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181 第3シリーズ「問題論」 第七章 vol.6

2009年10月02日 yanayuhの投稿
Theme: 無料メルマガ
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メールマガジン: 「原因が結果を生じさせる」という発想は間違っている
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 「病気を診て、人を見ない」その仕方について説明しよう。
医科学などの(西欧)学問では、人の、



具合と意思が捉えられない



のである。
学問は、人を研究すると言う。
そして、「人とは何か?」と問う。
挙げ句、この問いに間違って答えてしまう。
人は、これこれの



〈正常〉なありようになるよう本来〈予定〉されている



のだ、と。
こうした見方をしていると、人を、



この本来的な〈予定〉通りになったか、ならなかったかという基準でしか



捉えることができない。
別の言い方で言えば、



〈正常〉なのか〈異常〉なのか



という見方でしか見ることができない、ということである。
この本来的な〈予定〉通りになること。
それを医科学は、機能すると言う。
この〈予定〉通りにならなかったものは、



機能不全(機能障害)を起こしている、



とする。
このように、医科学は、人を「機能の束」にすぎないと解している。
人にとっての



問題は「機能不全」だ。〈異常〉であることだ、



というのである。
ところが、



こんな基準で人を見ていると、人の、具合と意思が捉えられなくなってしまう。



例を出してその確認をしよう。
再度ここで、脳科学者である伊藤正男に登場してもらう。
彼の書いた本『脳の不思議』(岩波書店1998) のp.104から引用する。
彼はここで、脳研究の初歩的手続きについて説明する。





 こころの働きの脳のしくみに迫るために
脳科学で用いられる基本的な研究戦略は、
まずその活動が脳のどこで起こっているかという機能局在をはっきりさせ、
次いでそこで起こっている神経細胞の活動を調べることである。

こころの働きには表1に示すようないろいろな成分があるが、
この中で認知、運動制御、情動、記憶・学習、睡眠・覚醒、
認知的意識、思考、言語、注意などについては
脳科学の手法が成功、ないし進歩しつつあるということができる。

まだまだ困難は大きいが、少なくともこれらの活動が
脳のどこで営まれているかがある程度わかっているし、
そこでどのような神経細胞の活動が起こっているかを調べる方法論が得られている。

したがって、それらの成分について脳との関係を明らかにできるのは、
時間と努力の問題ともいえる。


 しかし、チャルマースが脳とこころの問題には
やさしいものと難しいものとあるといっているように、
表1のなかで太線で囲んだ


感情、意思、自意識


を問題にするようになると、
状況は極めて困難になる。
その


機能局在はわからないし、


それを客観的に計る方法がない。
表1の中の太枠を破ることができれば、科学上の大発見になるだろうが、
それを


楽観的に考えることは禁物


である。

$欧米神話戯画
伊藤正男『脳の不思議』岩波書店、105頁から引用





 脳科学もまた「原因が結果を生じさせる」という信仰
の上に成り立っている学問分野である。
脳が「原因」である。
それが、人の体験を生じさせる、と解している。
そして、体験とはまさに、「意識」と「世界」が関係することだった。
だから、脳科学によると、



脳が、「意識」も「世界」をも生じさせている



ことになるのである。
ところで、上記引用文にて、伊藤は、



こんな脳科学の、初歩的な研究方法



について述べている。
そして、この方法では当初から、理論的に、



「感情、意思、自意識」が捉えられない



と告白している。
「感情、意思」が捉えられないというこの発言に注目しよう。
感情がわからない。
それは、



具合が捉えられない



ということである。
具合の良し悪し、快苦、気持ちが良い悪い、
それらがどういうことか、わからないということである。



具合と意思が脳科学では、その初めの出だしの時点で既に捉えられない。



脳科学者・伊藤正男の言っているのは、そういうことである。
脳科学ではいつまで経っても、



人間の、生きる、ということが理解できない。



そう断言しているのだ。
人は常に『今どうしようとするか』という問いを解いているようなものである。
その問いをヨリ解けている程、具合がヨリ良い。
その問いの解き方こそ、意思である。
これは既に説明した通りである。


責任を果たしながらも、この問いをどれだけ解決できるか。
それが生きることの課題である。



具合と意思、これらを捉えられないで、人がどう生きているか、理解することはできない



のである。
脳科学では伊藤が言うように、具合と意思は捉えられない。
生きるということを理解できない。
人を人として見ることができない。


「原因が結果を生じさせる」と信じていると、
このように、人を人として見ることができない。
人を「機能の束」と捉え間違ってしまう。
人は、〈正常〉なありようになるよう本来〈予定〉されている。



生きるとは、「原因」がこの本来的な〈予定〉を実現するかどうか



ということだ、と誤解してしまう。
しっかり機能するか、しない (機能不全に陥る) かだと解してしまう。
こうして医科学は、人間とロボットの違いが分からなくなる。
人を前にして、



人に本来的に定められる〈予定〉を「原因」が、この人に実現しているかどうか



としか見ることができない。
実現されていなければ、



それは病気、



とする。
これが「病気を診て、人を見ない」である。



病気を診る見方は、人を見ることではない



というわけだ。
人を見るには、具合と意思を捉えないといけない。
『今どうしようとするか』どのようにどれだけはっきりしているか。
それを捉えられないで、人がどう生きているか、理解することはできないのである。

(続く)


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早期発見・早期治療が危険な理由

2009年08月16日 yanayuhの投稿
Theme: 絶対確認事項
早期発見・早期治療は危険である。そもそも、何があって、早期発見・早期治療が必要になるとされるのか。その理由を二つ、挙げてみたいと思うのである。


現状にて、治療が功を奏していない。だから、医科学者は早期発見・早期治療をしたがる。こういうことが先ずある。具合が悪い。そこで彼は病院に行く。治療を受ける。けれども、具合は良くならない。むしろ、どんどん酷く悪くなっていく。そういう場合がとても多い。治療現場が悲惨となるわけである。


こういう場合、治療現場では、その治療が本当に理にかなったものかどうか、点検しなければならないはずである。ところが、そういうことをする医科学者は、少なくとも日本にはほとんどいない。では、彼らはどうするのか。そのまま、この治療とやらを続けるのか。


違う。彼らは、まだ具合が悪くなっていない人をつかまえようとする。そういう人たちに、この治療をやろうとする。まさに早期発見・早期治療を始めるわけである。しかし、これらの人たちは、具合が良い。だから、酷い治療にさえ耐え得てしまう。この治療が有効であっても、有害であっても、どちらでも良い。具合の悪い者たちへのこの治療の成績。以前の悲惨なそれに比べると、どうしたところで、具合の良い者たちにする早期発見・早期治療の治療成績は上がるからである。


しかし、よく考えてみよう。元々、具合の悪い人たちに施していた治療。これが、荒唐無稽であったらどうか。早期発見・早期治療と言って、医科学者は、具合の良い者たちまで治療対象に入れるようになった。そうして、有害で荒唐無稽な施術を、ヨリ多くの人に為している。こういうことになる。だから、先ず始めに、具合の悪い人たちにしていた治療。これが果して、理にかなっていたのかどうか、しっかり検討しなければならなかった。しかし、彼らはそれをしなかったのである。


早期発見・早期治療に至るもう一つ理由に移ろう。早期発見・早期治療が媒辞不周延という過ちである場合がある。ものごとを「原因」で説明する。そういう者は、必ず、この致命的な過ちを犯す。そして、早期発見ができると誤解する。


例えば、ガンを例にとって考えよう。ガンについてもまた、医学者は早期発見・早期治療をしようと言う。具合が悪くなる前に、ガン細胞を見付ける。そして、治療しよう。まさにこれからは、そうすべきだと喧伝する。ところが、そういう発想がまさに、媒辞不周延という過ちであるわけだ。「逆もまた真なり」と言えない。にも拘わらず、「逆もまた真なり」と間違って断定してしまう。こういう過ちが媒辞不周延である。


