熱く散って逝ったもののふ達のフォト列伝

各地で撮った写真とともに、我ら祖先のもののふ達の、熱き生きざまを書いています。

弘法大師御廟への道。左右に武将・大名の墓塔が居並ぶ(高野山)

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渡辺金太夫照戦国時代のもののふとしてはほとんど無名

信州出身ではないが、高遠城の合戦で武名を挙げ討ち死する。

家康家臣の、小笠原長忠の家臣だった金太夫

あの姉川の合戦でいっきに勇名を馳せ、信長より「日本一の槍の名人」と称えられる。

そんな猛者・つわものの生涯を追ってみました。

 

渡辺金太夫照(わたなべきんだゆうてらす 1532~1582)
戦国時代の武将。徳川家康の家臣・小笠原長忠配下の将。

姉川合戦での抜きんでた活躍で信長より「日本第一の槍」の感状を受ける。

天正21574)年、高天神城(静岡県掛川市)籠城戦で、武田勝頼に攻められ降伏、以後武田家に仕える。

年後、武田方の仁科盛信(信盛)配下の将として高遠城(長野県伊那市)に籠城、織田方と激戦、討死。享年51
                         
「金太夫、そちはかつて家康殿の家臣だったゆえ、ここで戦うは心苦しかろう。城を出て落ちるがよい」
「殿、それはあまりにむごい。この金太夫、武田に仕えて8年、決して二心はござりませぬ。このまま武田の、仁科・高遠軍の兵としてぜひ戦わせていただきたく、ぜひ!」

 

金太夫は熱願して、籠城する兵として立て籠もることを切望した。

そのひたむきさに感涙した盛信は、金太夫に自らの脇差を与え、一軍の将を命じた。

同じ頃、金太夫の旧主・家康は、織田方歩調を揃えて、駿河口から甲斐へ攻め入っていた。

 

盛信は金太夫の板挟みとなる苦しい立場を思いやり、情けをかけたのである。

しかし金太夫のもののふとしての武侠心は、10倍もの織田の大軍を向こうにまわし、真っ向から戦おうとする仁科高遠軍に溶け込んでいたのである
 

織田方の3万の大軍で高遠城の周囲は埋め尽くされていたものの、盛信以下、金太夫はじめ城兵の戦意は高かった。

盛信はその断固たるその決意を織田方に示さんと、なんと書状と黄金をたずさえて降伏勧告にやって来た使者の耳をそぎ落とし、突き返したのだ。

 

「おのれ、仁科の盛信、踏み潰してやるっ!」

激昂憤怒した総大将の信忠は自ら陣頭に立って猛然と力攻めしてきた。

 

高遠城の北・西・南は藤沢川と三峰川の流れがけずった急崖で城攻めはできない。

▼写真中央の森が高遠城址。西側からの遠望。

信忠は城の東側に森長可、滝川一益ら、歴戦の猛将を先陣に配して総攻撃を開始、戦闘は激烈をきわめた。


一方、仁科方。

この日金太夫は、城南方の法堂院郭口を手勢300ほどを率いて守備を固めていた。

攻め手は滝川一益。

「これはよき敵ぞ!」

と前面に躍り出た金太夫は、一丈三尺の大槍を水車の如く振り回し敵を震え上がらせた。

▼高遠城内

古書「高遠記集成」は記す。

「金太夫の働き、敵味方随一!」と。

 

攻坊戦の激闘10時間余、雲霞のごとき大軍を相手に城兵は刻苦奮闘した。

しかしついに、金太夫も、総大将・盛信も力尽き乱軍の中で戦死、城は落ちた。
 

今や桜の名所として天下に名高い高遠城跡に立って南西の方向に目をやると、三峰川の谷をはさんだ対岸に「五郎山」と呼ばれる緑に覆われた山を望める。

その山頂に、総大将だった五郎盛信の石像と石祠が祀られていることから五郎山と名付けられたという。

 

盛信像が立つ地から東へ尾根づたいにかなり急な山道を下っていくと、「四郎山」「三郎山」「二郎山」と名付けられた峰に、それぞれ石祠堂が祀られている。

 

四郎山は小山田備中守昌行、乱軍の中で戦死した盛信の重臣である。

木漏れ日降る中、峰をさらに下ると三郎山へ

これこそまさに、渡辺金太夫照を祀る石祠の置かれた峰なのである。

 

金太夫は信濃の出身でもなく、譜代の家臣でもなかった。

しかし傑出した攻防戦での武勇を地元の人たちは称え、「三郎山」としてここに祀ったのである。

 

さて、渡辺金太夫照は、どのようなもののふだったのか。

下の巻に続く

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大河ドラマ「西郷どん」に、橋本左内が登場した。

「まるで女性のような優しい感じの人だった」と西郷さんは云ったとか。

20年ほど前、左内のふる里・福井を訪ね、橋本左内にふれ、感動した。

今回、明智神社参拝の帰り、久々「左内公園」へ。

 

当時、橋本左内に感じ入った私は、とある会報にこんな寄稿を書いた。

 

