映画『靖国・地霊・天皇』公式ブログ

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映画『靖国・地霊・天皇』の最新情報をお届けします。

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■東京:ポレポレ東中野 いよいよ9月5日(金)まで!

9月5日(金)まで
 18:30より1回上映

※大浦信行監督の舞台挨拶あり
★829日(金) 18:30の回上映終了後
★830日(土) 18:30の回上映終了後
★93日(水) 18:30の回上映終了後
★95日(金) 18:30の回上映終了後

■大阪:第七藝術劇場

8月29日(金)まで
 19:00より1回上映

■名古屋:シネマスコーレ


8月29日(金)まで
 10:20より1回上映

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■横浜 ※公開終了
横浜シネマ・ジャック&ベティ

8月9日(土)~22(金)
【終戦記念日8/15 無料上映のご案内】

7月19日よりポレポレ東中野にて公開がスタートしたドキュメンタリー映画『靖国・地霊・天皇』。

この度、終戦記念日となる8月15日は【無料上映】とさせていただきます。

これまでの公開期間中、トークショーを行っていません。それは、本作のメッセージが、
イデオロギーではなく【死者との対話】を重視しているからです。

観客に対しては、大浦監督とゲストが対話をしているのを客席で聞いてもらうのではなく、
観客の一人一人がスクリーンと向き合い、靖国神社に眠る246万の死者に、それぞれが
【想い】を馳せるきっかけになってほしい・・・という願いが、込められています。

そんな想いから、この度、終戦記念日となる8月15日(金)19:00の回は【無料上映】
させていただきます。上映終了後には、大浦信行監督の舞台挨拶も予定しております。

そして、ポレポレ東中野の『靖国・地霊・天皇』の上映は、16日以降もまだまだ続きます

【終戦としての映画】は15日で終わりますが、本作は【対話の映画】でもあります。
終戦記念日を過ぎてもなお【死者との対話】を続けてゆきたい。そこで、ポレポレ東中野では、
9月まで公開延長が決まりました! (8月16日(土)からは18:30より1回上映となります)

ぜひ、この機会に劇場へ足をお運びいただけますよう、宜しくお願いいたします。

【東京の舞台挨拶、大阪の舞台挨拶】

以下、東京と大阪の舞台挨拶が決定しました!
是非、この機会に劇場に足を運んでいただき、大浦信行監督に
映画の感想や質問などをぶつけてみてはいかがでしょうか。

○登壇者:大浦信行監督

【東京】
ポレポレ東中野での、大浦監督の舞台挨拶が決まりました!
730日(水) 19:00の回上映終了後
81日(金)  19:00の回上映終了後
82日(土)  19:00の回上映終了後  
86日(水)  19:00の回上映終了後  
88日(金)  19:00の回上映終了後  
813日(水) 19:00の回上映終了後
815日(金) 19:00の回上映終了後
 
【大阪】

そして、大阪・第七藝術劇場での舞台挨拶も決まりました!
8月9日(土)  14:10の回上映終了後 ※初日舞台挨拶
8月10日(日) 14:10の回上映終了後



【REVIEW】

毛利嘉孝(社会学者)

         (中略)『靖国・地霊・天皇』は、このような困難の中でどのように「死者を弔う」ことができる
         のかを模索している。私たちは無数の死者の隙間に生きている存在であり、国境を越えて
         あらゆる死者は弔われるべきなのだ。その映像は、その過程の中で靖国神社の問題に
         潜む「死者を弔う」ことと「命を捧げる」こととの間に存在する倒錯的な美学と精神を
         描きだそうとしているのだ。
         (中略)靖国神社の問題は、アジアとの関係や歴史認識問題のみに還元することはできな
         い。日本という国家の奥深く染み込んだ美学に飲み込まれつつも、それを強烈に喰い破る
         ような別の美学が必要とされている。『靖国・地霊・天皇』は、そうした試みの最も先鋭的な
         映像作品なのだ。

阿部嘉昭(評論家・詩作者)

         (中略)大浦映画のすごさとは何だろう。さきほど逆回しシーンにつき示唆したが、いましめ
         したながれも、その正順を逆順にすべて換えられる可逆性をはらんでいる点なのではない
         か。すべての映像の契機が等価だから、そうした事態がひきおこされるのだ。むろんひとは
         可逆性をもつドキュメンタリーなど、眼にしたことがないはずだ。ところがこの時間性の潜勢
         的な混乱こそがじつは「唯一の時間」をたちあげてくる。しかもそれがなまめかしい。このこ
         とが大浦作品の鑑賞体験なのだ。そうした大浦作品を直観性の枠組だけでとらえてはなら
         ないだろう。