「具合の悪い者のがん細胞には必ず早期の状態があった」。そういう事実から、〈早期の状態にあるガン細胞が身体の中に見付かる。そういう者のガン細胞は必ず増大する。そして本人は具合が悪くなる〉と決め付ける。これが彼らの媒辞不周延の例の一つである。


しかし、僕たちはこのように軽率であってはならない。具合の悪い者がいる。彼の身体の中にガン細胞が見付かる。確かに、そのガン細胞には早期の状態があっただろう。もっと小さかった段階があったはずだ。けれども、である。具合の良い者の身体の中に小さいガン細胞が見付かる。だから、その小さいガン細胞は必ず大きくなると、ここから断定することは絶対にできない。


むしろ、ここで理に適うのは次のような考え方である。具合の良い者の身体の中に小さいガン細胞を早期に見付けた。そのようなガン細胞が身体の中に見付かった者。それらは二つの集合から成っている。一つは、そのガン細胞がこれから増大する者の集まり。もう一つは、このガン細胞がこれ以上は大きくならない者の集まり。


「全ての馬鹿者は詩人である」。そこから、〈詩人は全て馬鹿者である〉と結論付ける。それを、エドガー・アラン・ポオは、媒辞不周延という過ちの例として、『盗まれた手紙』(推理小説) で挙げている。こうした過ちを、ガン治療医は上記のようにして、犯している。だから、こんな作り話もでっちあげる。


 がんとは、具体的にどんなものか、と聞かれるとはっきり答えらる人は少ないのではないだろうか。簡単に言えば、がんは「コブ」である。(略) ここでいうコブとは、細胞が増えてできたコブだ。(略) コブとりじいさんのコブは、分をわきまえていて、ある程度の大きさになるとそれ以上は大きくならない。ふつうのホクロもイボも、ある時点で成長にブレーキがかかる。だから、命に関係ないのである。こういうコブを専門的には「良性腫瘍」と言っている。
 ところががんは違う。秩序も規則も全く無視した増え方をするのである。(略) がんは、永遠に成長しつづけるコブだ (以下略)

(市川平三郎『百歳まで生き、ガンで死のう。』講談社、1992年、20~23頁)



こういうのは、国立がんセンター名誉院長の市川平三郎氏である。ところが、だ。例えば、こういう観察結果をも近藤誠氏は報告している。


 最後に検討するのは子宮がんです。子宮がんには、入り口にできる「頸がん」と、奥にできる「体がん」がありますが、ここでは頸がんをとりあげます。
 頸がんの進行度は、ゼロ期から四期まで五段階に分類され、一期以上は二a期と二b期というように、さらに細分化されている。種々のがん検診のなかで、世界でもっとも広く行われているのが頸がん検診です。日本でも、産婦人科を受診すると検査を勧められるので、若い人にもよくみつかります。(略) まとまった数の報告を探してみると、メモリアル病院という米国屈指のがん専門病院から、ゼロ期の67人を手術しないで様子をみた結果が報告されています。
 観察期間は、最低で六ヶ月、長い人は七年以上になります。ゼロ期というのは、がん細胞が上皮内にとどまっているものですが、結果、がんが上皮の奥の組織まで浸潤 (つまり侵入) した者が4人。ゼロ期が一期になったわけです。また別の5人は、浸潤した可能性がありますが、判定が難しく、浸潤したとは判定されていません。
 残り58人中、上皮内がんのままとどまった者が41人。そして17人は、がんが自然に消失しました (「Cancer」16巻1160頁・1963年)

(近藤誠『』文春文庫、2004年、243~244頁、2002年)



しかし、ガン治療医だけではない。ありとあらゆる医科学者が媒辞不周延という過ちを犯している。具合の悪い者がいる。その者に検査をした。すると新インフルエンザ陽性という反応が出た。彼らはここでその過ちを犯す。


新インフルエンザ陽性という反応が出た者は、危ない。彼らの具合は未だ悪くない。そういうことであっても、早期治療をするべきだ。何故なら、具合の悪い者を検査すると、新インフルエンザ陽性という反応が出たからだ。彼らももっと早期の状態で検査していれば、具合の良い、早期の段階に陽性反応が出ただろう。


だから「具合の良い時に新インフルエンザ陽性という反応が出た者は全て、これから具合悪くなるのだ」。こう断定するわけである。そして、早期治療をする。けれども、その治療が非常に危険であるかもしれない。具合の悪い者にそれを施す。すると、具合が更に酷くなる。こういうことであるかもしれない。だとしたら、具合の悪くない者にまで、こういう有害な治療を広めているだけということになる。


いわゆる血友病患者のHIVについては、媒辞不周縁という過ちがあったと思う。血友病と診断されたからといって、特に困ったことはなかった。しかし、或る血液製剤を注射するという治療とやらを患者は強く医者からすすめられた。酷く具合の悪い者がいる。その者の血友病状態には早期の状態があった。その時、彼らはまだ具合が良かった。だから、具合の良い者で、血友病と診断される者。彼らもまた、そういう具合の悪い者のように、必ず、そのうち具合が悪くなる。こう勝手に断定してしまったわけだ。


そして、早期治療を患者にしいた。けれども、その治療法とやらに根拠があったのかどうかとても怪しい。そういうものを続けざまに患者は注射したということである。すると、その中から、具合が悪くなって死んでしまう者が現れた。その者の局所を医科学者は微視的にだけ見て、HIVウィルスなるものを見付けた。そこで、再度、媒辞不周縁を医科学者は犯した。


この具合の悪い者。死んでしまった彼。その身体の中にはHIVウィルスがあった。この者がまだ具合が悪くなかった時に、HIVウィルスを見付けることはできたはずだ。だから、〈具合が悪くなくても、HIVウィルスが身体の中に見付かった者がいる。そういう者も全て、具合が悪くなって死んでしまうに決まっている〉と決め付けた。


血友病患者の中でHIVウィルスが体内にあるとされる。そういう者たちのほとんどは、こうしてインターフェロン治療を受けることになった。ところが、その治療は、すると具合が酷く悪くなるものである。定期的に酷く具合が悪くなるようなことをし続けると考えてみよう。すると、誰でも具合が段々悪くなる。挙げ句、死んでしまうだろう。


そんなことは誰にでもわかる。これは何々病と診断された人たちだけに限られたことではない。全ての人間に共通の理である。けれども、そんな施術に「治療」という名が付いている。すると、こんな当然の道理にも人は気付かなくなってしまう。早期治療をした。にも拘わらず、患者は死んだ。HIVウィルスは怖い。この病気は恐ろしいと考えてしまう。本当に恐ろしいのは、こうした、事の理を全く把握できないことの方であるというのに。


大阪から新幹線で東京に向かう。そういう者たちはみな名古屋を通過する。では、大阪から名古屋に向かう人たちは全て、東京に行くのか。そうではないのである。

173 第3シリーズ「問題論」 第六章 vol.8

2009年08月08日 yanayuhの投稿
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メールマガジン: 「原因が結果を生じさせる」という発想は間違っている
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 この「どうして?」に答えようとして、
(西欧)学問は、各種〈異常〉を捏造する。
そして、血管の凸凹、臓器のそれ、独身者、
それら全てを、〈異常〉と見なすことになる。
病気と解する。



