邪馬台国と日本書紀の界隈

邪馬台国熊本説にもとづく邪馬台国・魏志倭人伝の周辺と、一から始める日本書紀研究について
ぼちぼちと綴っていきたいと思います。


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 今年(平成29年)の初めから2回にわたって、卑弥呼が魏に対して最初に使いを送ったのは、景初(けいしょ)二年か?三年か?」というテーマの会に参加する機会がありました。それまで、両説が存在することは知っていましたが、特に問題視することなく読み飛ばしていた個所でした。しかし、調べてみるとこれがなかなか奥の深い問題であることを痛感しました。そこで、この機会に自分の考えをまとめておく必要性を感じ、私なりの結論を出しました。

 

 結論からいうと「景初二年」が正しいと思います。

 まず、「魏志倭人伝」の記述から考えます。「魏志倭人伝」は、景初二年(238年)六月に倭の女王が大夫の難升米(なしめ)らを帯方郡に送って天子(明帝)に朝献することを求めたと述べます。そこで、帯方郡の太守であった劉夏(りゅうか)は役人達を同行させて京都(洛陽)に送り届けます。そして、その年の十二月に明帝は「親魏倭王卑弥呼に制詔す、云々」というかの有名な詔書を下し、その中で卑弥呼に金印紫綬を、難升米らに銀印青綬を仮授し、様々な下賜品を与えて帰らせると告げています。

 「魏志倭人伝」は続けて、正始(せいし)元年(240年)に帯方郡太守の弓遵(きゅうじゅん)が梯儁(ていしゅん)らを倭に遣わして、詔書、印綬、下賜品などを倭王に渡し、倭王はそれに対して感謝の上表文を返したと記しています。

 しかし、この二つの記事の間に重大な出来事が発生しています。魏の明帝が景初三年(239年)正月に突如崩御するのです。その崩御をうけて、すぐに皇位を継いだのは少帝(斉王芳:明帝に子はなく、斉王を養育していた)です。

 時系列に並べると次のようになります(私の想像も含んでいます)。

 

【238年】

春頃? 卑弥呼の遣使である難升米一行が倭国を出発し対馬海峡を渡る

6月  難升米一行が帯方郡に到着

帯方太守劉夏が役人に同行を命じて一行を洛陽へ向かわせる

難升米一行が洛陽に到着

12月 明帝が卑弥呼に詔を下す

卑弥呼や難升米らに印綬を仮授

    多くの品々を目録を添えて下賜

    →難升米一行が詔書、下賜品を携えて帰路につく

 

【239年】

1月  明帝が崩御

    少帝が皇位を継ぐ

    魏が喪に服す

夏頃? 難升米一行が春~夏に対馬海峡を渡って帰還

 

【240年】

早期(もしくは前年のうちに)

    明帝が仮授していた金印紫綬・銀印青綬が帯方郡に到着

    少帝の詔書と新たな下賜品が帯方郡に到着

    帯方郡の太守が劉夏から弓遵に代わる

    梯儁一行が上記の品々を携えて帯方郡を出発

夏頃? 梯儁一行が春~夏に対馬海峡を渡って邪馬台国に到着

    卑弥呼に謁見し品々を渡す

    卑弥呼から感謝の上表文を受け取る

 

 これを見る限り何の違和感もありません。「魏志倭人伝」自体が卑弥呼の朝献を「二年」であるとしていますし、逆に「三年」であるとすると様々な気になる点が出てきます。

(1)「三年(239年)」であるとすると、239年の早い時期(6月に帯方郡に到着できる時期)に倭国を出発しなければなりませんが、その時点で1月に洛陽で崩御した明帝の情報を入手し、対応できたとは考えられません。

一説には明帝に宛てた品々をそのまま少帝宛のものとしたという考えがあります。しかし、それらは物品のみだったとは思えません。後の梯儁一行へ上表文を渡したところをみると、当然倭国には文字を理解し書ける人たちがいたことは明らかで、そうであれば明帝宛にしたためられた文書も同梱されていたはずです。そのまま少帝に奉るのは失礼でしょうし、それを勝手に書き換えることもできなかったと思われます。やはり、「二年(238年)に明帝宛の献上品が、明帝に届けられたと考えるのが自然です。

(2)「三年(239年)」であるとすると、なぜ難升米一行は梯儁一行と一緒に帰還しなかったのでしょうか。

 「魏志倭人伝」は難升米一行の記事と梯儁一行の記事は明らかに別の事柄として記しています。しかし、難升米らが239年(秋〜12月)に洛陽で少帝に拝謁したのであれば、対馬海峡を渡って帰還するのは240年の春から夏の頃だったでしょう。それは梯儁らが来倭した時期とほぼ重なります。当時、対馬海峡を渡るのは主に天候の穏やかな春から夏にかけてだったと考えられるので、ほぼ同時期と推測されます。すると、二つの一行は帯方郡からは一緒に行動するのが合理的だと思うのですがいかがでしょうか。

(3)「三年(239年)」であるとすると、梯儁の一行が持ってきた新たな詔書と新たな下賜品の説明がつきません。

 難升米らは洛陽で皇帝から詔書と下賜品を受け取り、それを持ち帰ったのは明らかです。

 それは詔書の内容が物語っています。卑弥呼への金印紫綬と難升米らへの銀印青綬は仮授(仮に与えた)されたものですから、その場では現物を与えられたわけではなく後に正式に渡されるものです。おそらく梯儁らが届けた「印綬」がそれにあたると思われます。

 しかし大量の下賜品は装封して難升米らに渡すと明記されています。物品の種類と数量まで事細かに記されています。そして、それが届いたら目録と照らして受け取り国中にそれを示せと続けています。だから、下賜品とともにその内容が記された詔書も一緒に渡されたことは間違いありません。

 すると、梯儁らの届けた詔書と下賜品は一体何なのでしょうか。少帝がほぼ同時に二度も詔書と下賜品を倭に与えたというのはとても不自然です。やはり、難升米一行が持ち帰ったものは「二年」に明帝からもらったものであり、梯儁が届けた印綬以外の物品・詔書は少帝からのものであったと考えるのが妥当ではないでしょうか。

 

 しかし、「三年」説が出てきた背景には、二年(238年)であれば遼東で司馬懿(しばい)と公孫淵(こうそんえん)が交戦中だったという状況があります。その混乱の中を難升米一行が洛陽に行くことは不可能だったのではないかというわけです。次は大陸側の状況を考えてみます。(続く)

 

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