小倉利丸(社会文化論)

         (中略)大浦の映画は、ドキュメンタリーという手法を常に逸脱することによって、この無意
         識の縁にある暗い洞穴の入口をこじ開けようとする試みでもある。この意味で、物語の
         文脈を切断するようにして挿入される物語の構造(劇団「態変」、水の流れ、爆破される
         ドラムカン)にこそ現実があるということになる。ここでは、ドキュメンタリーの平面が
         虚構に、虚構の平面が現実に、転倒される。
         (中略)問題はこの問いを現実の世界にどのように再挿入するのか、であるが、この課題
         は、エンドロールの後に、劇場の客電が点灯されて現実を再び抱えこむことになる私たち、
         観客なるものたちに委ねられることになる。私たちもまた、大浦に唆されて、例の危うい境
         界の上で、どちらに背を向けるのか、その決断を問われることになるが、これは決意の
         問題でもなければ、歴史の記憶の問題でもなく、言うならば、死の欲動を権力から奪回
         しうる想像力の再構築を闘うということなのだと思う。

福住廉(美術評論家)

 

        (中略)靖国神社の基底に広大な「血の海」が広がっていることは疑いのない事実である。

        映画の全編にわたって多用されている赤みを帯びた映像は、その「血の海」が今日の社会

        と重なり合っていることを表しているのだろう。靖国神社の祭りや二重橋、繁華街を赤く映し

        たシーンは、もしかしたら血涙を絞った亡き者たちの眼球から見た風景だったのかもしれな

        い。

        (中略)いま、東アジアの危機を煽りながら戦争の道を歩み出そうとする者が少なくない。

        戦死者を顕彰する靖国神社で不戦を誓うなど、それ自体はきわめて稚拙な政治の美学化

        にすぎないが、立憲主義や民主主義の根幹を揺るがすばかりか、新たな「血の海」を招き

        かねない危険な徴候ではある。

        (中略)大浦信行の新作『靖国・地霊・天皇』は、おびただしい無念の魂が彷徨するその赤い

        海のさざ波を、私たちに垣間見せるのである。



【本作の撮影者】

映画『靖国・地霊・天皇』キャメラマンとして  辻智彦 

         大浦さんの表現への挑戦の旅の道行きを、また共にした。折口信夫の小説「死者の書」
         から多く啓示をうけたのだという。僕は大浦さんとは趣味も性格も年齢も全く違うのだけれ
         ど、いいと思うものごとの感性は昔から不思議と一致していた。もちろん僕がこの十数年、
         大浦さんの影響を大きく受けていることもあるのだけれど、思い返すと初めての出会いから
         僕は大浦さんの目指す特異な表現世界に素直に没入していた。

         僕のビジョン、僕がキャメラを通して表現しようと苦闘していた世界と、大浦さんが
         追究していた映像表現の方法論が、先天的に通じ合うものだったのだろう。

         靖国。日本に穿たれた生と死の極点。突き詰めていえば「ラディカルとはなにか」を問い
         続けてきた大浦さんが、日本の、そして自分のへその部分に、いよいよ映像で切り込むつ
         もりなのだな、と直感的に理解した。論としての靖国。それを左右両翼から挟み込むように
         語る2人の弁護士と、靖国の地底で眠れぬ刻を食み続ける死者たちの、声にならない叫び
         を「地霊」として全身で表現する舞踏家・金滿里。その、倒立したトライアングルのなかで
         うごめく映像の情念こそが、この映画の肉体だ。

         キャメラというものは、現実に存在している事象のみを機械の冷徹さで記録するのだと
         いう常識がある。僕はそう思わない。キャメラは、その眼前にあるものたちの奥に隠れてい
         る、根源的な激情をえぐり出すことのできる刃物だと、僕は思う。キャメラは、目に見えない
         ものを顕すことが、出来る。キャメラは、それを覗きこむものの心の一番奥底を、明らかに
         する。レンズと僕の眼球の、あわいに霊性が宿ることを夢想しながら、僕はキャメラを構え
         ている。徳永信一氏の昂りも、大口昭彦氏の憤りも、言葉を越えてキャメラのレンズに、
         僕の眼球に、突き刺さってくる。地底で、路地裏で、靖国の鳥居の前で、のたうつ金滿里。
         その肉体が隠そうとしない怒りが、その情動が、キャメラに感応し、キャメラに自分が機械
         であることを忘れてほしいと、僕は希う。確かにそんな瞬間を、僕は大浦さんとの仕事で
         何度も体験してきた。だから確信を持っていえるのだ。この映画は確かに、現実には見え
         ない、根源的なものたちと交感している、と。
【初日舞台挨拶】