「本来」こんなふうになるはずはない



というわけだ。
「異常・原因」があった。
それが、こんなふうに〈異常〉を生じさせた。
これは「例外的」な出来事だ、というのである。


そこで、「異常・原因」を特定しようということになる。
データを捏造したり、誤魔化したりして、彼らはそれを強引に特定する。
例えば、そのようにして、ウィルスや遺伝子の欠陥を、「異常・原因」と決め付ける。
挙げ句、こう言うのである。
nは



例外的に、これこれの〈異常s〉になるよう〈予定〉されてもいる。



特定した「異常・原因s」が、この例外的な〈予定s〉を実現する。
これが〈異常s〉のメカニズムなのである、と。






 しかし、血管の筒に凸凹があっても何ら不思議ではない。
不思議と思うのは、勝手に間違った思い込みをしているからである。
ただ、それだけである。
血管をろくに観察したことがない。
にも拘わらず、血管にはそもそも凸凹がないと決め付けている。
その決め付けが根本的に間違っているというわけである。


臓器に凸凹があるのも不思議ではない。
臓器を人間はそんなに観察してこなかった。
身体の中のことはなかなかわからないものだ。
それなのに、医科学は事の始めに勝手に決め付けてしまった。
臓器には凸凹がないはずだと。
だから、凸凹のあることを後になって知ることになる。
そして、不思議な気分になる。
「異常・原因」をもってきて説明しないとすっきりしなくなるのである。


本当の事情はこうだ。
先にも指摘したように



『個が先、分類はその後』



である。
それら《同じ》個同士は《それぞれ別々》である。
《それぞれ別々》なもの同士の間には違いがあって良い。
そして実際、ある。


そのように、違いのある複数の個が先にある。
その後、ようやく初めて《同じ》とする、分類が可能となるわけである。
多様な個が先にある。
それの分類はその存在の後だ。



『多様性が先、(分類をして) 共通性 (を覚えるの) はその後』



なのである。


凸凹な壁の血管部分がある。
滑らかなところもある。
多様なものが先にある。
その後に、それらを血管なるものとして《同じ》とする。


臓器に凸凹がある。
凸凹のないところもある。
それら全てを臓器として《同じ》とする。


先に違いがある。




『多様性が先ず初めにありき』



であるわけなのだ。
しかし、(西欧)学問は、



初めにあるのは、共通性である



とする。
先にあるのは、実在である。
イデアである、形相である、「一つの何か」である、とする。


(西欧)学問を妄信している。
そういう者にとっては、



多様性は、こうした共通性から導き出されたもの、にすぎない



ということになってしまう。


彼らは事実をこのように、逆さまで解釈している。
「共通性が先、多様性はその後」と誤解してしまっている。



多様性がどのように共通性から出てくるか。



彼らは必死になって、そのような筋のお伽噺を
医科学の名の元、こしらえあげている。



多様な個体は、或る一つの共通性から生まれなければならない



とお粗末にも信じ込んでいるわけである。
その恰好の例として、昔のものでは、ダーウィンの進化論。
現代のものでは、ヒトゲノム解析プロジェクトを挙げることができる。





 『多様性が先、共通性はその後』である。
違うもの同士を、それらの間の違いという違いを全て含めて『足し算』する。
それができる者は、「どんなふうに?」と問うだろう。


方や、(西洋) 学問をしている者は、
同じとは「互いに隅から隅まで酷似している」と誤解している。
彼らは、「原因が結果を生じさせる」と妄信している。
そこで、実在やイデア、形相、「一つの何か」を
持ち出してくることになる。


挙げ句、〈正常〉や〈異常〉を捏造する羽目になる。
そして、nについて
本来的な〈予定〉や、例外的な〈予定〉をこしらえあげる。


彼らは、このように、
同じものは「互いに隅から隅まで酷似している」と信じている。
けれども、実際は、同じものの間に違いがある。
だから、彼らの予想通りにはならない。
そこで、「どうして?」と訊くことになる。
何が予想を裏切ったのかと問うわけだ。
そこで、「異常・原因」を持ち出してきて納得しようとすることになる。
〈異常〉のメカニズムを捏造することになるのである。


(続く)


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172 第3シリーズ「問題論」 第六章 vol.7

2009年08月03日 yanayuhの投稿
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 人にとっての問題は、〈異常〉であること、ではない。
〈異常〉などそもそもありはしない。
人と違っているとか、少数の人としか似ていないとか、



そういうことはそれ自体では何ら問題ではない



のだ。
自分は人と違っている。
そのことを自身が気に病んでいる。
もし問題があるとすればそれは、
こう



気に病むことで具合が悪いそのこと



である。
自分はしっかり責任を果たしている。
そうである限り、人は、
他人と違っていることを問題とする必要は絶対にないのである。


ただし、ここで、僕たちはくれぐれもしっかり銘記しておこう。
以上のことは、やはり、自分が



人としての責任をしっかり果たしている上での話し



であると。
自分自身が、他人と違っている。
そのことで何ら具合悪く感じない。
たとえ、そうであっても、次のようでは問題がある。


しようとすべきことをしようとしない。
しようとすべきではないことをしようとしている。
即ち、



責任が果たせていない。



こういうことであれば、周囲の人間は、
それを見過ごすわけにはいかない。
問題としないで済ませられない。
これを見過ごしては、こちら側の具合が悪いのである。



d.「どうして?」という問い方と同じについての誤解



 復習しよう。
nについての研究というものがあるとする。
そこでの正しい問い方は、



「nはどんなふうにあるか?」



だった。
しかし、(西欧)学問では間違って、



「nとは何か?」



と問うてしまう。
同じとは「互いに隅から隅まで酷似している」ことと誤解しているからである。
そして、バートランド・ラッセル (Bertrand Arthur William Russell,1872~1970)
のような哲学者は、この問いにこう答えていた。



「nとはその実在のことである」と。



実在とは、プラトン流に言えば、イデアである。
ソクラテス風に言えば、形相である。
僕の言い方で言えば、「一つの何か」だ。


その「一つの何かn」を「原因」が方々に具体化する。
だから、あの具体的なn、この具体的なn、その具体的なnが存在しえている。
(西欧)学問では、そう誤解している。



このように「実在 (イデア、本質) が先、個の存在はその後」



と考える。
しかし、それは間違いである。



本当は、『個が先、(同じとする) 分類はその後』



である。
あの個がある。その個がある。この個がある。
それら



元々、互いの間に違いのあるものが似ている。



そこで、それらを《同じ》と分類する。
互いの間の違いという違いを全て丸々含めて
『足し算』する。
このようにして、「nがどのようにあるか」、その都度、学んでいくべきなのである。




 一方、医科学は、
「nとは何か?」というこの問いに、
こう答えていた。



nは本来、その〈正常〉なありようが具体化するよう〈予定〉されている



のだ、と。
そのように、勝手に、医科学はnについて未来予想を立てる。
しかし、この予想は間違っている。



実際、現実は彼らのこの予想通りにはならない。



そこで、
(西欧)学問では続けて、



「どうして?」



と訊くことになる。
同じとは「互いに隅から隅まで酷似している」ことである。



それなのに、「どうして?」こんなふうに違ってしまうのか、



というのである。
先にも書いたように、



正しい問い方は、「どんなふうに?」



である。
「どんなふうに?」と問えている。
その時、現実は自分の予想法と食い違っていない。
しっかり、身の回りの具体的なありようを、
違いを丸々含める、あの正しい『足し算』の仕方で足せている。
学べているのである。





