【古典文学】 現代語訳してみた。

【古典文学】 現代語訳してみた。

古典文学をざっくりと現代語訳してます。
古典を楽しんでもらうことが目的なので、原文や文法に対する忠実さよりも、読みやすさを重視しています。
まだ『枕草子』しかありませんが、他の作品も訳したいと思っています。
ブログ内の画像、文章の無断転載禁止です。

『枕草子』を

ざっくりと おおざっぱに テキトーに

訳してます。


読み物としての古典を楽しんでもらうことが目的なので、

文法的正確さより読みやすさを重視しています。



      「内容間違ってない?」(´д`)?

    「こう訳した方がいいと思う」(´・ω・)ノ

      「読みづらいわ!」(# ゚Д゚)



など、助言いただけるとありがたいです。
忌憚なく仰せつけください。m(_ _)m

全章段訳すと挫折しそうなので主要な章段を先に訳してます。
いつか全章段訳せたらいいなあ。


ブログ内の画像、文章の無断転載禁止です。
Amebaでブログを始めよう!
明日は十三夜ですね。

今年の十五夜は天気が悪かったので、十三夜はと期待していたのですが、
天気予報をみると期待できなさそうですね…

今年の十五夜は浅草で買った芋羊羹を食べてました。
十五夜の月は芋名月といわれているので芋羊羹にしたのですが、
芋名月の芋はサツマイモではなく里芋ですから芋羊羹は反則かもしれません(笑)

十三夜の月は枝豆や栗をお供えするので豆名月とか栗名月といわれますね。
明日はモンブランでもお供えしましょうか(笑)

芋、豆、栗など、いろいろな食物が取れる時期であることから、
もともとは収穫祭の意味のほうが強かったのではないかと勝手に思っています。
だってこの時期の食べ物おいしいし。

お月見のときにお供えする食べ物といえば月見団子が欠かせませんね。
月見団子は地方によって形がちがうようです。
関東は満月を模してまん丸。
関西は細長い楕円形に餡をのせたもの。里芋を模したそうです。
東北は団子の中に餡が入っているのだとか。

ススキもお供えしますが、これはまだ収穫できない稲のかわりにお供えしたものともいわれています。

書いてたら団子食べたくなってきた



十五夜は中国から入ってきた行事で、日本では平安時代から十五夜の月を愛でるようになりました。
平安時代の十五夜は詩歌管弦の宴をしてすごしました。
現在のお月見のスタイルは、江戸時代にお月見が民間に広まったときのものだそうです。
十五夜の月を見たら十三夜の月も見ないと「片見月」といって縁起が悪いと
いわれていますが、この話は遊郭に由来するといわれ、十五夜に来たお客さんに
十三夜にも来てもらうための遊女の営業戦略がもとになっているといわれています。



その遊女が巧みに利用した十三夜は日本独自の行事で、起源は平安時代。
宇多法皇(867~931。天皇としての在位は887~897。)が十三夜の月を「無双」と評したのが始まりとする説と、
醍醐天皇(885~930。在位897~930)の時代に月見の宴が開かれたのが始まりとする説があります。



日本では月の模様を餅をついているウサギとみますが、
中国では不老不死の薬を作っているウサギとみます。
実は日本でも元々は不老不死の薬を作っている様子と見ていたのですが、
満月を表す「望月」という言葉が「餅つき」に通じるため、
ウサギが餅をつく様子と見るようになったといわれています。

薬を作っているにせよ、餅をついているにせよ、そもそもなんでウサギなのか。
次の話がもとになっています

むかぁしむかし、猿、狐、ウサギの三匹が倒れている老人を見つけました。
三匹は老人を助けるため、食べ物を集めました。
猿は木の実を、狐は魚をとってきましたが、ウサギは何も持ってこれませんでした。
ウサギは猿と狐に火を焚くよう頼み、自らが食料になるために火に飛び込みました。
ウサギを哀れに思った老人は元の姿である帝釈天にもどり、
ウサギを称えるため、月にウサギの姿を永遠に残しました。

これはインドの仏教説話です。
ちなみに中国では月にはウサギだけではなくヒキガエルもいるようですが、
「明日は十三夜ですね」と書き出したのに日付が変わってしまって
今日が十三夜になってしまったのでその話はまたの機会(来年!?)にでもw
(言葉を返している間に、源の中将は立ち去り、かわって則光がやってきて)

