ユーミーマン奮闘記

~和歌山営業所の日常~


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こんにちわ♪

ユーミーマンです(*^▽^*)

 

 

今回の歴史ブログは和歌山市有本船渡地区です。

 

 

船渡地区は紀ノ川大堰のすぐ南側。

車で通ると何の変哲もない郊外の新興住宅が広がる地域です。

 

船渡地区は室町時代頃に紀ノ川の渡し場があり、この地名が付いたそうです。(山王の渡し)。

 

この普通の住宅地の一角に、今も

古い時代の船渡を思わせる場所が残っています。

 

これは現在の船渡公民館付近から北側を見た景色です。

手前の立派な日本家屋は高木さん宅。江戸時代からこの場所住んでいる旧家。

赤いラインが旧街道で、水道路をまたいで集落の中に入っています。

集落の中の道は狭く、まだ昔ながらの民家が残っています。

 

その高木さんから

この地に伝わる興味深いお話を聞く事が出来ました。

 

現在公民館のあった所に江戸時代から地蔵寺というお寺があり。

明治維新の廃藩置県の後、和歌山城の大奥女官さんが再就職に困って、このお寺の住職になったという話がこの船渡地区に残っているそうです。

 

そのお話しを詳しく聞かせていただきました。

 

明治維新の頃、徳川幕府がなくなり、和歌山城に勤めていた多くの武士、大奥の女官や下働きの者が一挙にリストラ。

食べるために何らかの職に就かなければならなくなりました。

武士の多くは刀で主君を守るという警護が本職。そのまま陸軍や海軍の職があったかというと、徴兵制度が始まって一般庶民からたくさんの人が入隊するようになり、すべてが軍隊に入れませんでした。

 

大奥の女官さんに関してはもっと悲惨で、今までお城勤めを行っていた人がいきなり町で行商を行うわけにはいきません。

子供に読み書きを教えるぐらいしかなく、その職につけた人もわずか

で、大半は困窮しました。

しかも徳川家はいわば朝敵。明治維新の頃は何かと差別もあったのかもしれません。

地蔵寺に来た女官さんは、村人から暖かく接してもらい

食べるのに困るだろうと田を(現在の有本500番地付近)与えてもらい

小作の人を雇って、そこで実ったお米から小作の人の労賃を払い

残ったわずかな米と、村人のお布施で何とか生活をしていたと言います。

この赤いラインが有本500番地。

 

この女官さんはお経を学び、元からお城勤めで筆は達者だったとはずで、塔婆を書いたりすることができ、無事に安寿さんとして再就職を果たしました。

 

高木さんが祖母から聞いた話では、地蔵寺にはお風呂はなく安寿さんはよくお風呂を借りにきたそうです。大奥時代の着物を貧窮の時も手放さず大切に持っていて、見せてもらうとそれは立派で美しい着物だったそうです。

 

しかし、絢爛豪華な大奥の暮らしと正反対に、お寺での暮らしは厳しく、わずかな米で粥を炊いて、何とか食べていたといいます。

 

 

 

地蔵寺は寛永2年創建の寺。明治の初期にはこの大奥の女官さんが

住職となったことで以降尼寺となり、昭和28年頃まで尼寺としてこの村のさまざまな仏事を行っていたそうです。明治の頃ではないですが

戦後間もない頃の地蔵寺の写真を紹介します。(紀ノ川中学校所蔵)

 

地蔵寺昭和28年 (紀ノ川中学校所蔵)

 

この写真に写っているのは明治初年の大奥女官さんではなく、

何代目かの安寿さん。この後すぐに寺は老朽化により取り壊され、後に公民館が建ちました。

 

 

これが現在の地蔵寺跡。左の祠のようなものが地蔵さん。

右にお寺の建物があったのですが、公民館に変わりました。

 

この大奥の女官さんは、村人に愛されながら最後まで勤めを全うし、

静かに余生を終えたといいます。

 

 

今は紀ノ川堤防下の墓地に、

後の時代の安寿さんと共に静かに眠っています。

 

 

 

 

裏地工務店のHPはこちらから

http://www.uraji.co.jp/

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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