2004-09-14 15:20:03

イージーゴーイング

テーマ:イージー・ゴーイング
 何年か前のことだ。三十代の女性の友達が、お茶を飲みながら言った。
「急に目の前にカーテンがおりてきたような感じなの。何を食べても、砂を噛むようでちっとも味がしないし」
「疲れてるんだよ。ちょっと休めばよくなるって」とぼくは答えた。
「でも、大切な仕事もあるし」
「じゃあ、その仕事をやってしまってから休む、と。頑張れよ」
 彼女は、曖昧にうなずいた。
 後でわかったことなのだが、彼女は鬱病の初期症状だった。そういう状態にある人に「頑張れ」という言葉をかけるのはいちばんいけないことなのだそうだ。プレッシャーになってしまうからだ。
 それを知った時、ぼくは激しく後悔した。だが、もう遅い。文章を書くことを仕事としているくせに、言葉がある種の物質的な力を内に秘めているのだということを、ぼくは初めて思い知ったのだった。誰かと話す時自分が発する言葉に注意を払うようになったのは、その時からだという気がする。
 考えてみれば、たいへんな思いをしているのは、ぼくの知人のその女性だけではない。こんな時代だ。今日一日を過ごすだけでも、たいへんなエネルギーを必要とする。経済不況で仕事がないとか、株価が暴落したとか、お金の話ならまだいい。貧乏であることを恥じる必要なんて、個人にも国家にもぜんぜんないと思うのだ。
 そうではなくて、これがはっきりとした自分だ、というものがないから不安が生じる。自分らしく生きているだろうか。その前に、自分ってものがここにちゃんと存在しているだろうか。自分と友達を隔てるものが、ちゃんとあるのだろうか? 自分という存在が独特の個性を持っていて、その個性を愛してくれる人がいて、だからこそ生きていく価値がある。それがなければ、生きていく意味なんてゼロだ。でも、そんな個性を自分は持っているだろうか。
 一九五三年に遺伝子というものが発見され、人間もまたコンピュータのように情報の集積にすぎないのだということが証明された。喜びも怒りも悲しみも、単なる脳内現象にすぎない。遺伝子を改良されたジーンリッチと呼ばれる人達が、既に生まれてきているのである。そんな今、はっきりとした自分を感じとるのは至難の業だ。
 ありのままの自分を認める。明日のために今日を犠牲にして頑張るのではなく、今を大切にする。それこそが、もっとも大切なことなのだ。もう、誰も頑張る必要なんかないのではないだろうか。ぼくは、そう思う。
 たとえば誰かが、作家を目指している。でも、なかなか原稿が進まない。この頃ぼくはそんな相談を、よくメールで受ける。何と答えてあげればいいのだろうか。あなたの恋人が深夜電話をかけてきて、会社の仕事がうまくいかないで、いっそのこともう退職してしまいたいな、と漏らす。その時あなたは、どんな言葉をかけてあげればいいと思いますか? 今のぼくなら、こう答えるだろう。
「無理しないでね」
 そんな時にかけてあげる言葉こそが、その人の個性なのだと思う。コミュニケーションがなければ、誰も生きてはいけない。
PS ところでぼくの女友達は、その後ずいぶん良くなっていい仕事をしている。

※「イージー・ゴーイング/悲しみ上手になるために」は10月末に単行本として刊行される予定ですが、その中でこの最初の項目だけは「ダ・ヴィンチ」に掲載され、「君へ。 つたえたい気持ち三十七話」(ダ・ヴィンチブックス)に収録されました。他はすべて書き下ろします。

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2004-09-13 13:07:52

イルカのように泳ぐことができないあなたへ

テーマ:イージー・ゴーイング
<はじめに……イルカのように泳ぐことができないあなたへ>
 ぼくらはイルカのように自由に泳ぐことができない。
 鳥のように空を飛ぶこともできない。
 ネコのように気儘な一日を過ごすことさえできない。
 だから海の深さに想いを馳せ、空の青さに憧れる。
 そして時々、伸びをするネコに向かって、こんなふうに呟いてみたりするのだ。
「こんな時間にどこへ行くつもりだよ。君が、うらやましいよ」
 人間ほど不器用な生き物は他に存在しないのではないだろうか。
 他の生き物たちが、環境に合わせて自分を変えることによって生き延びてきたのに対し、人間は太古の昔からそれほど進化したわけではない。むしろ道具というものを使い、環境のほうを変えることによって生きてきた。木を切り倒して家を建て、道路を作り、大地を走る道具や空を飛ぶ道具を発明した。
 驚くべき人殺しの道具も、今では無数に存在する。
 とうとう人間は、地球やその上の生物や、自分たち自身を滅ぼしかねないところまできてしまった。
 唖然とするほどの不器用さだよね?
 でも、自分は不器用なんだ、とあきらめるとほっとするところもある。あなたもぼくも、どうせイルカのように泳ぐことはできないのだ。
 頑張ってるのに、うまくいかないことだってあるだろう。
 それでも、いつかイルカのように、と流行りのポジティブ・シンキングを信じてもっともっと頑張っているあなたはとても真面目で頑張り屋さんなんだね。
 でも、いつもどんなときでもずっと頑張りつづけることは、どんな人だってできないんだよ。
 時には、ちょっとばかり海岸にでて、日なたぼっこしてもいい。
 不器用なぼくらが、ネコのように気儘にというわけにはいかなくても、もう少し気楽に生きていくにはどうしたらいいのだろうか。
 この本は、そういうことを考えるために書こうと思っている。
 いっしょにお茶してるつもりで、あなたがつき合ってくれるのならうれしい。
(Illustration and Photo by Hiromi)
http://www.sweet-bluestar.com/
http://blog.melma.com/00122450/

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