2017-04-16 00:52:45

見城徹氏とぼく

テーマ:イージー・ゴーイング

ぼくが二十四歳の時、五木寛之氏が「若手編集者と若手作家の会」というのを主催され、ぼくも招いていただき、当時勤めていたクレジットカードの会社から駆けつけた。デビューしたばかりのぼくにとっては、初めて会う人たちばかりであった。
五木さんを囲む会食が終わり、六、七人の「若手」だけで新宿三丁目のアイララというバーへ繰り出した。大音量でサルサがかっていて、手持ち無沙汰だったのでフロアーへ行って踊っていたら、ぼく以外ににも一人踊っている人がいて、こちらに近づいて来た。
「俺、角川書店の見城徹。君は?」
ステップを踏みながら彼はそう名乗った。
「『群像』でデビューしたばっかりの山川健一」
「おっ、それ読んだぞ」
見城さんは踊りながらぼくの全身を眺め、耳元に口を寄せると大声で言った。
「なんでそんなダサいスーツ着てるわけ?」
「会社の帰りなんで。あ、クレジットカードの会社に行ってるんで」
それからしばらく向かい合って踊っていた。ぼくら以外に踊りに来る「若手」はいないようだった。
しばらくすると、見城さんがいきなり言った。
「『野性時代』に小説書かないか?」
「書く」とぼくは即座に答えた。
ぼくらは店の隅にあるテーブル席へ移動し、バーボンを頼み、すると見城さんは余計なことは一切言わずにこう言ったのだった。
「一〇〇枚の小説を三ヶ月に一本、それを三回。最初のシメキリは……」
シメキリと一〇〇枚という枚数だけをぼくは酔っぱらった頭で記憶した。それが見城徹氏との出会いであった。見城さんはぼくより三つ年上なので、この時二十七歳である。
シメキリの前夜に原稿を書き終え、郵送では間に合わないので角川書店に持っていった。受付でその旨を告げると、やがて見城さんがやって来て、怪訝な顔でぼくを見る。酔って依頼した原稿のことなど忘れていたのかもしれない。
応接室で原稿を渡すと、誉めちぎられた。
「わざわざ原稿を持ってきたのか? 普通は編集者のほうが取りに行くんだよ。君は偉い。君はやがて日本を代表する作家になるだろうが、今日こうして原稿を持ってきたその謙虚さを、絶対に忘れてはいけないよ。いや、君は偉い!」
見城さんとはもう三十八年のつき合いになるわけだが、あんなに誉めてもらったのはこの時だけである。見城さんは『野性時代』の連作が終了すると、「壜の中のメッセージ」をすぐに単行本にしてくれた。これが、ぼくの最初の単行本である。「鏡の中のガラスの船」よりも少しだけ先に出た。
見城さんに連れられて、本の見本を持ってあちこちの雑誌編集部に書評をお願いしに行った。もっとも、売り込むのはもっぱら見城さんで、ぼくは頭を下げるだけだったのだが。
単行本をためていき、一気に何冊かの文庫を出版するというのも見城さんの戦略だった。
青春四部作の原稿のすべてを、ぼくは見城さんに手渡した。「壜の中のメッセージ」と「パーク・アベニューの孤独」は単行本と文庫本の両方が出て、「星とレゲエの島」はいきなり文庫で巻頭にカラー写真をふんだんに使い、しかし刷れば刷るだけ赤字になるので初版五万部で増刷はしない。「ママ・アフリカ」は反対に単行本だけである。それらすべてが、見城徹プロデュースだった。その時々に「うん、わかった」とぼくは答えるだけであった。
やがて見城さんが幻冬舎を設立した後も、事情は変わらなかった。
東北芸術工科大学に文芸学科を設立するという話も、実は幻冬舎の社長室で見城さんから聞いた。話の全貌がうまくつかめずにいたのだが、どうやらぼくに学科長をやれと言っているらしいと判明。この時ばかりは「うん、わかった」ではなく、「マジかよ? そんなの無理!」と答えたのだったが。
そして今、こうしてデジタル全集を出してくれるのも見城さんである。こうなってくるともはや、ぼくの人生そのものが見城徹プロデュースみたいなものである。

 

「山川健一自身による
デジタル全集解説」より引用

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