有名ではないけれど この八洲人がスゴイ!

八洲人を紹介するブログです


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大分県臼杵と言えば、国宝の磨崖仏が有名です。

磨崖仏とは自然の岩壁に彫られた石仏のこと。
国内にある石仏の八割が大分県に集中しているそうです。


私が小学校の時はまだ石仏の頭部が地上に置かれていました。
長年の議論を経て、平成5年に仏頭と体部が接合されました。


平安時代から鎌倉時代に造立されたと言われるこの石仏群ですが、
都から遠く離れた辺境の地であった臼杵に、
一体誰が何のために石仏を造ったのでしょうか。

臼杵石仏は、今から1400年前に「真名野長者」の名で親しまれた炭焼小五郎が、
亡くなった娘を供養するために黄金3万両を献上して、
中国天台山の蓮城法師や仏師を都から大勢招いて彫らせたと伝わっています。


真名野長者夫妻像

蓮城法師像

(伴に国内最古の石造人物像といわれている)




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「住みたい田舎ベストランキング」でナンバーワンにもなった大分県宇佐市。

宇佐と言えば宇佐神宮が有名ですが、
宇佐の院内町は日本一を誇る石橋の町としても知られています。
その数は75基。
そのうちアーチ型橋は、64基だそうです。

この石橋の数から、
院内には優れた技術を持った石工たちがたくさんいたことがわかります。

そこで早速、調べてみました。
いました!
「石橋王」と呼ばれる名棟梁が!!

その名は、
松田新之助 (1867~1947)

新之助が手掛けた橋は、
鳥居橋や中島橋をはじめ10基以上あります。

新之助がスゴイのは
石橋の匠として一切妥協しない職人としてのプライドが、
実際の彼の行動として現れるところです。

こんなエピソードがあります。
或る日、架設中の富士見橋が突然崩れ落ちてしまいました。
責任を感じた新之助は、
私財を投じて崩落した富士見橋を見事に再建しました。

私財を売り払ってでも仕事を完璧に終わらせたいという強い意志が
彼を突き動かしたに違いありません。

昔の人はすごいですね。
今の人たちには中々できないことです。

「プロフェッショナル」としての松田新之助の生き様に、
現代人の欠けている姿を見たような気がします。









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山口県では知らない人がいないほど、有名な人。

吉田松陰、木戸孝允、伊藤博文、山縣有朋、桂太郎、井上馨…

いえ、もっと有名な人がいます!
その名は・・・

周布正之助(1823~1864)

と思われた方も多いかもしれませんね。

それもそのはず、幕末のドラマでは、
吉田松陰はじめ多くの長州人がでてきますが、
なぜか周布正之助はでてきません。

もちろん歴史の教科書にも

日の当たらないヒーローとは、
まさに周布正之助のことかもしれません。

しかし、そんな彼にもようやく日の目を見る時が来たようです
次のNHK大河ドラマ『花燃ゆ』で、遂に出番が回ってきました。
周布正之助を演じる俳優さんが、お墓参りした記事はこちらをクリック

では、激動の幕末に「長州にこの人在り」と言われた周布正之助とは、
どういった人物だったのでしょうか。

政之助は村田清風の意思を継いで、若くして政務役筆頭となって藩政を司った人です。
また正之助は吉田松陰の良き理解者でもありました。

彼は「攘夷後開国論」を重んじた政治家でした。
国の根幹を守りながら「日本国の国際化」を推し進めようとしたしたのです。

当時は、攘夷か統幕かの二者択一の世の中。
そんな中、両方を重んじる正之助、
将来を見据えることのできる国際的な視点を持った人物だったのです。

松下村塾を支援し、
塾生らを江戸や京に送り、
長州ファイブ(伊藤博文、井上馨、井上勝、遠藤謹助、山尾庸三)を英国に送ったのも、
全ては日本が世界で台頭するための策だったと言えるでしょう。

しかし残念ながら、正之助は1蛤御門の変に責任を感じ、1864年に自刃しました。
偉人の共通点は「潔く最期を迎える」ことのようです。

正之助は明治維新を見ること無くこの世を去りましたが、
正之助の志は、その後、伊藤博文や木戸孝允などに受け継がれ、
明治維新が開花したました。

ところで、正之助は実は大の酒好き
木戸孝允が正之助の酒好きが過ぎたるのを諫(いさ)めるために書いた書画が、山口県立博物館に収められています。
ストレスだらけの毎日には酒が欠かせなかったのかもしれませんね。
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<松下村塾>といえば、
誰もが吉田松陰をすぐに思い浮かべます。