………越前・福井市へ行った折、私は幕末の天才学者といわれた橋本左内の墓所を訪ねました。

市内の「左内公園」と呼ばれる公園の中央に、きりりとした精悍な顔立ちの橋本左内像が、左手に太刀を握ってそびえたっていました。

  

公園内の墓所に、「景岳先生之墓」と刻まれ、左内は家族の墓と並んで眠っていました

 

江戸で処刑された後、ここに移葬されたといいます。

また左内の自著「啓発録」の主旨を刻んだ石碑も建っていました。


 橋本左内は福井県の誇る大学者です。

地元の小中学生・高校生はその著「啓発録」は必ず読みなさいと、よく両親や先生から言われるとのことです。

 

左内は若くして越前藩の藩校・明道館を主宰し、洋学教育を推進、

また藩主・松平春嶽の政治顧問として江戸・京都を奔走して活動、

他藩の武士や学者と交流し、

幕末の政治の流れに大きな影響を与えました。

 

ところがその精力的な活動が大老・井伊直弼ににらまれ、吉田松陰らとともに安政の大獄で処刑されてしまいます。

なんと享年26。

▼東京・回向院の左内墓

世はその若き死をおおいに惜しんだといいます。

あの西郷隆盛も左内の死を知ったとき、

「ああ、貴き人物を!悲憤耐えがたき…」

と落涙しその死を限りなく嘆いたといいます。

 

また左内が投獄されていた江戸伝馬町獄舎の牢名主でさえ、若き左内の人格を敬い、

「かわれるものなら私が…」

と、その処刑を悲しんだとも伝えられています。
 

そんな左内の勉学ぶりはどうだったのでしょう。

幼い頃から寸暇を惜しんでひたすらまじめに勉学に努め、10歳で「三国志」全六十五巻を通読、15歳で「啓発録」を著したというのです。

 

そこには、
  
「去稚心=子供じみた甘えをしてはいけない」

「振気=無学を悔しく思い人に負けぬように努めよ」

「立志=自分の目標を定め勉強せよ」
  「勉学=優れた人物の行いを見習え」
  「択交友=自分が向上する友をえらべ」

 

5つの人としての、そして自分に言い聞かせるための心構えをこと説いています。

 

15歳にして! 

幼い頃からの寸暇を惜しんでの努力が単なる秀才を作るだけでなく、人間としても「極致」に近いところまで押し上げたのでしょうか。

 

友人については、

「自分の過ちを遠慮なく指摘してくれる友は大切にせよ」と

実に冷徹な目です。

「友人が最も大切!」

などとよくいう現代の若者たちにも充分通用する内容です。

 

左内のみならず、江戸時代・幕末の学者の多くは和漢の書物を幼い頃からひたすら読み習ったといいます。

 

新井白石、中江藤樹、二宮尊徳、そして吉田松陰、佐久間象山、それぞれの猛勉強ぶりの伝説はよく知られています。
 

「意味もよくわからず、強制的にマル暗記するのは苦痛なだけ」

「機械的な暗誦では、ますます勉強嫌いになってしまう」

 

などと、マル暗記中心の勉強を批判する人も多いのですが、後世に名を残した人物はそのマル暗記した内容を基礎にして発展・応用させ、自分の学問の領域を広げていったのです。


 頭脳の柔らかい10代の頃は暗記・暗誦が驚くほど出来ることは、私たち大人が一番よく知っています。

また「勉強すればするほど分からないことが多くなり、また勉強することになる」ということも、私たち大人はよく知っています。
 

お父さん、お母さん方いかがでしょう。

一度子供達とマル暗記を競ってみては?

負けるのは間違いなく親です。

勝った子供達は自分の記憶力・暗記力に自信を持ち、勉強に「やる気」が復活するかもしれません。

 

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⇒板垣信方 下の巻

信玄の信濃侵攻の佐久・上田平方面においても、信方は常にその先頭に立った。

上田平では東北信の雄・葛尾城主の村上義清と、上田原の合戦で全面対決、合戦の火蓋が切られた。

天文17(1548)年春のことである。

 

上田原の古戦場は、上田市中心街からは南西に位置する。

西流する千曲川に南から浦野川・産川が合流して注ぐ平地一帯で、今は人家と田畑が広く点在する田園地帯をなし、ほぼ中央に上田古戦場公園がある。

 

また上田電鉄別所線の上田原駅周辺でもあり、石久摩神社には「上田原古戦場」碑が立てられている。

古戦場の西に位置する千曲川岸壁の岩山・岩鼻の高台に登ると、眼下には、まさに「高見の見物」のごとく、古戦場を一望できる。

 

写真右手の倉升山が信玄の本陣が置かれた地。

左手に千曲川が流れ、すぐ手前の産川周辺に村上義清は本陣を構えた。

 

古戦場ルポはこのくらいにしておこう。

合戦は激烈を極めたのだ。

 

上田原の東西に陣構えした両軍の兵数はほぼ互角の七千、作戦も駆け引きもない力の限りを尽くす全面衝突の戦いであった

最前線に布陣した信方隊が鯨波の声をあげて突撃を開始、その勢いはすさまじく、村上勢の前面を突破、敗走する敵をさらに追った。

 

