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国際派日本人養成講座よりの転載です。

http://blog.jog-net.jp/201607/article_4.html


最新の実証研究を通して、活き活きと描かれたわが祖先の姿に、中学生も深い共感を抱くだろう。


■1.懐かしい光景

 本年度から使用されている育鵬社の中学歴史教科書『新編 新しい日本の歴史』[1]を手にとって見て驚いた。大きさがA4版ほどもあり、カラー写真やイラストが満載で、非常にビジュアルになった。

 さらに同教科書を大人用に再編集した『もう一度学ぶ日本史』も刊行された。こちらの方は通常の単行本サイズで、縦書きで読みやすく、図版は減っているが、大人の歴史学び直しには最適だろう。以下、この本を「育鵬社版」と呼んで、紹介したい。

 育鵬社版は形式だけでなく、その記述内容においても、飛躍的な進歩が見られる。今回はその一例として、縄文時代の記述を見てみよう。

 縄文時代の項は、本文が「2 豊かな自然が育んだ日本文化の基盤・縄文文化」と題して見開き2ページ。さらに「歴史ズームイン 縄文時代探検!」のコラムが4ページと、合計6頁ものボリュームある記述となっている。

 東京書籍版(東書版)の中学歴史教科書のわずか2ページの記述に比べて、育鵬社版の特長を見てみよう。たとえば「どんな家に住んでいたのか」と題して、次のように述べている。

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 縄文時代の人々は、地面を掘りこんで床をととのえ、柱や梁(はり)などの骨組みをつくり、その上に土や茅葺(かやぶ)きの屋根をかぶせた竪穴(たてあな)住居をつくり、住んでいました。

 竪穴住居は、地面を掘り下げた半地下構造で、風の出入りを防ぎました。夏はすずしく、冬は暖かいつくりでした。しかし、現代の家のような窓はなかったので、昼間もうす暗く、家の中につくった炉(ろ)に薪(まき)を燃やして明かりや暖(だん)を取りました。

家の中にはおじいさんが坐っています。狩りや、外の仕事には行かず、留守番や子守をしながら、生活に必要な知恵を孫たちに伝えていました。[2, p14]
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 竪穴住居の中で人形のおじいさんが炉の前であぐらをかいて坐っている写真が添えられている。新潟県立歴史博物館で、同市の縄文時代中期の馬高(うまたか)遺跡を実物大の模型や人形で復元したものだという。


■2.原始人が建てた掘っ立て小屋?

 炉の前におじいさんが坐っている光景などは、つい数十年前まで日本各地の田舎で普通に見られた光景である。我々と血のつながった祖先が、この同じ日本列島で、数千年前から同じような生活をしていた事を想像すると、なんだか懐かしくなる。

 一方の東書版では、住居に関する記述は以下の一節のみである。

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 人々は集団をつくり、地面をほりくぼめて柱を立て、その上に屋根をかけた、たて穴住居に分かれて住みました。大人になったことを示す儀式として抜歯(ばっし)が行われ、また死者の霊の災いを防ぐためと思われる屈葬(くっそう)が行われていました。豊かな生産をいのるためと考えられる土偶(どぐう)もつくられました。[3, p29]
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 この記述では「たて穴住居」も、我々とは縁もゆかりもない原始人が建てた掘っ立て小屋という印象しか持てない。


■3.「祖先の霊とともに生きる」

 東書版の記述で奇妙なのは、「死者の霊の災いを防ぐためと思われる屈葬(くっそう)」という指摘である。わが祖先は自分たちの肉親が亡くなった後で、災いをもたらすようになるなどと、信じていたのであろうか。

 東書版では、同じく「縄文時代探検!」のコラムで、次のような一節がある。

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1.どんなところで暮らしていたのか

 村の中央には、亡くなった人を埋葬した墓を取り囲む広場があり、そのまわりに家や倉庫がつくられました。

 また、広場には村のシンボルとなる木柱が立てられました。[2, p14]
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 死者の霊が災いをもたらすなら、村の中心の広場に埋葬したりするだろうか。「東書版」の「死者の霊の災いを防ぐためと思われる」という記述は史実を無視した勝手な推測のように思われる。

