47.≪第5シリーズ≫ 第3話 蛙の長助

テーマ:

長助の昔の仲間が探索中の盗賊と

     組んでいることを平蔵は知りーーー

 盗賊・夜嵐(よあらし)の定五郎の捜索中、平蔵は、もと盗賊の借金取り・蛙(かわず)の長助と出会った。平蔵は、長助が御家人くずれの今井勘十郎に暴力を振るわれていたところを助けたのだった。長助に腕を見込まれ、すっかり気に入られた平蔵は、今井から借金を取り立てるための手助けをすることになった。今井の家に向かったふたりがそこで見たのは、長助の盗賊時代の仲間・浅間の捨造だった。やがて平蔵は、捨造が定五郎と組んでいることを知りーーー。

 

 

鬼平図解帳 蛙の長助

 

江戸時代に確立された両替商

 

”一両小判”を両替で崩す

 本作の主人公である蛙の長助は、両替商・光浦屋彦兵衛に雇われて借金の取り立てを行っている。

 

 三浦屋の入り口に掛けられているのれんには「金銀両替」と染め抜かれているが、両替という言葉はそもそも、金貨(一両小判)を別の貨幣(銀・銭)に替えるという意味だ。

 

 鎌倉・室町時代に中国から入ってきた銅銭を国内で流通できる通貨に替えていたのが、両替商の前身といわれている。

 

 

為替ディーラーのように

 天明4年(1784)、江戸では643人の両替商が定められ、うち6人が金銀を扱う「本両替」で、残りは金銀と銭を扱う「三組(みくみ)両替」と銭専門の「番組両替」に分けられた。

 

 本両替には裕福な豪商が多く、江戸の三井家と大坂の鴻池家が特によく知られている。今でいう日本銀行のようなもので、金銀相場の調節や公金の調達、大名への貸し付け(大名貸)やお金の預かりなどを行なった。このうち両替商の主な収入源となっていたのは、金銀相場の為替差益(かわせさえき)だ。

 

 

 

中間部屋の賭場を 盗人宿とする 冷酷な盗賊

浅間の捨蔵役・・・高並功・・・東映所属のエキストラ出身。60年代前半からは、役名付きで数多くの映画、テレビドラマに出演する名脇役。スマートで長身の体格を生かし、時代劇だけではなく、多くの現代劇でも悪役を演じ、冷徹な鋭い目つきと、ふてぶてしい演技で人気を博した。主に、時代劇、任侠物、刑事物などを舞台に活躍し、大河ドラマなどにも出演している実力派バイブレイヤーなのだ。

 

 

 

 

 

 

 

原作を読む! 

 

鬼平犯科帳(10) 第2話「蛙の長助」

 

蛙そっくりの借金取りが かつて捨てた実の娘と再会

 

 原作は長助と実の娘・おきよとの因縁話で、平蔵との心あたたまる交流は、ほとんどドラマのオリジナル。「蛙」という渾名の由来もドラマと違って、顔が蛙にそっくりだから。そのうえ片足の膝から下を失っている長助は、個性的な容姿をした人物が多い原作の中でも、かなり目立ったキャラクターといえるだろう。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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47.≪第5シリーズ≫ 第2話 怨恨

テーマ:

三年前の捕物で逃げ延びた

 磯部の万吉が八丁堀に現れてーーー

 

 駒止の喜太郎一味捕縛の折、同心・木村忠吾に手傷を負わせて逃げ延びた磯部の万吉。それから三年、八丁堀界隈で万吉を見かけたという情報が入る。平蔵の命で、忠吾は五郎蔵、おまさとともに万吉の行方を追うことに。情報の出どころは、五郎蔵のかつての手下で、今はもらし屋を務める桑原の喜十だった。喜十は、万吉と深い因縁をもつ盗賊・今里(いまざと)の源蔵をかくまっていた。万吉が現れたのは、この源蔵の命を狙っていたからなのだ。
 

 

 

 

 

 


 鬼平図解帳 怨恨

 

江戸の庶民たちが愛した三味線

身近な楽器だった三味線

 

 本作において煮売り酒屋「信濃屋」で密偵・おまさが三味線を爪弾くシーンがある。当時三味線は庶民にとって最も身近な楽器だった。

 

 江戸時代中期以降、趣味や習い事が身分を問わず流行した。庶民の間では、特に三味線を伴奏楽器として使った音楽(常磐津節や清元節、長唄、端唄、小唄など)が盛んになった。

 

 町内にはたくさんの三味線の稽古所ができ、幕末には、ひとつの町内にひとりの三味線師匠がいたといわれるほど、流行した。

 

 また、三味線を弾きながら町中を歩く新内流しと呼ばれる芸人も現れ、ブームを巻き起こした(本旨45号 第4シリーズ第16話「麻布一本松」参照)。

 

 

 

庶民子女の必須の習い事

 

 女性も幼い頃から三味線の稽古に精を出した。当時、町人の娘たちの憧れは江戸城の大奥、あるいは大名・旗本の屋敷に奉公することだった。武家奉公すれば、上流社会の礼儀作法や言葉遣いを仕込んでもらえるうえ、経歴に箔(はく)がつき、良縁に恵まれる可能性が高くなると考えられていたからだ。

 

 だが、武家奉公の希望者は大変多く、三味線や踊りなど芸事ができたほうが採用に有利に働いた。また、屋敷に来客があった時などに披露する機会に恵まれ、殿様に見初められて側室になることも夢ではなくなる。そこで親たちは、娘に盛んに芸事を習わせた。おまさも、少女時代に三味線を仕込まれたのかもしれない。

 

 「鬼平」では他に第2シリーズ第4話「むかしの女」、第4シリーズ第4話「正月四日の客」で、山田五十鈴が見事な腕前を披露している。

 

 

 

 

手下に裏切られても 

        決して血を流さない本格派

今里の源蔵役・・・長門裕之・・・1934年、京都府生まれ。映画芸能の家系に生まれ、戦前から名子役として活躍していた。戦後は石原慎太郎原作「太陽の季節」に主演、話題を呼び、また今村昌平監督とのコンビで多くの名作を生み出した。09年、おしどり夫婦と呼ばれた妻・南田洋子がクモ膜下出血で死去。長門も11年、後を追うかのように脳出血で倒れ、肺炎からの合併症で死去した。

