映画『靖国・地霊・天皇』公式ブログ

映画『靖国・地霊・天皇』の最新情報をお届けします。


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【REVIEW】

毛利嘉孝(社会学者)

         (中略)『靖国・地霊・天皇』は、このような困難の中でどのように「死者を弔う」ことができる
         のかを模索している。私たちは無数の死者の隙間に生きている存在であり、国境を越えて
         あらゆる死者は弔われるべきなのだ。その映像は、その過程の中で靖国神社の問題に
         潜む「死者を弔う」ことと「命を捧げる」こととの間に存在する倒錯的な美学と精神を
         描きだそうとしているのだ。
         (中略)靖国神社の問題は、アジアとの関係や歴史認識問題のみに還元することはできな
         い。日本という国家の奥深く染み込んだ美学に飲み込まれつつも、それを強烈に喰い破る
         ような別の美学が必要とされている。『靖国・地霊・天皇』は、そうした試みの最も先鋭的な
         映像作品なのだ。

阿部嘉昭(評論家・詩作者)

         (中略)大浦映画のすごさとは何だろう。さきほど逆回しシーンにつき示唆したが、いましめ
         したながれも、その正順を逆順にすべて換えられる可逆性をはらんでいる点なのではない
         か。すべての映像の契機が等価だから、そうした事態がひきおこされるのだ。むろんひとは
         可逆性をもつドキュメンタリーなど、眼にしたことがないはずだ。ところがこの時間性の潜勢
         的な混乱こそがじつは「唯一の時間」をたちあげてくる。しかもそれがなまめかしい。このこ
         とが大浦作品の鑑賞体験なのだ。そうした大浦作品を直観性の枠組だけでとらえてはなら
         ないだろう。

小倉利丸(社会文化論)

         (中略)大浦の映画は、ドキュメンタリーという手法を常に逸脱することによって、この無意
         識の縁にある暗い洞穴の入口をこじ開けようとする試みでもある。この意味で、物語の
         文脈を切断するようにして挿入される物語の構造(劇団「態変」、水の流れ、爆破される
         ドラムカン)にこそ現実があるということになる。ここでは、ドキュメンタリーの平面が
         虚構に、虚構の平面が現実に、転倒される。
         (中略)問題はこの問いを現実の世界にどのように再挿入するのか、であるが、この課題
         は、エンドロールの後に、劇場の客電が点灯されて現実を再び抱えこむことになる私たち、
         観客なるものたちに委ねられることになる。私たちもまた、大浦に唆されて、例の危うい境
         界の上で、どちらに背を向けるのか、その決断を問われることになるが、これは決意の
         問題でもなければ、歴史の記憶の問題でもなく、言うならば、死の欲動を権力から奪回
         しうる想像力の再構築を闘うということなのだと思う。

福住廉(美術評論家)

 

        (中略)靖国神社の基底に広大な「血の海」が広がっていることは疑いのない事実である。

        映画の全編にわたって多用されている赤みを帯びた映像は、その「血の海」が今日の社会

        と重なり合っていることを表しているのだろう。靖国神社の祭りや二重橋、繁華街を赤く映し

        たシーンは、もしかしたら血涙を絞った亡き者たちの眼球から見た風景だったのかもしれな

        い。

        (中略)いま、東アジアの危機を煽りながら戦争の道を歩み出そうとする者が少なくない。

        戦死者を顕彰する靖国神社で不戦を誓うなど、それ自体はきわめて稚拙な政治の美学化

        にすぎないが、立憲主義や民主主義の根幹を揺るがすばかりか、新たな「血の海」を招き

        かねない危険な徴候ではある。

        (中略)大浦信行の新作『靖国・地霊・天皇』は、おびただしい無念の魂が彷徨するその赤い

        海のさざ波を、私たちに垣間見せるのである。



【本作の撮影者】

映画『靖国・地霊・天皇』キャメラマンとして  辻智彦 

         大浦さんの表現への挑戦の旅の道行きを、また共にした。折口信夫の小説「死者の書」
         から多く啓示をうけたのだという。僕は大浦さんとは趣味も性格も年齢も全く違うのだけれ
         ど、いいと思うものごとの感性は昔から不思議と一致していた。もちろん僕がこの十数年、
         大浦さんの影響を大きく受けていることもあるのだけれど、思い返すと初めての出会いから
         僕は大浦さんの目指す特異な表現世界に素直に没入していた。

         僕のビジョン、僕がキャメラを通して表現しようと苦闘していた世界と、大浦さんが
         追究していた映像表現の方法論が、先天的に通じ合うものだったのだろう。

         靖国。日本に穿たれた生と死の極点。突き詰めていえば「ラディカルとはなにか」を問い
         続けてきた大浦さんが、日本の、そして自分のへその部分に、いよいよ映像で切り込むつ
         もりなのだな、と直感的に理解した。論としての靖国。それを左右両翼から挟み込むように
         語る2人の弁護士と、靖国の地底で眠れぬ刻を食み続ける死者たちの、声にならない叫び
         を「地霊」として全身で表現する舞踏家・金滿里。その、倒立したトライアングルのなかで
         うごめく映像の情念こそが、この映画の肉体だ。

         キャメラというものは、現実に存在している事象のみを機械の冷徹さで記録するのだと
         いう常識がある。僕はそう思わない。キャメラは、その眼前にあるものたちの奥に隠れてい
         る、根源的な激情をえぐり出すことのできる刃物だと、僕は思う。キャメラは、目に見えない
         ものを顕すことが、出来る。キャメラは、それを覗きこむものの心の一番奥底を、明らかに
         する。レンズと僕の眼球の、あわいに霊性が宿ることを夢想しながら、僕はキャメラを構え
         ている。徳永信一氏の昂りも、大口昭彦氏の憤りも、言葉を越えてキャメラのレンズに、
         僕の眼球に、突き刺さってくる。地底で、路地裏で、靖国の鳥居の前で、のたうつ金滿里。
         その肉体が隠そうとしない怒りが、その情動が、キャメラに感応し、キャメラに自分が機械
         であることを忘れてほしいと、僕は希う。確かにそんな瞬間を、僕は大浦さんとの仕事で
         何度も体験してきた。だから確信を持っていえるのだ。この映画は確かに、現実には見え
         ない、根源的なものたちと交感している、と。
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