いよいよ7月19日(土)より、ポレポレ東中野にて公開初日を迎えます。

当日19:00の回上映前に、大浦信行監督の舞台挨拶を予定しております。
心よりご来場をお待ちしております。

■日時:7月19日(土)19:00の回
■場所:ポレポレ東中野
■ゲスト:大浦信行(監督)

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また、劇場では公式パンフレットを販売いたします。



社会学者の毛利嘉孝さん、評論家・詩作者の阿部嘉昭さん、
社会文化論の小倉利丸さん、美術評論家の福住廉さんといった
豪華執筆人によるロングレビューのほか

キャメラマン辻智彦さん、大浦信行監督による
作品へ込めたメッセージを掲載。

さらには、大浦監督による映画づくりの設計図(手書き!)や
特別協力の辻子実さんによる【靖国年表】(4ページ)など
資料性が高いパンフレットになります。

是非、こちらも宜しくお願いいたします。


【ニュース】

★「神奈川新聞」
靖国の死者とどう対話
ドキュメンタリー映画「靖国・地霊・天皇」大浦監督に聞く

7月8日の「神奈川新聞」にて大浦信行監督のインタビューが
掲載されました。以下の記事をご覧ください。


「朝日新聞 WEB RONZA」
現実のまっただ中で死者と対話する大浦信行監督作品『靖国・地霊・天皇』

また「朝日新聞 WEB RONZA」でも
大浦監督のインタビィーが掲載中です。


 

【ニュース】

★WEB「シンラ」
キワモノと呼ばれた大浦信行の、タブーを恐れない芸術家の極意


大浦信行監督の独占インタビューが掲載されました。
ぜひご覧ください!


★WEB「シネマトゥデイ」
靖国に眠る死者の声、どうよみがえらせる…新作ドキュメンタリーが描くこと  

7月7日(月)に行われた
『靖国・地霊・天皇』の先行試写会イベントの様子を
WEB「シネマトゥデイ」さんにてご紹介いただきました。


『靖国・地霊・天皇』トークイベント
大浦信行 × コラアゲンはいごうまん   

                                              2014年7月8日 ポレポレ東中野



大:
靖国の問題やこの映画について、自然な形で素朴な疑問をコラアゲンさんの目線で
聞いていただけたら、今日見た皆様の疑問も代弁していただけるんじゃないかと思って、
コラアゲンさんにお願いしました。なので今日は何でも聞いてください。



この1時間半の中で、何かを感じる、とそういうことでいい。

コ:この映画は、すっごいエネルギーを感じるんです。ですけど正直、ところどころよく分からない
部分もいっぱいある。分からないというより、靖国と聞いておそらくこうだろうなとイメージしていた
ものが見事に叩き潰される、予想だにしていなかった展開だったってことはないですか、みなさん?
だってびっくりしたのがですよ、あの冒頭に出てくるおばちゃん。ものすごい形相で踊った次の
シーンで、女の子がいわしの缶詰を食べるんですよ。この辺で僕、ホラーかと思いましたよ。
びっくりしました。あれは何だったんですか。



  ★コラアゲンはいごうまん
       日本のピン芸人。WAHAHA本舗所属。体験ノンフィクション・スタンダップコメディと
       称して、自分の体験をひたすら語り続ける芸風を持つ。主な作品に、宗教体験記、
      ヤクザ体験記など。


大:あのおばちゃんはね、金滿里さんね。地霊として描きたかったんですね。自分が地霊の視点に
降り下がって、そこから靖国を見たときに、靖国はどう見えてくるんだろう、という意味合いが
あるんです。
ま、最初からそんなこと分からなくて当然なんですけどね。そこは映画の中で空間と時間を
モンタージュして超えれるところですよね。映画が進んでいけば、あの時にでてたおばちゃん、
こういうふうになってきて、とか、いわしの女の子(あべあゆみ)は途中で看護婦さんの役で出て
きますけど、そこで最初にいわし食べてた女の子がこの人か、って映画観ながらフィードバックする
じゃないですか。