 

 

 

 


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鬼平犯科帳(20) 第4話「怨恨」

 

 

 

盗賊世界の義理と人情が描かれた秀作

  ドラマは忠吾を狂言回しにして物語が進行するが、原作では忠吾はほとんど登場しない。忠吾が万吉探索に意気込むのも、五郎蔵にネタ元の公開を迫り長官にやんわり注意されるのも、ドラマ独自の設定だ。喜十に疑念を抱くが口に出さない五郎蔵と、源蔵の存在を打ち明けられずに苦悩する喜十を中心に、盗賊世界の義理と人情が描かれている。

 

ー鬼平犯科帳 DVDコレクション 47-

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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47.≪第5シリーズ≫ 第1話 土蜘蛛の金五郎

テーマ:

定食やを内偵していた平蔵は

 ある人物の暗殺を依頼されーーー


 三ノ輪の外れに儲け度外視の定食屋・どんぶり屋ができた。平蔵はその店が、盗賊の隠れ簑ではないかと推測し、浪人に身をやつして内偵していた。そんなある日、ならず者たちが”どんぶり屋”に嫌がらせを仕掛けてきた。平蔵がそのならず者たちをこともなげに店からたたき出すと、”どんぶり屋”の亭主・金五郎は平蔵の腕を見込んで、ある人物の暗殺を依頼する。一方、火盗改メの調べにより、盗賊としての金五郎の狙いも、徐々に明らかになってきてーーー。





鬼平図解帳 土蜘蛛の金五郎


平蔵の親友・岸井左馬之助


長谷川平蔵の協力者たち


 「五鉄」の三次郎におとき、「笹や」のお熊、井関録之助。「鬼平」には密偵や同心、与力以外にも平蔵への”協力者”が登場する。彼らは皆、平蔵を尊敬し、内にある鬼も仏も理解し、「本所の銕」と呼ばれたほどの無頼さ、男らしさに惹かれている。


 が、なかでも、岸井左馬之助は特別だ。左馬之助は平蔵と同い年の親友で、ともに高杉銀平道場で剣を学んだ仲。その一刀流の腕は互角だ。


 平蔵と左馬之助をわけるただ一点は「男の純情」とでも言うべき、左馬之助の純粋さだ。もちろん、平蔵が純粋ではない、という意味ではない。悪を憎んで人を憎まぬ火盗改メ長官としてのその姿勢も、妻・久栄に心底惚れることができるその心の有り様も、平蔵の純粋さの表れだ。


 

 



青年の心をもつ一流の剣士


  岸井左馬之助といえばやはり、第1シリーズ第2話「本所・櫻屋敷」が印象深い。青年の日から憧れ続けたおふさへの恋心が打ち砕かれてしまう。


 つまり、平蔵の純粋さは「長谷川平蔵」という人物の男らしさがストレートに表れたものであるのに対し、左馬のそれは、青年の日の心の有り様そのままの純粋さであるといえる。


 本作ではその左馬之助が、平蔵の身代わりを務めた。手加減すれば、暗殺の依頼者・土蜘蛛の金五郎に怪しまれてしまう状況下で、決して手を抜くことなく、ましてや相手に怪我を負わせることなく、互角に戦い、しかも確実に平蔵が勝たねばならない。陰ひなたなく平蔵の力になって事件解決を手伝ってきただけでなく、剣の腕も互角だといわれた左馬だからこそ、できた役だったろう。


・第1シリーズ第2話「本所・櫻屋敷」

左馬之助が忘れられなかったのは、おふさを思う、青年の頃の自分自身だったかもしれない。


・第2シリーズ第14話「雨乞い庄右衛門」

旅の途中の東海道で、「おもしろい男」と出会う。その正体は大盗・雨乞い庄右衛門だった。




冷徹で残虐だが、

  どこか抜けている 兇賊一味の頭目

 

土蜘蛛の金五郎役・・・遠藤太津朗(たつお)

 1928年、京都府生まれ。舞台を経て、映画、テレビドラマにも活躍の場を広げる。敵役が多いが、三枚目の憎まれ役などでも好評を得ている。時代劇の悪代官、悪徳商人役や「仁義なき戦い」シリーズの大物暴力団幹部など、こすっからく横柄な「悪役」イメージを確立した立役者のひとり。「銭形平次」のライバル・三輪の万七役で、お茶の間の人気者になった。




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鬼平犯科帳(11) 第2話「土蜘蛛の金五郎」



妻をめとった左馬之助が 

        親友のためにひと肌脱ぐ

 

  兇賊・土蜘蛛の金五郎が隠れ簑に使う定食屋は、原作もドラマも「どんぶり屋」。場所も三ノ輪の外れで変わらない。浪人に化けた平蔵が、「鬼平」の暗殺を頼まれるのも、親友・岸井左馬之助が平蔵の身代わりを務めるのも、細部の演出に違いはあれど、物語の骨子は同じだ。  

 

 大きく違うのは、原作の左馬之助が、妻をめとったことだろう。


ー鬼平犯科帳 DVDコレクション 47-











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46.≪第4シリーズ≫ 第19話 おしゃべり源八

テーマ:

木村忠吾は行方不明だった

 

        同心・久保田を目黒で見掛ける


 密偵・粂八と組んで、盗賊・天神谷(てんじんだに)の喜佐松一味を追う最中、行方不明になった同心・久保田源八。4ヶ月後、偶然、木村忠吾が目黒で見掛けるが、すっかり記憶を失くしており、それまでの行動はもちろんのこと、自分自身のことすらわからない有り様だった。発見時、彼がかぶっていた菅笠から、藤沢にある茶屋”とみや”が浮かび上がる。”とみや”の亭主から失踪直前の久保田の行動がわかるとともに、喜佐松一味の手掛かりが集まり始めてーーー。




男性客で大いに賑わった藤沢宿


江ノ島への参詣客に大人気

 


