アヒムサーと幸せは役割 | Yato Yoga Blog

 

 

アヒムサー:非暴力

 

自分の中でアヒムサーブームが起きているのでここ最近よく考えてた。

 

様々な人種がいるが、傷つけられたくない、傷つきたくないという想いは全人類が持っている共通の想い。

 

自分以外の人も傷つけられたくないという想いがあることは誰もが知っている知識。

 

アヒムサーはもともと誰でも持っている知識。

 

 

ヴェーダーンタを習い始めた頃スワミジに「人の本質は満足・幸せ、それを知れば知るほど暴力的な気持ちが自然となくなる。」と聞いてよくわからなかった。

 

 

インドでスワミジがクラスでダヤーナンダジのことを話してくれた。

 

ダヤーナンダジが歩くときはいつも付き添いの方が何人かいて、暗くなると懐中電灯で足下を照らしていたそう。つまずかないように照らしているのではなく、暗い時間でも虫を踏まないように照らしてもらっていたそうです。

 

ヴェーダの文化の人々がベジタリアンな理由は、自身の健康のためではなく、捕まえようとして逃げる生き物、恐怖を感じる生き物は食べないというシンプルな理由。

ベジタリアンでも植物の命は頂く。自分の体を生かす為の最低限の犠牲での食事をしている。それは重々承知の上、祈りと感謝をして命を頂き、自分の中に繋ぐ。

 

インドで素敵だなと思ったのがこうゆー祈りの文化。

 

女性がお化粧・お洒落をするのも体が神が宿る祭壇・お寺のような考えなので祭壇を飾るように、大事なゲストを綺麗に迎えるためにお化粧をし、お洒落をする。

自分のことよりもっと大きな力に献身的な祈りが日常から感じられ本当に美しく感じた。

 

自分自身が足りていないとかいう想いが本当になさそう。物質・金銭的に恵まれていないように映ったとしても、自分自身満たされていて、足りていない、常に支えられているという価値観があり、その文化の中で自分も祈りを実践していると満足感が溢れてくる。

 

しかしその文化にいても、そこに価値が見出せないと、汚い、あれがないこれがない、不便、とか不満と文句ばかりになってしまう。

不満ばかり言っていても自分が幸せになるわけではないし、他人が幸せになるわけでもいい気分になるわけでもなく誰も得しない。

気分が下げられてしまうので、なるべく近寄らないようにしておこう。笑

 

僕が好きな人、尊敬している人たちは本当に人の悪口を言ったり、気にすることがない、むしろ褒める、いいところを見つける。いつも何かに感謝していたり、満足して日々過ごしている方ばかりなので一緒にいるこっちも気分が上げられる。

 

 

アヒムサーは自分自身に満足すればするほど備わる資質。備わる知識。というかもともと持っている知識。

 

 

僕は人は幸せになることが義務だと感じる。

 

自分自身に幸せで、満足していたら人を傷つけない。

 

不満があるから人を妬んだり、傷つけたり、虐めたり。

 

人を虐めるのも不満から。

 

完全に満足していたら人を傷つけること、自分を傷つけることはしない。その発想自体ないと思う。感謝して美味しい物食べて、温泉入って、最高にキレイな自然見たらそんな気おきないね、きっと。

 

そして幸せ・満足感を得たら親にも産んでくれたことにも感謝が生まれる。

 

不満しかなかったら親すら恨んでしまう。

 

やっぱり幸せになることは人の役割だと思う。

 

そしたら傷つけないように心掛けなくてもアヒムサーは自然と達成される。

 

 

 

ヴェーダーンタは説く。あなた自身が満足の本質だと。

 

 

続く。