昨夏のちょうどお盆の時期に、期待と緊張で訪れた「魔法学校」を境に私の毎日は大きく好転し始めた。
 
 
そこから、より楽に、楽しく、毎日を過ごすために自分の「欲」というものと向き合っている。
 
 
「助けたい欲」から始まり、「スゴイ人になりたい欲」、「人より幸せでありたい欲」などの『承認欲求』にいつも目を光らせて、手放してきたことで、かなり気持ち的にも軽く、楽になり、生きやすくなってきた。
 
 
かなり不要な欲は手放してはきたけれど、今、もしかしたらこれが最後の砦ではないかと思われる、子供に対しての「支配欲」に取り組む時期がやってきたと感じている。
 
 
 
「支配欲」。つまり、人を自分の思い通りにコントロールしたいという「欲」。
 
 
 
なぜ、「支配欲」が生まれるのか。それは、未来への不安、心配である「怖れ」を回避するために、現実を自分の思い通りにしようとするため。
つまり、「ディフェンス」から起こっている。
 
 
最近、ディフェンスからの子育ては苦しいので、ネガティブな面ではなく、その反対側にあるポジティブな面に目を向けて、ポジティブ面から判断する、ということを意識している。
 
 
ここが自然にできるようになれば、だいぶ「支配欲」は和らぐのではないかと予想しているけれど、子どもたちに対して「支配欲」が出てくるときは、ディフェンス以外にもあることも分かっている。
 
 
最終的には、そこを落としていかないといけない。
 
 
どんな時に「支配欲」が顔を出すのか、しばらく自分を観察することにしよう。
 
 

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ポジティブ目線

テーマ:
初めて会った人とのお喋りの中で、その人の抱えていそうな苦しみにぼんやりと焦点を当てていることがある。
 
SNSの投稿に目を通しながら、その人が隠しているであろう闇の部分に気づいてしまう。
 
 

最近、人を見る時の目線について、考えている。

つまり、人からどんな情報をキャッチしているかと言うこと。
 
 
先の例のように、どうも私は、ネガティヴ目線で情報をキャッチしがちだ、という自覚がある。
 
 
あの人、何だか無理してそう。
あの人、胸の中にキューっとした苦しみみたいのを抱えてそう。
あの人、余裕がないんだな。
 
 
そんな風に、ネガティヴな情報の方を多く拾ってしまう傾向にあるようだ。
 
 
けれど、苦しみを抱えていそうな人にも、ポジティブな面は、ある。
100%ネガティヴしかない人は、あまりいない。
 
 
それなのに、目の前の人のネガティヴ探しをしてしまう。
 
 
私たちは、見たいものしか見ないのだとしたら、ネガティヴ探しをしている私は、目の前の人がネガティヴである必要があるわけだ。
 
 
でも、私の目の前の人がネガティヴである必要は、どこにもない。
どうも、変容前の承認欲求(助けたい欲)が強かった時の癖のような気がしている。
 
 
なぜなら、ネガティヴポイントを見つけたところで、「でも、私にはどうもしてあげられないしな」と冷静に相手を見ている自分がいつもいるから。
 
「あー、大変なんだなー。」
 
と思うだけ。
 
 
だからこそ、目下、ポジティブ目線を練習中。
目の前の人のポジティブな面にフォーカスする。
 
 
これが、意識することなく、当たり前に行えるようになったら、また、見える世界が変わると思っている。
 
 
最近、久しぶりにお会いした人に、「まだまだ変わりそうだね」と言われた。
 
本当にそうだと思う。まだまだ、変われる。
そして、良い方にしか変わらないことを私は知っている。
 
 
 

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この話は、ひょんな繋がりから、とあるライターさんのエッセイに出会ったことから始まる。

 
 
知人の知人がシェアしていた一本のエッセイ。なぜだか分からないけれど気になり、気付いた時には、記事のリンクに指が伸びていた。
 
 
エッセイの書き出しから引き込まれた。正直なところ、数日前のことなのに、内容はもう思い出せないほどに心に残るものではなかったのだけれど、その文章の美しさに心が惹かれた。言葉のチョイスというよりは、そこに流れる、静かな空気感に。
 