しかし開塾したのは、吉田松陰の叔父である玉木文之進(1810~1876)。


文之進は幼少期の松蔭を厳しく教育しました。
こんなエピソードがあります。

文之進の講義中に、少年松陰はほっぺたがが痒かったので顔をかいたところ、文之進の鉄拳がとんできました。
文之進は「顔が痒いというのは<私>事で<公>のためではない」と戒めたそうです。




吉田松陰や乃木希典など多くの門弟を育て世に送り出した文之進ですが、
前原一誠が新政府に対して兵を挙げた「萩の乱」を阻止出来ず、
養嗣子(乃木大将の実弟)正誼をはじめ文之進の門弟が多く参加したことから
「自己の教育責任を、一死以ってこれを償ふ」と言い、自刃しました。
享年67歳でした。
(司馬遼太郎の小説『世に棲む日々』の冒頭にもその切腹自害の場面の描写があります。)



弟子のしたことは全て師匠の責任…、すごい責任感です。
最期まで自分に厳しかった文之進の生き様には、
可能な限り責任を回避して生きようとする現代人にとって
学ぶことがたくさんあるように思います。
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激動の幕末には、全国各地で多くの藩改革が行われました。
長州藩はその代表的存在と言えるでしょう。

村田清風(1783~1855)は5代の藩主に渡って50年仕え、負債八万貫(現在でいえば80億円ほど)の克服に挑み、長州藩の財政や教育などの改革を実践した行政官の超先達です。




清風は、周布正之助、吉田松陰、高杉晋作、木戸孝允などといったその後の長州藩を代表する維新改革をけん引する原動力になる人材にも大きな影響を与えました。
山口県では有名ですが、全国区ではなかなか知られていない人物です。

清風の性格は、誠実・剛毅であったと伝えられます。
それは村田家の家訓からもうかがえます。


さて、清風が江戸に向かう途中に富士山を見て詠んだ詩があります。

 来てみれば 聞くより低し 富士の峯 釈迦も孔子も かくやあるらん

私はこの詩が大好きです。どんなに困難な状況でそれを克服するのは無理だと思っても、実際事が終わればそんなに難しいことではなかったという意味です。


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幕末の思想家で明治維新に大きな影響を与えた人物といえば、
松下村塾の主宰者であった吉田松陰です。(創設者は叔父の玉木文之進)

しかし、明治維新の立役者は吉田松陰だけではないのです。
もう一人の立役者を忘れてはなりません。
それは、僧の月性(1817~1858)です。

月性は松陰と同じ山口県出身です。

月性は清狂草堂(せいきょうそうどう 別名:時習館)を開塾しています。
西の松下村塾と並び、東の草堂としても有名です。

月性はいち早く海防護国の急を説きました。
海防の必要性は、士農工商の階級意識を大きく変えていく契機となりました。

これが後に高杉晋作の奇兵隊のもととなったとも言われています。
奇兵隊の実現は、月性の海防理論を実践したものとも考えられます。

月性の名声は広く知れ渡り、遠近より入塾希望の青年が集まってきました。
多くの彼らはやがて明治維新に大きな足跡を残しました。
吉田松陰は、松下村塾を休講して自分の塾生に月性の講演を聴講させたほどです。



さて、月性が27歳の時、
病気がちであった母を一人残して、
里を離れて勉強しに関西へ旅立つ際に詠った詩です。

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 男児志を立てて郷関を出づ 学若し成る無くんば復還らず
 埋骨何ぞ期せん墳墓の地 人間至る処青山有り
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(意訳)
  一度志を立てて故郷を後にするからには、
  しっかりとやるべきことをやり遂げるまで、
  故郷には帰らない決意である。

  骨を埋める場所は故郷にある墓だけとは限らない。
  世の中にはどこにでも青々とした死に場所があるではないか。


月性の覚悟に現代に活きる私たちも学ぶことがありそうですね。
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長谷川宣以 (はせがわ のぶため、1745-1795)は江戸時代の旗本で、火付盗賊改役を務めた人物です。