 違うもの同士を、それらの間の違いという違いを丸々含めて『足し算』できる。
そういう者は、「どのように?」と問える。
ところが、である。


同じとは「互いに隅から隅まで酷似している」と(西欧)学問では誤解している。
だから、そのように問えない。
「nとは何か?」と問うてしまう。



挙げ句、「どうして?」と訊くことになってしまう。



これもnだ。
nは本来、nの〈正常〉なありようになるよう〈予定〉されているはずだ。
しかし、このnはそうなっていない。



「どうして?」



というわけである。
血管の筒は、プラスチック製の管のように、
どこもかしこも「互いに隅から隅まで酷似している」はずだ。
つまり、どこも滑らかであるはずだ。



なのに、凸凹が見付かった。「どうして?」。



臓器は、どの部分も同質であるはずだ。
どこもかしこも「互いに隅から隅まで酷似している」はずだ。
凸凹(ガン細胞や潰瘍)などあるはずがない。



しかし、あった。「どうして?」。



生物は「生きて、しかも子孫を残す」はずである。



けれども、そうではない個体があった。「どうして?」。



彼らの未来予想法が現実に通用しない。
だから、彼らはそのように「どうして?」と訊くことになっているのである。


(続く)


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171 第3シリーズ「問題論」 第六章 vol.6

2009年07月27日 yanayuhの投稿
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c.異常であることは問題か? 人間を産業ロボットと誤解する見方について



 同じとは
「互いに隅から隅まで酷似している」ことと勘違いする。
そして、



nは本来、nの〈正常〉なありようになるよう〈予定〉されている。



そう、権威的な学問の名のもと、人は決めつける。
この本来的な〈予定〉通りにはならないものがあった。
それを、nの〈異常〉なありようとする。
人についてのそれを、



病気



と呼ぶ。
本来〈予定〉されていた通りにはなり損なったものとするわけだ。
まさに、間違って、この



〈異常〉であることが、問題と考えられてしまっている。



人についての〈正常〉とは、健康とか健常と呼ばれる。
人についてはそうあることこそが正しい。
もし人が〈正常〉なありようにないなら、問題がある。
矯正して克服されるべきだ。
そのありようは〈異常〉であるにすぎないから。
〈正常〉にならなければならない。



〈異常〉であることが問題



である。



〈正常〉になることがその問題解決である、



というのである。





 この世に〈正常〉も〈異常〉もありはしない。
健常や病気などありはしない。
そんな二分法で人間を見るのは間違っている。



健常や病気などについて考えるべきではない。



注目すべきは、
繰り返し言うように、



具合の良し悪し



なのである。
西欧社会の長年の動向や医科学などを見れば、
問題がどう誤解されているかがよくわかる。
今、医科学は、人について研究し、



その〈正常〉なありようを勝手に決めつけている。



しかし、違うもの同士を、それらの間の違いという違いを丸々含めて
《同じ》と『足し算』する。
それが本当である。


けれども、彼らは、そんな仕方で同じとしているのではない。
同じとは、「互いに隅から隅まで酷似している」ことと誤解している。
そうして、彼らは或るものについて研究する。



それの未来のありようを、今のありようと同じとする。



つまり、今のありようと「互いに隅から隅まで酷似している」ありようと信じ込む。
また、



このものと同じ別のものについても同様の間違いを犯す。



後者の別のものは、前者と「互いに隅から隅まで酷似している」と思い込んでしまう。
後者、この別のものの未来もまた、
前者の今のありようと「互いに隅から隅まで酷似している」と決め付けてしまっている。
こんな仕方で西欧学問は、〈正常〉なありようを捏造する。



だから以後、問題なくある、ということが、先ず不可能となってしまう。



一体、今、医科学をネタにご飯を食べる者たちのために、
どれだけ多くの病気なるものがこしらえあげられていることだろう。
この世にあるもの同士には違いがたくさんある。



同じもの同士の間にさえ、違いはある。



にも拘わらず、医科学は
或る「互いに隅から隅まで酷似している」ものの集団を〈正常〉と決め付ける。
だから、次々と、医科学の名のもと、いろんな〈異常〉が出てくることになる。
医科学が決めつけた〈正常〉なありようと、
「互いに隅から隅まで酷似している」ありようであるのは、至難の業である。


(西欧)学問の元、医科学などをして、たくさんある〈異常〉を一つ一つ研究していく。
克服していくと言う。
そうして、いろんな〈異常〉が、
精神医学、内科、外科、脳科学、免疫学、病理学などで捏造されていく。


しかもその上、〈異常〉なものの分類もまた、間違っている。
「互いに隅から隅まで酷似している」もの同士をしか同じとしない。
そんな仕方で、グループを作ってしまっている。
しかも、一つのものを、「互いに隅から隅まで酷似している」
一つのグループにしか入れないでしまっている。


本当は、
一つのものは同時に、



いろんなグループの中に入れられて良い。



更に、互いの間に違いのにあるもの同士を、
それらの間の違いを全て含めて



『足し算』



するべきである。
ところが、医科学は、上記の間違った仕方で分類をしているわけだ。


その上、各〈異常〉なありようグループのそれぞれについて、
それを生じさせた「原因」を特定している。
これまた間違った仕方で。


ところで、前の方で書いた。
加えて、この「異常・原因t」が特定されるまで、
〈異常〉なありようtについて、全く対応できもしない。
問題解決法は「原因」部分を取り除くことと堅く決めつけてしまっているからである。


「異常・原因」が分かってくれば、問題が解決するという。
〈正常〉になるよう、



「異常・原因」を取り除く



というわけだ。
「異常・原因」なるものを取り除くために、



臓器丸ごと摘出するような方法を取る。



さあ、「異常・原因」は無くなった。
あの〈異常〉なありようを生じさせるものは今や無い。
〈正常〉なありようを阻害していたものは消えた。
〈正常〉なありようがここに実現するだろう、という。
しかし、この問題解決法もみごとに間違っているのである。





 こう問題を見誤ってしまうと、
人などの生物を、



〈正常〉に機能するか、機能しなか、



だけの存在と見なすことになる。



人間にとっての問題は、機能不全であること



というわけだ。
これでは、人間はまるで産業ロボットそのものである。


人には〈正常〉なありようがある。
人はその〈正常〉なありようになるよう本来、〈予定〉されている。
実際にこの本来的な〈予定〉通りになるかならないか。
なれば問題はない。
ならなければ問題である。
「機能不全」である。
「機能障害」がある、というわけだ。


けれども、こんな本来的な〈予定〉など、(西欧)学問の名の元、
エリートが勝手に捏造した架空の何かでしかない。
学問的権威の決めつけたそんな本来的〈予定〉を基準として、
人間の価値を貧しい仕方で決めているにすぎない。
人にとって、本当の、



唯一の問題は、繰り返し言う、具合の悪いこと、それのみ



である。
具合が良いか悪いか、それが人を見るときの、
特に医科学などの着眼点でなければならないはずだ。


けれども、そんな見方を、医科学を始め、どんな学問もしていない。
具合の良し悪しをこそ、大きく採り挙げて考えるべきである。
そうしたとき、



そこで責任についてもよく理解できるようになる



だろう。
具合の扱い方があまりにも粗雑すぎる。
常に〈異常〉であることを問題として大きく扱ってしまっている。
〈正常〉であらねばならないと強制する。
〈正常〉であることこそ、全てである。
(西欧)学問は医科学を始めとして、そんな生硬な価値観を作り出して、強要する。
人をうまく機能するかしないかだけの存在と見なしてしまう。


家族でなくて良かったと思うような、ユーモアもない、嫌らしいおっさんがいる。
そんな者たちが勝手にこしらえあげた、本来的な〈予定〉。
各人は、その通りになるかならないかだけの存在として、評価されている。