 
「あぁ、私もこんな美しい文章を書けるようになりたい」
 
 
心の底から湧き出た欲求だった。
 
 
自分を表現する方法は、描く、歌う、踊るなど様々なものがあるけれど、私にとって表現として一番満たされるのが、文章を書くこと。これは、子どもの頃から変わらない。
 
 
私は、文章を書くことが好きな子どもだった。それは、小学五年生の時に、朝日新聞の文章通信講座(おそらく大人向けの講座だったと記憶している)を受講してしまうほどに。
 
 
社会人になってからも、心のどこかでいつも「文章を書くことを仕事にしたい」と思っていた。
 
 
実は、数ヶ月前にその長年の夢が実現した。
昨夏からお世話になっているスピリチュアル能力開花の魔法学校のブログ担当スタッフとなり、ほぼ毎日のようにスピリチュアル情報の記事を書かせてもらっている。
 
 
 
スピリチュアルという好きな世界のことを文章にするのは楽しい作業で、毎日、満たされているのだけれど、前出のエッセイと出会って、もっと違う形の文章を書きたいという思いに至った。
 
 
そう、自分を表現するための文章を。
 
 
誰かに情報を提供するための文章でもなく、誰かに自分を理解してもらうための文章でもなく、ただ、自分のために、自分を表現するために文章を書きたい。
 
 
この欲は、承認欲求などとは異なる、見返りを期待しない欲。
つまり、本能的な生きるための欲なんだ。
 
 
文章の上手い、下手は関係ない。
自分が満足できるか。
ただ、それだけ。
 
 
 
最近、魔法学校ブログを書くのが楽しくて、こちらのブログが滞っていたけれど、また、私の表現の場としても、文章を綴っていこう。
 
 
 

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夕飯の準備で忙しくしていた時間、五歳の次女に「えほんよんでー」とねだられた。

「今、ご飯作ってるから、これが終わるまで待っててくれる?」
私の答えに、次女はグズグズと泣き始める。
 
そんな次女の姿に
「じゃぁ、いいよ。絵本、読むよ!ご飯作ってないけど!」
と、ついイライラしながら返してしまった。
 
 
私が悲しむのが、苦手な次女は、「ごはんつくっていいよ!えほんみながらまってるよ!」と、愚図りながらも、こちらの条件をのんでくれた。彼女は、小さいながらもこうして譲歩してくれることがある。
 
我慢させて申し訳ない気持ちもあり、急いでご飯の支度を済ませ、次女のリクエストに応えて、絵本を読んだ。そして少し長めの一冊の本を読み終えたところで、時計に目をやる。結構ないい時間になっていた。
 
 
まだ、お風呂も洗ってない。◯◯もしていない、◯◯も…。
 
 
子供たちの寝かしつけの時間までにやらなければならないことのいくつか浮かび、残り時間がそのためには十分でないことに、気持ちがどっと重たくなる。
 
 
「もう、こっから全部、ママ一人でやるの無理だわ。みんな、助けて!お風呂洗いながら、入ってくれる?」
 
と、子どもたちにお願いしてみた。
 
 
「いーよ!ウチ、あらうよ!」と快く引き受けてくれた次女に対し、姉さんは冷めた目でこちらをみて「ウチ、宿題するから、やらない」とあっさり断ってきた。もちろん、二人とも快く引き受けてくれるはずと期待していた分、がっかりした。
 
 
宿題、と言っても、それは春休みの宿題で、今日必ずやらなければいけない宿題とは違うのに…。
 
 
 
だんだんと、悲しいやら、腹がたつやら、何とも言えない気持ちが湧いてきた。
次女がお風呂を洗い始めても、宿題に手をつけずに、本を読んで過ごしている姉さんの姿に、嫌味の一つ、二つ言ったところで、気持ちが収まらない。
 
 
 