 盗賊・天神谷の喜佐松を追っていた火付盗賊改方同心・久保田源八は、藤沢宿で行方知れずとなる。


 藤沢は日本橋から約12里半(48キロ)。時宗の総本山・遊行寺の門前町として鎌倉時代から栄えていたが、慶長6年(1601)、徳川家康によって東海道の宿場に制定される。現在の神奈川県藤沢市を中心に走る小田急江ノ島線の、藤沢本町駅の東西に広がる形で、風光明媚な観光地である鎌倉と江ノ島との、ちょうど中間地点に当たる。


 藤沢宿の特色は、江戸から江ノ島詣でに来る男性客が多かったということだろう。というのも、江島神社には今も日本三大弁天像に数えられている一糸まとわぬ弁財天の彫像がある。艶めかしい弁天様をじっくりと拝んだあとは、「精進堕とし」と称して羽目を外す男たちで宿場は大いに賑わい、幕末には大小合わせて80軒もの旅籠がひしめいていたといわれる。




藤沢宿における源八の足取り


 

 では、藤沢宿での行跡を、本作に沿ってたどってみよう。


 まず最初に出てくる「これより藤沢宿」の石碑。ここが江戸側の出入り口となる江戸見附(みつけ)だ。遊行寺の東側に位置し、現在は「見附跡」と書かれた標柱がある。その後、源八は密偵・粂八とともに、長尾屋という旅籠に宿泊した。原作では「長尾屋利兵衛」とされているが、当時、藤沢宿には長尾屋長右衛門という旅籠(正確には脇本陣)があった。翌日ふたりが落ち合うはずだった平塚宿の旅籠・米屋も実在しており、優良旅籠の一覧を載せた文久2年(1862)刊行「浪花講諸j国定宿帳」に「米や又兵衛」と記されている。


 藤沢ーー平塚間には富士山を望む景勝「南湖(なんこ)の左富士」があるが、むろん源八は見ていない。なにしろ、まだ藤沢宿から出もしないうちに日妻(ひづま)の文造に襲われてしまったのだ。源八が文造を尾行した遊行坂は別名・道場坂とも呼ばれ、わずかに残った松並木が当時の面影を偲ばせている。





事件解決のきっかけになった菅笠


 源八失踪の謎を解く最初の手がかりとなるのが、菅笠だ。帽子のように頭にかぶり、付いている紐を顎下で結んで固定する。つくり方の違いにより縫い笠、編み笠、塗り笠などに分かれるが、菅笠はスゲという植物(地域によっては竹の皮、檜など)を材料とする縫い笠だ。農民の角笠(つのがさ)、虚無僧の天蓋、飛脚の三度笠など、江戸時代にはさまざまな大きさ・形の菅笠が用いられていた。

 


 「鬼平犯科帳」では、顔を隠すという意味で、火盗改メ・盗賊の双方に笠は必要不可欠なもの。源八が茶店で笠を借りたのも、変装して顔を隠すため。その後の展開を思えば、実に賢明な行動だったということになる。

 


 日よけ雨よけ兼用となる菅笠は、旅に便利な必携品。特に伊勢参りに際しては、網代(あじろ)笠という菅笠が欠かせなかった。奈良街道の足代(あじろ)(現・東大阪市)でつくられたものが特に人気で、地名の語源になったという説もある。現在では、四国遍路の旅装束に菅笠が用いられている。

 


ー鬼平犯科帳 DVDコレクション 46ー





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鬼平犯科帳 5巻 第4話「おしゃべり源八」


記憶喪失を通して、

        人間の多面性を劇的に描き出す


 とても親切で心優しい盗賊や、正義漢でありながら悪事に手を貸す同心など、相反する顔をもった人物が「鬼平」にはよく登場する。これは原作者・池波正太郎が生涯、描き続けた大きなテーマだ。死ぬことばかり考えていた主人公が別人のように愉快な男になる本作もまた、同じ主題に通ずる作品。記憶喪失という劇的な題材に、もと劇作家の面目躍如が感じられる。


  ドラマの筋書きは、最初に源八を発見するのが忠吾の叔父・中山茂兵衛である点を除いて、原作通りの展開だ。


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46.≪第4シリーズ≫ 第18話 おとし穴

テーマ:

同心・佐々木新助の浮気相手お才は

 

      兇賊・夜鴉の勘兵衛の女房だった

 


 同心・佐々木新助は、茶汲み女のお才と浮気を重ねていた。だがこのお才、実は盗賊・夜鴉の勘兵衛の女房であった。罠に落ちた新助は、勘兵衛の手下・文挟(ふばさみ)の友吉に脅され、夜鴉一味の盗みの手助けをすることに。平蔵は、連続する押し込みが、巧みに火盗改メの見廻り区域を外していることに気付き、疑いを抱き始める。一方、新助とお才は、徐々にお互いに本気になり始め、そのことに気付いた友吉は勘兵衛に進言、お才と新助の始末をつけることになりーーー。




江戸の子供たちは遊びの天才


普段の遊び、季節の遊び


 

 最近の子供たちは外で遊ばなくなったと言われて久しい。だが、江戸時代の日本の子供たちは、外で、身の回りにあるものを上手に利用しながら、さまざまな遊びを工夫した。「鬼平犯科帳」にも、そんな微笑ましい子供の姿が随所に描かれている。


  日本人なら誰もが一度は経験があるだろう、凧揚げや竹馬、あやとり、人形遊び、大勢で楽しむ「かごめかごめ」や「ずいずいずっころばし」に「目隠し鬼」・・・・・。これらの遊びは江戸時代からすでにあった。

 江戸時代も季節に関係なく男の子が夢中になった遊びと言えば、竹馬や「目隠し鬼」。竹馬は第6シリーズ第5話「墨斗(すみつぼ)の孫八」の、盗賊・墨斗の孫八がそばにいない我が子を思って目を細めるシーンに、また「目隠し鬼」は第4シリーズ第2話「うんぷてんぷ」で、平蔵の弟分・池田又四郎が江戸に出てきたシーンを象徴するかのように、それぞれ印象的に描かれている。


