父の遺志をついで米沢藩中興に尽した 莅戸政以(のぞきまさもち)


 今からおよそ百六十年前、文化十三年(1816)の八月二十九日は、
米沢藩中興に功績を建て、名奉行と讃えられた莅戸政以(のぞきま
さもち)が亡くなった日に当たります。

 莅戸政以は、莅戸善政(よしまさ)の長男として生まれました。父
の善政は、上杉鷹山公に仕えて偉大な功績を残した人でした。鷹山
公が十七才で明和四年家督を受けますと、善政は推されて御小姓と
なり、明和六年には町奉行、安永元年には御小姓頭、寛政三年に中
華寛政六年に奉行に進みました。

 特に寛政三年以後は、一国の政治を司る地位に立って、有為の人
材の意見を徴し、政治の大改革を行い十六力年計画によって藩の経
済を回復することを意図し、藩主治広公、隠殿の鷹山公の御裁可を
得て実践にうつしたのでした。

 これを「十六年の組立て」と云い、また、寛政三年から始められ
たので、「寛三の革新」ともいわれ、米沢藩の窮亡を救う回天の施
策なのでした。

 一国の隆替存亡(りゅうたいそんぼう)を双肩に担った善政は、文
字通り一身を国政に捧げ尽し、その業未だ半端にして享和三年六十
九才で亡くなりました。

 善政の亡くなる年、享和三年の六月に、善政の長男である政以と
大石左膳綱豊との二人が中老職につきました。奉行職として藩政を
担当する父善政が、藩の要職に携わる人の任免については、当然そ
の人選にあずかるわけで、父がわが子を推挙することになったので
した。

 このようなことは全く異例に属することですが、善政は、敢えて
わが子政以を推挙したのは、私事の親子という感情をなくして、一
国の為に、この重大事に際して、改革を継続するには、大石綱豊と
政以が最適であり、多くの支持を得られると考えたからでした。ま
さに、自他共に認め、特に父善政の絶対の自信によるものでした。

 政以が中老職に任用された六カ月後に、父善政は亡くなり、その
後は、名実共に善政の改革した政治を引き受けて、その成功を期し
て努力したのでした。

 莅戸政以は、宝暦十年、善政の長男として生まれ、はじめ八郎為
政といいましたが、後に九郎兵衛政以と称した人で、天明三年、二
十三才で家督を襲ぎ、御仲之間詰となり、天明六年、学館学頭を仰
せつけられ、次いで寛政元年、鷹山公の実子顕孝(あきたか)公の御
養育係を仰せつけられました。

 政以は、天性謹厳にして重厚で、謙譲の心厚く、学を修めては経
書に精しく、文をよくし、言葉少く、身をもって実行する人でした
から、顕孝公の御養育には精根を傾けました。

 ところが、御養育係としてお仕えすること六年目、寛政六年一月
五日、顕孝公は江戸白銀邸で、庖瘡のために逝去されました。御蔵
は十九才でした。顕孝公は鷹山公の実子であり、治広公のお世嗣と
して、その賢明さを謳われていた方だけに、その逝去の報を受けて
藩内は悲しみにくれたのでした。まして、政以の落胆は、傍で見る
目もいたわしい程でした。

 顕孝公の御遺骸が江戸から米沢に移されるときのことでした。政
以は、そのお供をして板谷にさしかかりますと、米沢からのお出迎
えが板谷の宿まできていましたが、そこで、「御遺骸の行列が米沢
城下に入ったら、お城の南御門を通って入城なさるように」との伝
言がありました。

 政以は、それを聞いて申しました。『如何に御遺骸とは申せ、十
五万石のお世嗣であられたお方が御帰城なさるのに、裏門からの御
入城とは承服いたしかねる。何卒表大手御門からの御入城をお取り
はからい下さるよう御城内にお申し入れ下さい』

