邪馬台国と日本書紀の界隈

邪馬台国熊本説にもとづく邪馬台国・魏志倭人伝の周辺と、一から始める日本書紀研究について
ぼちぼちと綴っていきたいと思います。


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 私の唱える「邪馬台国熊本説」の中核をなすのが、「魏志倭人伝」後世改ざん説というものです。

 私は、不彌国から投馬国への行程「水行二十日」、投馬国から邪馬台国への行程「水行十日 陸行一月」の日数部分に、陳寿(ちんじゅ)が撰した『三国志』原本では、具体的な里数が記されていたと考えています。その里数が、後世、宋の時代に『後漢書』が完成した後、日数に書き換えられたと考えるのが、「魏志倭人伝」後世改ざん説の主旨です。もちろん、陳寿の原本が発見されない限り立証しようがないのですが…。

 

 現在、私たちがよく目にする『三国志』は、南宋の紹興年間(1131~1162年)に刊行された「紹興本(しょうこうぼん)」や紹熙年間(1190~1194年)に刊行された「紹熙本(しょうきぼん)」が元になっています。この時代に、やっと版本として刊行されるのです。陳寿が『三国志』を撰述したのは280年代とされますから、その後約900年にわたっては主に写本という形で書き写され伝わっていたわけです。

 また、現在私たちがみる『三国志』には裴松之(はいしょうし)の注が付いています。裴松之が『三国志』に膨大な注を付けて皇帝に献じたのは、429年とされています。つまり、この時点で陳寿オリジナルの『三国志』は一度リセットされてしまい、これ以降は裴松之注釈版『三国志』が写本の原本となっていったのです。

 この時、裴松之が陳寿の原本に何らかの意図的な変更を加えたとは私は思いませんが、結果として『三国志』には注釈という大幅な加筆がなされたというのは否定しようのない事実です。

 加えて、写本に誤字・脱字は付き物です。正確な数字は示せませんが、かなりの頻度であったと考えられます。また、度重なる写本時には、意図的な書き換えもあったと思っています。政治的な圧力などもあったでしょうし、後世の判断基準の違いなども少なからず影響を及ぼしただろうと思います。

 

 では、本当にそのような書き換えなどが行われることはあったのでしょうか。

 

 実は、写本については現在までに中国の西域で少なくとも6点が見つかっています。そのうちの一つの図版が手元にありますので、それについて見ていきましょう。

 下の写真は、敦煌(とんこう)の莫高窟(ばっこうくつ)から発見されたといわれる『三国志』「呉書」巻第七の步騭伝(ほしつでん)の一部です。1996年~1997年に開催された展覧会「砂漠の美術館―永遠なる敦煌」の図録に掲載されたもので、「邪馬台国図書館」館長の笛木亮三氏から提供いただいたものです。

 

■『三国志』「呉書」步騭伝の写本

「砂漠の美術館―永遠なる敦煌」展図録(朝日新聞社発行)より転載

 

 

 美しい隷書体で記されています。これが、1500年以上も前に書かれたものだと思いを馳せるだけで、感慨深いものがあります。

 そして、出土した写本の記述部分は、現在に伝わっている『三国志』では以下のようになっています。(漢文は「三国志全文検索」サイトから転載させていただきました)

 

解患難、書數十上。權、雖不能悉納、然時采其言、多蒙濟賴。

赤烏九年、代陸遜、爲丞相。猶誨育門生、手不釋書、被服居處有如儒生。然、門妻妾服飾奢綺、頗以此見譏。在西陵二十年、鄰敵敬其威信。性寬弘得衆、喜怒不形於聲色、而外肅然。

十一年卒、子協嗣、統騭所領、加撫軍將軍。協卒、子璣、嗣侯。協弟闡、繼業爲西陵督、加昭武將軍、封西亭侯。鳳皇元年、召爲繞帳督。闡、累世在西陵、卒被徵命、自以失職、又懼有讒禍、於是據城降晉。遣璣與弟璿、詣洛陽、爲任。晉、以闡爲都督西陵諸軍事、衞將軍、儀同三司、加侍中、假節領交州牧、封宜都公。璣、監江陵諸軍事、左將軍、加散騎常侍、領廬陵太守、改封江陵侯。璿、給事中、宣威將軍、封都侯。命車騎將軍羊祜、荊州刺史楊肇、往赴救闡。孫晧、使陸抗西行、祜等遁退。抗、陷城、斬闡等。步氏泯滅。惟璿、紹祀。

潁川周昭著書、稱步騭及嚴畯等曰「古今賢士大夫所以失名喪身傾家害國者、其由非一也。然、要其大歸、總其常患、四者而已。急論議一也、爭名勢二也、重朋黨三也、務欲速四也。急論議則傷人、爭名勢則敗友、重朋黨則蔽主、務欲速則失德。此四者不除、未有能全也。當世君子能不然者、亦比有之、豈獨古人乎。然、論其異、未若、顧豫章、諸葛使君、步丞相、嚴衞尉、張