ところが大勝した安堵感からか、味方の軍勢と離れた状態のままで悠々と信方は首実検を行ったというのだ。

そこを村上勢に反撃急襲され、信方は乱戦の中、討ち死にした。

信方ともあろう歴戦の将が油断したのであろうか、詳細は定かでない。

 

「殿ッ、板垣様、板垣様が討ち死!」

「なに、信方が!」
さらに信方隊を援護するため加勢に向かった甘利虎泰も、才間河内守も討たれ、村上勢の猛反撃に信玄軍は逆に敗走、大敗を喫した。

幸い村上方も多くの将兵を失ったためか、猛追はなかった。

 

「甲陽軍鑑」によれば、阿鼻叫喚の白兵戦中、総大将・義清自らが信玄本陣に斬りこみ、義清・信玄は互いに馬上でわたり合ったといい、「両方(信玄と義清)、切ッ先ヨリ炎(火花)ヲ出シテ斬リ戦ウ」と記している。

信玄は数ヶ所に手傷を負った。

 

これが信玄の長い戦歴で、数少ない敗戦として知られる上田原の合戦である。

 

信方の墓所は古戦場写真の、ほぼ中央の田園に板垣神社として祀られ、2つの鳥居が配されている。

墓塔には信方が好んだと伝えられる煙草がよく供えられるという。

 

信方の他、一帯には村上方の武将の墓塔もあちこちに祀られ、合戦の熾烈さを今に伝えている。

 

この上田原の合戦では敗北した信玄だったが、以後気落ちすることなく、それまで信方が地道に築き上げていた信州侵攻の布石を着実に進めた。

 

5年後の天文22(1553)年、ついに村上義清の葛尾城を攻略、義清を北へ追って、東信一帯をほぼ支配下にする。

信方の生涯はまさに、信玄の信濃支配の、身を挺しての礎となったのである。 

 

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武田信玄の信濃侵攻は、諏訪頼重を滅ぼすことで一気に加速する。

その先鋒を担ったのが板垣信方であった。

その生涯を信玄に捧げたが如く上田原で最期を迎え、信濃の地に眠っている。

 

板垣信方(いたがきのぶかた 1485?~1548)
戦国時代の武将。武田信虎、信玄に仕えた重臣。

信形とも書く。信玄の傳役(もりやく)

武田二十四将の筆頭格で信玄の信頼厚く、しばしば総指揮を任される。

武田の諏訪郡の領国化にともない上原城城代・諏訪郡代となり、以後信濃侵攻の主導的役割を担う。

天文18(1549)年、葛尾城(坂城町)主・村上義清との上田原の合戦で奮死。

            ◆
甲府市の武田神社はかつての武田家の躑躅ケ崎居館跡が境内を成している。

祭神の武田信玄の絶大な人気で神社の参拝客は絶え間がない。

 

信方の屋敷は神社から南へほぼまっすぐ走る通称「武田通り」に面しており、信玄館に最も近く位置している。

今は「板垣信方屋敷跡」の標柱が立つのみだが、西隣は内藤修理、南に多田満頼、東に馬場信春屋敷と、音に聞こえた武田家重臣の屋敷が信玄館を守る楯のごとく軒を連ねていたことがわかる。


信方は信玄の父・信虎の代から仕えていた。

永正18(1521)年、甲斐に侵攻してきた北条軍を撃破した飯田河原・上条河原の合戦での軍功などが認められ、信虎より嫡男信玄(幼名勝千代)の傳役に任ぜられた。

 

ところがその後、信虎は信玄の弟・信繁を偏愛、信玄を疎んずるようになり、信方は難しい複雑な立場に置かれた。

「主君の意向を重んずるか、はたまた傳役として信玄を支え続けるか…」

 

そして天文10(1541)年、当主・信虎が突如駿河に追放されるという武田家内のクーデタが起こった。

父子の確執対立が甲斐国内を二分する大事件に拡大することを未然に防ぐためだったのか、それとも暴君とも噂された信虎を排除するためか、クーデタの原因は定かではない。

 

とはいえクーデタの主謀者は、信方と、同じ武田家の重臣・甘利虎泰で、二人は事前に入念な計略を立て、信虎に駿河へ休養に行くよう促し、ぬかりなく事を決行し成功したともいわれる。

信玄は血を流さずに当主の座を得、また弟・信繁と争うこともなかったのである。

 

事件後、信方は信玄から信頼を得て重臣の地位を不動のものにした。

信方は信玄より20歳ほど年上だったと考えられ、傳役としてまさに父的存在となっていた。

信方が体を張って主君をいましめたこんな逸話が伝えられる。

 

………父・信虎に代わって当主の座に就いた信玄は気が緩んだのか、政務をあまり見ず、詩会や遊興にうつつを抜かすようになった。

それをみた信方は一計を案じた。

 

病と称してしばらく出仕せず、その間師を得て、詩作を懸命に習得し出仕、信玄の前で漢詩を披露した。

信玄はおどろき激賞した。

 