コ:つながる、ということですね。

大:そう、それは観ながら瞬時に意識するじゃないですか。そのあたりも期待したんですけど。

コ:聞くとね、はぁ~分かるですけども…(笑)でもそういうストーリーは映画を観た人の想像ですよね。

大:うん。映画で言えばよく「布石を置く」って言うじゃないですか。最初は分からないけど、映画が
進んでいくと出てきた事が、あ、あれはこういうことだったんだな、と瞬時に映画を見ながら想像する
じゃないですか。それがあるから、映画の時間や空間を泳いでいけるというね、作る側としては
そういうふうに考えています。

コ:なるほど。聞くと良く分かるんですけどね。監督の前作、「天皇ごっこ」の時なんかすごかったですよ。
見沢知廉をドキュメンタリーで追っていくという映画なんですけど、喫茶店であべあゆみさんが右翼の
偉い人にインタビューするというシーンがあって、そのインタビューしてる後ろでですね、日本兵が
思いっきりハンバーガー食うてるんですよ。で、コーラをがぶがぶがぶって飲んでるんですよ。
あれはどういうことだったんですか?

大:あれはね、深い意味はないんですよ。

コ:え、ないんですか?!(笑)

大:けどね、見沢知廉という人は新左翼から新右翼へいき、殺人を犯して12年間千葉刑務所に入って、
で最後は46で自殺すると、そういう人生の人なんですが、映画を作る前に色々調べていて、彼が
影響受けたドストエフスキーだとか三島由紀夫なんかを読んでたんですね。あとは戦前の
国家社会主義者で革命家北一輝の影響をすごく受けていて。だからそういう2.26事件とかの本を
読んでいたんです。そうするとね、なんか匍匐(ほふく)前進する兵士が思い浮かんで。それを
そのインタビューのシーンで同居させたら面白いなってね。お笑いと同じ、なんか冗談ぽく思い
浮かんだんだよね。

コ:そうなんですか?! もっと意味あるのかと思いました。

大:でもその前に匍匐前進は目的意識があってね。人間って縦に立って歩いてくでしょ。でも横に這って
行くと重力に抗っているのか、なんかそこで違って見える瞬間があるじゃないですか。匍匐していく
わけですから、横ばいでね。で、それが兵隊さんで。あの映画で言えばその不順さ、
閉塞感というのが、今回の地霊の金滿里さんがまさにそういう形でのりうつってはいるんですね。
意味で言うとそういうことになります。

コ:はぁ、なるほどね。でもそういうのは、ちりばめられていますね。森をお面をつけて歩く2人の
子供とか、皇居の逆回しとか。一個一個意味がありますよね。

大:お面で言えば、渋谷をお面を付けて歩く女性(あべあゆみ)、あれは従軍看護婦ですよね。
お面というのは死者としての匿名性を持たせるという意味ですから、あの渋谷のシーンは、亡くなった
従軍看護婦の霊が現実に出てきているということですよね。
それじゃあ林の中を歩く2人の子供はといえば、また違った意味が出てくる。それ以前に骸骨の
兵隊さんが出てきますが、これは日本人に名前を変えて特攻隊として死んでしまった韓国の
兵隊さんですよね。その兵隊さんが、「お母さんお母さん」と言って死んでいく。ここは追憶、遠い
記憶ですね。で、それが2人のお面の子供というのは、この韓国人の兵隊さんのところに
従軍看護婦さんがどういうわけか来たともいえるわけね。想像すればね。その2人が歩いていって
最後は現代の渋谷で、大人の女性になる。つまりは林の2人の子供たちは遠い追憶だけれども、
それが現代にポーンと時間を超えて出てきたともいえる。そうすると「お母さん靖国で待っています」と
いうふうに亡くなった人が、霊として、今日(こんにち)に居るともいえるじゃないですか。
そういうことを、意識的に思って作りました。
だけどこういう作る側の思いが、編集とか他にもあったとしても、見ているお客さんは必ずしも
そういうふうに見ないといけないということは毛頭ないし、どうにでも取れる、多様性があるんですね。
だからある評論家がこの映画を見て言ったんだけれども、この映画は逆から観ても可能
じゃないかってね。それってつまりそういうことだと思うんですよね。だから現実のドラマの起承転結
ではない、もうひとつの物語みたいなものが、「靖国・地霊・天皇」というテーマの中でもう一度
どう構築できるか、ということでもあるんです。
ただ、こういう作り手の思いというのはありますけど、観客はそれぞれの感想でいいし、分からない
ところは分からないなりに観てもらった方がいい。それでもこの1時間半の流れを通して見れるよう
には作ったつもりです。そしてこの1時間半の中で、何かを感じる、とそういうことでいい。
相対としてね。



