喪われた和音を求めて〜プロデューサー日記〜

ドラマ、映画、演劇、Web+IT、アート、エコ、・・・創造性とは何か? 

心動かされたもののスクラップブックです。

NEW !
テーマ:

人は自分の行動を常に頭の中でシュミレーションしている。

 

手や足など身体が知覚した情報が脳に送られつつ、脳は自分の身体を動かすための指令を送っているわけだが、前者を「求心性情報」、後者を「遠心性情報」といい、もう一つ脳内で自分の身体の動きをシュミレーションするための情報を「遠心性コピー」という。

 

ロボットの場合、脳からの電気信号で身体を動かしつつ(「遠心性情報」)、実際身体を動かした時のフィードバック(「求心性情報」)が働き、その誤差を調整していきながらスムーズに動けるようにしていくわけだが、人間の場合、もう一つ賢くて、自分がこう動くとどうなるかを常に予測しながら、その予測と現実の誤差を常に計算して行動に影響を与えている。

 

つまり、「遠心性コピー」とは「遠心性情報」が脳内でコピーをとられてシュミレーションされていると考えればよくて、それによって、あるものを掴もうとした時に、それがどれくらいの重さ、固さであるかを予測しながら、どれくらいの強さでそのものを掴むかを自動的に調整しているといった具合なのだ。

 

それは視覚的な情報から、対象物の状態を予測している部分もあるが、それ以上に自分の行動に対する結果を脳内シュミレーションしているところが重要で、だからこそ意識しなくても、複雑な地形を歩いたりできるわけだ。

 

もう一つこの遠心性コピーを別の角度から象徴しているものに「ラバーバンド錯覚」というものがある。

 

□ラバーハンドイリュージョンとは?

http://yofukesyouten.seesaa.net/article/424453485.html

 

目の前にある「ゴム製の手」を自らの手と脳が錯覚することで、ついには知覚してない情報すら、自らのリアルな感覚として感じてしまうこの「遠心性コピー」というものは、動物が進化の過程で、より高度な動きをできるようになり、変動する環境の中で生存確率を落とさないためにはさぞかし役に立った機能であると考えられる。

 

そして、それは何も実際の身体の動きだけに限らず、思考についても同じ原理が働く。

 

それはイメージトレーニングを考えれば分かるだろう。

 

実際に身体を動かさずとも、スポーツやパフォーマンスにおいて、自らの身体の動きをイメージすることによって、ヴァーチャルに訓練することが可能だからだ。

 

実際に身体を動かしてのフィードバックがなくとも、お手本となる動きを見るだけで、あるいは目をつぶってイメージトレーニングするだけで、脳内シュミレーション内において、場合によっては実際の経験以上の学習ができるというのはよく考えたら驚くべきことである。

 

そして高度に知能を発達させた人間は、ついには「感情」レベルにおいても、遠心性コピー的な脳内シュミレーションを働かせることができ、友人が辛そうな時はそれを見て、自分も同様に辛いとリアルに心を痛め、その辛さ、悲しみを共有できてしまったのだ。

 

それは種の保存という意味でも重要な意味をもたらしたのは言うまでもないが、それでも、人は神よりもたらされた精神性において共感し、愛にたどり着くための機能ではないとあえて言いたくなる時がある。

 

それは特別に与えられた魔法ではなくて、長い年月の進化の中でとても切実に獲得したありがたい機能という出発点の方が健全な気がするのだ。

AD
いいね!した人  |  コメント(0)  |  リブログ(0)

テーマ:

「共感」するということはどういうことなのだろうか?

 

辞書的には「他人の意見や感情などにそのとおりだと感じること。また、その気持ち」と書いてある。

 

なるほど、たしかにそうだろう。それでは、さらに話を進めて共感している時、具体的には脳の中では何が起こっているのだろうか?