医科学の、社会での地位はここ数十年で極みに達した。
それと共に、現社会体制存続のための産業ロボットと
人間は見なされることになってしまった。
この現体制の中、



「生きて、しかも子孫を残す」のかどうか



というわけだ。
人間もまた、他の動物たちと同じく、



本来「生きて、しかも子孫を残す」ことになるよう〈予定〉されている



と彼らは言う。
このように人間を機能としてしか見ることができていない。
これは、別の言い方で言えば、医科学を始めとした(西欧)学問が、
人間の、



意思 (意図) と具合を捉え損なっている



ということである。
感情を捉えられていない。
気持ちを捉ええていない。
だから、



当然、生き方を捉えることはできない。



人生に意義があることを理解できない。
産業ロボットと人間の区別がつかない。
これは、生き物を、因果関係で説明しようとしていることにも見て取れる。
そうした説明は、生物とただの物体との区別を未だ付け得ていないことを意味する。
因果関係で説明しようとしている限り、



生きる、ということは、どんなことがあっても、絶対に理解できない。



しかるに、生物学は、因果関係で、生き物を説明する。
そんな説明は、生物学の名に値しない。
それは、未だ、物理学の範疇を抜けきれていない。



具合と意思 (意図) を捉えてこそ、生きる、というが初めて理解できるのである。

(続く)


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ガン細胞に目が釘付け、その周りが見えない

2009年07月01日 yanayuhの投稿
Theme: 記事を引用
副作用抑制、効果増大の抗がん剤開発 京大・玄准教授ら
7月1日0時34分配信 産経新聞

 主に卵巣がんなどで効果を発揮する天然由来の抗ガン剤「タキソール」について、アレルギー性の副作用を抑えたうえ、効力の高い改良型の開発に、京都大学再生医科学研究所の玄丞烋(しょうきゅう)准教授(生体材料学)らの研究グループが成功し、30日発表した。約3年後から製薬企業と共同で臨床実験を行う予定で、玄准教授は「患者負担を軽減する画期的な発見」としている。

 玄准教授によると、タキソールはイチイ葉の抽出成分が原料だが、親水性が低く、点滴投与用に液体に加工する際、水溶性を高めるため「ひまし油」が混入される。この影響で、投与された患者の約3割は体が赤くはれるなどの症状を起こすといい、課題となっていた。

 研究グループは、ひまし油の代わりに、体に害を及ぼさない天然高分子「デキストラン」を選択。混入実験を重ね、水溶性の高いタキソールの作製に成功した。

 さらに、葉酸を吸着させてがん細胞に投与する実験も実施。従来のタキソールよりがん細胞に溶け込みやすくなり、約3倍の抗ガン作用が得られることを確認し、効力の強い「葉酸吸着水溶性タキソール」の開発に成功した。玄准教授によると、がん細胞の表面には葉酸の受容体が多く、葉酸を含むタキソールを多く取り込む習性があるという。

 研究成果は、7月3日に東京で開かれる学術集会で発表される。玄准教授は「副作用を軽減できることで患者に負担がかからず、効果的に治療を行うことが期待できる」と話した。



ものごとは『一連続』なありようである。僕の体験の今のありようは、『世界の中に自分がいる』という『一連続』なありようである。この『一連続』の中の各部分として、物的なありよう、音的なありよう、匂い的なありよう、味的なありよう、(自分の身体)感覚、他人のしている体験がある。これら物的なありよう等それぞれの部分もまた、『一連続』なありようである。例えば、物的なありようについては、配列的に『一連続』なありようであると言えるわけなのだ。


僕の体験のこの今のありよう。ヨリ古い過去体験から、この今のありよう。この今のありようから、ヨリ遠い未来体験へと、時間順序的にも『一連続』なありようである。


僕の体験は、『世界の中に自分がいる』という仕方でも、時間順序的にも、『一連続』なのである。


体験のこれら《連続具合》に配慮しなければならない。そうしてこそ、初めて未来体験予想がまともにできるようになる。つまり、状況判断ができる。状況判断をするためには、全体の《連続具合》への配慮は欠くことができない状況判断のできない人間に、未来予想は絶対にできないのである。


さて、上記引用文の第4パラグラフを見てみよう。この抗ガン剤で実験したと言っている。その抗ガン剤をどこに注入したのか。こう書いてある。「葉酸を吸着させてがん細胞に投与する実験も実施」と。プレパラートの中に培養液を入れる。ガン細胞も入れる。すると、或る条件下で、ガン細胞は育つ。その中に抗ガン剤を入れた。それが、この記事の言う実験とやらではないか。だとすると、この実験からこう断言できる。


この実験から、その抗ガン剤を使用可能と判断した。「約3年後から製薬企業と共同で臨床実験を行う予定」を立てた。この者たちは、ガン細胞だけに目が釘付け。身体の中のそれ以外の部分はほとんど無視している。こう言って良いだろう。


本当に治療法と呼ばれ得るものがあるとしよう。それは、患者の身体の中の物的なありよう全体に気を配るものでないといけない (世界の中に自分がいるという『一連続』への気配り)。しかも、その全体のありようが、時間を通じて、どうなってきたか。それを配慮しなければならない (時間順序的『一連続』への配慮)。こうすることこそ、ものごとを『一連続』なありようと捉えることである。こう捉え得て初めて、患者の身体の中の物的なありようがどうなるか、まともに予想できるようになるのだ。


ところが、ガン治療とやらをやっている人の大半は、ガン細胞だけに目が釘付けである。それがある臓器についてすら、ほとんど配慮していない始末である。だから、抗ガン剤などを使用して、こうなることになる。ガン細胞は確かに消失した。ところが、患者は苦悶の末、死んだ(注1)


--------------------------------
(注1) 近藤誠『新・抗がん剤の副作用がわかる本』三省堂、2004年、138頁以下の『「しこりは消えた、患者は死んだ」場合、どう評価するか』を参照のこと

新・抗がん剤の副作用がわかる本/近藤 誠

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第六章 vol.2 真理とは何か?

2009年06月23日 yanayuhの投稿
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 では、バートランド・ラッセル (Bertrand Arthur William Russell,1872~1970) を、僕の気まぐれで、ここに取り挙げてみよう。彼は、自身の著『哲学入門』(社会思想社1912)でこう問う。この机の本当の色は何色なのか、と。日中は、机の上に日が差している。黄色く見える。しかし、違う角度から見れば、机のこの表面は、深い茶色と見える。机は本当は何色なのだ? どれが本当の机の色なのだ?



さあ、これから、(西欧)学問の哀れな実態を垣間見よう。日常生活から乖離することで、学ぶということが全くできなくなってしまう。にも拘わらず、自分は「学」問をしていると思い誤っている。そんな惨めな、姿と戯言を僕たちはしっかり銘記しよう。同書p.7から引用する。


 わたしたちは日常生活で多くのものを確かであるように扱いますが、よくしらべてみるとそれらは明らかな矛盾に満ちていて、多くの思索をめぐらせてやっとほんとうに信じてよいものを知ることができるのです。

確実なものをつきとめるにはわたしたちの現在の経験から出発するのが自然ですし、またある意味では疑いもなく知識は現在の経験から導き出されます。

しかしわたしたちの直接経験が知らせるものについての言明は、どれも大変まちがいやすいものです。

わたしはいま椅子に坐り、ある形をした机に向い、その上にある、ものを書いたか印刷したかしてある数枚の紙を見ているように思われます。

頭をめぐらすと、わたしは建物や雲や太陽を窓の外に見ます。太陽は地球から約九三〇〇万マイル離れており地球より何倍も大きい熱球であり、地球の自転によって毎朝昇り、

これからもかぎりない時間にわたって昇りつづけることを、わたしは信じています。

だれか正常な知覚をもった人がわたしの部屋にはいると、かれは同じ椅子、机、本、紙をわたしが見るように見るし、わたしの見る机はわたしが手に抵抗を感ずる机と同じであることを信じています。