しかし不思議に思い、五つ題を与えてみた。

信方は次々と見事な漢詩を作った。

信方は20日ばかりの間、漢詩を僧侶から学んだことを信玄に伝えた。

驚き感じ入る信玄に、信方は顔色一つ変えずこう直言した

 

「殿、父君を追放し、武田家当主の座に就いたのは何の為でござるか! この程度のことで遊興にふけるこの体たらくは父君以上の悪将ですぞ!」

 

国持ち給う大将は国の仕置、諸侍を諫め、他国をせめ取りて、父信虎公と対々にて御座候。お怒りならばこの信方を成敗あれ!」

 

さすがの信玄も信方の熱誠込めた諫言に深く反省し、その後は良き大将となるよう励んだという。

またこの頃、信玄の軍師的存在となる山本勘助を推挙したのは信方ともいわれる。

 

かくして武田の諏訪侵攻は、天文11(1542)年ころより本格化、同年秋、諏訪頼重を滅ぼして諏訪氏の居城・上原城(茅野市)を奪取、攻略に先鋒として尽力した信方を城代に任命、城と領地の支配を任せた。

 

上原城は、諏訪湖に注ぐ宮川流域に長く広がる諏訪盆地がよく見渡せる山城である。

城のふもとに「上原城諏訪氏館跡」という大きな石碑が立てられている。

 

この一帯は「板垣平」とも呼ばれ、信方は城代、また諏訪郡代として、屋敷を構えたことからの呼称という。

また屋敷周辺の集落には、「板垣屋敷通り」などの名が残っていて、初期の城下町が構成されていたことをうかがわせる。

信玄の信濃侵攻は、諏訪、松本平から佐久平、上田平にも向けられた。

まさに「甲斐の足長」であった。

その先鋒には信方が立った。

そして、東北信の雄・村上義清と上田平で激突する。

下の巻へ続く

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久々、福井市東大味の明智神社へ。

ところがなんと、さ来年は、ついに「大河光秀」だというのに。

光秀評判が最悪だった時代も、ずっと一貫して明智神社の堂守りをしていた土井内さんが亡くなっていた。

無念である。

電話で熱く光秀を語っていたのに。

13年も前になる。

明智神社の由来」という手作りの冊子を送っていただいた。

大河光秀の話は、きっと大喜びだったに違いないのに。

 

信長の越前一向一揆掃討戦の中で、光秀はそっと東大味の、西蓮寺周辺の住民を助けてやったという。

西蓮寺にはその文書が寺宝として保管されているという。

光秀は朝倉氏に仕えていたころ、この東大味に住み、後のガラシャ夫人ら娘達も世話になった人々の恩を忘れず、恩返しをしたというのだ。

信長に知れたら、大目玉を食らっていたであろうに。

本能寺の変の10年ほど前の話である。

 

そして光秀の評判をぐーんとあげるきっかけとなった、妻・煕子との夫婦愛の地、坂井市丸岡町の称念寺

東大味から北へ10㌔ほど。

因みに称名寺は、あの新田義貞の墓所として名高い古刹。

 

芭蕉はその明智夫婦愛の話を知り、後に門人夫婦に詠んでやった句。

「月寂びよ 明智が妻の はなしせん」

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              光秀も登場!

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信玄の「毒牙」にかかったのか。

頼重の情勢判断が甘かったのか。

 

戦国のもののふ達の雄叫びは切ない。

 

神職・諏訪頼重には、戦国大名としての野心も満々だった。

なのに、なぜ?

 

信玄の侵攻が緻密にして速かったとはいえ…。

 

諏訪頼重(すわよりしげ 15161542
戦国時代、諏訪一帯を支配した戦国武将。

上原城(長野県茅野市)を居城とした諏訪氏19代当主。妻室は武田信虎(信玄父)の妹。

諏訪大社の神職・大祝(おおほうり)も兼ねる。

信虎と呼応して上田・佐久方面に支配地拡大を図る。

しかし信玄が当主となった直後の天文11(1542)年、信玄と伊那の高遠頼継に急襲・挟撃され降伏、甲府にて自刃、享年27


若くして散った頼重の生涯を悼み、諏訪市四賀の頼重院(らいじゅういん)を訪れた者はみな、頼重の墓を支える巨岩を見て絶句するに違いない

斜め・左右・垂直に巨岩がすさまじく断裂しているのだ。

 

まさに「頼重無念の断末魔の叫びが裂いた」ごとく。

 

諏訪出身の作家・新田次郎氏もここに立ちつくし、おそらく息を飲んで詠んだ。

「陽炎や 頼重の無念 ゆらゆらと」

巨岩の傍らに氏の句碑が立つ。
 

頼重は天文11(1542)7月、甲府・東光寺において自刃した。

家臣が遺髪を持ち帰り上原城の近くに埋め、その地に頼重の菩提寺として頼重院が建てられた。
 

頼重が諏訪家の家督を継いだのは天文8(1539)年、24歳の時である。

その数年前から甲斐の国守で信玄の父・信虎と呼応して東信濃の上田・佐久方面へ支配拡大のため出陣するなど、諏訪大社の神職でありながら意欲的な戦国大名でもあった。

 

