米沢藩におけるキリシタンの殉教


 わが国に初めてキリスト教が入ってきたのは、天文(てんもん)十
八年(1549)であるといわれています。

 その年の七月、スベインの宣教師ザビエルが九州に上陸して天主
教を伝えたのがはじめで、それ以来ヤソ教と呼ばれてキリスト教は
次第に日本全土に広まっていきました。


 寛永のはじめ・・・つまりザビエルが布教をはじめてから、わず
か数十年後には、米沢藩の佐野原地方(いまの西置賜郡白鷹町)に
は、すでに三千人に及ぶキリシタンが居たと伝えられています。


 この異国の宗教のあまりの発展ぶりに恐れをなした豊臣秀吉は、
ヤソ教の寺院を焼くなどの圧迫を加えはじめましたが、時代が徳川
に変わっても、その弾圧はゆるめられず、かえって苛酷の度を強め
ていくのでした。

 三代将軍家光の代の慶長十七年(1612)になると幕府は遂にヤソ教
を禁じ、もしその禁を破って伝道したり、或いは信仰を捨てない者
に対しては、非常に残酷な制裁を加えたのでした。


 打首、礫は普通のことで、火焙(あぶ)り、水責め、逆さ吊しな
ど、聞くだけでも身の毛のよだつような恐しい刑を行なったのでし
た。

 米沢藩では、上杉景勝公の代にヤソ教禁止の令を出してはいまし
たが、その取り締まりは寛大で、幕府の尋問に対しても「米沢藩に
は一人のキリシタンも居ない」と答えております。


 しかし、三代藩主定勝公の代の寛永四年(1627)になると、思いも
かけない事件が起こり、定勝公も遂に幕府の意に従わなければなら
ない結果になったのでした。

 それは、城代家老広井出雲忠佳の裏切りでした。広井ほ、定勝公
や藩老志田修理のキリシタン保護を心よしと思わず、米沢藩内には
重臣甘糟右衛門信綱一族をはじめ、多くの武士、百姓の信者がいる
ことを、幕府に密告したのでした。

 この密告によって、幕府の米沢藩に対する詮議は峻烈を極めるよ
うになりました。

 しかし定勝公は、何とかしてこの譜代の功臣を助けたいと思い、
志田修理を遣わして幾度か信仰を捨てるようにと勧めたのでした。


 けれど、甘糟の答はいつも同じでした。

 『殿のお心はまことに有難いと思います。しかし君命といえども
わが主デュウスを裏切ることはできません。ころびキリシタンとな
るよりは、磔にされる方が幸せと存じます』

 定勝公は涙を呑んで、心を決められるのでした。


 寛永五年(1628)十二月十八日、空にはまだ多くの星がまたたく寅
の刻(午前四時)、無足町の甘糟家から木挽町に至る町すじには、
おびただしい群衆がつめかけ、息をつめて異様な行列を見送るので
した。


 その行列は、この日、刑場北山原でお仕置になる甘糟右衛門信綱
の一族でした。一行十五人は、聖母マリアの姿を縫いとった旗と、
ローソクを捧げ持つ二人の子供を先頭に、前夜うっすらと降った粉
雪を踏みしめながら、祈りと聖歌(注一)を唱えつつ、ゆっくりと
進んでいきました。


 一行は右衛門をはじめ長男太右衛門夫婦、次男黒金市兵衛夫婦、
その子供達、それに下男、下女も従っており、洗礼名をヨハネと呼
ばれる五郎兵衛は、杖にすがる八十才の老翁でした。この外に、や
はりキリシタンで、江戸を追われて甘糟を頼ってきた大峡チモテと
その妻も従っておりました。


 次男黒金市兵衛の妻ルチアは、十七才でしたが、そのふところに
は死の旅への門出とも知らぬみどりごが明るい微笑を浮かべていま
した。

 羽州街道の出口にある北山原についたときには、もう夜の色はす
っかり拭い去られ、昇る朝日が白雪を茜に染めていました。その輝
きの中に、信者達はマリアの絵姿を囲んでひざまづきました。


 彼らの首は直ちに街道にさらされ、その傍には次のような高札が
建てられました。

 「この者共は、わが国の禁制を犯してキリシタン宗門を奉ぜしに
より、斬首の刑に処せしものなり。」


 この日北山原で死刑にされたものは、甘糟一族のほかに、二十数
人がおり、こうして十二月二十二日までに全部で五十七人が、この
刑場の露と消えたのでした


 この年はまた、北山原のほかにも南原の糠山(ぬかやま)で、南原
に住む六人の信者が処刑されていますが、キリシタンの迫害は翌寛
永六年(1629)に入ってもゆるむことなく続けられたのでした。


