高野三三男「スタイル」の表紙絵 | mizusumashi-tei みずすまし亭通信
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     雑誌「スタイル」表紙

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古本屋に昭和22年に発行された雑誌「スタイル」が5冊積まれていた。ちょっと迷ったあげく買うことに。表紙絵は高野三三男(こうの・みさお)で、裕福な商家に生まれて絵でも描こうとフランスに渡り、アール・デコの画家として海外で自立、第二次大戦勃発の昭和16年に帰国後もそれなりに活躍したようで、まず恵まれた幸せな一生を送った感じがします。東郷青児、ルイ・イカール風で若い頃は「なんじゃこの軟弱な絵は」と非難していたものの、歳をとったせいで案外受入れ体制充分である。

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       目次カット

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オヤジと慕っていた藤田嗣治のカットも

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   1997年目黒区美術館カタログ

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本画より雑誌挿絵から見直される日も来るかもしれません。どうですかね。

以下、つけたしの相撲談義ですので頑張れる人だけお読みください。

第四十四代横綱栃錦は上背はあったものの軽量で、昭和十三年の入門時にはそれほど期待された力士ではなかった。若乃花という好敵手を得て迎えた「栃・若時代」は、史上まれにみる小兵横綱同士でもあった。しかし、彼等の登場によって相撲にスピード感が加わり、北の湖やウルフ千代の富士が代表する現代相撲の端緒となった。栃錦が入門した出羽一門の春日野部屋では、夜の二時には練習を始め必ず親方がその練習を見守った。

戦時中は応召して兵役についたが、それまでの稽古が稽古なのでぶン殴られても痛くも痒くもない。敗戦後GHQは剣道柔道は軍国主義に結びつくと制限したものの相撲には寛大だったことから、昭和二十年十一月、焼け残った両国国技館で十日間の興行が再開された。後に進駐軍によって国技館が接収されたため、明治神宮外苑で行われた本場所では、米兵が寝そべって観戦するありさまで癪にさわった。しがし、外人にも見せなければならないと、仕切りの制限時間を五分に、勝負の時間を長引かせるため動きが激しくなるようにと、土俵の直径を十六尺(4・84m)に変更された。

元々は十三尺で、昭和の初めに十五尺に変えたものだった。昭和二十九年栃錦が自身一番強かったという大関時代、巡業先の新潟県燕市で練習のし過ぎで左手首に炎症、三条市の旅館でパンパンに腫れ上がってしまった。秋場所では仕方なく左をカバーした右攻めが功を奏して、十四勝一負で四度目の優勝、場所後横綱に推挙された。

私の世代はTV放送が始まっての「白・鵬時代」に未完の大器といわれた大関豊山、アンコ型の若秩父、人間起重機の異名を持つ明武谷が懐かしい。ただ、相撲ファン音楽評論家吉田秀和は、カラーテレビの時代に入り、茄子紺・黒といった締め込みから、黄金色のまわしを締めた横綱が登場するに及んで、その俗臭大衆化に嫌気をさして「もう見ない」と決別の書を発表しだす。一面、見巧者によって支えられていた相撲が、映像時代に少しずつ大味になってきたことは否めず、これは最近の衰微に繋がっているのではないかと思っている。