コ:なるほど。僕は監督の人柄がすごいと思ったんですよね。このトークの前に、監督を取材させて
いただいたんですけど、4時間もしゃべってましたよね。一個一個の質問に丁寧に答え続けて
くれはる。しまいには、あの映画の中で割れる壺はニトリで4000円で買うた、ってことまで(笑)いや、
何が言いたいかって、その人柄に接してまた見たい、2回目見たいと思わせるんですよね。
理解できへん、じゃなくて理解したいと。この大浦さんが描こうとしたこととは、というふうに思いました。

イデオロギーの代弁としての映画を作る気は全然ない

コ:
ところでお聞きしたいんですが、2人のインタビューに、あのシュールな、いわしだったりお面だったり
を混ぜ込むことで何が発生するのかと。

大:あの弁護士2人(右派陣営の代理人弁護士の徳永信一氏と、「NO!合祀」訴訟等弁護士の
大口昭彦氏)は、最初から公平に描くつもりでいたんです。それプラス、監督のイメージ、
想いみたいなものを2人にお伝えしたんです。それぞれの想いの丈を語ってもらえるように、
心を開いて語ってもらえるように、努力はしましたね。
徳永さんなんて右だけど、ご本人も「右寄り」だとはおっしゃってますけども、あの話を聞いたら、
人間的に共鳴するところがある。

コ:そう、そうですね。

大:あの筋道をたどっていくと、そうだよねと思うんですね。左の大口さんも筋金入りで学生運動から
ずっときてるわけね。それを押し通してきてると、頭が下がるんだよね。だから実直で堅実な形で
淡々と喋っていくと。二人とも、腹据わってる。徳永さんは純粋で正直な感じがする。そういうのは
映画でも出てると思うんですけど、靖国を擁護するというのは彼の考えであって、生き方ですよね。
反対もそうですけど。そこを映画で描いてもあんまり意味は無いと僕は思っているんですね。

コ:右派か左派か、という話ではないということですね。

大:イデオロギーの代弁としての映画を作る気は全然ない。その論争を描くなら、今あるものの上を
行くような論を立てるやり方もあるだろうけど、元々そういうことに主眼がなかったですね。映画は
限られた1時間半の中で何かを共有して欲しいわけだから。左右の思いは納得だけど、やっぱり
地霊なんですよ。あの地底には246万余の死者たちが眠っているわけですよね。それと我々が
現代の中でどう対話できるかですよね。努力ですよね。あるいは想像力ですよね。どうやってこの
死者たちを現実に蘇らせることができるのか、と。

コ:それがこの映画の主旨?死者を蘇らせる?

大:うん、死者との対話。それを相対化した地霊としての金滿里さん、という思いは明快にありましたね。

コ:そこに主題を置くと、ああいうシュールな映像が入ってくるわけですね。右派か左派かということでは
全然ない。

大:それでこないだコラアゲンさんが聞いてきたことだけど…

コ:いわしとかお面とかいろいろなイメージがある。その中であの中心を担っている2人の弁護士の
シーンを抜いて表現するのはだめだったんですか?という質問。

大:この質問は凄く面白いなぁ、と思ったんだよね。核心を突いてると思ったよね。今言ったみたいに、
右か左かの徹底的な論争で映画を描くのはアリだと思うんだよね。でもコラアゲンさんが
言っていたのは、そういうのを取っ払っちゃって、この映画は成立するのか、という質問ですよね。
できるんじゃないですか、という期待もあって言っていたと思うんだけど、すごく虚をつかれたと
思った。で、それは全くそのやり方を徹底すれば出来ると思うんだよね。ナレーションとかをもっと
もっと煮つめて、ひとつの現実を描き、イメージをもっと突き詰めていったらできると思ったんですね。
でもそれはすごく至難なことで、自分自身へのさらなる挑戦でもあって、突き付けられたなぁ、
と思ったよね。

コ:難解でしょうけどねー!