頼重が信虎の三女・寧々姫(信玄妹)をめとったのは当主の座についた翌年で、両家はいっそう結束を強めた。

 

天文10(1541)年、頼重は武田信虎・村上義清と連合して東信・海野平で海野棟綱と戦いこれを撃破、上野国に追った。

 

その後海野氏を支援して関東管領・上杉氏が佐久に大挙侵攻してくると、武田・村上は撤退したが、頼重は交戦せず単独で講和して、佐久に所領を確保した。

頼重はなかなかしたたかにして意欲的な戦国大名であった。

 

時に頼重25歳、義弟とはいえ信玄より年は5つ上、諏訪家の当主であり、一軍の将として実戦経験も信玄より数段勝っていたといえよう。

 

そんな折、突然武田家中の意外な事件が頼重のもとにもたらされた。

天正10(1541)年6月のことである。

「なんと! 信虎殿が追われたと?」

信玄は父・信虎を駿河に追放して家督を奪取したというのだ。

頼重はこれを甲斐侵攻の好機とみた。

 

ただちに府中(松本)・林城主の小笠原長時と甲斐韮崎まで攻め入り、武田と干戈を交えた。

また翌年2月には、頼重は小笠原・村上・木曽氏の信濃勢と呼応連合して甲斐への侵攻を図った。

信濃勢の動きを察知した信玄もただちに出陣して応戦、合戦は武田方優勢だったが決着はつかず双方引いた。

 

これが瀬沢の合戦である。

富士見町瀬沢の甲信国境に近いなだらかな斜面を、国道20号線がつづら折りする道筋一帯が瀬沢合戦の戦場といい、道沿いに合戦の碑が立っている。

 

かくのごとく信玄が家督を継いで以来、諏訪・武田家の関係は敵対・緊張状態だった「はず」なのだが。

 

ところがそれから数ヶ月間、頼重は武田の動向を警戒している様子がまったくないのがなんとも解せない、分からない。

信玄を甘くみていたのだろうか。

 

逆に信玄が先に動いた。

天文11(1541)年7月、突如国境を越えて、諏訪に攻め入ってきた。

しかも、

「何っ、頼継殿も!」

伊那高遠城主の高遠頼継と示し合わせての、長く策を練ってきた進攻だったというべきか。

頼継は頼重と縁戚関係にあったが、かねてから諏訪の神職と領国の奪取をねらっていた。

 

それを察知した信玄はひそかに頼継に接近、盟約を結んで、「頼重挟撃」の手筈を整えていたのである。

史書「守矢頼真書留」などによれば、頼重はこの間、信玄および頼継の動きをまったくつかんでいなかった。

あわてた頼重は居城の上原城から、すぐ北の桑原城へ移り兵を整えて反撃しようとした。

 

▼上原城址

 

ところがその動きが、味方に「お館さまが城から逃亡する!」と勘違いされるなどして、諏訪勢の戦意は一気に喪失した

城は瞬く間に包囲され、頼重は捕われの身となり甲府の東光寺に連行され幽閉された。この間の頼重の動向には当然ながら史家の評は手厳しい。

 

いわく「戦国の世にあるまじき甘さ」、

いわく「なんという慢心かつ油断」。

結果をみれば確かにその通りで、批判は容易であるが…。

それにしても、頼重は瀬沢合戦以後、信玄の動きにほとんど注意を払わなかったのは何ゆえか、不思議である。

 

頼重は桑原城から甲府へ連行され、東光寺にて20日間幽閉された

その間、信玄は全く顔を見せず。

頼重は死を覚悟した。

 

切腹するにあたり頼重は、酒と肴(さかな)を望んだところ、そのまま用意されてきた。

「なんと、武田の家は腹を切る作法を知らぬな。肴とは脇差しのことよ」。

とあざけり笑い、脇差しを取り寄せ、腹を十文字に切ってみごと自刃したという。

 

鎌倉以来の切腹の作法を若年27にして会得していたのである。

なかなか出来たもののふだった。

 

だからこそ信玄は強く頼重を警戒し、身内とせず、敵とみなしたということか。

 

檜皮葺・入母屋造、禅宗様式の仏殿が美しい東光寺は、武田神社の南東3キロほど、善光寺の北に位置する。

頼重死して22年後、この寺で幽閉され死んだのが信玄嫡子の義信である。

 

無念の死を遂げた2人は並んで眠っている。

 

早春の日、若き当主・頼重が闊歩した上原城そして桑原城を訪ねた。

特に桑原城の本丸跡はよく保存されていて、松の巨木が松籟を奏でていた。

眼下に諏訪・岡谷の市街地そして諏訪湖の全面、遠くには白銀の北アルプスを眺める絶景の山城である。

 

因みに頼重と側室・小見の方の間に生まれたのが諏訪御寮人で、頼重の死後信玄側室となり、後の武田勝頼を産む。

諏訪頼重・完

 

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ひょんなことから、AKB48のドキュメンタリー映画をDVDで見た。

泣けた、ほんとに泣けてしもうた。

 

秋葉原での最初の公演は20数人、観客はわずか7人だったとか。

 

それが7年後、初期のメンバーで残ったのは6人、それが7年後数百人のAKB48のメンバーに。

そして会場の東京ドームには観客5万人!