(※一部、写本では欠損している文字があります)

 

 この写本は東晋時代(317年~420年)のものであると推定されています。

 その根拠は二つあります。

 一つは裴松之の注が付されていないことです。現在に伝わる『三国志』(以下、現『三国志』)では、写本の2行目6文字目からの「赤烏(せきう)九年」の前に、『呉録』から引用した注釈が付されています。写本にはそれがありません。429年に裴松之が注を献じてからはそれが写本の原本となっていったと思われますから、この写本はそれ以前の可能性が高いと考えられるのです。

もう一つは「瑁」という人名です。步騭の子である協(きょう)の子の璣(き)の弟が(ぼう)とされています。この步騭の孫の歩瑁(ほぼう)は、現『三国志』では「歩璿(ほせん)」となっています。これは、避諱(ひき)という皇帝などの諱(いみな)を使用するのを避ける慣習によるもので、東晋の元帝である司馬睿(しばえい)の「睿」を避けて、歩璿を歩瑁としたものと考えられます。つまり、それは東晋代の写本であるという証拠といえるのです。

 そして、ここで改めて確認しておきたいのが、避諱も意図的に人名を変えるのですから、明らかに後世の書き換えの一種とみることができるということです。

 

 また、この東晋時代の写本と現『三国志』では明らかに異なる部分が他にもいくつかあります。

 この図版の解説文(王恵民氏/勝木言一郎氏訳)で、「あきらかにこの写本が正しいことがわかる。この点だけでも、この写本の価値の高さは誰の目にもあきらかである」と強調されるのは、「遣璣弟、詣洛陽、爲任」の部分です。

 

 これには少し説明が必要です。

 步騭は赤烏9年(246年)に陸遜りくそん)の後を継いで呉の丞相となります。しかし、翌赤烏10年に亡くなり、子の歩協が後を継ぎます。そして、歩協が亡くなった後、子の歩璣が侯の爵位を継ぎ、(歩協の)弟の歩闡(ほせん)が西陵の任を継ぎ西亭侯に封じられます。その歩闡ですが、鳳皇元年(272年)、中央に召され繞帳督(ぎょうちょうとく)に任じられることになったとき、職を奪われるのではと疑い恐れて敵方の晋に投降します。その際、現『三国志』では、「遣璣與弟璿、詣洛陽、爲任(歩璣と弟の歩璿を洛陽に向かわせ、人質とした)」とされます。ここが写本とは異なるのです。写本には「遣璣與弟璿」の「與(~と~の意)」という文字がありません。遣璣弟瑁(歩璣の弟の歩瑁〈=歩を遣わし)」であり、洛陽で人質となったのは、瑁(歩)一人であったと記しているのです。

 

 史実を追いかけますと、歩闡は晋に寝返りますが、当然のことながら呉の孫晧(そんこう)が許すはずがありません。陸抗(りくこう)の討伐軍を派遣して城を落とし歩闡らを斬り殺してしまいます。

 続けて記されるのが次の一文です。

步氏泯滅。惟璿〈〉、紹祀。(歩氏一族は全滅し、ただ一人歩璿〈〉のみが生き残り祭祀を継いだ)

 この文は、写本と現『三国志』ともに一致しています。これを信じると、洛陽にいて難を逃れたのは歩璿(歩)だけです。現『三国志』が語るように、歩璣と歩璿の兄弟二人が洛陽にいたとしたら二人とも生き残るはずですが、そうはなっていません。だから、図版の解説文で王氏が語るように、写本の方が真実を語っていることがわかるのです。

 

 古い写本の「遣璣弟瑁(璿)」が、いつどのような経緯で現『三国志』の「遣璣與弟璿」になったのかはわかりません。逆に「遣璣與弟璿」が「遣璣弟瑁(璿)」になったというのなら、単なる「與」の脱字であると考えることもできるでしょう。

 しかし、わざわざ「與」を挿入したということであれば、写本者は明らかに「人質となったのは弟の瑁(璿)だけでなく、兄の璣も一緒に人質となったのだ」と認識していたということです。そして、それは後世の意図的な考えのもとに書き換えが行われたということです。つまり、後世の改ざんの一例と見ることができます。

 このように、写本に残ったわずか25行の記述の中にも、歴史の解釈を左右する相違点(書き換え)が存在するのです。(続く)

 

▼▽▼邪馬台国論をお考えの方にぜひお読みいただきたい記事です

邪馬台国は文献上の存在である!

文献解釈上、邪馬台国畿内説が成立しない決定的な理由〈1〉~〈3〉

 

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拙著『邪馬台国は熊本にあった!』(扶桑社新書)

 

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