観光タクシーの運転手さんに、デカチェブとのツーショットを見せて、「お宝なんです。」と言ったら、「じゃあ私もお宝画像をお見せしましょう」と言って、これを見せてくださいました。
新旧並んだ五稜郭タワー
運転手さんが名詞として使っている画像です。
右が現在のタワー(このタワーが完成の折に撮影したそうです。)
左が旧タワー(すでに取り壊されています。)
さて、いよいよ最後の見学は、芸術ホールで開催中の写真展
日露和親条約締結156周年記念写真展
ロシア・コレクション
明治古写真展「失われた日本」
この展示会で展示される写真は、幕末から明治にかけて続々と来日するようになってきた外国人観光客のために、お土産用として撮影された写真の数々です。こうした写真は、後に「横浜写真」と呼ばれるようになり、西洋人が日本人に対して抱くようになった「フジヤマ、ゲイシャ、ハラキリ」などのイメージ形成に寄与したといわれています。
現存する日本最古の写真(銀板写真)は、1854年ペリーに随行した写真家ブラウンが写した「石塚官蔵と従者」で、国の重要文化財指定を受けています。日本人が写した最古の銀板写真は、薩摩藩主島津斉彬公の写真です。
日本最古の写真は、今は市立函館博物館にあるよ
ここ写真歴史舘にあるのはレプリカ
珍しいね
日本に写真の技法が伝わったのは、長崎、横浜、函館の3つの港からと言われています。
ペリー提督が再度来航したときには写真家エリファレット・ブラウンを同行していました。プチャーチン提督が率いるディアナ号には、献上品の写真気が積まれていたとのことです。
この写真展のオフィシャルブックに寄せられた、日本写真家協会会長の田沼武能氏のコメントによれば、函館では、来函したロシア領事ゴシュケヴィチが木津幸吉らに写真の方法を伝授したとあります。さらには、領事館付き医師ゼレンスキーに学んだ田本研造が、北海道開拓使(今の北海道庁)のお雇い写真師として活躍しました。
ところで残された写真のうち、あるものは鶏卵紙に焼きつけられており、そこに見事に手塗が施されています。また保存状態は大変に良好で、芸術的価値が高いそうです。もし、私がその時代に生きていたら、写真の彩色師としての職業に就きたいと考えたかも・・・・・(楽しい妄想 )
横浜写真といわれる所以
早くから開港された横浜には、欧米から複数の写真家がやってきました。フェリーチェ・ベアトは日本の名勝地や神社仏閣、と共に多くの風俗写真(例:芸者、相撲力士、刺青、行商人、子守り、田植え・・・・・etc・・・)を残しました。特に写真場では、バックに富士山や桜の木の「書き割」を配し、日本的雰囲気を盛り上げて人物を写し、その異国情緒ゆえに外国に大量に輸出されていったのでした。
写真は当時は先端技術の代表でもあり、またたく間に隆盛を極め、やがて日本中に広まっていったのです。
このあたりの事情はオフィシャルブックに詳しく載っています。(写真家松本徳彦氏の解説に詳しい)
パンフレット裏
今回写真を提供してくれたのは、この方です。氏を初め家族の方々が長年にわたってコレクションしてこられた大変貴重な写真です。
ロシア側組織委員会副委員長・ロシア連邦文化省副大臣
P・V・ホロシロフ氏
糸紡ぎ
人力車。木戸の光景
タイトルの『失われた日本』には、単なる懐古趣味ではなく、写真というものが、後世にその文化を残し伝達してゆくのだということを思い知らされます。
ロシアのそこかしこの博物館や民俗資料館には、相当数のアイヌ民族の記録や資料、民具が眠っていると聞きます。かつて、ロシア人が我々に先端技術を伝授してくれたことに思いをはせ、私たちも機会があれば、そうした貴重な記録に思いを寄せたいものと考えます。出来ることならば、その地を訪ねて実物に出会いたいものです。
さてこの写真展は、今度は8月1日から8月7日まで 東京銀座 洋協ホール にて開催されます。
michiruの 2011ロシア文化フェスティバル IN JAPAN (函館)のレポートは以上です。
時を改めて、番外編「宣教師ニコライ」「日露交流史」関連のレポートを書きたいと思います。