  これら”子供の遊び”の内容は、多少の地方ルールはあったものの江戸末期には自然と全国共通の遊び方になっていったようだ。


  江戸の子供たちの遊びのスタート時間は、手習い(寺子屋)が終わる未(ひつじ)の刻(現在の午後2時過ぎ)が一般的だった。大きい子も小さい子も一緒になって、往来、路地、軒下、空き地など、あらゆる場所で遊んだ。

 一方、普段の遊びに加え、行事にまつわる遊びは、子供たちにとってもビッグイベントだった。


  凧揚げは、やはり正月。第4シリーズ第4話の「正月四日の客」では、オープニングシーンに、凧揚げに興じる男の子、羽子板に歓声を上げる女の子がそれぞれ描かれており、物語に季節感を添えている。

 その他、2月の初午(はつうま)祭では稲荷神社の前で太鼓を打ち鳴らし、3月はひな祭りの人形遊び、5月の端午の節句には「菖蒲打ち」・・・・・。このように、季節の遊びには、子供たちが自然に親しみ、行事や人間関係についても学ぶことができる、「青空学校」のような側面もあった。




子供にもあった身分の差


 また、江戸時代は、大人だけではなく子供たちの間にも、厳然とした身分制度があった。子供たちはそれぞれ同じ身分の仲間同士で遊び、武家の子、庶民の子、商家の子が一緒になって遊ぶことはほとんどなかった。


  本作でも同心・佐々木新助の娘が、組屋敷前でひとり「けんけんぱ」遊びをしている場面がある。他に同じ年頃の、武士の子供たちがたまたまいなかったのか・・・・・。いずれにせよ、ひとりで、何もなくても上手に遊ぶ子供の姿だ。また、第4シリーズ第11話「搔堀のおけい」で「手車(てぐるま)」の話題が出た際、木村忠吾が「侍の子は『つりごま』と言うがな」と、言葉の違いを披露しているのも、興味深い。



甘酒は江戸時代の栄養ドリンク


 お才は、甘酒屋の茶汲み女。当時、江戸のあちこちに、甘酒屋が存在した。現在も人形町(東京都中央区)に、「甘酒横町」の名が残る。

 

 

 

 甘酒=「甘いお酒」と思っている人も多いようだが、実はアルコール分はまったく含まれていない。蒸した米に麹菌を加えて繁殖させた米麹と炊いた米を混ぜたものにお湯を入れて一晩置くとできる。砂糖ゼロ、アルコール分ゼロの発酵食品だ。アルコールが入っていないのに名に「酒」と付くのは、造り酒屋が本業の傍(かたわ)ら甘酒を造っていたから、という説が有力。

 

 

 

 甘酒の甘みは、麹菌が分泌するアミラーゼが米のでんぷんを分解してできたブドウ糖。甘酒には人間のエネルギー源となるこのブドウ糖が20%以上も含まれている。ほかにもビタミンB1、B2、B3、パントテン酸、ビチオンなどのビタミン類や、必須アミノ酸などが含まれる。

 

 

 

 甘酒のこの成分、実は現在、病院で処方される栄養補給用の「点滴」とよく似ている。江戸っ子にとって、甘酒は栄養ドリンクだった。寒い冬より高温多湿の夏に死亡率が高かったといわれる江戸時代、人々は苛酷な季節を乗り切るために甘酒を飲んでいたのだ。

 

 

 

 さらに植物繊維、オリゴ糖、アミノ酸も豊富。便秘解消、肌のうるおい向上、ダイエット効果も期待できる。また、米麹に含まれるアスペラチンという物質には、がん細胞を抑制する効果もある。いいことずくめの甘酒。現代人にも必須なドリンクかもしれない。

 




 

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鬼平犯科帳(4) 第5話「あばたの新助」


盗賊の首領と友吉は逃げ 

                 他作品で再度平蔵に挑む


 原作では、お才の亭主である盗賊一味の首領は、夜鴉(よがらす)の勘兵衛ではなく網切の甚五郎。文挟(ふみばさみ)の友吉ともども逃げ延び、その後、原作では第5巻第5話(ドラマでは第1シリーズ第9話)の「兇賊」に再度登場し、平蔵に戦いを挑む。


  ラストの捕物シーンも、平蔵以下の火盗改メは出張っていない。平蔵から佐々木新助を尾行せよと命を受けた伊三次と、たまたま現場付近を通りかかった木村忠吾、粂八が駆けつけ、一件落着している。

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45.≪第4シリーズ≫ 第17話 さざ浪伝兵衛

テーマ:
盗賊・さざ浪伝兵衛は、
 裏切り者のおだいを亡き者にしようとーーー


 

 兇賊・さざ浪伝兵衛は、火付盗賊改方に一味を壊滅させられ、むかしなじみの盗賊・砂堀(すなぼり)の蟹蔵(かにぞう)の盗人宿に潜伏、情婦・おだいを江戸から呼び寄せる。一方、かねてから伝兵衛捕縛のために監視していたおだいの跡をつけて、平蔵が酒井同心らとともに小田原に到着したことを、伝兵衛は知る。さらにおだいと手下の役者(おやくしゃ)小僧市之助の関係が続いていることに気付いた伝兵衛は、裏切り者への制裁と平蔵への恨みを、同時に晴らそうとするがーーー。




鬼平図解帳 さざ浪伝兵衛


実在が信じられていた亡霊


 亡霊に苦しめられる盗賊


  亡霊あるいは怨霊(おんりょう)は、非業の死を遂げたり、現世に執着を残して死んでいったりした人間が、怨みを晴らすためにこの世に現れ、災いをもたらすものーーー。科学が発達する以前、亡霊や怨霊が実在すると信じる人は、洋の東西を問わず多かった。


  人を殺めることが多い盗賊たちの苦悩を描く作品は、「鬼平犯科帳」にもいくつかある。本作の砂堀(すなぼり)の蟹蔵は、初めて殺した老婆の亡霊に毎晩のようにうなされ、苦しめられているし、さざ浪伝兵衛も、名刀・粟田口国光を奪うために殺した、馬子・政吉の父親の亡霊に、最終的には苦しめられることとなる。いったいこの”亡霊”という概念は、いつ頃から日本にあったのだろうか。