気持ちを切り替えようと、
「と言っても、普段、妹の面倒を見てくれたり、なんだかんだと手伝ってくれてるよね」とか
「私が姉さんに期待してるってことか」とか
「なんで、こんなに嫌な気持ちになるんだろう」とか考えてみる。
 
それでも、気持ちは収まらない。
 
最終的には、次女がすっぽんぽんで、「洗ったよー!」と笑顔で報告しにきた姿に癒されて、気持ちが落ち着いたのだけれど。
 
 
 
長女との間では、こんなことが良くある。
 
 
 
9歳、難しい年頃であるのは間違いないが、これは姉さんが小さい頃から続いている姉さんの私に対する立ち位置でもある。
 
 
 
姉さんは「与えられる」のを待っている。とにかく、「与えて欲しい人」。
そして「与えて欲しい」という彼女の欲求は、私をしばし疲弊させる。
 
なぜなら、私の頭の中に「子どもに求められたら応えなければならない」という思い込みが、しつこく染み込んでいるから。
 
だから、姉さんの子育ては、与えるばかりで奴隷や召使いになったような気分になることがあるんだ。
 
 
 
姉さんの「与えて!」に疲弊する度に、『いやいや、姉さんが私に与えてくれているものも沢山あるはずなんだから、与えられているものにフォーカスしよう』と、『与えてばっかり』と感じる自分の気持ちを否定もしてきた。
 
 
そして、実は、私は本来は「与えて欲しい人」。そりゃ、長女とは疲れてしまうわけだ。
(ちなみに、夫は与える人なので、長女は夫が大好き)
 
 
逆に次女は、与える人。
お手伝いもやりたがるし、目が合えば当たり前のように笑顔を返してくる。
だから、次女とは長女との間にあるような摩擦はない。
 
 
与える人、与えられる人が、もともと持っている性質なんだとしたら、うまく付き合っていくしかない。


私が、どんな時に「与えてばかり」と感じるか、しばらく観察してみることにする。
与えられていることにもフォーカスしながら。
 

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あーでもない、こーでもない、と子どもを注意しながら、ふと「まだまだ、子育てに力入ってるなー」と気づく。



ディフェンスからの行動は、縮小していくだけ。
恐れからではなく、愛から行動する。



魔法学校の谷口スズさんから教わった、大切な言葉。



私の子育ては、思えばディフェンスだらけの子育てだった。



姉さんが、首が座った頃に手にした雑誌にシュタイナー教育が紹介されていた。
その、優しい雰囲気、子どもを包み込むような子育て方法に釘付けになった。



それから、何冊も何冊もシュタイナー教育の本を読んで勉強した。



創造力を育むのを阻害するから、テレビは見てはいけない

7歳までは、知的に目覚めさせないために、文字を教えない。


それらの本に紹介されていたシュタイナー教育は、とにかく、この現代社会で子供の成長を阻むものから守り抜く子育てだった。



本来のシュタイナー教育とは、そんなあれもダメ、これもダメ、という教育法ではないということを、後々に入間カイさんの著者により知ることになる。



その本のおかげで、窮屈さから解放され、やっぱりシュタイナー教育は、素晴らしい教育だと思うに至るが、それまでの私は、現代社会が子どもにもたらすものへの「怖れ」から子育てしていた。



子育てのスタートが、そこからなので、私の中で「怖れ」からの子育てが、染み付いてしまっているようだ。



それでも、かなり「怖れ」を手放したからか、子どもたちや、そのお友達からは「優しい(厳しくない)お母さん」という印象を持ってもらっているようではある。



それでも、まだまだ、「怖れ」からの行動を選択しがちだ。



それが起こることによる「怖れ」ではなく、メリットやポジティブなことに着目することを特訓中。



そして、明らかにデメリットしかないことでなければ、できるだけ「愛」からの行動を選択していきたい。



子育て10年の節目を前に、大きな方向転換をすることができるか。
これができれば、子育てだけでなく、娘たちの成長、私の日々も大きく変わるだろう。
もちろん、良い方向に!