 さらに、育鵬社版は、弥生時代の吉野ヶ里遺跡に関する「歴史ビュー」なるコラムで、次のような記述をしている。

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 外壕と内壕のあいだには100軒以上の竪穴住居跡が見つかっています。人々をほうむったかめ棺も2000個以上発見され、その配置の様子から、当時の人々が、祖先の霊とともに生きる気持ちをもっていたことがわかります。[2, p23]
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 100軒ほどの集落で二千個もの「かめ棺」を作るには、膨大なエネルギーを要するだろうが、それだけの労力をかけて亡くなった肉親を大切に葬ったのである。

「祖先の霊とともに生きる気持ち」とは、現代でも、家の中に仏壇を備えて亡くなった肉親を拝んだりしている事にも窺われる。日本人の死生観は、死者は草葉の陰で子孫を見守っている、というもので、それは縄文時代からの伝統だろう。


■4.「世界で最古の土器の一つ」

「縄文」という時代名称は、「縄目の模様(文様)」をつけた縄文土器からとられているが、それについて育鵬社版はこう記す。

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 縄文土器は、北海道から沖縄まで日本列島全体から出土しています。これは世界で最古の土器の一つで、縄文土器と磨製石器が使用されていた約1万5000年前から紀元前4世紀ごろまでを縄文時代とよび、このころの文化を縄文文化といいます。[2, p12]
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 東書版は「縄文文化」の項で、こう説明する。

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 日本列島の人々は、1万2000年ほど前から土器を作り始めました。これは木の実など植物性の食料を煮炊きして食べるために考え出されたもので、世界的に見ても古い年代とされています。[3, p29]
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 世界最古の土器と言われるのが、青森県大平山元(おおだいやまもと)遺跡から出土したもので、約1万6500年前。これはまだ模様のない無文土器だが、約1万4500年前ごろには、粘土ひもをはりつけた「隆線文土器」が生まれ、全国に広がっている。従って、約1万5000年前から、というのは、妥当な表現だろう。

 東書版は「1万2000年ほど前」というが、こういう最新の発見が反映されているのだろうか。育鵬社版が「世界で最古の土器の一つ」という点も、東書版は「世界的に見ても古い年代」というのみで、どうも東書版には日本文明の先進性をなるべく語らないように、という自制心?が働いているようだ。


■5.おばあさんの土器づくり

 育鵬社版で興味深いのは、その土器が縄文人の生活とどのように関わり合っていたかを具体的に記述している点である。

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3.土器はどのように作られたか

 土器は、煮炊きや水・食料の貯蔵のためにつくられました。土器づくりはおもに年配の女性の仕事でした。男性は外出することが多く、子育てをする女性も水くみや食料の採集・加工に忙しいので、おばあさんがムラに残り、孫たちにも土器づくりを教えました。

 土器づくりには手間がかかります。粘土を探し、精製し、こねて形をつくり、乾燥させ、野焼きをする---多くの工程と知識が必要です。それは、人々が移動生活から定住生活をするようになって、初めてできたことでした。[2, p15]
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 この説明文のそばに、おばあさんが火焔土器を作っている横で、幼い姉と弟が手伝いをしている展示写真がある。こういう姿からは、日本女性は大昔から働き者だった様子が窺えて微笑ましい。そういえば神話でも高天原の女神たちは糸つむぎをしていた。

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■6.日本列島の豊かな自然と暮らし

 その後の「4.どんなものを食べていたのか」の項では、縄文人たちの食生活が写真入りで詳しく説明されている。

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冬 毛皮をまとい、遠方の奥山まで、犬とともに狩りに出ました。シカやイノシシなどをつかまえると、黒曜石(こくようせき)のナイフなどで解体し、道具の材料となる皮、骨、角などと食料になる肉などに分けました。[2, p15]
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 同様に、春は近くの野山のゼンマイやワラビなどの山菜、夏は海辺で魚介類や海藻、秋は川をさかのぼるサケ、クリ、クルミなどの木の実、キノコ類などを採集していたことを説明し、それぞれ人形の写真を添えている。こうして見ると、現代日本人が和食として食べているものと、そう変わらないことが分かる。それは日本列島の豊かな自然の賜である。