オープニング曲公演に入る直前の6人のメンバーの姿に涙、泣けた、涙した、不覚ながら涙腺崩壊した。

「ついにここまできた!」と泣く彼女らに、彼女らの辛苦に。

 

軽く、きわめて軽くAKB48なんぞを軽視していた、やれ総選挙、じゃんけん大会、フフーンと。

ただ騒いで、躍って、歌ってるだけ!と。

 

大震災の街で歌う彼女らに、草花や松ぼっくりを贈る小さな子供たち、その子らを抱きしめたかったと泣くAKB48のメンバーの涙にも、また涙。

 

そして「UZA」のものすごい速さのダンスにも驚愕。

いやぁ、涙とともに見直しました、

一度秋葉原に行かねば。

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武田勝頼⇒下の巻

 

長篠の合戦直後、勝頼は次のような通達を家臣に示している。

「これからは鉄砲が肝要。長槍よりも鉄砲を撃てる足軽を育てよ」

「弓鉄砲の鍛錬をしていない者を戦さに連れて来てはいけない」

また軍事に関する「各々ガ存ジヨリノ手立テ」を上申せよ、と家臣に意見を求めている。

決して大敗を落胆などして落ち込んでいないのだ

 

更に財務担当の御蔵前衆に諏訪の商人などを抜擢、財政の刷新をはかるなど、かつてない革新的な策を積極的に進めている。

 

そして家臣通達の第一条では、この準備は、

「来年尾張・美濃・三河へ進軍、信長と干戈を交え武田家興亡の一戦をするがため」

と明言している。

勝頼は消沈するどころか、信長に復仇の大兵を起こさんとただならぬ決意をしている。

 

そんな勝頼の動きを察知したのか、長篠合戦から2年後、信長は勝頼に使者を送った。

 

いわく、「長篠のことは水に流し和睦したい。そしてともに上杉を倒したならば、北陸一帯は『勝頼公御支配モットモナリ(甲陽軍鑑)』」

 

つまり信長は、「北陸一帯を勝頼に任せる」というのだ、なんという信長の低姿勢か。

しかし勝頼はこの信長の提案を敢然と拒否、逆に上杉と和を結んだ。

信長との再決戦を深く期していた勝頼としては筋の通った判断といえよう。

 

仮に信長と和を結んだとしても一時的のこと、いつかは信長と全面対決して雌雄を決せねばならないのだ。

この時の信長と絶縁した判断に対して、「勝頼は外交下手だった、情勢認識が甘かった」などと批判する論客もいるようだが、まったくもって結果論からの評である。

 

しかし武田をめぐる状況は甘くなかった。

上杉と結んだものの、東の隣国・北条とは離反となった。

 

信長との決戦に備えて天正8(1580)年には、鉄砲玉10万発を準備していたのだが、翌年、高天神城を家康に奪い返され、結局籠城していた城兵を救援出来ず見殺しにした。

このことが「勝頼無能論」に拍車をかけたといってもよい。

勝頼はしだいに追い込まれていった。

 

信州・茅野市の上原城。

武田氏が南信州を支配する要の城。

かつて信玄が滅ぼした諏訪氏の居城だった城

 

山城の頂からは眼下に諏訪平、彼方には諏訪湖・杖突峠を望める。

勝頼の祖父・諏訪頼重の居城であり、母・諏訪御料人の生まれたゆかり深い城である。

 

天正10(1582)年2月、勝頼は木曽義昌が信長と通じたのを知り、その討伐にこの上原城に出撃してきた。

 

ところがそこに、「駿河の穴山梅雪謀反!」の急報が。

「なんということか、義昌も穴山も、我が親族衆ではないか!」 

義昌の妻は勝頼妹、穴山梅雪妻は叔母であった。

 

かくして信州口から信長勢が、駿河口から家康が甲斐に攻め入ってきた。

勝頼は上原城から撤退、さらに新装したばかりの居城・新府城を焼き捨て、躑躅ヶ崎館も灰にして天目山に追いつめられ、わずかな家臣・家族とともに自刃し果てた。

 

上原城撤退からわずか3か月余

無残、無念としかいいようのない勝頼の死路である。

 

海音寺潮五郎氏は「武将列伝 武田勝頼」の中で、勝頼の最期についてこう記している。

勝頼の最期は、「あまりに悲惨な事実がつづくので、ぼくは書き続けるのに気が重い。読者諸君だってそうにちがいないと思うが、ぼくはがまんして書いています。がまんして読んでいただきたい」

その心情、私にも痛いほど伝わってくる。

 

多くの家臣が討たれ、離散していく中、わずかな勝頼勢に襲いかかる織田勢の前に、一人敢然と立ちはだかるもののふが躍り出た。

 