 


花開く”怪談”文化


  日本三大怨霊といわれるのは菅原道真(すがわらみちざね)、平将門(たいらのまさかど)、崇徳天皇(3人とも平安時代〈794~1192〉の実在の人物)。いずれも政争に敗れ、死後、怨霊となって各地に   祟(たた)りをもたらしたと信じられてきた。


 江戸時代になると政治が安定したためか、あまりこのような”大物”の怨霊は生まれなくなる。が、江戸の都市化が進んだことで人間関係が複雑になり、いざこざも増加。市井の人々が怨みを残して死んでいくなどの事例が増えていった。


  そうした時代を背景に花開いたのだ江戸の”怪談”文化だ。書物の出版や人形浄瑠璃、歌舞伎の上演が相次いだ。先鞭をつけたのは寛文6年(1666)に出版された短編集『御伽婢子(おとぎぼうこ)』(浅井了意著)。安永5年(1776)には怪奇短編集『雨月物語』(上田秋成著)が刊行されるなど続々と怪談が誕生した。


 江戸時代の人々の多くは、本気で亡霊を怖がりつつも、怪談話に夢中になった。夜な夜な集まって怪談話を披露する「百物語」という

怪談会が各地で催されていたほどだ。これは夏の夜の暑気払いが目的だが、肝試しのためにも行われていた。起源は不明だが、前出『御伽ひ

 江戸時代の人々の多くは、本気で亡霊を怖がりつつも、怪談話に夢中になった。夜な夜な集まって怪談話を披露する「百物語」という

怪談会が各地で催されていたほどだ。これは夏の夜の暑気払いが目的だが、肝試しのためにも行われていた。起源は不明だが、前出『御伽婢子(おとぎぼうこ)』などにその「作法」が記されていることから、遅くとも江戸前期には開かれていたようだ。ネタ本として『○○百物語』と名のつく怪談集が何冊も出版されるなど、人気は高かった。

 

 もちろん、本作の蟹蔵や伝兵衛、第4シリーズ第12話「埋蔵金千両」の太田万右衛門(おおたまんえもん)など、実際に自分が殺した人たちの亡霊に苦しめられている盗賊にとっては、怪談どころではないだろう。「そんなものはまぼろしだ」とうそぶいていた伝兵衛は、捕らえられたのちに、狂乱の極み。やはり人の怨みがいちばん恐ろしいといったところだろうか。


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国芳の錦絵が発見されたのは80年ぶり。

女性の幽霊と逃げ惑う人々がユーモラスに描かれている。

(歌川国芳『かさねのばうこん(亡魂)』/日本漫画資料館所蔵)



伝兵衛を狂わせた名刀・粟田口国光


  神奈川で人足をしていた伝兵衛が、悪の道に入り込むきっかけとなったのが名刀・粟田口国光。


 国光は鎌倉時代中期から後期にかけて活躍した刀工のひとりだ。粟田口とは京都の地名で、鎌倉時代初期に国家という刀工が工房を開いたことをきっかけに、ここに多くの工房が開かれるようになった。以来、「粟田口派」という流派が形成され、鎌倉後期までに十指に余る名工を輩出した。


 刀は安土桃山時代以前につくられた物を古刀(ことう)、江戸時代以降につくられた物を新刀と区別して呼ぶ。古刀のなかでも鎌倉時代以前の刀は、太刀の姿が優美で格調高く、崇高な雰囲気さえ漂っているといわれる。おそらく国光作の刀もその例に漏れなかっただろう。


 ちなみに長谷川平蔵の愛刀としてドラマにも登場するのが粟田口国綱作の名刀。国綱は粟田口派の開祖・国家の六男で、鎌倉時代前期に活躍した名工だ。


 国光の名をもつ古刀の名匠は何人かいるが、粟田口国光は、なかでもあまり資料がはっきりとそろっていない。粟田口国光の手に成ったと言われる刀は、実物はもとより写真ですら数少なく、希少価値が高い。



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粟田口国光。稀な名刀で、評価も価値も高い。

(「粟田口国光」/黒川古文化研究所所蔵)


ー鬼平犯科帳 DVDコレクション 45-





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にっぽん怪盗伝 第12話「さざ浪伝兵衛」


 物語骨子だけを原作になぞったドラマ秀作


  原作は『にっぽん怪盗伝』に収められた同名小説。伝兵衛はもと茶問屋の番頭で、殺して刀を奪ったのも遊び仲間の別の茶問屋の番頭だ。おだいも妾のひとりとして名前が出てくるだけで話には絡んでこず、市之助も登場しない。

 

 蟹蔵が住む小屋も箱根の関所付近ではなく、丹沢と足柄の山間(やまあい)。亡霊に引きずり込まれそうになる川も、吉原宿と蒲原宿の間を流れる富士川だ。

 

 ことほどさように細部は異なるが、物語の骨子は原作もドラマもさほど変わらない。

 

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原作を読む!


にっぽん怪盗伝 第12話「さざ浪伝兵衛」

45.≪第4シリーズ≫ 第16話 麻布一本松

テーマ:

麻布の担当になったことが不満の忠吾。

 

        蹴った石が浪人に当たりーーー


 同心・木村忠吾は、見廻り地区が遊び場のない麻布になったことが面白くない。気が乗らない市中見廻りの最中、腹いせに蹴った石が、浪人・市口又十郎に当たり、もめごととなった。その時はとっさに難を逃れた忠吾だったが、数日後、お弓という女がお礼を言いたいとすり寄ってきた。お弓は、以前この浪人・市口に嫌がらせを受けたことがあり、市口と忠吾のもめごとを見て、溜飲を下げたのだと言う。改めてお礼をしたいと言うお弓と再会を約束し、有頂天になった忠吾はーーー。