 この政以の意見は、まさに然るべきこととして聞き届けられ、大
手御門から御帰城なさったのでした。政以の人柄を知る逸話と申せ
ましょう。

 同じ寛政六年の六月二十八日、治広公は、御兄勝煕公の御長男を
お世嗣に定められますと、政以は、引き続きその御養育係を命ぜら
れました。このお世嗣が後に名君斉定公となられるのです。斉定公
は、当時七才で、政以は、これより中老職を仰せつけられるまでの
九年間、至誠を尽して御養育申し上げるのでした。

 享和三年六月、中老職となり、その年の十二月に奉行職を勤めた
父善政が亡くなり、翌文化元年二月には父の後を受けて奉行職を命
ぜられ、一国の政治を司ることとなりました。

 寛政の改革が行われてから、文化四年が丁度十六年目に当り、計
画では、この政策の完成年度に当っていました。しかし、天災地変
や幕府の寄附仰付など、不慮の出費が重なり、まだ成功するに至り
ませんでした。時の興譲館館長神保綱忠は、学識才智に優れ、寛政
の改革に批判的でしたから、若手の人々と共に政以の政策に反対し
ました。この具体的な動きが青苧問題に端を発して出たのでした。

 青芋は、米沢藩有数の産物で、藩がこの産物に課した租税だけで
も、毎年一千両を越えていました。この青芋を商う商人のうち、二
人が神保方の人々と計り、青学の売捌きを、この二名に限って下さ
いと願い出ました。この一派の申し立ては『二名に限ることによっ
て、租税の外に毎年一千両を藩に納めさせ、この金を藩の借金返済
に当てるならば、必要以上の緊縮政策を続けなくとも、藩の復興が
出来、従って積極政策に早く転換され、藩民の生活も苦しまなくて
すむ』という趣旨でした。

 十六年にわたる耐乏生活に倦みあきた人々には、全く耳よりな意
見なので、賛成者が多く出ました。しかし、政以は、寛政の改革を
計画通り完遂しようとする人々と共に、この意見を却けたのでし
た。しかし、輿論は二分されて、寛政の改革政策が重大な岐路に立
つかに見えました。

 政以は、意を決して、御前評議に持ち込みました。鷹山公の御前
で、両派大いに論議を尽し、殿の裁決を仰ぎました。鷹山公は、
「商人が、一千両の大金を毎年納め得るということは、それだけ百
姓からは安く買い上げ、他国に高く売りつけることになる。もし、
これを続ければ、民を苦しめ、他国の信用を陥すこととなり、藩政
を損うに至ろう。政策に変更は認めない」と申し渡され反対派の主
な人々は、隠居閉門を命じられて事件が落着したのでした。

 こうした幾多の難関を切り抜け、政以は寛政の改革に基づく基本
政策を固く守って、これを貫き、父善政の遺志を実現させるべく努
力し、文化十三年八月二十九日、五十七才で苦難の生涯を閉じたの
でした。これは、寛政の改革が成功を見る文政六年の七年前に当り
まさに、完成を目前にして亡くなったのでした。

 政以がなくなってからは、その長男政在(まさあり)が家督をつぎ
文政二年に御小姓頭、六年に中老職、同年奉行職にのぼり、遂に祖
父三代にわたって、この政策を成功させたのでした。寛政三年から
は実に三十三年目で、当初負っていた二十万両の借財を全て返済
し、尚軍用金として五千両の蓄えを得たのでした。

米沢の歴史を見える化
 
 政以は、また、多くの著書を残し、「蒭堯篇(すうぎょうへん)」
「政体邇言(じげん)」には政治のあり方を述べ、「学而辨(がくじ
べん)」に学問への道を説き、「子愛篇(しあいへん)」には民を養
う大本を論ずるなど、何れも後世に尊ばれるものばかりでした。

 莅戸政以の墓は米沢市城南五丁目の長泉寺にあり、父善政の墓と
並び、全く同じ型の自然石で、改名、没年など明瞭に刻まれ、詣で
る人々に、父祖三代にわたる米沢藩中興の功績とその人徳を讃え、
その苦難の生涯を偲ばせているのです。

米沢の歴史を見える化

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