「殿(勝頼)、ここはみどもにおまかせあれ、お早く!」

と、土屋惣蔵昌恒は殿軍を引き受け、道幅の最も狭い地に立ちふさがって抵抗した。

藤のつるにつかまり片手で太刀をふるい、迫る敵を崖下に蹴落とした。

「土屋惣蔵千人斬り」の異名がうまれた所以である。

この鳥居畑の戦いの古戦場に、惣蔵の顕彰碑が川渕の断崖に立てられている。

だが、勝頼一行に最期のときが迫っていた。

 

勝頼最期の地は、山梨県甲州市大和の景徳院である。

境内の供養塔・自刃の地・辞世の句碑などが、その死の哀しみを誘う。

信長との再決戦までもう少しだった。

もう一度、勝頼と信長の大会戦、見たかったというは不謹慎か…

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武田信虎=暴君への疑問から、武田勝頼=愚将論への疑問へ。

これも父・信玄への、世のあまりの賛美論の裏返しといえるような。

映画「影武者」などでは、ただやみくもに突撃の采をふる哀れな勝頼が描かれていた。

ほんとうに、勝頼は愚将・凡将だったのだろうか。

 

武田勝頼(たけだかつより15461582

戦国時代の武将。武田信玄の四男。母は諏訪頼重の娘。

17歳の時、伊那高遠城主に。信玄の死後は武田家の実質的家督を継ぐ。

天正2(1574)年父信玄が落とせなかった遠江・高天神城を攻略するも、翌天正3年の長篠の合戦で織田・徳川軍に大敗。

その後武田家再興復活に尽力するも、天正101582)年、信長・家康軍に侵攻され甲斐・天目山で自害、武田家滅亡となる。享年37

             ◆

勝頼の評判・イメージは悪い。

父・信玄や信長と比較され、雲泥の差である。

長篠の古戦場へ行くと、武田軍戦死者塚を、「信玄塚」などと名付けられている。

 

とはいえ、かくいう私も、

「勝頼家督相続→勝頼高天神城を攻略→勝頼有頂天となる→よって長篠合戦大敗北→以来自暴自棄・無策→高天神城救援せず陥落→武田方に離反者続出→武田滅亡」

という漠然とした流れで、勝頼を「愚将・凡将」と思い込んでいた。

 

ドラマなどに登場する勝頼は傲慢・無能に描かれていたことが多く、その影響も大きかった。

一例を記すとこんな感じか。

▲武田陣営から、織田徳川連合軍の陣営を見る。馬防柵が復元されている。

▼同じく、織田徳川方から、正面の森で覆われた台地の武田陣営を見る。

………長篠の合戦真っ最中、劣勢の状況を憂慮した重臣たちは口々に進言する。

 

「殿、敵の柵と鉄砲には何か仕掛けがござりまする。味方に引けの合図を!」

「鉄砲なんぞ一度撃てばおしまいじゃ。恐れることはない。我が無敵の武田騎馬隊が柵の一つや二つ破れんでどうする!」

一笑に付す愚将・勝頼。

 

ところが結果は惨敗。

「無能な愚将」のイメージを決定づけているといってよい。

しかしほんとうに勝頼は愚かな凡将だったのだろうか。

 

静岡県掛川市高天神城跡
今は城下町の面影なく、田園の中に浮かぶ山城跡だが、戦国時代は、「高天神を制するものは遠江を制す」といわれたほどの要の城で、信玄もついに抜くことが出来なかった難攻不落の城を誇っていた。

 

だが信玄死去の翌年、これを勝頼は攻め落とした。
力攻めだけでなく、調略をも駆使しての攻略と聞いた信長は、
「若輩なれど
油断できぬ勝頼侮りがたし!」
と強く警戒した。

 

このころ信長が謙信に宛てた書状には、勝頼は「若輩に候といえども、信玄掟を守り、表裏たるべくの条、油断の儀なく候」と記されている。即ち「若輩だが、表も裏もある人物だから油断は出来ない」と。

 

信長が長篠の合戦において慎重に慎重を重ね、石橋を何度も叩いて渡るほどの作戦で臨んでいる所以といえる。

1敵の3倍の兵力、2数倍の鉄砲数、3騎馬軍団を阻止する馬防柵、4夜襲策、5味方の裏切りという偽情報を流すなどなど、あらゆる手だてを案出して、最強軍団に対抗している。

 

一般には、長篠において勝頼は、無謀な突撃を再三命じたため、鉄砲でバタバタと撃たれ、武田軍は壊滅したという印象である。

ところが合戦は、午前6時に始まり、信長方は3倍もの大軍、3000挺の鉄砲を擁しての猛攻を続けた。

 

本来なら2~3時間もあれば壊滅できるはずだ。

しかし武田軍が完敗・敗走するまでにおよそ9時間、この間互角に戦い続けている。

決してバタバタと撃たれ惨敗したわけではない。

 

戦死者数は武田方およそ1万、織田・徳川方ほぼ6千、いかに合戦が激烈で、いかに武田が奮戦したかを如実に物語っている。

決して勝頼は、がむしゃらに突撃命令を叫び続けていたわけではないように思える。

 

もし後詰めの穴山隊など武田一門衆が、いつも通りの作戦で突撃していたならば…。

いつもの武田軍団の合戦をしていたならば…。

 