鬼平図解帳 麻布一本松


坂と一本松の町・麻布


麻布名物は坂と狸と一本松


 市中見廻りの担当区域が麻布に変わり、木村忠吾は不満でならない。それもそのはず、忠吾の見廻りルートにあたる飯倉片町から六本木、麻布にかけては台地と谷間を結ぶ坂道の連続で、明暦の大火(1657)以降に移転してきた武家屋敷と神社仏閣があるばかり。現在も狸穴町(まみあなちょう)とか狸坂、狐坂という地名が残っているほどだから「タヌキやキツネが出やがる」という忠吾の言い草も、決して大げさではないのだ。


 忠吾の毒舌はさらに続く。「盛り場の残骸」とやり玉に挙げられた宮下町、坂下町、永坂町(長坂町とも。この地名は今も残っている)南日ヶ窪(みなみひがくぼ)を現在の地図に重ねると麻布十番から六本木6丁目に至る。


 宮下町・坂下町にあたる現代の麻布十番には豆菓子・おかきの「豆源」、蕎麦の「更級(さらしな)」という江戸時代創業の店が現存する一方、しゃれた飲食店やベーカリーなどが軒を連ねる。永坂町は財界人、芸能人やエリート外国人の住まう高級住宅地。南日ヶ窪は六本木ヒルズとなって、最先端のモードを扱う高級ショップ、美術館や映画館などが集合。盛り場の残骸どころか、毎日遅くまで多くの人で賑わっている。忠吾が見たら腰を抜かすに違いない。



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 さて坂下町の南西側には忠吾が昼寝した一本松が。高さ三丈六尺八寸(約11.24m)、根元の太さ五尺八寸(約1.74m)という初代の巨木が、明和の大火(1772年)で焼失して以来、代々植え継がれている。江戸名所図会にも登場しており、傍らの茶店には「ふじ岡」という屋号が。原作・ドラマともに店名は出てこないが、忠吾とお弓の出会う茶店がここである可能性は高い。



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江戸時代からの麻布の特長・一本松が描かれている。庶民に親しまれていた

ことがうかがえる。(麻布一本松『江戸名所図会』/国立国会図書館所蔵)



麻布一本松の現在


 何度か植え替えられ、三代目とも五代目とも言われる現在の麻布一本松。各国の大使館や高級マンションが立ち並ぶ元麻布1丁目、善福寺の裏手にひっそりと佇んでいる。一本松の脇には石碑があり、源経基(みなもとのつねもと)にまつわる伝説が記されている。


 この松を由来とする麻布一本松町の地名は消えてしまったが、ここへ居る小さな坂道は今も一本松坂という名で親しまれている。このあたりは大黒坂、暗闇坂、狸坂と坂道ばかりの四叉路で、坂道マニアの間ではつとに有名。坂下の標識にもやはり源経基(つねもと)の逸話が書かれているが、他にもいくつか異説があるようだ。


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一本松の逸話には、源経基(つねもと)が脱いだ着物を掛けたという話、

松乃宮という姫君がここで亡くなったという話などがある。




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「鬼平犯科帳」 21  第3話「麻布一本松」


嫁をもらった忠吾が浮気の虫を甦らせる


 原作は後期の作品。忠吾には既(すで)におたかという女房がいる。結婚以来、新米同心・細川峯太郎にお株を奪われがちだった彼が久しぶりに大活躍(?)をしてくれる、忠吾ファンには嬉しい一作だ。しかしドラマの忠吾は、いうまでもなく独身の設定。彦十との軽妙なやりとりは、すべてドラマのオリジナルだ。


 また、原作の平蔵と又十郎はすでに別の事件(文庫20巻「助太刀」)で顔見知りの間柄。本作が二度目の出会いとなる。


ー鬼平犯科帳 DVDコレクション 45-



















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鬼平犯科帳 第21巻 第3話「麻布一本松」

鬼平図解帳 ふたり五郎蔵《其の参》


江戸っ子たちの自慢の味・鰻



源内が広めた土用の丑の日


 本作「ふたり五郎蔵」では、猫どのこと同心・村松忠之進がとくとくと鰻(うなぎ)のうんちくを語るシーンがある。日本人の鰻好きは今も昔も変わらないようで、嘉永5年(1852)に刊行された江戸の鰻屋見立て番付には約200軒の鰻料理屋が掲載されている。


 江戸で鰻の蒲焼(かばやき)が食べられるようになったのは、元禄年間(1688~1704年)頃だ。当初は、猫どのがいうように縦に串を刺し、丸焼きにして食べていた。


 猫どののように「そんなものでは金は取れぬ」と鰻屋が思ったかどうかはわからないが、寛政年間(1789~1801年)頃から身を開き、串に刺して焼くようになった。江戸は武士の町、腹を開くのは切腹に通じるとして背開きにしたという説もある。


 その後、素焼きにし、蒸して余分な脂を抜いてから醤油とみりんのタレをつけて焼くようになる。ふっくらと柔らかなこの味わいにたどりつくまでには、猫どののいうように、先人たちの「血のにじむような努力」があったのだろう。


 土用の丑の日に鰻を食べる習慣が広まったのもこの頃だ。猫どのは「うなぎ(を食べる季節)に夏冬はない」「神田和泉町の蒲焼屋・春木屋が人寄せに言いだした」と持論を語るが、実はこれにも諸説ある。なかでもよく知られているのは、平賀源内があまりはやらない店のために「土用丑の日」と大書して店先に貼り出したところ、大繁盛したという説だ。




珍重された江戸前の鰻


 江戸自慢のひとつに江戸前がある。当初は江戸の町のすぐ前面の海で獲れた魚のことを指していたが、いつしか大川(隅田川)や神田川、深川近辺で獲れる鰻を指すようになり、江戸っ子自慢の味になった。ほかの地域で獲れた「旅鰻」よりはるかに美味いとされ、根強く愛された。


 そんな江戸前鰻を出す店について、猫どのは「柱から畳までたれの匂いや煙で真っ黒にしみ込み、店主や女房、女中の顔までが黒光りに光っている店こそが本物」と語っている。その講釈を聞いていると、土用でなくとも思わず鰻が食べたくなってくる。


ー鬼平犯科帳 DVDコレクション 44-













鬼平図解帳 ふたり五郎蔵 《其の弐》


家康が浸透させた

       伝統ゲーム・将棋

 


