先に、iPhoneでRuntasticを用いる際のBGMについて書いたのだが、練習時間とのビミョーな兼ね合いで曲を3曲ばかり追加した。ラインナップは以下の通り。前回同様、明るくノーテンキに練習を行うための楽曲である。
追加1:Hello Mary Lou/CCR
追加2:Lookin Out My Back Door:CCR
追加3:Let Me Be There:Olivia Newton John
前2曲は例によってCCRである。んで、更に例によってカントリー調である。
『Hello Mary Lou』の歌詞はノーテンキの極みである。ノーテンキ過ぎて、ひょっとしたらストーカー的な歪んだ愛が背後にうずくまっているのではあるまいか?と勘ぐってしまうほどのノーテンキさである。目標も克己心も何も持たずに走る我がミッドナイトランにはこれまた相応しい。
『Lookin Out My Back Door』はたぶんノーテンキな事を歌っているのだろう。ノーテンキ過ぎて意味がわからないくらいだ。私の英文読解力は下の下なので、試しにネット上にある歌詞訳を参照したら――余計にカオスに囚われた。CCRのことであるから、何か反体制的なメッセージが暗号のように隠されているのかも知れないと勘ぐらせる曲である。
『Let Me Be There』はタイトルを失念していて、iPhoneアプリのSoundHoundの前で鼻歌を歌わされるという屈辱の末にDLしたものである。
この曲、私が水商売の世界にいた時代、その店の寮で共に暮らしていた文字通りの『同僚』のラジカセ(笑)から流れてきたのを耳にしたのがファーストコンタクトである。発売は1973年とあるから、さすがにその当時の話ではない。その時この曲がヒットしていたというのではなく、同僚の個人的な趣味で所有していたCDだったのだろう。
同僚とは特に仲が良かったわけではない。それどころか、私をツブそうとして、笑顔で一服盛ってくるような油断のならない相手であった。性格も水と油だったし、服装その他の趣味も一致しない相手ではあったが、なぜかこの曲は耳に心地良かった。日銭を他人より多く稼ぐことが全てだった、刹那的かつ殺伐とした日々の中で「人生悪いことばかりじゃないよ」とマエムキにさせてくれる何かが、この曲にはあった。
その同僚ももういない。私の周囲にいないという意味ではない。この世にいないのだ。私と故人の間に懐かしむような甘っちょろい思い出はなく、どちらかと言うと狭い寮の中で共食いをしたような苦々しい記憶しかないし、彼女の最期については思い出したくもない。憐れむ故にではなく、その死に様に私自らの末路をも投影させられるからだ。
そんな曲をエクササイズの供にするのは悪趣味の極みという方もいるだろう。だが、何も私はこの曲にのって体を鍛えることで、まだ生きていることを誇示して相手の霊を悔しがらせたいわけでは当然ない。逆に「悔しがりなさるな、アタシもそう遠くない将来に朽ちた骸を晒すから」という(いささかヒネくれた形ではあるが)同じ時代を生きた御霊への鎮魂の意味を込めているのである。あの世界では程度の差こそあれみなヒネくれていたし、あの世界には友だちなど一人もいなかった。そんな空気を共に吸ったあなたへ。R.I.P
追加1:Hello Mary Lou/CCR
追加2:Lookin Out My Back Door:CCR
追加3:Let Me Be There:Olivia Newton John
前2曲は例によってCCRである。んで、更に例によってカントリー調である。
『Hello Mary Lou』の歌詞はノーテンキの極みである。ノーテンキ過ぎて、ひょっとしたらストーカー的な歪んだ愛が背後にうずくまっているのではあるまいか?と勘ぐってしまうほどのノーテンキさである。目標も克己心も何も持たずに走る我がミッドナイトランにはこれまた相応しい。
『Lookin Out My Back Door』はたぶんノーテンキな事を歌っているのだろう。ノーテンキ過ぎて意味がわからないくらいだ。私の英文読解力は下の下なので、試しにネット上にある歌詞訳を参照したら――余計にカオスに囚われた。CCRのことであるから、何か反体制的なメッセージが暗号のように隠されているのかも知れないと勘ぐらせる曲である。
『Let Me Be There』はタイトルを失念していて、iPhoneアプリのSoundHoundの前で鼻歌を歌わされるという屈辱の末にDLしたものである。
この曲、私が水商売の世界にいた時代、その店の寮で共に暮らしていた文字通りの『同僚』のラジカセ(笑)から流れてきたのを耳にしたのがファーストコンタクトである。発売は1973年とあるから、さすがにその当時の話ではない。その時この曲がヒットしていたというのではなく、同僚の個人的な趣味で所有していたCDだったのだろう。
同僚とは特に仲が良かったわけではない。それどころか、私をツブそうとして、笑顔で一服盛ってくるような油断のならない相手であった。性格も水と油だったし、服装その他の趣味も一致しない相手ではあったが、なぜかこの曲は耳に心地良かった。日銭を他人より多く稼ぐことが全てだった、刹那的かつ殺伐とした日々の中で「人生悪いことばかりじゃないよ」とマエムキにさせてくれる何かが、この曲にはあった。
その同僚ももういない。私の周囲にいないという意味ではない。この世にいないのだ。私と故人の間に懐かしむような甘っちょろい思い出はなく、どちらかと言うと狭い寮の中で共食いをしたような苦々しい記憶しかないし、彼女の最期については思い出したくもない。憐れむ故にではなく、その死に様に私自らの末路をも投影させられるからだ。
そんな曲をエクササイズの供にするのは悪趣味の極みという方もいるだろう。だが、何も私はこの曲にのって体を鍛えることで、まだ生きていることを誇示して相手の霊を悔しがらせたいわけでは当然ない。逆に「悔しがりなさるな、アタシもそう遠くない将来に朽ちた骸を晒すから」という(いささかヒネくれた形ではあるが)同じ時代を生きた御霊への鎮魂の意味を込めているのである。あの世界では程度の差こそあれみなヒネくれていたし、あの世界には友だちなど一人もいなかった。そんな空気を共に吸ったあなたへ。R.I.P