勝頼の指令が、特に武田一門親戚衆へ行き届かなかったことが大きな敗因とも考えられる。

だが、「勝頼は遮二無二突撃を命じたゆえ、みな鉄砲の餌食となり壊滅」というのは、やはり結果論からのイメージではなかろうか。

 

とはいえ、古戦場を往くと、山県昌景、馬場信春、真田兄弟、内藤修理など、音に聞こえた猛将らの墓塔に次々と出会う…。

あまりの大敗の様相に改めて唖然とする。

まさに大敗惨敗だった。

▼武田方重臣・山県昌景墓所から敵陣を望む

 

だが勝頼は大敗を猛省している。

そして武田の根本からの再建策を本気で思案していた。

下の巻へ続く

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➡武田信虎・下の巻

事件は天文10(1541)年、突然起こった。

前年に諏訪頼重と和睦した信虎は、侵攻の矛先を東信濃・佐久平に向け、村上義清・諏訪頼重と連合して東信から海野棟綱を上野国へ追い、信濃にその支配勢力を伸ばしていった。

 

悠々と甲府に凱旋した信虎。

10日後、「駿河・今川公のご機嫌伺いをし、久々娘の顔をみてくる」と、駿河へ向かった。

ところが、甲斐を出国すると突然国境は閉鎖され、信虎に国境まで従ってきた将兵のほとんどがそこにとどまり、駿河へ向かう信虎はわずかな供ぞろえとなった。

 

「な、なにゆえかっ!」

と信虎は絶叫したが、家臣らは無言のまま。

「殿、さらばでござる」

の言葉が信虎の耳に届いたかどうか。

 

かくして信虎は追放された。

このクーデタは重臣・板垣信方、甘利虎泰らが中心となって練られた策謀だったというが…。

この事件の原因・背景はいまだはっきりしていない。

 

苛斂誅求な税による度重なる徴兵、家臣や領民への残虐な行為などの悪政に対して、多くの家臣らが信玄を擁してクーデタを策した、と私は思い込んでいた。

だが、先に見たように信虎は決して暴君ではない。

 

また、次男の信繁を偏愛、信玄の廃嫡を画策していたほどの父子不和が決定的となり、ついに信玄が決起したともいう。

 

「次郎(信繁)、前へ来い、盃をとらす」

「?!」

天文7(1538)年新年正月の祝宴で放たれた信虎の一声に、家臣ら満座息を詰めた。

嫡男の晴信(信玄)を差し置いて、信虎は真っ先の盃に次男・信繁を指名した。

しかもその日の祝宴にて、最後まで信玄に盃はなかった。

 

信虎公、子息晴信公(信玄)ヘ御盃ヲツカワサレズ。次男次郎殿(信繁)へツカワサルル(甲陽軍鑑)

これは追放事件の3年前であった。

 

ところがである。

信玄は、信虎を駿河に追った後、駿河での信虎の養育料を今川に提供していたという。

つまり、信玄と今川義元による綿密な共謀策だったのではという説も唱えられている。

戦国時代、親も子も兄弟も、重臣にも気を許してはいけなかった。

だが信虎は信玄や家臣らの動きを気付かなかった、見抜けなかったということか、慢心・油断していたというべきか。


甲斐を追われ駿河におよそ20年、桶狭間の合戦で義元が戦死すると、信虎は京へ上り公家などと交流して十余年を過ごしている。

決して不自由はしていない。

なにか、信玄の上洛を待ち望んでいたかのようにさえ思える。

 

信玄死して、京での信虎の「役目」がなくなったがごとく天正2(1574)年、信虎は信州・高遠城の三男・信廉のもとに身を寄せた。

 

信虎は、高遠で孫の勝頼とも対面したともいわれる。

しかしついに故郷甲斐の土を踏むことなく、高遠の地で没した。


信虎の墓所は高遠城址の東1㌔ほど、境内から高遠の街並みや伊那谷、中央アルプスを望める古刹・桂泉院にあった。

▲右端が仁科盛信位牌堂

 

これは意外だった。

だいたい「暴君信虎」がどこでいつ死んだかなど、まったく私は関心はなかったから。

しかし信州で亡くなっていたことは、親近感を得た。

 

高遠城で憤死した孫にあたる仁科盛信を祀る位牌堂から、境内をさらに奥へ進むと、そこに信虎墓所の立て札が。

かつて来たときはまったく見逃していた。

 

信虎の葬儀は、自身がかつて創建した甲府・大泉寺で執行されたという。

信虎は死してやっと甲斐に戻ったのである。

 

大泉寺の門前に「武田信虎之墓」の碑は大きく立つものの境内は閑散、奥深いところに、信玄・勝頼と並んで墓塔がたっている。

 

大泉寺の北西1キロほどの信玄を祭神とする武田神社のにぎやかさとは雲泥の差、いささか違和感を覚える。

 

甲斐のみならず、信玄賛美の声は古今東西絶大、過ぎる感さえある。

信虎が見直されるまでにはまだ時間がかかるのかもしれない。

第三話 武田信虎 

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