時代小説を読まれる方であれば、「火付盗賊改役」と聞いてすぐに「ピン」ときた人も多いかもしれませんね。
そうなんです。宣以は、『鬼平犯科帳』の主人公としても描かれている「長谷川平蔵」です。

宣以は、寛政の改革時に犯罪者の更生施設である「人足寄場」の建設を立案しました。
「人足寄場」とは、軽犯罪などが理由で無宿や無職の浮浪の身となった人たちに対して、
職業訓練や仕事の斡旋などをしながら教育的・自立支援を行う場所です。

更生所を立ち上げる際、幕府が予算を認めなかったために、宣以は幕府から預かっていた別の用途で使うお金を銭相場に投じて資金を増やしました。
当時の老中松平定信は、宣以を厳しく批判する言葉を文章に残しています。

一方、民衆からは「今大岡」(現代の大岡越前)とよばれるほど、人情味があってとても人気があったそうです。当時の権力者を敵に回してでも、民衆のためであれば手段を選ばない宣以の正義感に、民衆たちの心は惹かれたのでしょう。

いつの時代でもヒーローとなる人は、どこか共通点がありますね。
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今回はゴジラ情報から。

今日から、映画「GODZILLA ゴジラ」の上映が始まりました!

1954年にはじめて公開されたゴジラはシリーズ化し、その数なんと28作(~2004)。
29作目はハリウッド映画となって復活!!


アメリカでも大人気のゴジラ。
私が12年ほど住んでいたアメリカでも、ゴジラを知らない人はほとんどいませんでした。
ゴジラはそれほど人気の高い、日本が生んだ世界的なキャラクターなのです。
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ところで、20世紀で最も偉大な日本人音楽家といえば、皆さん誰を思い浮かべますか。
坂本龍一?小澤征爾?

いえ、いえ、すごい音楽家がまだいるのです。
その名は、伊福部 昭(北海道釧路、1914-2006)
伊福部は、デビュー作『日本狂詩曲』を発表、
国際的コンクールで日本人初のチェレプニン賞を受賞。
若干21歳、1935年のことです。

戦前でまだ国全体が裕福でなく、音を楽しむ(音楽)余裕など無い時代、
伊福部は、日本人としてはじめて世界で認められた人物と言っても過言ではありません。

伊福部がすごいところは、音楽の専門教育をうけていないということ。
北海道帝国大学農学部を卒業後、道庁地方林課に勤務しながら、
独学でデビュー作の『日本狂詩曲』を書き上げ、
名誉ある世界的賞を受賞したのですから、スゴイですね。

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さて話を元に戻しましょう。
そんな伊福部の代表作は、誰もが知っているあの曲。
それは、「ゴジラ」のテーマ曲なんです!

伊福部は、戦中に放射線による航空機用木材強化の研究に従事。
もちろん当時は、放射線の危険性が認知されておらず、
防護服もないまま無防備のまま実験を続けました。
その後に体調不良になったそうですが、
そんな自分にゴジラ像が被ったのかもしれません。

ゴジラは水爆実験によって生まれ、人間の手によって抹殺されるという、
何とも言いようのない人間エゴの塊のようなものを描いた映画で、
実はとても哲学的なんです。

伊福部はその後、300曲以上にわたる映画音楽を手がけました。
「座頭市」や「ビルマの竪琴」など、皆さんが知っている曲も伊福部の作です。

今の私たちが伊福部昭から学ぶことは、学びの基本が独学であるということ。
自分の興味があること、好きなことを独りで学ぶのは、何の苦痛にもなりません。
それどころか、時間が経つことすら忘れるほど楽しいはずです。
それが勉強になると苦痛を憶えます。
それはきっと勉強が「勉めることを強いられる」からなのかもしれませんね。







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山田長政(静岡、1590年~1630年)


山田長政は、350年程前の江戸期にタイのアユタヤで活躍し、
日本人にも拘わらず「リゴール」という一国の王(知事)にまでなった人物です。


長政は元々駿河国の駕籠かき(籠を担ぐ仕事)をしていました。
その後、タイの日本人町に渡って貿易活動に従事し、後に日本人町の頭領になりました。

長政は日本とアユタヤ王朝の大仲介商人として両国の修好に努めただけでなく、
日本人義勇隊の隊長として、タイの内乱を収めたりスペイン艦隊の侵攻を食い止めるなど、
武功でも名を上げました。