大:意識して徹底的に分かりやすくしていかないとダメだよね。それに、そこに現実を重ね合わせて
いくわけだから、単なるイメージだけでは済まないですよね。でも凄く可能性を
はらんだことではあると思いましたね。


40代以降は、自分を再構築することを意識的にもたないと自分が苦しい

コ:ところでね、監督ってかわいらしいところがあるんですよ(笑)
これ以前に監督に2日間密着取材してて、その時にインタビューされてるとこを見学させて
いただいてたんですけど、写真を撮るのに机が邪魔だったんですよ。そしたら机をね、まっ先に
自分で運んでるんですよ。それだけじゃないんですよ。撮影するのに明るすぎるって話になって、
スタッフが「蛍光灯が…」と言った時、蛍光灯の“灯”あたりでもう登ってはったでしょ。



大:うぅん、まあ…(笑)

コ:何でも自分でやる。出されたコーヒーの食器も全部重ねて帰ろうとする。映画の中でドラム缶を
バーンと爆破するような人がですよ。あの映画の攻撃性とその繊細なところのギャップって何ですか?

大:性格的なこともあるんでしょうけど…(笑)。ドキュメンタリーの現場は人数少ないんですよ。だから
自分でやらなきゃいけない。習慣みたいになっちゃってる。

コ:いやでもコミュニケーションのすごさですよ。それって作品に繋がってることだと思うんですけど、
関わる相手をすごく見ていて、周りに心配りをすごくされて、それで人が心を開く。人間関係を
作るのがすごくうまいと思ったんです。

大:インタビューする人に心を開いてもらわないといけないですからね。そういう雰囲気を作る。うちの
現場は、穏やかで和やかなんですよ。いい意味での緊張感の中で、そういう中からふと出てくる
ものの方が面白いんですよ。前もって準備して話していることよりも。だからそういう意味での
緊張感はありますけどね。

コ:こないだの取材のときも凄かったですよね。取材する人の気持ちも解きほぐして弾ますんですよね。
聞きづらいような質問もできるようにほぐしていくじゃないですか。細かい心配りですよ。最終的には、
若いお兄ちゃんの、インタビュアーの方の人生相談に乗ってましたからね(笑)。
若い人がね、悩んではったみたいで、そんな話まで聞いて「だいじょうぶだいじょうぶ!」って
励ますんですよ。すごいなぁって。「だいじょうぶ若いうちはいいんだよ、取り返しつくからね!」てね。
で最後に「40歳超えたらもうだめだけどね」って。…僕44歳なんですけど(笑)。

大:あ、いやいや(笑)だめっていう意味じゃなくて、若い時はヒリヒリした皮膚感覚で世の中に
あたっている。その閉塞感とか生きづらさみたいのを皮膚で感じてるから、無意識にそれを表現
できる。まあ、ある種のもどかしさはあるんですけどね。で40過ぎになると、まあ僕の場合ですけど、
だんだんそういう意識が鈍ってくるじゃないですか。だいたい皮膚だって艶がなくなってくるしね(笑)。
そしたら自分が20代30代でやってきたことを意識して自分の中で再構築する。それは努力だと
思うね。若い時はそのもどかしさがいい。自分の叫びだから、若い人は基本的に皆持ってる。
年齢で区切るわけではないけれども、40代以降は、自分を再構築することを意識的にもたないと、
自分が苦しくなると思う。だんだん鈍くなってくるしね、慣れというか諦めというか。って僕自身の
経験なんだよね。
でもコラアゲンさんて、スゴイと思いますよ。もう26年もやっていて。珍しい、ドキュメンタリー
バラエティみたいのもやってるじゃないですか。あの、裏社会のやつとか、実際に入り込んで
作ったっていうのも、実際中がどうなってるのか、って誰でも興味あるじゃないですか。そんなのを
1時間も喋ってるのに、全く淀みないんだよね、とちってないんだもの。面白いしね、すごいですよ。



コ:いやいやいや…

大:こんなに長く続けてるっていうのも才能だと思うよ。あれ、徹底してやったらいつか、晩年には…

コ:え、晩年?(笑)

大:あ、いや。2、3年後には…(笑)

山:(笑)では、最後におふたりから、一言ずつお願いします。

大:そうですね、今回の映画は若い人に見てほしいなと思いますね。そんなことも思って作った部分も
ありますので。どうぞ宜しくおねがいします。

コ:監督が何度もおっしゃっていたのは、靖国が肯定か否定か、それはどうでもいいと。でも今まで
素通りしてたかもしれんけど、これをきっかけに少しでも靖国について考えてみてくれたら
うれしいなということが、切実に思うことだと。特に若い方なんかにね。

(編集:柴田祥子)