ジユウニッキ

ジユウニッキ

音楽とか人間について。備忘録。雑感。

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ヤホーニュースを見ていたら「のん」の前所属事務所が「能年玲奈」という名称使用について以降要許諾!
なんて通知書を送っているとかなんとか。
う〜ん。著作隣接権→実演家の権利 →実演家の人格権→氏名表示権 
と考えてみても人格権は一身専属の権利であるから、ちいと無茶があるのでは・・・。
芸能界は、芸能人を「ものをいう商材」と考える伝統がありまして、、、
ところが、実際には芸能人も人間なんですけれど、ここに芸能が「法律に疎い」問題があるのではないの。
人権とか言い出したら自らの商売を脅かしかねないものね。
そんなだから事務所を辞めた後"n"年間芸能で仕事をしてはならん というような条項を平気で入れる。
さすがに最近この傾向は減ってきたようだが、職業選択の自由に反するので単なる脅し文句なのですが・・・
「のん」の弁護士氏がいう通り、本来実名なのだから「公序良俗に反する」とも言える。

ふん、千尋だって?贅沢な名だね、今日からお前の名前は「千」だよ みたいな。

数歩譲ってこの「商品名」の顧客吸引力を創造したのは確かに事務所なのだとして、
「能年玲奈」を商標登録しようとしたとしても、「能年玲奈」はすでに「著名な芸名」に該当するだろうから、
本人の許諾が必要となるのではないだろうか。確かに手塩にかけて育てたタレントが売れた途端に、
はい独立ー じゃ困るのもわかります。
でも、売れる売れないは事務所が頑張ったからもあるけど、本人の才覚もあってのことなのだから
もう少し人権のこと考えようよ〜と思う。
・・・とはいえ芸能は村社会なもんで最終兵器「圧力」があるのよね。
みんなこれが嫌なのよね。もう昭和は終わったんだけどね。

http://zasshi.news.yahoo.co.jp/article?a=20160720-00006387-sbunshun-ent
人は何にでもなれるとはよく聞く言葉だ。
しかし、特定の誰か(例えば隣の席の人)になれるか、となればそれは不可能だと誰でもわかるだろう。
会社や学校の、隣の席の人のように振る舞える可能性はあってもその人自体にはなれない。
戸籍や育ちまでコピーすることは不可能だということだ。そして、無意味だ。
音楽では、基調となる音がなければ楽曲は成立しない。
何かから離れようとすること、何かに戻ろうとすることを、「基準」を設けて人は認識し、体験できる。
逸脱とは基準があって初めて成り立つ相対的な観念だから、
基準なしに作られる音は、何かから「逸脱する」方向も、「戻る」方向もを持たないただの混沌にしかならない。
つまり、何にもなれない。
太陽系の星を見れば、それぞれが個性的であってもその軌道は太陽という基準に沿っている。
当然、太陽を失えば新たな法則に従うだけである。
人は、何にでもなれるが誰かにはなれない。人は自分になるだけだと思う。
自分という基準があってこそ、自分から逸脱できる。何かになれる。
そうして、初めてルールを扱える。あらゆるルールを同時に扱えることが、「自由」だと思う。
それを何にも縛られない、と人は言うのだろう。
残念ながら、ルールを無視しようとし続ける人に自由はない。
無視しようとするルールに縛られているから。
「普通」という言葉は、「あまねく」「つうじる」と書いてある。
つまり「もれなくすべてに通じている」という意味であり、
隙間なく満ちた器のようだ。
この状態では運動が生まれる要素もなく、
言い換えるなら完璧という言葉だろう。
いかなる状況にあっても普通であれば
(我慢も、見栄も、勝敗のことも、損得感情も、愛憎も、感情もまったく生まれず
ただ単に目の前のことを扱うことができたら)
まるで聖人である。苦手な人も、苦手な状況もないということだ。
そのように考えると、普通の反対は非凡ではない。
普通であることは非凡なのではないか。
ただし、先に述べたように完璧であるがゆえに運動も生じない。
あらゆる人が普通でないのは、人生という活動には、生命の方向性とでもいうべき
「動機」があり、それゆえに人は生きるのかもしれない。

普通でいい とはよく言うものの、普通にできれば苦労はしないよ、ということだ。