
■ ≪伎楽面≫ 8世紀
芸術を語るには、ひとつの態度を選ばなければならない。ただ鑑賞するだけなら、いかなる態度も必要ない。だが、いざ語ろうとする段になって、なんらかの態度が必要となるのであり、和辻の場合、それは「知識や学問を排除する」というものだった。その和辻にしても、『古寺巡礼』と題する一冊を書いている。そこに盛り込まれた知識や学問的素養は、「ギリシア美術と奈良美術の類似を滔々と論ずる男」 がその日、論じたものに比べるならば、膨大な量に達するはずである。
おどれら、吐いたツバ飲まんとけよ?
といった、おびやかしを受ける。私が選んだ態度によて、私自身が足をすくわれる。別の態度を選んだ者への批判が、そのまま私自身に降りかかってくる。これが芸術を語る際の、第二のリスクである。
ところで、和辻の『古寺巡礼』を実際に確認してみて、面白いことがわかった。 奈良美術館で「ギリシア美術と奈良美術の類似を滔々と論ずる男」に遭遇する場面を探したのである。ひょっとしたら私の見落としもあるかもしれないが、それらしい場面は、以下の引用箇所のほかになさそうなのである。
N君に別れて玄関の石段をのぼり切ると、正面の陳列壇のガラス戸があけてあって、壇上の聖林寺十一面観音の側に洋服を着た若い男が立っていた。下にいる館員に向かって「肉体美」を説明しているのである。ガラス戸のあいているのはありがたかったが、この若者はどうも邪魔になってならなかった。やがてその男は得意そうに体をゆさぶりながら、ヒラリと床へ飛び下りてくれたが、すぐ側でまた館員に「乳のあたりの肉体美」を説き始めた。N君が渋面をつくって出て行ったわけがこれでわかった。男は「ギリシア美術と奈良美術の類似」ではなく、「肉体美」を論じている。 しかも、この数ページあとでは和辻自身が天平伎楽面を論じ、伎楽とギリシア演劇との関係を論じている。「ギリシア美術と奈良美術の類似を滔々と論ずる男」とは、なんと和辻哲郎その人だったのである。
(和辻哲郎 『古寺巡礼』 岩波文庫)
もちろん男は「きざ」だとか「俗物」だとか、露骨な言葉で批判されてはない。おどれが俗物じゃ、などと和辻を批判するには当たらない。といって、これがリスクの存在しないことを意味するのでもない。 和辻が上手に(あるいは運よく)、リスクを回避したというだけの話なのである。