これらすべてのことはまことに明らかにみえるものですから、わたしの知力を疑う人に答えるとき以外にはのべるまでもないように思われます。

ですがこれらすべては合理的に疑えるので、そのどれもわたしたちがまったく正しい形式で述べたと確信できるためには、多くの注意深い議論を要するのです。



 可哀想に。《同じ》ものの間には違いがある。違うもの同士を、それらの間の違いという違いを全て含めて『足し算』すればいいだけである。そうすることが、《同じ》とすることである。実際、日常では誰でもそうしているのである。引用をこのまま続けよう。


 わたしたちの困難を明らかにするために注意を机に向けてみましょう。この机は、眼には長方形褐色で光沢があり、触れると滑らかで冷たく、また硬い。叩くと木の音がします。

この机を見たりさわったり、聞いたりした人はみなこの記述に同意するでしょうから、困難は起こりそうもないようです。ですが、もっと精確であろうとしますと、たちまちやっかいなことになります。わたしは、この机がどの部分も「ほんとうに」(really)同じ色をしていると信じていますが、

光を反射する部分は他の部分よりもはるかに明るくみえますし、また、ある部分は反射光で白くみえます。わたしが動くと光を反射する部分がちがってきますので、机の上の外見的な分布もちがってきましょう。

したがって数名の人が同時にこの机を見れば、そのうちのどの二人にもまったく同じ光の分布を見ることはないことになります。二人がまったく同じ視点から見ることはできないし、少しでも視点がちがえば光の反射の仕方が違ってくるからです。



 《それぞれ別々》なもの同士が《同じ》である。《それぞれ別々》なもの同士の間には違いがあってよい。《同じ》ものの間には違いがあるわけなのだ。特定の一人がこの机の、あのありようを見る。このありようを見る。そのありようを見る。それら机の見えようには違いがある。そのように、互いに違いのあるありようが、《同じ》当の机のありようなのである。違うもの同士を互いの間の違いという違いを全てひっくるめて『足し算』する。それらは、《同じ》机のありようなのだ。


また、複数の人がこの机を見る。それらの人が見ている机のありようには互いに違いがある。それら違いのあるありようが《同じ》当の机のありようであるのだ。引用は更に続く。


ここまでくると、わたしたちは哲学でたいていの困惑をひき起こす区別の一つの始まりにきていることになります。それは「外見」(appearance)と「実在」(reality)の区分、つまり事物がそう見えるところのものと実際にそうあるところのものとの区別です。

(略)哲学者がこういうものを知りたいという望みは実践家のそれより強いし、またこの問題に答えるむづかしさを、知っているために、実践家よりも困惑しています。



 日常生活では、違うもの同士を、それらの間の違いという違いを全て含めて『足し算』している。実践家も含め全ての人は、当の机のいろんな外見を、全て《同じ》としている。当の机は一人の人にも、いろんなふうに見える。また人によって、この机の見えようは違う。特定の一人に於いても、複数の人の間でも、当の机のありようはいろいろである。互いに違っている。そういうものが《同じ》なのである。


哲学者のような人たちがいる。彼らは根本的に考え間違っている。だから、このことが分からない。《同じ》机のありようは、いろいろであることが理解できない。彼らは、同じとは「互いに隅から隅まで酷似している」ことだと誤解している。当の机のありようは、一人の人に於いても、複数の人の間でも、「互いに隅から隅まで酷似している」はずだと勝手に妄信してしまっている。


つまり、(西欧)学問では、「原因が結果を生じさせる」という発想で事実を解釈しようとしているのである。「原因n」が「一つの何かn」を具体化する。例えば、鬱病という「一つの何かn」がある。それが脳内の「原因」によって具体化される。こうして、具体的な、あの人のあの鬱病症状、この人のこの鬱病症状、その人のその鬱病症状が存在することになっている、とするわけだ。


これら複数の個別具体的な、鬱病症状が、ここでは「外見」と呼ばれるものに当たる。それらはどれも全て、「一つの何かn」の具体化したものである。だから、「互いに隅から隅まで酷似している」のでなければならない。一方、鬱病なるものという「一つの何かn」が、「実在」と呼ばれるものに当たるというのである。


 机に戻りましょう。いまのべたことから机の色、または机のある特定部分の色ととくにいわれるような色はないことは明らかでする。

机はさまざまな視点からさまざまな色に見え、そのうちのあるものは他のものよりもほんとうにその机の色だと考える理由はありません。

またあたえられた同じ視点からでさえ、人工光線のもとや、色盲の人、青色眼鏡を掛けた人ではちがって見えます。暗がりで机にさわったり、机の出す音を聞いたりしても明るいところと同じですが、色の方は全然ありません。

この色は机に固有なものではなくて、机や見る人や机への光のあたり具合に左右されるものです。わたしたちが日常生活で机の色というときは、正常な観察者が普通の光線のもとで通常の視点から見る色を意味しているにすぎません。ですがほかの条件のもとであらわれる他の色も、ほんとうの色だといわれる資格があります。

ですから、えこひいきを避けるためには、机そのものが何か特定の色をもっていることを否定しなければならなくなります。



 この机の色について考える。いろんなところからこの机を見てみる。いろんな状況下で見てみる。そのいずれの場合で見える机の色も全て、この机の色である。


《同じ》ものの間には違いがある。違うもの同士を、互いの間の違いという違いを全てひっくるめて『足し算』してしまえばいい。


そのように『足し算』することで、予想できるようになる。これこれの状況下で、これこれのところから机を見る。すると、これこれのように見えるのではないか、などと。《同じ》とすること。それは上記したような『足し算』である。未来体験の予想の仕方を得ることなのである。


「そのうちのあるものは他のものよりもほんとうにその机の色だと考える理由はありません。」確かにそうだ。そうに違いない。全ての場合で、机は本当の机の色を呈している


「ほかの条件のもとであらわれる他の色も、ほんとうの色だといわれる資格があります」と彼は言っているではないか。にも拘わらず、その直後で彼はこう結論付ける。「ですから、えこひいきを避けるためには、机そのものが何か特定の色をもっていることを否定しなければならなくなります。」一転、「引き算」をしでかしてしまうわけである。


けれども、ここですべきは、『足し算』なのである。同じ机について考える。この机のあのありよう、このありよう、そのありよう。それらの間には違いがある。しかし、同じものは「互いに隅から隅まで酷似している」はずだ。


本物は、その「互いに隅から隅まで酷似している」ありようだ。机の色は、それに当たらない。だから、本物の机に属するものではない。「色は机に固有なものではな」い。「机そのものが何か特定の色をもっていることを否定しなければならな」い。彼はそう考え誤るのである。

(続く)


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第六章 vol.1 問題の錯誤その二〜〈異常〉と具合〜 

2009年06月16日 yanayuhの投稿
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6.問題解決法その二 ~正常か具合か~
a.〈正常〉について




 では、ここから以後、〈正常〉や〈異常〉について考えていく。〈正常〉や〈異常〉などこの世にありはしない。そんなものを(西欧)学問は捏造して、人にとっての問題が何であるか、誤解してしまっているのである。当人にとって、問題は、具合が悪いこと、である。


問題はそれのみである。これ以外に問題があるとすれば、何度も言っているように、次のものだけである。しようとすべきことをしようとしているか。しようとすべきではないことをしようとしないでいるか。この責任問題である。つまり、他人の具合の良し悪しの問題である。しようとすべきことをしない。しようとすべきではないことをする。それでは他人の具合が悪くなるのである。自分の具合は良いのであっても。



これら以外に問題はない。自分と他人の具合の良し悪しだけが問題なのである。しかし、「原因」がこの世に存在すると信じていると、ありもしない、〈正常〉や〈異常〉なるものを捏造してしまう。