 身分性別を超えて大流行


 髪結い床へ出向いた彦十は、馴染み客から髪結いの五郎蔵の情報を聞き出そうとするが、相手は将棋を指すのに夢中で話がちっとも進まない。それもそのはず、江戸時代の人々にとって将棋は、日々の暮らしに深く根付いた娯楽の代表格だった。


 将棋が流行するきっかけをつくったのは、初代将軍・徳川家康だ。毛銀杏18年(1613)、家康はかねてより自身の将棋指南役だった京の医者・大橋宗桂(そうけい)をはじめとする棋士を、囲碁棋士とともに召し抱えた。


 やがて宗桂が亡くなると、跡を継いだ長男、弟、長男の娘婿がそれぞれ大橋家・大橋分家・伊藤家として独立。「将棋の者」という役職名で、歴代将軍に仕えた。





 花見を奨励したり、鷹狩りを復活させたり、娯楽好きだった八代将軍・吉宗。多分にもれず将棋も好きで、毎年11月17日に先述の将棋三家を江戸城に呼び、「御城将棋」を行った。また、十代将軍・徳川家治も大の将棋好きで知られ、七段の腕前だったといわれている。彼は御城将棋の際に、将棋三家の家元と側近の旗本たちを対局させて楽しんだ。


 こうしてまずは武士の間で、続いて商人、町人たちへと将棋ブームが広がっていく。江戸市民の社交場たる銭湯や髪結い床には将棋盤が常備され、まさに本作で描かれているように、多くの人が熱中した。「明日にでも剃ってくれろと飛車が成り」という川柳がある。髪結い床で順番が来て呼ばれたけれど、客本来の目的だった髪結いはそっちのけになってしまい、将棋に夢中、というわけだ。




江戸中期は将棋の黄金期


 「鬼平犯科帳」では他に、第2シリーズ第9話「猫じゃらしの女」にも将棋が登場。清水門外の役宅で、密偵・伊三次と同心・木村忠吾が夜食をとりながら将棋盤を囲んでいる。


 江戸時代の将棋盤は最初、盤面が12×12マス、駒数92枚の中(ちゅう)将棋と呼ばれるものだった。しかし、将棋三家が盤面9×9、駒数40枚という小(しょう)将棋を指していたため、江戸中期以降はこの形が主流となる。現在もほとんど変わっていないが、玉将(ぎょくしょう)が出来たのは江戸後期で、それまでは王将2枚を使っていた。


 また、あらかじめ駒が配置された盤面から王手の連続で相手の玉を詰む(逃げ場のない状態に追い込む)というパズル式の「詰将棋」が確立したのも、江戸時代。初代大橋宗桂が考案し慶長年間に出版された解説書「象戯造物(しょうぎつくりもの)」が、現存する最古の詰将棋といわれている。


 以来、将棋の最高位「名人」を襲位する際に、詰将棋を幕府に献上することが習慣化した。享保19年(1734)の三代伊藤宗看(そうかん)による「将棋作物(つくりもの)」と、その弟である伊藤看寿が宝暦5年(1755)に記した「象戯百番奇巧図式」が江戸時代中もっとも優れた詰将棋とされている。




ふたり五郎蔵とふたりの盗賊


 平蔵の密偵と廻り髪結いの”ふたり五郎蔵”がダブル主役を演じた本作には、もう一組、陰の主役がいる。それが、暮坪(くれつぼ)の新五郎と強矢(すねや)の伊佐蔵だ。伊佐蔵と新五郎は双生児。兄である伊佐蔵は、すでに火盗改メに捕縛され、火あぶりの刑に処せられている。新五郎が手荒な手段に出たのは、兄の敵を討つためだ。


 ドラマで他に双子が登場するのは、第3シリーズ第5話「熊五郎の顔」。双子の信太郎(のぶたろう)と洲走(すばしり)の熊五郎は幼い頃に生き別れ、熊五郎は盗人になっていた。


 2組の双子のうち3人が盗賊となったわけっだが、彼らが真っ当な人生を歩めなかった理由のひとつに、双子に対する偏見があったかもしれない。


 江戸時代、双子の誕生は「畜生腹(ちくしょうばら)」といわれて歓迎されなかった。双子のうち、先に生まれた子は後から生まれた子に追い出された「意気地なし」であるという理由で、間引きされることすらあった。また、男女の双子は「心中した恋人の生まれ変わり」として忌み嫌われた。


 もちろん、こうした説が何の根拠もない出鱈目(でたらめ)であることはいうまでもないが、当時は信じる人も多かったようだ。「鬼平」に描かれた4人の双子も、双子の俗言に苦しみ、悩んだのかもしれない。


ー鬼平犯科帳 DVDコレクション 44-





















役宅の新廻り髪結いの名は、五郎蔵。

 

    妻が行方不明だと知った平蔵はーーー


 役宅に新しい廻り髪結いが雇われることになった。腕が良いと評判の、この廻り髪結いの名は五郎蔵。平蔵の腕利きの密偵・大滝の五郎蔵と同じ名をもつ。しかし髪結いの五郎蔵は大滝の五郎蔵とは違って意気地のない男だった。ある時、平蔵は髪結いの五郎蔵の妻・おみよが誘拐されたことを知る。誘拐したのは、暮坪の新五郎という兇賊。双子の兄・強矢(すねや)の伊佐蔵を平蔵に処刑され、恨んでいた新五郎は、おみよと髪結いの五郎蔵を使って、大胆な手口で平蔵に一矢報いようとする。




鬼平図解帳 ふたり五郎蔵《その壱》


流行を反映した男髷


役宅を担当する髪結いの条件


 
 佐嶋忠介や木村忠吾のいる火付盗賊改方の探索方。役目の特性から、髪型も含めた変装が必要なことも。実際、平蔵や忠吾は、市中見廻りの際に浪人に身をやつしているし、竹内同心や沢田同心は行商人のふりをしている。「正体を知られない」ことが火盗改メの役人の鉄則だったのだ。


