かれ、世界相手に戦う明治の世が生まれました。昭和20年8月14日、大空襲により、東側の砲兵工廠一帯が全焼し、再び日本に平和が訪れました。焼かれるのは江戸城ではなく、大阪城です。

 ただ、この大阪城の焼かれ続けた歴史こそが、大阪城の魅力だと考えます。城はそもそも戦うために造られるものです。3度焼かれてもなお、城であり続ける例はそうないと思います。今なお、廃城にはならず、大阪の街の復興のシンボルであり続け、経済効果を街に与え続けてくれています。

  

 大坂の陣は日本最初の近代戦で、史上最大の内戦でした。不幸なことに市街戦が行われ、町人たちは大迷惑したことでしょう。村々も巻き込まれ、村の中で豊臣方と徳川方に別れ、悲劇が生まれたと伝わります。

 一昨年から今年にかけて、「真田丸」のおかげで真田信繁と大坂の陣について、じっくりと取り組む事ができました。

大坂冬の陣の放映の折には、真田丸紀行で今福蒲生の戦い跡碑を紹介していただき、感謝しています。最終回の紀行で、心眼寺さんに建立させていただいた「真田左衛門佐豊臣信繁」名のお墓が登場するかと期待していましたが、そちらは、上田の供養塔の方に行ってしまい、残念でした。

大阪はまだまだ「真田丸」で盛り上がっています。ぜひ、機会があれば大阪の真田丸史跡を訪ねてみてください。

  

玉造稲荷にある秀頼の大きな銅像です。大阪に秀頼の墓はありませんが、像が最近、建立されました。

 

こちらも秀頼の胞衣塚です。玉造稲荷は、豊臣期の大坂城では、大坂城内でした。

 

慶長8年、秀頼が建立した石造りの鳥居です。阪神大震災でぽっきり折れてしまいましたが、せっかくの慶長8年銘なので、神社の奥に置かれています。

 現在、大阪城内山里丸にある秀頼・淀の自刃の地碑です。この辺りとしか、言えませんが。天守閣の北側は断崖ですので、(上町台地の北の果ての断崖です。)火を避けて北に追いやられて、矢倉に入ったというなら、この辺りでしょう。

 山里丸にある聖観音像です。「真田大助」の名が刻まれています。

 

 次回からは、先日、真田丸発掘推進委員会の説明会に参加して、講演をお聞きしてきましたので、ご紹介しましょう。

 

 

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