 

共感には、おそらく下記の二つが必要だ。

 

①相手の感情を正しく想像する

②その感情をまさしく体験する

 

例えば、友人がつらい表情をしている時、①「つらい思いをしているのだ」ということが分かるだけでなく、②自分もつらい感情を持つというのが重要になってくる。

 

そして②の方がはるかに難易度が高いことは容易に想像がつく。

 

ちなみに人工知能とかでも①はいつか推し量ることができるかもしれないが、②の獲得はかなり難しいと言われている(ただ実際には確認する術もなかなかない)。

 

②というものが、生物進化のどの段階で獲得されて、またそれは何ゆえ必要だったか、そのことに興味があるが、最近では「ミラーニューロン」というものが、その鍵を握るとされている。

 

人は「ミラーニューロン」により、知覚した情報を、体内で勝手にコピーすることができるのだ。

 

だから、人のあくびを見てあくびするし、映画を見て感動して泣くことができる。

 

「プラセボ(プラシーボ)効果」と呼ばれる、空のカプセルでも身体が薬をのんだ時と同じ反応をするのも同じ原理だろう。

 

これにより様々な可能性が人間にはあり、スピリチュアルな次元も生まれるわけだが、本質的には「遠心性コピー」という割と原始的なメカニズムなのではないかと思う。

 

□遠心性コピー

https://bsd.neuroinf.jp/wiki/%E9%81%A0%E5%BF%83%E6%80%A7%E3%82%B3%E3%83%94%E3%83%BC

 

(続く)

AD
いいね!した人  |  コメント(0)  |  リブログ(0)

テーマ:

すべてのできごとに、そもそも優劣の差はない。

 

それは受け取る人の評価でしかないのだから。

 

しかし、時代による評価というか基準はあるだろう。

 

需要と供給のバランスの中で希少なものは価値があるという現実もある。

 

けれど、そもそもに優劣があるわけではないし、誰かにとっては価値がなくとも、別の誰かにとっては価値があることが多い。

 

それは「好きな映画」を考えると分かりやすい。

 

人それぞれにその映画を好きな理由があるが、当然作り手にとってはその作品が一番面白いと思っているのだから、自分にとっての価値を大事にすることも大事だが、すべてが自分にとって価値があると思える方が本来はいいのかもしれない。

 

それは「共感力」とも言える。

 

全ての映画が最高に面白ければ、そんなにハッピーなことはないだろう。

 

99本がつまらなくても、最高に面白い1本があればそれでいいという人もいるだろうし、それは否定しないが、どんな映画にもそれぞれの良さがあって、何を見ても楽しいという状態になれたら、なんと素敵だろうと個人的には思える。

 

逆に言えば、本来は映画というのは(あるいは映画にかぎらず全てのエンタメや芸術)というものは、今までなかった自分の「ツボ」を見つけ、「共感力」を高めるためにあるのかもしれない。

AD
いいね!した人  |  コメント(0)  |  リブログ(0)

テーマ:

人には「楽観的なタイプ」と「悲観的なタイプ」があるらしい。

 

人間は真に理性的ではなく、どこかで楽観的なプログラムがあるとも聞いたが、それは種として生き残るために組み込まれたものなのだろう。

 

人は、客観的な事実より自分は恵まれていると信じる生き物だ。それは自分が離婚したり失業したりする可能性については低く見積もるという結果からも明らからしい。

 

もっと面白いのは、環境や国の情勢などについては悲観的に見積もりつつ、自分個人については楽観的に見積もるという事実。

 

その「楽観バイアス」が希望や心を穏やかにし、場合によっては健康を増進し、きっとそういう人の方が生き残ってきた歴史があるのかもしれない。

 

楽観さというのは、単なる心の持ちようではなく、前頭葉の働きが関係しているらしいが、それ以上に遺伝子レベルで個人差があるという研究結果もあると聞いた。

 

つまり「非合理的な楽観主義」というのは進化によって選択された人間らしい素質なのだ。

 

ただ、楽観的であればいいというわけでもない。それは環境や状況による。

 

実際、アメリカ軍の研究によって、部隊や兵種によって、楽観タイプの方が適している場合と悲観タイプの方が適しているタイプがあるらしい。

 

時には悲観タイプの方が慎重な故に向いていることもあるのだ。

 

つまり、時代によって、楽観的である方が生き残れる時代と、悲観的である方が生き残れる時代があるのだろう。

 

さて、現代はどちらのタイプがより生き残れるタイプなのだろうか?