あらぬ問題をこしらえあげてしまう。人にとっての本当で唯一の問題は具合が悪いことである。このことを理解し損ねてしまう(ここから以後、責任問題は横に置いておく)。そして、〈異常〉であることを問題としてしまうのである。〈正常〉なること、それが問題解決であると誤解するわけなのだ。





 以前、別の原稿で、〈正常〉や〈異常〉について説明した。それらは、何度も言うように、医科学などの(西欧)学問が勝手に自分の都合に合わせて捏造してきた線引きにすぎない。もう一度、ここで〈正常〉や〈異常〉という、事実にはありもしない架空の何かについて確認しよう。





 《同じ》ものは、《それぞれ別々》である。《同じ》であるこれらそれぞれ別々》なもの同士の間には違いがあってよい。実際、違いはある。例えば、眼前の双子について考えてみよう。彼らはとても似ている。しかし、《それぞれ別々》な者同士であることに変わりはない。


個として別々である。占めている場所が違う。更に、形が違う。色が違う。大きさが違う。眼、耳、鼻などのある位置が違う。臓器のある場所、色、大きさ、形が違う。


何度も言う。《同じ》ものの間には違いがある。違うもの同士を、それらの間の違いという違いを全てひっくるめて『足し算』する。この作業が《同じ》とすることである。決して、同じとは「互いに隅から隅まで酷似している」ことではないのである。





 さて、nについて考えてみよう。(西欧)学問でnについて研究しようとする。そして、nを複数、集めてくる。それら複数の《同じ》ものの間には違いがある。そこで、「nはどんふうにあるか?」と問う。眼前にある違うもの同士を、それらの間の違いという違いを全てひっくるめて《同じ》と『足し算』する



こうすることで、この正しい問いに答えるのである。けれども、「原因が結果を生じさせる」と人は間違って信じている。だから、「nとは何か?」と過った仕方で問うてしまう。本当は、「nはどんなふうにあるか?」と問わなくてはならないのに。


「nとは何か?」という間違った問いにはこう答えるしかない。「原因n」によって、どんな「一つの何かn」が方々に具体化されるか。nとはその「一つの何かn」が具体化したものである、と。この「一つの何か」こそ、イデアである。別名、本質、実体、形相、現出者、等々なのである。





 「一つの何かn」が方々で具体化するから、個別具体的なnが複数存在している、と解してしまう。だから、個同士がnとして同じであるとは、「互いに隅から隅まで酷似している」ことだと誤解してしまう。



つまり、「nとは何か?」と訊いて、眼前に、「互いに隅から隅まで酷似している」複数のnの集合を期待してしまう。(西欧)学問の元では、集めてきた複数の同じnは、「互いに隅から隅まで酷似している」のでなければならないのである。





 実際に、複数の同じnを集めてきた。ところが、それらの間には違いがある!だから、(西欧)学問に従事する者らには納得がいかなくなる。まさしく、目の前にあるのは、「互いに隅から隅まで酷似している」ものであるはずではないか。にも拘らず、目の前にあるものの間には、違いがある!


ここで彼らは、「本当のn」は何なのか、と考え込むことになる。違いのあるそれら全てが本当のnであるというのに。《同じ》ものの間の違いを認められないばっかりに、そう考え込んでしまう。ヨーロッパ的停滞の相を示すのである。


(続く)


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2009年06月06日 yanayuhの投稿
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d.間違った問題解決法を死守するために予防が提唱される場合



 「原因」の存在を信じる者は、
医科学などで、決定論を是が非でもしたい。
そして、そんな自分自身に都合の良い理屈を捏造するのである。


今、身体の中に「原因」がある。
それは苦と死を生じさせるものである。
しかし、あなたは今、まさに具合が悪くない。
具合の悪くない今は、



ただの「潜伏期間」であるにすぎない。



「免役機能」が低下していない今はただ大丈夫なだけだ。
しかし、一旦その機能が低下すると、たちまち、あなたは苦しみ出す。
この世の地獄に堕ちる!


「原因」を特定したいがために、
勝手に、こんな決定論を捏造するのである。
ありもしない機能をこしらえ挙げて。


しかし、こんな決定論で未来予想をするのは間違っている。
例えば、ガン細胞は、



具合の悪い人に比較的よくできる吹き出物



と考えるのが事実に合う。
具合の良い人にだってできるのである。
しかし、医科学ではガン細胞を死と苦の「原因」としてしまいたい。
そこで、



ガン細胞が身体の中にあっても具合の良い人を捕まえて宣告



する。
あなたには近いうちに、問題が生じる。



ガン細胞がそのうち、苦と死を引き起こす。



我々は「早期発見」してあげたのだ。
あなたはその恩に報いなければならない。



「早期治療」するべきだ、と。



一方、外科医は、別の考え方で、
ガン細胞を「原因」とする理屈を捏造するのだろう。





 彼らの問題解決法は、「原因」部分を取り除くことである。
臓器丸ごと摘出してまで取り除くのである。
僕が、



本当の身体の見方と呼ぶ問題解決法



を、僕たちは確認した。
それは、



具合の良い”誰か”の身体の物的なありようを手本にする



仕方だった。
具合の悪い人の身体の物的なありようも、
その手本のようになればいいのではないか。
そのようになった時には、具合も良くなっているのではないだろうか。


そう考えたのだ。
しかし、医科学では、



ガン細胞を取り除くために臓器丸ごと摘出



してしまう。
しかし、そんなことをしたのでは、
具合の悪い人の身体の物的なありようは、



手本のそれから余計かけ離れたふうになってしまうだけ



なのである。
医科学は始めに、ガン細胞が身体の中にあることをいけない
としたはずである。
具合の悪い人の身体の物的なありようは、



ガン細胞があるという点で、手本のそれからかけ離れている。



だから、この人は具合が悪いのである。
手本の人のように具合良くないのである。
そう考えたはずである。



にも拘わらず、臓器丸ごと摘出してしまうのだ!



そんなことをすると、
具合の悪い人の身体の物的なありようは、



余計、手本のそれからかけ離れたふうになってしまう。



だから、



具合も余計に悪くなると誰にでも予想できる。



実際、余計に具合悪くなる人が多いように聞く。



そして、実際のところ、そうであるからこそ、
外科医やその支持者たちは、
ガン細胞の「早期発見・早期治療」を主張するのだろう。
早いうちに見付けて、手術したのなら



まだ助かるかもしれない。助かったかもしない。



そう期待するのだろう。
だからこそ、ガン細胞をまだ小さいうちに見付けようと言うのだろう。
まだ、そんなにたくさんできていないうちに見付けようとするのだろう。


早期に発見すれば、手術するなりして、助かるに違いない。
そう希望を賭けて、ガン細胞の早期発見に努めているに違いないのである。


治療現場が悲惨である。
だから、外科医は必死に「早期発見・早期治療」を唱えるのである。





 しかし、再度、確認する。
ガン細胞を死と苦の「原因」と特定することは、



「原因」の特定の仕方としても間違っている



のだった。
具合の良い人の身体の中にもガン細胞が見付かるからである。
実際のところ、ガン細胞というのは、



具合の悪い人に比較的よくできる吹き出物にすぎない。



そう考えるのが事実に合う。
ガン細胞を早期発見しようとする。
しかし、ガン細胞が出来ている人全ての
具合が悪いのではないわけなのだ。
また近々具合悪くなるのでもないのである。