 
 

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意外な承認欲求

仕事関連のLINEに目を通している時に、胸の中のある感情が、僅かに動いたことに気がついた。

そして、私はそのことに少しガッカリした。
「まだ、あるのか…」




昨年の夏に通った、自分を生きるためのゼロ地点に戻るセミナーから半年。不要な欲をどんどん手放してきた。

その中の一つ「スゴイ人になりたい欲」。
これは、結構しつこくて、何度も何度も向き合ってきた。そして、手放したつもりでいた。

それが、まだ、胸の中にしまわれていたんだから、そりゃ、ガッカリする。




スゴイ人になって、どうしたいというのだろう。

この世の中には、スゴイ人なんて一人もいないし、誰もが皆、スゴイ人であるのに。

「あー、情けない、情けない。」

顕在意識の私は、「スゴイ人になりたい私」にこう呟く。




スゴイ人になったら、何が起こるのだろう。


人にスゴイ人と認められる?
スゴイ人になって、何かを成し遂げる?


正直、本当にどうでも良い、そんなことは。


例えば、水泳を習っていたら、競技会で一番になりたい!と思うのと一緒だろうか?(実のところ、カナヅチなので、この例はしっくりこないが)

そんなのともちょっと違うように思う。



考えられる限りのスゴイ人になった自分を想像してみて、ハッとした。

あー、私は、「上」に認められたいんだって。上とはつまり、神さまのこと。

そう考えると、合点する。

例えばお金持ちになりたいとか、文章が上手くかける人になりたいとか、人より卓越した才能を発揮したいとか、そういうこの世を生きる上での欲って、ほぼ感じない。

けれど、スピリチュアルな世界のことに関しては、あんな風になりたい、こうなりたい、という欲が顔を出す。

なんだよ、神さまに認められたい欲って。


自分の魂が、まだそこに達していないことにガッカリしている、という表現がぴったりハマる。

子どもが、早く大人になりたい!

って思う、あんな感じのあの世バージョンなんだろうか…。



この半年くらい、
自分の中にあった
色んな不要ものを手放してきました。
 
心をクリアにして軽くするために。
 
まず、最初に手放したのは
様々な欲。
 
欲 と言っても色々ありますね。
 
物欲
金銭欲
助けたい欲
スゴイ人になりたい欲
認めてもらいたい欲 
 
 
挙げればキリがないですが
主に、私の中にあったのは
助けたい欲 と スゴイ人になりたい欲でした。
 
どちらの欲も、その根本にあったのは
承認欲求=認めてもらいたい欲 です。
 
そもそも、なぜ、欲を手放した方がいいのか。
 
例えば、お金に対する欲が強くて
ケチで、がめつい人がいたとします。
 
その人が、何か、買い物をする時
どんな気持ちで品物を選ぶでしょう。
 
損したくない!得したい!
 
という想いで、品物を吟味し、
お金を払っているとしたら
 
なんだか、その想い=エネルギーって
重たいですよね?
 
 
逆に、お金に対して欲がなく、
お金を自分に必要なものと交換できる道具
と思っていたら、
 
必要なものが手に入って
ありがとう!という気持ちでお金を払えます。
 
後者の方が、エネルギーが軽やかなのは
感覚として摑めるでしょうか?
 
 
そんな訳で、
欲は、あなたの発する
エネルギーを重たくします。
 
エネルギーが重たいと
重たいエネルギーを引き寄せます。
 
だから、身も心も軽やかでいて
軽やかなエネルギーを循環するために
欲は手放した方がいいと思っています。
 
 

