旧八女地区の八女市指定文化財の紹介
夜話 794 八女の鎌倉時代の土地争い
昭和五十九年十月二十五日付 八女市が有形文化財として指定したものに『室園文書』がある。
所有者は八女市前古賀野中120番地の室園知命。
「むろぞのもんじょ」とよむ。受取人が明白な古文書。室園家に所蔵されているのでこう読む。
この文書は、久留米藩士の矢野一貞が著わした『筑後国史』で紹介した極めて珍しく貴重な文書。
鎌倉時代の宝治二年九月十三日、上妻荘内の蒲原と次郎丸の地頭の安部泰房と名主(みょうしゅ)の吉田三郎との土地支配権の争いに鎌倉幕府が出した判決書である
鎌倉で出されたので「関東裁許状」と呼ばれる。
本文の終わりに「鎌倉殿の仰(おおせ)により、下知、くだんのごとし」とあるので「関東下知状」ともいう。
地頭安部泰房は惣地頭とよばれ関東御家人、名主吉田能茂は小地頭とも呼ばれ九州の名主級御家人である。
裁判のなかでに「西国の習慣として惣地頭が任命された土地には皆小地頭を置かれるのが慣例である」などと当時の行政の在り方などが述べられている学界でも有名な文書。
吉田能茂は八女市吉田に関係のある在地御家人で能茂の子孫が蒲原村庄屋重助その子孫が所有者室園家であろう。
また江戸期の人柱で有名な吉田庄屋の中島家も其れに関係ある子孫と言えよう。
なおこの文書はかって福岡県史資料でも誤読されたことがあった。
指定の際『福岡県史』『筑後国史』の間違いを正すことができた。
この文書の署名者の「左近將監平朝臣」は執権の北条時頼であり
「相模守平朝臣」は連署の北条重時であることが花押などにより判明した。
このへんの探究協力は友人紅雨亭の得意とするところ福岡県の誤りを発見したときは「万歳」と入れ歯がはずれんばかりに雄たけびした。
文化財専門委員会長として拙も饅頭の一折りを捧げ ともに喰らった。
敬称略
上 箱書 地頭職争論ニ付鎌倉殿与之御下文
宝治ニ戌申年与安政三丙辰年迄六百九年
形態 堅紙の続紙 巻子本 共箱
法量 22550mm×3545mm
川や海コンクール受賞
上津小一年 三浦みさき