ただ、具合の悪い人には比較的よく
ガン細胞が見付かるということにすぎない。
具合が悪い時に、肌つやが悪くなっていることは多い。
それと事情は同じである。


肌つやが悪いからといって必ず、
体調が悪いわけではない。
必ず悪くなるのでもない。


ガン細胞も、身体の中に出来ているからといって、
その人が必ず具合が悪いというわけではない。
具合が必ず悪くなるというのでもないのだ。


ガン細胞は、身体の中にできる吹き出物である。
肌にできるものも含めて、



吹き出物は、どんなときに、比較的よく出来やすいか



考えてみれば良い。
具合の悪い時にできていることが多い
というだけのことであると気づくだろう。



「全ての馬鹿は詩人である」と仮定



してみる。
だからといってそのことだけから即、
逆もまた真なり、とはいかない。



「全ての詩人が馬鹿である」とは限らない



のだ。



百歩譲って、「具合の悪い人全てにガン細胞がある」と妄想



してみる。
しかし、
だからといって、



「ガン細胞がある全ての人が具合悪い」とは言えない



のである。
そう言い切れると思う過ちを犯すのは、
「原因」でものごとを解釈しようとするからである。


推理小説の元祖、エドガー・アラン・ポオに登場いただこう。
彼の『盗まれた手紙』で、デュパンは推理して語る。





さあ、これで判ったろう、ぼくの言った意味が。もし盗まれた手紙が警視総監の原理の範囲内のどこかに隠されていたら……換言すれば隠し方の原理が警視総監の原理のなかにあるものだったら……ほとんど問題にないくらい簡単に発見されたろう、ということの意味がね。ところがあの公務員は徹底的に瞞されてしまった。彼の敗北は、「大臣は馬鹿である。なぜならば彼は詩人として名声を得ているから」と推論を下したところから遠く始まった。あらゆる馬鹿は詩人である、というふうに警視総監は感じているんだな。そしてこのことから、逆に、あらゆる詩人は馬鹿であるというふうに推論したとき、彼は媒辞不周延のあやまちに陥ってしまったわけさ(注1)




(注1)『ポオ全集2』丸谷才一訳、東京創元社、p.504、ただし、一部、屋那が訳に手を入れた。


(続く)


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始めに既に違いがある

2009年05月30日 yanayuhの投稿
Theme: 記事を引用
突然変異というものがあることになっている。ところが、生物で突然変異など確認されたことは無い。例えば、ハエ一匹について、突然変異する様子を観察しえた研究などないのである。だから、こう解しておくべきである。もし少しでも誠実さというものに配慮するのならば、であるけれども。つまり、突然変異などという考え方が本当に正しいのか、まだ確認されていないのだ、と。にも拘わらず、ウィルスなどというものについては変異することを前提に話しを進めてしまっている。そうしておけば、得をする人もいるだろう。金銭面で。或いは、プライドの面で。


新型インフル、関西の集団感染は同一ウイルスか…遺伝子解読

 関西での新型インフルエンザの集団感染は同一のウイルスで起きたと考えられると、製品評価技術基盤機構と国立感染症研究所が29日、発表した。兵庫県と大阪府の感染者9人から採取したウイルスの全遺伝子を解読した結果で、今月8日に成田空港の検疫で見つかった患者のウイルスとは別系統という。


 分析したのは、今月16~17日に大阪府の4人と兵庫県の5人の患者から採取したウイルス。このうち大阪府と兵庫県の各1人のウイルスは全く同じだった。ほかの7人のも、このウイルスの遺伝子がわずかに変異したもので、同一の感染者から感染が一気に広がった可能性が高いという。

 世界で報告されている38人分のウイルスの遺伝子の変異から、関西で検出された系統は、4月下旬に米国東部とカナダで集団感染を起こした系統と、メキシコで流行の発端となったウイルスの中間に位置することも分かった。

 また、国立感染症研究所は29日、関西での感染は最初に確認された5月16日より2週間以上早い4月末に、発生していた可能性があるとの見解を明らかにした。

 全国の薬局約2200か所から毎日集めているインフルエンザ治療薬の処方量を分析した結果、4月28日に神戸市中央区で、5月1日に大阪府池田市、枚方市で量が急増していた。

 同時期は、季節性インフルエンザが既に収束しつつあり、新型インフルエンザの感染が始まっていた可能性が示唆されるという。

(2009年5月29日21時58分 読売新聞)



同じとはどういうことか。再度、このことを確認する。同じとは「互いに隅から隅まで酷似している」ことではない。けれども、そうだと学問では信じている。「原因」でものごとを解釈すると、そう妄信するしかなくなってしまうのである。


違いのあるものが同じ、である。本当はそうである。別の言い方をしてみよう。違うもの同士を、それらの間の違いという違いを丸々含めて『足し算』する。この作業が、同じとすることである。つまり、同じものの間には違いがあるわけなのだ。


例えば、このことをウィトゲンシュタインは、「家族的類似」という言い方で表現しようとした。家族は似ている。けれども、それら全てに共通して見付かる要素というのは無い。そういう要素があるから、家族は似ている、というのではない。そんな要素などない。それを見付けようとする必要もない。つまり、本質など探す必要はないと言った。このようにソクラテスに答えたのである。


ソクラテスは、蜜蜂を蜜蜂たらしめる形相 (エイドス) を求めた。徳を徳たらしめるそれ、敬虔を敬虔たらしめるそれを求めた。しかし、男の敬虔、女の敬虔、老人の敬虔、子供の敬虔、これらの間にはかなりの違いがある。これら全てに共通して見付かる要素などありそうにはない。けれども、形相というものがあるはずだ。それがどれにもあるからこそ、あの人の行為、その人の行為、この人の行為が、敬虔であると言える。にも拘わらず、形相が見付からない。そこで、ソクラテスは、「無知の知」と言ったのである。


同じとは「互いに隅から隅まで酷似している」ことではない。同じものの間には違いがあるのだ。


医科学は、新型インフルエンザウィルスと言っている。あの人、この人、その人から検出された。それらは同じである。だから、互いに隅から隅まで酷似している」のだと誤解しているのである。僕たちはそんな過ちはおかさない。違いのあるものが同じである。違うもの同士を、それらの間の違いという違いを丸々含めて『足し算』する。それが同じとすることである。このことをしっかり把握している。あの人のそれも、この人のそれも、その人のそれも、互いに違いを持っていて不思議ではないと予想できている。むしろ、それらの間に違いがないことの方が、ありえない位だと捉えているのである。


同じもの同士はそれぞれ別々である。《それぞれ別々》であるもの同士の間には余程ではない限り、違いがある。少なくとも、それぞれの在る場所が違う。形も違う。大きさも違う。色も違う。違いは挙げれば切りがない。このように違いのある《それぞれ別々》なもの同士。これらの違いという違いを丸々含めて『足し算』する。それが、同じとすることなのである。


先ず始めに、あのウィルス、このウィルス、そのウィルスという、具体的なものがある。それらの間には違いがある。それらを、互いの間の違いという違いを丸々含めて『足し算』する。同じとする。個が先、(同じとする) 分類はその後なのである。多様な個があった。それらを同じと分類した。そういうことである。だから更にこう言える。多様性が先、共通性はその後なのである、と。


新インフルエンザウィルスについて同じと言うとはどういうことか。元から互いの間に違いのある者同士を似ているとする。同じと分類する。『足し算』することなのである。


ところが、医科学はそのようには解しえていない。上記の記事から見てそう分かる。同じとは「互いに隅から隅まで酷似している」ことだと誤解している。そして、複数の同じ新インフルエンザウィルスを観察する。すると、それらの間に違いのあることが明らかになる。そこで、医科学者は、おかしいと思い出す。「互いに隅から隅まで酷似している」のではない! 何故だ、となる。そこで、変異したのだと言い出すのである。


違いのあるものが同じであるというのに。『多様性が先、共通性が後』であるのに。ここでした批判は、ダーウィンの進化論にも適用できる。
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