「お祝いを申し上げようと思いまして、中宮様のもとにおられるかと

思ってそちらへ参ってました」

「なんです?除目があったとは聞いてないですが、何かなられたのですか?」

と尋ねると、

「本当にすばらしいことが昨夜あったので、

お知らせするのを待ち遠しく思いながら夜を明かしました。

こんな名誉なことはありません」

と言って、さきほど源の中将がお話になったことと同じことを話して、

「『この返事によっては勅勘を被っても(※1)やむをえないぞ。

清少納言なんて存在したとさえ思うもんか』と頭の中将がおっしゃって、

その場にいた人たちで考えて手紙をあなたに出したのですが、

主殿司が返事ももらわず帰ってきたときはほっとしました。

でもまた遣わして返事をもらって帰ってきたときはヒヤヒヤして、

出来の悪い返事だったらに兄(※2)とっても不名誉ではないかと

心配してたのですが、並みの返事でなく、みんなほめて感心して

『お兄さん、こっち来てこれを聞きなさいよ』とおっしゃったので、

内心うれしかったのですが、

『詩歌のことはまったくお相手できないもので』と申し上げると、

『批評しろとか理解しろってんじゃない。ただ吹聴しろってんで聞かせてるんだ』

とおっしゃって、

少し情けない兄の思われ方でした……。

『上の句をつけようと思うのですがいいのがうかびません。

これに返事をしないといけないわけでもないでしょう』

『返歌が下手だと言われたらいやだよなあ』

などと夜中まで相談してました。

これは私にとってもあなたにとってもとても

いいことではないですか。除目でちょっといい官職をもらっても

これほど嬉しいとは思わないですよ」

と言いました。



大勢でそんなことをたくらんでいたとも知らずに変な返事をしてたら

怒らせてたかもしれないと知って、冷や汗かきましたわ。

自分と則光を「兄妹」とよぶのは帝までご存知で、殿上でも

則光は「お兄さん」とよばれています。



則光と雑談しているとき、中宮様が「早くおこし」とお召しになったので参上すると、

このことをお話になるためにわたくしをお召しになったのでした。

帝がお笑いになり、中宮様がお話し申し上げ、

「殿上の男たちはみな扇にあの句を書いて持っていますよ」

とおおせになり、わたくしはそれにあきれて、誰が吹聴したのかしらと思いましたわ。

さてその後の頭の中将はというと、

袖で几帳のように顔を隠したりするのをおやめになって、

わたくしへのお考えもお変えくださったようです。



▽▲▽▲▽▲▽▲▽▲▽▲▽▲▽▲▽▲▽▲
(※1)
原文では「こかけをしふみし」となっていて、意味はわかっていません。
竹かごでできた入れ物を懸けたり、紙を貼ったりして、
勅勘の家であることを示す習慣があったことから、
「籠懸け押し文し」と書き、勅勘を被るという意味だとする説があります。
今回はその説に従って訳しました。

(※2)
清少納言と橘則光は互いに兄妹と呼び合い、宮中でもその仲は
知られていたそうです。
(実際には兄妹ではなく、夫婦です)



■□■□■□■□■原文■□■□■□■□■
「いみじきよろこび申しになむ、上にやとてまゐりたりつる」
と言へば、
「なんぞ。司召しなども聞えぬを。何になりたまへるぞ」
と問へば、
「いな、まことにいみじう嬉しき事の夜べはべりしを、心もとなく思ひ明かしてなむ。
かばかり面目あることなかりき」
とて、はじめありけることども、中将の語りたまひつる、同じことを言ひて、
「『ただこの返り事にしたがひて、こかけおしふみし、すべてさる者ありきとだに思はじ』
と、頭の中将のたまへば、ある限りかうようしてやりたまひしに、
ただに来たりしは、なかなかよかりき。
持て来たりしたびは、いかならむと胸つぶれて、まことにわるからむは、
せうとのためにもわるかるべしと思ひしに、なのめにだにあらず、
そこらの人のほめ感じて、『せうと、こち来。これきけ』とのたまひしかば、
下心地はいとうれしけれど、
『さやうの方に、さらにえ候ふまじき身になむ』と申ししかば、
『言(こと)加えよ、聞き知れとにはあらず。ただ人に語れとて聞かするぞ』
とのたまひしになむ。少し口惜しきせうとおぼえにはべりしかども、
『本(もと)つけ試みるに、言ふべきやうなし。ことに、またこれが返しをやすべき』
などと言ひあはせ、『わるしと言はれてはなかなかねたかるべし』とて、
夜中までおはせし。これは身のため、人のためにも、いみじき喜びにはべらずや。
司召しに少々の司得てはべらむは、何ともおぼゆまじくなむ」と言へば、
げにあまたしてさることあらむとも知らで、ねたうもあるべかりけるかなと、
これらなむ胸つぶれておぼゆる。
この「いもうとせうと」といふことは、上までみな知ろしめし、殿上にも、
司の名を言はで、せうとぞつけられたる。
物語などしてゐたるほどに、「まづ」と召したれば、まゐりたるに、
この事おほせられむとなりけり。
上笑はせたまひて、語り聞こえさせたまひて、
「男どもみな扇に書きつけてなむ持たる。」など仰せらるるにこそ、
あさましう、何の言はせけるにかとおぼえしか。
さて後ぞ、袖の几帳なども取り捨てて、思ひなほりたまふめりし。
みんな寝て、翌朝早くに自分の局にさがると、

