今後の豫定

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高位卑秩

 難しいところなんですが。

 位は官ではなく、位階なんですけれど。
 宋代みたいに目に見えるとわかりやすいんでしょうけれど。
 ただ漢代でも、官職のランク、給与体系とは別の、その人個人のランクっていうのがあったはずなんですけれどね。


 この高位卑質。漢代ですど、代表例となりますのが、尚書・刺史・御史。あるいは設置されていたりしなかったり、時代が下ってできる中書・秘書も含まれるかも知れません。ただ明確な規定は判らないので、中書・秘書については高位卑秩に入らないかも。

 秩はランクなんですが、ただランクと言ってしまうと不正確。しかしあるいは誤解している人がいるかもしれないですが、給与体系ではないわけです。給与体系は、あくまで俸ですから。

 果たして尚書・刺史・御史が高位なのか、これは不明瞭といえば不明瞭。
 根拠となるのは、数々の特典措置。例えば尚書と三公の車が道であったら、三公は尚書に道を譲らないとけないとか。
 
 こういう尚書・刺史・御史といった、実質的に皇帝直属となる官は軒並み秩石が低い。といっても、高級官僚の入り口である六百石であるわけですけれど。

 それが徐々に高位高秩化していく、と同時に「内」から「外」となってゆき、実権をうしなていくわけです。これは中国史ではどこでもあることなんですが。

 問題は「外」になるタイミング、その理由。こういった所が判ると面白いわけで。

 少なくとも尚書・刺史・御史で言えば、後漢では大体同時期に変化していっている。この辺の大きな動きをとらえると面白いかなと。

 
 それはそれとして、内と外でわかるように、高位とはいっても、そもそも位の体系がことなるはずだから、他の官職と比較して高位卑帙といっていいのか?とは思うのです。多分、後漢後期くらい、大体桓帝の中頃以降については言ってもいいのかもしれないけれど。

 まあこういう事も頭にいれて考えないと、全部が全部同じってことは絶対にないわけで。おそらく士人と宦官の官職体系なら、多くの人がわけて考えるんでしょうけれどね。概ね少府「文屬」官と三公を頂点とする官職体系とは一緒にして考えると危険なんですよね。

 「文屬」官の紹介は次回。
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