経済的にも武力的にも力を持った長政は、アユタヤ王朝にとても大きな影響力を及ぼすようになりました。
その結果、王朝が長政の存在を恐れて、アユタヤから遥か遠くにあるリゴールに左遷したという説もあります。

長政はアユタヤ王の継承問題の最中に反対勢力とされ、最後は毒殺されてしまいました。



山田長政のように、あまり頭角を現し過ぎると周りから恐れられ、終いには厄介者とされるのは、世界共通のようです。
あの黒田官兵衛も、あまりにも頭が斬れた戦上手の軍師となったが故に、秀吉が段々と恐れるようになり、結果として他の大名よりも冷遇されたと言われています。

出来過ぎるのも色々と問題があるのですね。
吉田兼好は『徒然草』の232段で、「できる人は無知無能に振る舞うのが良い」とアドバイスをしています。
人から「できない」と思われるのも嫌ですし、かといって出来過ぎると今度は煙たがれる世の中は、今も昔も変わらないのでしょうか。
生きるって難しいですね。






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二宮 忠八(1866-1936、愛媛県八幡浜市出身)-飛行機発明の先駆者


4月29日は「昭和の日」以外に、もう一つ別の記念日があります。それは「飛行機の日」です。

世界で初めて飛行機を作って飛ばした人物といえば、誰でもライト兄弟を思い浮かべるでしょう。しかしライト兄弟が飛行機をはじめて飛ばした日は1903年2月17日で、4月29日ではありません。では何故4月29日が「飛行機の日」なのでしょうか。

1891年4月29日は、二宮忠八がはじめてプロペラ飛行実験を成功させた日です。
有人飛行ではありませんでしたが、科学的な航空原理に基づいた世界初の動力による飛行実験の成功でした。

忠八は徴兵先の香川県仲多度郡で、飛んでいるカラスを見て風を羽で受け止める空気抵抗を利用した飛行原理を確信しました。そして、烏(カラス)型模型飛行器を作成、飛行実験に成功しました。惜しくも有人飛行機の成功はライト兄弟に先を越されてしまいましたが、二宮忠八はライト兄弟の成功の14年も前に飛行原理を考えていました。


烏(カラス)型模型飛行器


当時の日本にはまだ動力や電機などが一般的に十分に普及していたとは言い難く、そうした時代背景のなかでのハンディーを考慮すれば、二宮忠八は飛行機の真の発明者であり、世界に誇れる日本人と言ってもよいでしょう。

忠八が考案した飛行機の原理は、ゴムチューブを巻いた模型飛行機ではありましたが、忠八は時間も資金も限られているなかで、自分ができる範囲内でしっかりとアウトプットを出しました。ロケットだって最初は23センチの火薬式ペンシルロケットだったことを考えると、忠八の模型飛行機の実験成功は、小さな一歩が後に大成功をもたらす良い例です。

何でも考えたことは実際にアウトプットにして世に出すことが重要です。アイディアがどんなに良くても、自分が考えることは必ず他人も考えています。アイディアだけでは何の価値はありません。

忠八は模型飛行機から有人飛行機に発展させようと軍に打診しましたが、日清戦争のため費用捻出が難しく、また当時は飛行機よりも造船に力を入れてた時代でもあり、なかなか飛行機の開発は先に進みませんでした。それでも、烏(カラス)型模型飛行器の飛行実験に成功した二年後には、有人飛行を前提に「玉虫型飛行器」を作成し、着実に飛行機の開発を前進させました。

玉虫型飛行器

二宮は70歳で亡くなる前、一度だけ飛行機に乗ることができました。飛行機に乗った時の気持ちは実験を繰り返して空を飛ぶときに夢見たイメージと同じだったそうです。


費用もなく思うように飛行機開発が進まなくても、忠八を駆り立てたのは「飛行機を作りたい」「空を飛びたい」という強い思いがあったからに違いありません。


自分が好きなことをやっていれば、どんなに困難に直面してもそれは苦にはなりません。むしろ高いハードルを一つ一つ乗り越えることは、やりがいにもつながります。私たちも忠八に学ぶことがありそうですね。


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