いいね!した人  |  コメント(0)  |  リブログ(0)

テーマ:

「科学」の反意語は何かとふと思ったが、よく分からない。

 

自然?

哲学?

アート?

 

そもそも科学が何かということを考えてみると、再現性のある形で、物事を細分化して行きながら理解することだろう。

 

再現性があるので、逆に細分化されたものを統合することもできる。

 

では「概念」としてその反対は何なのだろう?

 

確かに、自然というのは科学の反対に位置するような気もする。でも「自然」そのものが単に科学の対象であるだけ?

 

確かに、哲学とういのは科学が数学っぽいのに対し、国語っぽい意味で反対に位置するような気がする。でも、使う記号が違うだけで本質的に明らかにしたいことは同じ?

 

残るはアート。

 

どういう意味で反対にあるかはうまく説明できないが、他のものよりは反対に位置しているような気がする。

 

科学が意識的なものだとしたら、アートは無意識的なもので、おうおうにして再現性がなく、個人的で、正解を目指すような形で明らかにしようがないというか。

 

でも、どこか連続性はあるような気がするし、その意味では「科学」は方法の一つであって、反意語が生まれないようなものなのかもしれない。むしろ「直感」とかそういう方が反意語として正しいというか。

 

他の人も意見も聞いてみたいです。

いいね!した人  |  コメント(0)  |  リブログ(0)

テーマ:

人の脳が消費するエネルギーのうち「意識的な活動(思考)」に使われているのは5%ほどという話がある。

 

その他「脳細胞の維持、修復」などに20%使われ、残りの75%は「無意識な活動」に使われているらしい。

 

これが何を意味するかは色々議論があるところだろうし、ざっくり「無意識な活動」とくくられているものがもっと細分化されるべきだろうとは思う。

 

しかし、思った以上に「無意識」の働きが大きいというのは疑いようがないみたいだ。

 

それは、私達のからだが60兆個の細胞でできている中で、脳細胞はたかだか1000億くらいで、からだ全体の細胞の1%以下であるという議論にも繋がる。

 

前に書いたが、1000個の脳細胞はそれぞれに細かい役割があって、簡単に言えば、1000億の小人が分業している状態だ。

 

小人一人一人の反応が「情報」的なもので、それが統合されている中で、まとまりとして私達の「意識」にのぼり、その結果だけを知る。

 

「受動意識仮説」的に言えば、後づけで解釈するために我々の「意識」は立ち上がっていて、解釈、判断する必要がない「情報」は無意識の中で処理される、あるいは反応だけがスルーされている。

 

しかし、確実に1000個の細胞は、何かしらの役割において働いているか待機しているし、体全体で言えば、常に60兆個の細胞が動いている。

 

そのような「意識できない部分」の働きをいかに「意識」するか、あるいは無理に意識せずとも「尊重」する重要性みたいなものが、近年色々な角度から指摘されているような気がする。

 

どちらが優位、有益なのかではなくて、大事なのは「調和」であり「緩やかな統合意識」であるのは間違いがないだろう。

 

ただ「無意識」を神聖化しすぎるのもどうかと思っていて、その辺りが僕個人のスタンスとして、時に人と違うのかもしれない。

 

それもあって、とりあえず書いて書いて、そこから見えているくるものや、自分の中の矛盾についても探求していこうと思っている。

いいね!した人  |  コメント(0)  |  リブログ(0)

テーマ:

ある芸術家がこう言った。

------------------------------

「人は自分の中に無いものは見えない。」

もし何かを見て美しいと思ったら、その美しさを自分は知っているということ。自分の中にそういう美しいものがあるということを認めてあげよう。

------------------------------

確かに、自分の中に無いものは見えないのだと思う。

つまり、視覚がに限らずだが、何かを知覚するというのは、その情報に対して、なんらか自分が反応しているということだ。

反応するというのは、ドンピシャ同じものではなくとも、何かしら自分の中にある記憶や概念に触るものがあるということで、多分、まったく知らないものは認識できないのだと思う。


視覚で言えば、視界の中に映っているものは、それがなんだか認識できるからそれを知覚できているわけで、それが認識できないものだったら、視界に映っていることにすら気づかないのだろうと思う。

勿論、以前書いたように、記憶として抵触するものがあるが、自分にとっての重要度が低いから反応しないということはあるだろう。しかし、重要度が高いものでも、それに反応できない、あるいは理解できないからその存在をキャッチできないことはあると思う。

 

そういう意味で、最初の言葉にもあらためて納得できるものがある。

 

アート以外にも、例えば「感謝の気持ち」みたいなものもそうかもしれないし、「誰かを嫌いになるのは、どこか自分の中に似たようなところがあるから」なんても、同様の理屈と言えるかもしれない。

 

「人は自分の中にないものはキャッチできない」

 

 

□2015-02-05 草場一壽陶彩画展 in 横浜
http://ameblo.jp/yasuhito19751214/entry-11986154747.html

いいね!した人  |  コメント(0)  |  リブログ(0)

テーマ:
ホメオスタシスの反意語として「トランジスタス」というものがあるとかないとか(どうやら、やはり造語らしい)。

恒常性の逆で、つまりは同じであることを嫌う働きのことだ。

人にとって「慣れる」というのは、とても重要な機能だし、安定することの方が生存には有利だろうが、それでもそれを嫌う本能が人にはあるとしたら、なぜだろうか。

もしかしたら、今よりベストな状態を獲得するためには外への興味に反応することが必要なのかもしれないし、イレギュラーさを組み込むことで、調和が取れ過ぎて絶滅することを避けているというのもあるだろう。

ただ、結局のところ、無い物ねだりというか、今の自分と全く違う状態をイメージできることによって、今の自分が固定できる(確認できる)というのが大きいのではないかと思ったりする。

ちなみに「ホメオカオス」なんて言葉(概念)もあるらしい。

◻︎生命体のホメオスタシスと意識体のホメオカオス

http://app.m-cocolog.jp/t/typecast/29587/30899/52631129


ホメオスタシスが、理想としての静的な秩序を目標にしているとしたら、ホメオカシスは、動的な安定で、多様性と調和の世界なのだろう。

そちらの方が実践的だと思うし、絶対的な基準がないのであれば(現代は特に)、そうやって自分を中心に"向こう側"を意識することで、バランスを取るしかないのかもしれない。
いいね!した人  |  コメント(0)  |  リブログ(0)

テーマ:

動物には「ホメオスタシス(恒常性)」というものがある。

 

外部環境に関わらず、生体の状態を一定に保とうとする機能で、例えば暑い所でも、寒い所でも、体温を一定に保つような働きのことである。

 

外部からの影響があった時、それに同調するのではなく、「負のフィードバック作用」が働き恒常性を保とうとするわけだが、これはある基準があってそれを保とうという機能で、生理的には「遺伝子」というプログラムがその基準になっていると言える。

 

そして、これは何も生理的な部分だけではなく、人間の意識の上でも働くことがある。

 

つまり、無意識に作られた自分にとっての「基準」を守ろうとする働きだ。

 

例えば、毎朝ランニングするのが日課の人は、走らないと気持ち悪くて、自然と走ってしまうとか、もっと精神的なもので「利他的な姿勢」とかそういうことでも、その人にとっての”当然”なのだから、何も考えずにせずにはいられないとか。

 

そうやって考えると「引き寄せの法則」や、あらゆる自己啓発で語られていることは、自分のとっての「基準」を今とは違うところで、より理想な位置に固定しましょうという事かもしれない。

 