 寛永六年(1629)一月には、赤湯の豪農ヨハネ美濃の一族十人が揃
えられ、米沢に送られました。

 しかし、処刑は赤湯の代官の手で行なわれるところとなり、再び
赤湯に送り返されたのでしたが、その途中の北山原には、さきに斬
られた人達の首が、ずらりとさらされていたのでした。美濃はその
一つ一つに十字を切って通りましたが、甘糟右衛門の首の前では思
わず抱きついて頼ずりをしたのでした。右衛門こそ彼に神の愛を知
らしめ、洗礼を授けてくれた人であったのです。


 赤湯では、最後の背教1つまり信仰を捨てることを強いられまし
たが、誰一人きき入れる者はなく、かえってキリストのように十字
架にかけられることを願い出るのでした。業をにやした役人は、つ
いに目の前で一人の幼女の首をはね、これでも信仰を捨てなければ
他の子供達もこのように殺すぞと迫ったのですが、車座になった信
者達は、天に召された幼女のために、ただ祈りを捧げるばかりでし
た。


 一月十六日、赤湯法要塚の刑場には、九つの十字架が並びまし
た。昨日殺された幼女の死骸は、その母マグダレナの十字架の足元
に置かれてありました。天を仰いで最後の祈りを唱える信者達の顔
には微塵も怖れの影はなく、むしろ法悦に似た輝きが浮かんでいま
した。ときにヨハネ美濃は八十才の高令でした。


 この年はまた、置賜地方の布教に活躍したジュアン・ヤマが捕え
られています。

 ヤマは、フランシス会の司祭であったといわれ、佐野原にアルバ
ン教会を設け、ここを置賜全域のキリシタソの根拠地として布教に
当たっていたのですが、出羽におもむいたときこの地方の信者十五
人と共に江戸に送られ、入獄四年の後、遂に穴吊しの刑に処されて
修道生活四十七年の生涯を閉じたのでした。年六十三才であったと
伝えられています。


 この寛永五、六年(1628,9)は、わが国のキリシタン史上稀にみる
大迫害の行なわれた年で、全国で何千人という信者が処刑されまし
た。

 その後も、かくれたキリシタソの詮索はきびしく行なわれ、米沢
藩でも庄屋や肝入りは勿論、五人組の制度まで利用して信者の発見
に努めております。


 また、キリシタンを密告した者には莫大な賞金(注二)が与えら
れましたが、寛永十年(1633)にはバテレン・・・つまり司祭を密告
したものには銀百枚が与えられています

 こうして、寛永六年(1629)以後も多くの信者が探し出されて処刑
されました。中でも、わが国の公卿(くげ)で唯一人のキリシタンと
いわれる山浦玄蕃(げんば)の殉教は特筆されるべきでしょう。


 山浦玄蕃は、もとの名を磯野九兵衛といい、猪隈(いぐま)中納言
秀光卿の二男で、上杉景勝公夫人の甥に当たります。


 京都での圧迫が次第に厳しくなったので、寛永十二年(1635)に米
沢に落ちてきたのですが、米沢藩の厚い保護にもかかわらず、遂に
幕府の知るところとなり、承応二年(1653)十二月二日に米沢の極楽
寺で斬られました。米沢にあること十八年でした。


 明治六年(1931)、漸くキリシタソ禁制の令は解かれ、ニ百数十年
に及んだ長い長いキリシタン迫害の幕は閉じられたのでした。

米沢の歴史を見える化

 昭和四年(1929)には、米沢市の天主教徒の手によって、殉教の地
北山原にキリスト、ヨゼフ、マリアの像(注三)が建てられまし
た。

 松の線に囲まれて、高く、白く浮きだすキリストの十字架像は、
信仰のために命を捨てた多くのキリシタンの姿を髣髴(ほうふつ)と
させるのです。


〔注一〕 いまは歌われない古い讃美歌、ラテソ語のオ・クルック
スなどであったと思われる。


〔注二〕 この賞金は年と共に増え、寛永十五年(1638)には、パテ
 レソ銀二百枚、イルマン(行者)銀百枚、信者が銀二十枚~五
十枚とはねあがっている。
 さらに天和二年(1662)には、バテレン銀五百枚、イルマソ銀
三百枚、信者銀百枚という多額の賞金になった。銀一枚は通常、
銀大判一枚(十両=四十三匁)を指す。しかし、この解釈ですれ
ば銀百枚は四貫三百匁となり、当時の物価から推してもこれは考
えられない。米一石が銀三十匁(寛永十年)で買えた時代であ
る。ここでいう一枚は当時の銀銭慶長通宝か元和通宝(各一匁
強)、あるいは二、三匁の豆板銀ではなかったろうか。それにし
ても莫大な賞金である。


〔注三〕 ドイツから求めた彫像である。