 縄文時代の項の冒頭で、育鵬社版はこう記述する。

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日本列島の豊かな自然と暮らし

 氷河時代が終わった日本列島は、気候の温暖な温帯に属し、周囲には寒流と暖流が流れていました。クリ、ナラ、ブナなどの温帯の樹木が国土をおおい、トチやドングリなどの木の実やイモなどにめぐまれていました。また、川や海にはサケ、マス、タイ、カレイ、アジなどの魚や貝類、陸にはイノシシ、シカ、ウサギなどの動物も生息していました。[2, p12]
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 豊かな日本列島で、我らが先祖は自然の恵みをたっぷり受けて、多様な食生活を送っていたのである。健康的で美味しい和食は現代国際社会でも人気があるが[a]、その源流は豊かな日本列島の中で育まれた縄文人の食生活にあるのではないか。


■7.「我々の祖先が、どのようにこの世界で生きてきたのか」

 東書版が縄文時代を突き放したような冷たい視線で見ているのに比べると、育鵬社版の記述は、我々と血のつながった先祖の生活ぶりを具体的に、まざまざと描いている。

 育鵬社版の前書きで、編集会議座長の伊藤隆・東大名誉教授は「はじめに-日本史を学ぶということ」で、次のように述べている。
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 ・・・日本史を学ぶということは「自分自身とは何か」ということを確認するということでもあるのです。・・・

 いったい、私たちの祖先がどのような生活をし、どのような文化を育み、今日に至ったのかという軌跡のすべてが日本史です。・・・

 こうした我々の祖先が、どのようにこの世界で生きてきたのかを知ることが、日本史を学ぶということなのです。[2, p3]
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 本稿で紹介した縄文時代の記述だけで、伊藤隆氏のいう「私たちの祖先がどのような生活をし、どのような文化を育み、今日に至ったのか」を描き出そうとする努力が十二分に実っていることが分かる。


■8.そうそうたる研究陣による実証的研究成果

 それもそのはず、著者の中には小林達男・國學院大學名誉教授が入られている。小林達雄教授は『縄文文化の研究』全10巻の編著者であり、多くの縄文時代に関する一般書も執筆されている。さらに育鵬社版で展示写真が掲載されている新潟県立博物館の名誉館長でもある。

 こういう縄文時代の実証研究の第一人者が監修して、中学生にも分かりやすい形で当時の歴史と文化を語っているのだから、他社の教科書とは比較にならないほど、活き活きとした描写となっているのも当然である。

 小林達男氏の他にも、上述の近現代史の実証研究の重鎮である伊藤隆氏、武士道研究の第一人者・笠屋和比古・帝塚山大学教授、美術史研究の大家・田中英道・東北大学名誉教授、『外交官とその時代』シリーズで近代外交史研究で画期的な成果をあげた故岡崎久彦氏など、そうそうたる研究陣が育鵬社版の著作・監修に加わっている。

 東書版と育鵬社版との違いは、旧来の左翼的先入観で歪められた歴史教科書と、最新の実証研究の成果を取り入れた歴史教科書との違いと言うべきである。

 そういう実証研究を通して、活き活きと描かれたわが祖先の姿には、中学生も深い共感を抱くだろう。それこそ歴史教育の眼目である。そういう歴史教科書を執筆した著作者各位に深甚の敬意を捧げたい。
(文責:伊勢雅臣)

■リンク■

a. JOG(757) なぜ日本食は世界で人気があるのか
 数世代、数百年かけて伝えられる技術と伝統がその原動力。
http://blog.jog-net.jp/201207/article_5.html

b. JOG(740) 歴史教科書読み比べ(2)~ かけ離れた縄文人の自画像
 二つの教科書に描かれた縄文人の姿は、こんなにかけ離れている。
http://blog.jog-net.jp/201203/article_3.html

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