その刷り込みが成功すれば、あとは放っておいても、意識や身体がそっちの方向にもっていってくれる。

 

例えば、自分の体重は5キロ減っている状態が自分の基準であると心底思えたら、きっと身体はそこに向かって自動的に調整してくれるのかもしれないし、「年収が倍になるのが当然だと思えば、倍になるためのことを自然にする」とか「結婚して幸せになるのが当然だと思えば、どういう形であればそれが自然になるまで、それに必要なことが無意識にできる」という事にも繋がると思う。

 

今後、VRやAIというのは、そうやって理想の自分に近づくために、自分の「基準」をずらす装置として役にたつのかもしれないと思ったりする。

 

 

追記

今気づいたが、なんと7年以上前に「ホメオスタシス」についてブログに書いていた。

 

□2009-08-14「ホメオスタシス」を考えてみる

http://ameblo.jp/yasuhito19751214/entry-10337291312.html

 

しかも今の僕より良いこと書いている気がする。。

いいね!した人  |  コメント(0)  |  リブログ(0)

テーマ:

居酒屋で飲んだとして、そこで何を頼むかはどのように決められるのだろうか?

 

「とりあえずビール」という人が多いかもしれないが、もう少し目の前に選択肢があって悩むとすると、何らかの思考が働いて、結果、ビールにするか、ワインにするか、焼酎にするか、日本酒にするかなどを決めるわけだが、その時の思考とはどのようなものだろうか?

 

一緒にいる相手が、ビールから入って日本酒に行く人だからそれに合わせようとか、今日は特別なお祝いだから思い切ってシャンパンをボトルで入れようとか、その後の料理のオーダーをイメージしながらそれに合う飲み物を考えたりとか、最終決定に至るそれぞれの思考があるだろう。

 

しかし、上記のどの思考も、結局は「知覚された情報から無意識に連想されるもの」ではないかと僕は考えている。

 

例えば、そのシチュエーションが居酒屋に一人の場合だったとする。ドリンクメニューを見て何を頼むかは、その文字情報が目に飛び込んで来た時に、目で追って知覚した選択肢(視覚から認識に至ったドリンクの名前達)それぞれが、過去の「記憶」と連鎖して、その連鎖の盛り上がり具合(ニューロンの発火具合)が一番大きいものが、自分の意識の中で決定に至るという風に考えているのだ。

 

それは、毎回ビールからスタートするという、自分が一番安心するパターン的な記憶かもしれないし、もしかしたらあるカクテルの名前を見て過去のデートを思い出し、それがあまりにも甘酸っぱく懐かしければ(脳内が盛り上がれば)、それを頼みたいという衝動が勝つかもしれない。

 

あるいは店内の内装や、店員の人相からの連想が盛り上がり、ある決定に至ることもあるだろう。

 

つまりは、メニューを頼むという行為は能動的であるように思えつつ、実はとても受動的な行為なのではないかという気がしているのだ。

 

そして、もしかしたら人間の思考や行動は全てが受動的なのではないか、それは前野隆司さんの「受動意識仮説」とかがまさにその事を言っているのだが、個人的にはそれが正しいと思ったりする。

 

興味ある人は下記をぜひ見てみてください。

 

□意識は幻想か?―「私」の謎を解く受動意識仮説

https://www.youtube.com/watch?v=Ox8gJEIe5Ac

いいね!した人  |  コメント(0)  |  リブログ(0)

AD

Ameba人気のブログ

Amebaトピックス

      ランキング

      • 総合
      • 新登場
      • 急上昇
      • トレンド

      ブログをはじめる

      たくさんの芸能人・有名人が
      書いているAmebaブログを
      無料で簡単にはじめることができます。

      公式トップブロガーへ応募

      多くの方にご紹介したいブログを
      執筆する方を「公式トップブロガー」
      として認定しております。

      芸能人・有名人ブログを開設

      Amebaブログでは、芸能人・有名人ブログを
      ご希望される著名人の方/事務所様を
      随時募集しております。