新三教指帰

芸術・経済・仏教を横断する教養娯楽ブログ

文の起こるに、必ずや理由がある。天晴朗なれば、すなわち気象を示し、人感応すれば、すなわち文筆をとる。 故に易経、老子、詩経、楚辞、いずれも心中動き、紙面にしたためられたのである。 聖俗は人を異にし、古今は時を異にするといえども、心の憂いを晴らさんとすれば、己れの志を述べずにいられようか。このブログを名づけて、『新三教指帰』という。ただ憤懣の逸気をはらうのであり、ゆめゆめご高覧を望むものではない。 でも、ポチしてくれたら嬉しいな。

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≪伎楽面≫ 8世紀





芸術を語るには、ひとつの態度を選ばなければならない。ただ鑑賞するだけなら、いかなる態度も必要ない。だが、いざ語ろうとする段になって、なんらかの態度が必要となるのであり、和辻の場合、それは「知識や学問を排除する」というものだった。その和辻にしても、『古寺巡礼』と題する一冊を書いている。そこに盛り込まれた知識や学問的素養は、「ギリシア美術と奈良美術の類似を滔々と論ずる男」 がその日、論じたものに比べるならば、膨大な量に達するはずである。

おどれら、吐いたツバ飲まんとけよ?

といった、おびやかしを受ける。私が選んだ態度によて、私自身が足をすくわれる。別の態度を選んだ者への批判が、そのまま私自身に降りかかってくる。これが芸術を語る際の、第二のリスクである。

ところで、和辻の『古寺巡礼』を実際に確認してみて、面白いことがわかった。 奈良美術館で「ギリシア美術と奈良美術の類似を滔々と論ずる男」に遭遇する場面を探したのである。ひょっとしたら私の見落としもあるかもしれないが、それらしい場面は、以下の引用箇所のほかになさそうなのである。
N君に別れて玄関の石段をのぼり切ると、正面の陳列壇のガラス戸があけてあって、壇上の聖林寺十一面観音の側に洋服を着た若い男が立っていた。下にいる館員に向かって「肉体美」を説明しているのである。ガラス戸のあいているのはありがたかったが、この若者はどうも邪魔になってならなかった。やがてその男は得意そうに体をゆさぶりながら、ヒラリと床へ飛び下りてくれたが、すぐ側でまた館員に「乳のあたりの肉体美」を説き始めた。N君が渋面をつくって出て行ったわけがこれでわかった。
(和辻哲郎 『古寺巡礼』 岩波文庫
男は「ギリシア美術と奈良美術の類似」ではなく、「肉体美」を論じている。 しかも、この数ページあとでは和辻自身が天平伎楽面を論じ、伎楽とギリシア演劇との関係を論じている。「ギリシア美術と奈良美術の類似を滔々と論ずる男」とは、なんと和辻哲郎その人だったのである。

もちろん男は「きざ」だとか「俗物」だとか、露骨な言葉で批判されてはない。おどれが俗物じゃ、などと和辻を批判するには当たらない。といって、これがリスクの存在しないことを意味するのでもない。 和辻が上手に(あるいは運よく)、リスクを回避したというだけの話なのである。

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芸術について語ること。それには常にリスクがつきまとう。

いや、タブーとさえいっていい。

ゴッホやモーツァルトについて書いた小林秀雄、仏教美術について書いた和辻哲郎。彼ら一流の知識人に、それは許される行為であり、また一流でなくとも、美術評論家と呼ばれる人々に許される行為である。

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パブロ・ピカソ ≪泣く女≫ 1937年




私なんかがブログの記事にする場合には、彼らの言い分をなぞるように、いわば写経でもするように書いて、辛うじて許されるのである。たとえば、「ピカソの絵は訳がわからない」というのは許されない記事であり、「ピカソの14歳のときのデッサンを見たことがありますか? あの的確なデッサン力があったからこそ、のちのデフォルマシオンが可能になったのですよ」というのが、どうにか許される記事である。 ところが、ここがタブーのタブーたる所以なのだが、そうやって苦労して写経しても許されないことがあり、むしろ許されないことの方が多い。

松宮秀治は、一流の知識人であったはずの小林や和辻が、芸術の享受においては、なぜか知識や学問の排除を求めるパラドックスを指摘している。彼らにとって忌むべきは、ぺらぺらと訳知り顔で芸術を語る俗物との遭遇である。
もっと質の悪いのは和辻の『古寺巡礼』のなかに述べられている奈良美術館でのある経験である。それは人の混まない時間に静かに仏像との対話を求めにいくと、そこには先客のひとりのきざな男、洋服姿がめずらしい時代に洋服を着込み、監視人相手に大声で薀蓄を傾けてギリシア美術と奈良美術の類似を滔々と論ずる男に出会うこと、つまり、そういった状況に遭遇してしまうことである。この男こそが彼らにとってはまさに「俗物中の俗物」である。   (松宮秀治 『芸術崇拝の思想―政教分離とヨーロッパの新しい神』 白水社)
なんだか嫌な感じの「きざな男」だが、さしずめ私なんかも同類である。同類だとして、仮に許されない語り方をした場合は、どうなるのか? 大抵は黙殺、せいぜい「俗物」のレッテルを貼られるだけだから、大したリスクではない。「そうです。私は俗物です」と、開き直ってしまえばいい。レッテルを貼られたところで、一銭も失ったりはしない。などと書くから俗物扱いされるわけだが、まあ、どうでもいい。

問題なのは、第二のリスクである。

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ポンド/円は、2月16日に上方ブレイクしている。

私は買い逃してしまった。高止まりと占ったのが1月16日である。向こう1ヶ月まで、つまり15日までの占いだから仕方がない……などと言い訳するつもりはない。 革の意味するところを読み切れなかった私が、やはり、まだまだ未熟なのである。気を取り直して今月も占っていこう。

ポンド/円相場を占って、蠱の謙に之くを得た。

蠱は、皿の上で虫がうごめいているという字である。また古代においては、磔刑に処せられた罪人の魂を表したともいう。なんとも不気味なイメージの字だが、この場合は上昇の暗示と観る。2月中は、まだまだ上昇する。

謙は内卦に山、外卦に地。高い山を削って地をならすという卦であるから、つまり高値保ち合いである。やや下押し気味のように思うが、大きく下げることはない。

注意日は寅、亥だが、この場合は、どこで上昇が止まるかを観なければならない。2月23日、寅の日とすると上昇期間が短いような気がする。とすれば3月3日、亥の日の0時過ぎか。

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