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今の自分を良いところも悪いところも
全部、認める。
 
他人を羨んだり、
自分をダメだと卑下したり
 
そんな方は
良いとか悪いとかの判断をせずに
「今のそのままの自分を認める」
という作業はとても大切だと思います。
 
例えば、自分の怠け者なところが
ダメだと思っている人は
それを悪いとジャッジせずに
「あー、自分は怠け者なんだな」と認める。
 
例えば、誰かのことを批判したくなった時
そんな自分を否定せずに
「あの人のことを批判したいんだな」と認める。
 
そうやって、自分の気持ちや言動を
良い悪いのジャッジせずに
「そういう自分もいる」と認める。
 
でも、そこで終わりではないと思うんです。
 
その次のステップとして
じゃあ、どうして自分は
そういう気持ちを感じるのか。
どうして、そういう言動を取ったのか。
 
自分を見つめる作業は大事です。
 
その感情や言動の原因となった
根っこの部分に気づく、ということが
大事だと思うんです。
 
この作業は、時に苦しいけれど、
根っこの部分に気づいて、
その存在を認める。

そして、それが
もう今の自分に不要であるならば
手放すと決める。
 
そんな風にして
少しずつ必要のないものを
手放して、身軽になってきました。
 
自分を見つめるのが苦手
という方もいらっしゃいますが
そんな方は、体を緩めると
自分と向き合いやすくなってくると思いますよ!
 

 
身体がゆるむと心が変わる!
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人に相談事をして
アドバイスを貰ったのに

でも…!

でも…!

でも…!

と自分の主張を繰り返される方を
時折見かけます。


私はそんな時、

この方は、
相談していることを解決することよりも
とにかく、「自分が正しい!」というのを
認めて欲しいんだなー


と、ぼんやり眺めています。


その問題に限らずに
いつも「自分のことを認めて欲しい」
承認欲求があるのだと思います。


なので、思い当たる節のある方は
まず、自分で自分のことを認める
ことから始められるといいかもしれません。


自分で自分を認めるって
具体的にどうすればいいのでしょう。

和みのヨーガの基礎となっている
認知真理学のワークの
一つをご紹介します。

自分の良いところ、
悪いところを書き出してみてください。

そして、物事には必ず
表があれば裏があり
裏があれば、表がある。

なので、悪いところと
思っていた部分も
裏を返せば
良いところと見ることもできるのです。


たとえば、

心配性 は
慎重である


ズケズケ言う は
気持ちに素直


そんな風に、裏の意味を
探していくと

良いとか悪いという判断はなくなり
単純に 
「あ、私ってこーゆう人なのね」
以上、まる。

というところに、落ち着きます。


でもね、身体と心が緊張していると
「というところ」に心の底から
落ち着きにくい場合もあるかもしれません。


そんな時は、まず、身体を緩めてみてください。

身体がゆるむと、こころが変わる。
身体がゆるむと、考え方が変わる。

和みのヨーガで、実感してみませんか?


足立区西新井 北綾瀬で
心とからだのセルフケア
和みのヨーガをお伝えしています!

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苦手な人を好きになる

テーマ:
誰にだって
苦手な人の1人や2人いますよね。

自己啓発などをやっている方の中には
目の前の人の言動は
自分の心を映す鏡
という言葉を
聞いたことがあると思います。

確かに、そうなんです。

苦手な人がいた場合

その人のどんな言動が苦手なのか
なぜ、苦手とかイヤだと感じるのか

を掘り下げていくと

苦手と感じる言動を

自分に許してないことに気がついたり
実は、自分も同じような言動を取っていて
そんな自分をイヤだと思っている

というようなことに
気がつくわけです。


なので、苦手な人に遭遇した時は
内省のチャンス!
だったりするんですね。


内省の末に、
その苦手だと思う言動に関して
心の底から許可を出せれば
気にならなくなるはずです。

ま、いっか!

と。


でも、心の底から
許可を出せない場合もあります。
頭では分かっているけれど…。

そんな時に、私、力技で許して、
苦手な人を苦手ではないことにしようと
していることに気がつきました…。


苦手な人がいるのは、
ステキではない

という、思い込みがあったから。

そして、それが
仲間の中の一人だったりしたら
なんとか好きになろうと
努力をしていました。

でも………。


苦手な人を好きにならなくても
いいよね?


苦手な人を苦手なままにしておいても
いいよね?


だって、単純に
りんごは好きだけど
バナナは苦手

みたいな部分だってあるよね?


なので、苦手な人は
苦手なままで、いいやー!!

と思ったのでした。


うーん、気が楽だわ〜♪


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