「ここに草の庵はいますか?」

という源の中将(※1)の声が聞こえました。

「そんな人間らしくないものいませんわ。

『玉の台(うてな)(※2)』とお聞きになったらお答えしたでしょうけど」

「ああよかった。下の局(※3)にいたのですね。上の局で探そうかとしてました」

とおっしゃり、昨夜のことを

「頭の中将の宿直所(※4)に身分のある人たちと六位蔵人が集まって、

いろんな人の昔や今の噂を話していたのですが、頭の中将が

『清少納言絶交したはいいもののやはり放っておけない。

向こうから何か言ってくるかと思ったらそうでもないし、

何とも思ってないようでしゃくだから、今夜仲直りするか

絶交するかけりをつけよう』とおっしゃったので、

みんなで相談してあのお手紙を届けしたのです。

でも『「後で読む」とおっしゃって中へ入ってしまった』と主殿司が言ったので、

『手をつかんででも返事をもらってこい。それができなければ

手紙を取り返してこい』と命じて、あのひどい雨の中追い返したら

早く帰ってきて、『これを』と差し出したのが、頭の中将が出したお手紙でした。

『返してきたのか』と頭の中将が手紙を見ると同時に声をあげたので、

みんな何事かと読んでみたら、みんなあなたの返しに感心して

『たいしたもんだ。捨て置けたものじゃない』と騒いでいましたよ。

『これの上の句をつけてやろう。源中将、つけといて』と言われまして、

夜更けまで考えましたが思いつかず、結局そのままになっていました。

このことはきっと今後も語り継がれるでしょう」

と恥ずかしくなるくらいに話してきました。

「今はあなたは『草の庵』と呼ばれています」

と言い残して猛スピードで立ち去ってしまったので、


「とてもみっともない名前が後世まで残るのはとても残念なこと

です……」 

と言っている間に修理亮(すりのすけ)則光(のりみつ)(※5)が来てしまいました。



▽▲▽▲▽▲▽▲▽▲▽▲▽▲▽▲▽▲▽▲
(※1)
源宣方(みなもとののぶかた)。
左大臣重信の子です。この章段は長徳元年(995年)二月の話で、
宣方は正暦五年(994年)に右中将になっています。

(※2)
立派な御殿の意味です。
粗末な家「草の庵」に対して言いました。
けふ見れば玉のうてなもなかりけりあやめの草の庵のみして
(拾遺・夏・詠み人知らず)
(端午の節供の今日見渡せば、立派な御殿などない。屋根にあやめを葺いた草の庵ばかりで。)
(端午の節供の日は、あやめの草を屋根にのせる習慣がありました)
を踏まえたものとも言われています。

(※3)
上の局は中宮の御前を指すのに対し、
下の局は下に賜った局を指します。

(※4)
頭の中将の宿直所

蔵人町屋(蔵人の宿泊所)の北廂の部屋。

(※5)
宮中の修理をする修理職(すりしき)の次官を修理亮といいます。
橘則光が修理亮になるのはこの章段の翌年長徳二年(996)です。
執筆時の則光の役職名で書いたため年代が前後しています。
橘則光は清少納言の夫で、天元四年(981)に結婚したとされています。



■□■□■□■□■原文■□■□■□■□■
みな寝て、つとめていととく局に下りたれば、源の中将の声にて、
「ここに草の庵やある」
とおどろおどろしく言へば、
「あやし。などてか人げなきものはあらむ。
『玉の台』ともとめたまはしかば、いらへてまし」
と言ふ。
「あなうれし。下とありけるよ。上にてたづねむとしつるを」
とて、夜べありしやう、
「頭の中将の宿直所にすこし人々しき限り、六位まで集まりて、
よろづの人の上、昔今と語りいでて言ひしついでに、
『なほこの者、むげに絶え果ててのちこそさすがにえあらね。
もし言ひ出づることもやと待てど、いささかなにとも思ひたらず、
つれなきもいとねたきを、今宵悪しとも良しとも定めきりてやみなむかし』
とて、みな言ひあはせたりしことを、
『「ただ今は見るまじ」とて入りぬ』と、主殿司が言ひしかば、また追ひ返して、
『ただ手をとらへて、東西せさせず乞ひ取りて、持て来ずば文を返しとれ』
といましめて、さばかり降る雨のさかりにやりたるに、いととく帰り来、
『これ』とてさし出でたるが、ありつる文なれば、返してけるかとてうち見たるに、
あはせてをめけば、『あやし、いかなることぞ』と、みな寄りて見るに、
『いみじき盗人を。なほえこそ思ひ捨つまじけれ』とて、見さわぎて、
『これが本つけてやらむ。源中将つけよ』など、夜更くるまで
つけわでらひてやみにしことは、行く先も語りつたふべきことなりなどなむみな定めし」
など、いみじうかたはらいたきまで言ひ聞かせて、
「今は御名をば草の庵となむつけたる」
とて、いそぎ立ちたまひぬれば、
「いとわろき名の、末の世まであらむこそ口惜しかなれ」
と言ふほどに、修理亮則光、