 本作の主人公、髪結いの五郎蔵は本職の廻り髪結い。だが、その前任者である政吉は、中間だった。中間とは、武士に仕えて雑務に従う者のこと。つまり政吉は本職の髪結いではなかったのだ。本人も「あっしの髪結いは、でたらめなんで」と言っているように、手先が器用なため、便利に頼まれたものだったのだろう。


 もちろん、中間を務める政吉だからこそ、身元もはっきりしているし、火盗改メの中のこともよくわかっている。きっと口も堅かったに違いない。お屋敷に出入りするためには、腕はもちろん、そういった人柄に対する信頼も必要だったのだ。


 そう考えれば、後釜の”髪結いの五郎蔵”に対するまわりの警戒もうなずける。本作でも、「五郎蔵」という名前に聞き覚えのある密偵の五郎蔵が、「もしや引き込みの、下山の五郎蔵では・・・・・」と疑って、彦十とともに面を確認しに行っている。平蔵はおおらかな性格も魅力のひとつだが、そのぶん、このように、まわりがしっかりとサポートしていたのだ。




”粋”を競った男髷


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与力・同心

●細刷毛銀杏

髷は細く、先は平たい。探索のため町人に化ける時などに便利。


武士

●大銀杏

髷の部分を大きく太くつくり、どっしりと頭に載せる形。






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力士

●櫓(やぐら)落とし(右)

髷の根が後頭部の位置にあり、折り返し部分がとても小さい。


●合鬢(あわせびん)(左)

力士の髷のバリエイション。スポーツマンらしいすっきりとした髷。






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●火消(右)

髷は細く小さく、あくまでひかえめ。全体に嫌味なく、すっきりしているのが特徴。


●本多髷(左)

月代をぐっと剃り下げて細い髷をつくる。粋でおしゃれな髷の代表格。



 髪結いの五郎蔵が来る日になると役宅は順番待ちの同心たちでいっぱいーーー。それは前述の”正体を隠せ”という鉄則もあるにせよ、当時の男たちは”粋”を大切にし、身ぎれいでおしゃれだったからだ。実際、政吉も「・・・・・旦那方ときたら、やれ遊び人の髪だ、今度は医者の髪だって・・・・・」と述懐している。


 当時、武家の髪型は月代(前頭部の剃り上げた部分)を剃り、髻(もとどり)を二つに折った「銀杏髷(いちょうまげ)」が基本だったが、町人に変装することの多い町奉行所や火盗改メは、武士と町人の中間をいく「細刷毛小銀杏(ほそはけこいちょう)」に結っていた。月代を広くとり、後頭部の (たぼ)はゆるめに、髷は短く細く仕上げる。江戸っ子の目には非常に粋に映ったようだ。


 さらに、粋を追及した通人たちの間では頭と髷の間に隙間が出来るよう細く高く結い上げた「本多髷(ほんだまげ)」が大流行。本多忠勝の家中から広まったといわれるが、日本橋・本小田原町の魚河岸が発祥だという説もある。この髷はさらに長短、角度などの微妙な違いによって細分化され、安永2年(1773)刊の洒落本「当世風俗通」には、「時勢髪八体之図」として、「令兄本多(わかさまほんだ)」「金魚本多(きんぎょほんだ)」など8種類の本多髷が紹介されている。


 一方、武士たちは髷の部分を大きく太くつくり、どっしりと頭に載せた「大銀杏」を好んだ。関取の髪型として現在も残っているが、江戸時代の力士は、髷の根が低く折り返しの少ない「櫓(やぐら)落とし」など、さまざまな髷を結っていた。商人の髷は総じて小さく、正面からは見えないほどだった。職人は髷を反らせたりカーブをつけたりと、趣向を凝らした。


 一般的に町人は、大きな髷、長い髷を野暮と見なしていたようだ。ちなみに「ちょんまげ」とは本来、髪の毛の薄い老人の小さな髷を指す言葉だったという。





さまざまな髪結いの形態


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滑稽本『浮世床』に描かれた髪結い床。

順番待ちしながら談笑する男たちの姿を表現している。

(式亭三馬『浮世床』部分/早稲田大学図書館所蔵)


 江戸時代、髪結いの営業形態は、大きく分けて2種類あった。店舗をもつ髪結い床と、本作の五郎蔵のような廻り髪結いだ。


 髪結い床は、現代の理容室のようなもの。髪結と呼ばれる職人が、髷を結ったり、月代やひげの手入れをしたりした。嘉永6年(1853)の江戸には、露店のように屋外で営業をする”出床”と、自宅兼店舗の”内床”を合わせると、1000軒以上の髪結い床があったという。


 髪結い床の料金は、髷を結うだけで28~32文(約560~640円)。庶民の暮らしからみて決して安い値段ではなかった。そのうえ、職人も客も基本的に男性のみで女っ気は一切ない。それでも、江戸の男たちはせっせと髪結い床に通った。なぜなら、江戸っ子にとって髪結い床で髪型を常に”粋”に整えておくのは男の作法であり、同時に、髪結い床は貴重な社交場だったからだ。


 髪結い床では巷説が飛び交うため、密偵たちの情報収集にはうってつけの場所だった。とはいえ、いかにおまさが優秀であっても、女の身で聞き込みをすれば、悪目立ちして不審がられるのが関の山。本人も「たいていのところではびくともしませんが、女の身で髪結い床と銭湯だけはちょっと・・・・・」と尻込みしている。




原作を読む!


鬼平犯科帳(二十四) 第2話「ふたり五郎蔵」


原作者が完成させた最後の「鬼平」作品


 ”ふたり五郎蔵”の交流や、長谷川平蔵の冴えた勘ばたらき、平蔵の息子・辰蔵の活躍など、名場面が多い傑作。なかでも、60過ぎの老体ながら尾行を成功させた相模の彦十に、平蔵が「お前は俺の宝物だ」と言うシーンは印象的(原作。ドラマは犬をおびき出した彦十の背中に向ってそうつぶやく)。


 なお、著者・池波正太郎は「ふたり五郎蔵」の次に「誘拐」を書いているが、執筆中に急逝(きゅうせい)。「ふたり五郎蔵」は、池波が完成させた最後の「鬼平」作品となった。


ー鬼平犯科帳 DVDコレクション 44-