2017-03-02 14:45:11

東北芸術工科大学文芸学科、卒業生の皆さんへ

テーマ:イージー・ゴーイング

 

人は十九歳の時にそのピークに達する──卒業おめでとう! 

山川健一(文芸学科教授)


 人は十九歳の時にそのピークに達するのだ、とぼくは思う。ここで言う十九歳というのは、もちろん一つの象徴である。仕事の成果そのものはともかくとして、内面的には、人は十九歳にして既にピークに到達してしまうのだ。

 その後の彼のプログラムは、無意識裡にではあるかもしれないが、十九歳の時に組み立てが完了してしまう。今なら、はっきりそう言える。年齢を重ねていくにつれて、「あの時の俺の決意は本物だったんだ」ということを他の誰でもない自分自身に証明するために、ぼくらは目も眩むような時間を費やすことなる。

 

 

 十九歳の時、高校時代にメチャクチャやっていたぼくは大学入試に失敗し、おまけに父親と喧嘩し、殴りとばされ、「おまえなんかもう息子でもなんでもない」と家を追い出されてしまった。

 三畳一間のアパートを西武新宿線の田無に借りて、アルバイト生活が始まった。そのアパートには浪人暮らしの若い男たちだけが住んでおり、古雑誌置き場にはポルノが山積みにされ、南沙織のポスターがそこいら中に貼られ、共同の流しは詰まり、狭い庭にはBVDのパンツがずらりと並んで干されていた。ひどいものだ。

 夕方になると、ぼくは後楽園球場へ出かけた。前の日誰が着たかわからない水色の上下の、ちょっとダブダブのユニフォームを着こみ、帽子をかぶり、弁当かコーラを売って歩くのである。

 あの頃、ぼくは内面的には自分自身のピークを迎えていたのだと思う。あの頃の風景の見え方、ブルースの聞こえ方、生々しい女たちの肉体、一万円札の価値といったものを、ぼくは今でもはっきり思い出すことができる。そうした、後で考えればじつに現実的な、しかし当時のぼくにとっては非現実的で抽象的な日常生活の中で、風景はとてもクリアに見えた。なにしろ、回りはみな敵ばかりなのである。世の中で、敵の姿ほどはっきり見えるものはない。アイツもアイツもアイツも敵。というわけでよく喧嘩した。殴り、殴られて帰ってきた。

 それは、まさしく生のピークであった。しかし、それを展開するための方法論がまったくなかった。

 ぼくは安易だった。自分の位置さえをも明確には認識し得ないくせに、いろいろなものに「NO!」という否定の一語を発していた。たとえば、学校というもののシステムに。さらに社会というもののシステムに。あるいは周囲の友人や知人たちに。何が「正義」なのか、何だったら信じるに価するのかということが判然としない時には、とりあえず自分以外の全てを否定してみるしかないではないか。

 当時のぼくは、さまざまなロックのレコードを聴きながら、あるいはコンサートに行きながら、自分はとりあえずここにいるだけなのだと思っていた。自分はとりあえずここに間借りしているが、いつか出て行くのだ、と。ロック・ミュージックというのは、もともとそういう音楽だ。ロックは本来、いつかここを出て行く人間のための音楽なのではないだろうか。

 ジャズなんて下らないさ、クラシックになんか感動はないよ、学校や家なんか放り出して、社会のステップをのぼって行くことなんかやめて、踊りに行こうぜ、というのがロックンロール・ミュージックの基本的な主張である。ロックは、周囲のあらゆるものに「NO!」を言いつづけた音楽なのである。

 そして、ここが何よりも重要なところなのだが、こうしたロックという音楽は、錯誤すらもが輝いていると感じている人間を、あたかも宗教がそれを信じている人間をそうするように、許したのである。そういう意味では、ロック・ミュージックとはたしかにドラッグなのであり、宗教なのだ。

 時に、ロックのビートを肉体に叩き込むように詩や小説を読んだ。アルチュール・ランボー、フェルディナン・セリーヌ、ボリス・ヴィアン、ヘンリー・ミラー、ジャン・ルネ・ユグナン、アンリ・ミショー、そしてドストエフスキーといった人たちである。日本の作家でも、横光利一、木山捷平、太宰治といった人たちの感性はブリティッシュ・ロックのそれにとても近いような気がした。

 

 

 だが、文学作品は、音楽などよりはるかに正確ではっきりした自分自身の像をその中に見い出すことはできても、決して自分が許されていると感じさせてくれはしなかった。ロックが宗教のように許す、安易で中途半端で錯誤にみちたこの〈私〉という存在について「もっと深く考えよ」と言葉たちは囁くだけだ。だからぼくは、小説というものを書くようになってからも、いや小説というものを書くようになってからはなお一層と言うべきか、ロックのビートにのめりこんでいった。

 ただ逃げていたのだ、最終的な判断を留保していたのだ、とは思いたくない。ぼくは、その時もまだ「NO!」と言いたかったのだ。文学シーンが自分の場所だとは思いたくなかった。デビッド・ボウイの「ロジャー(間借り人)」という歌などを新しいアルバムの中で聴いた時などに、思ったものだ。われわれはみな時間と空間の間借り人なのだ、われわれはいつか大家にサヨナラを言って出ていかなければならないのだ、と。そんな具合にあらゆるものに「NO!」という言葉をつきつけるロック・ミュージックは、〈私〉という不確かな存在にだけは「YES!」と言ってくれるような気がしたのである。

 

 

 ぼくはひたすら文学書を乱読し、ブルースやロックのレコードを聴き、そうした時に頭をかすめる印象のフラグメントをノートに書きつけていた。それはあたかも、自分自身がヒーローの長い映画を観ているようなものだった。この瞬間を逃したら後でたいへん悔しい思いをするにちがいない、と思うと、いつもノートに向かった。やがて、そんな時代の卒業制作として書いた小説で、作家デビューすることになる。大学四年生の時のことだ。

 十代後半から二十三歳でデビューするまでの数年間、自分自身の内なるヴォルテージはピークだったはずである。ただその頃に戻りたいかといえば、答えは「NO!」である。あんなことはもうたくさんだ。では、十九歳のマインドを時の向こうへおいてきてしまったかといえば、それもやはり答えは「NO!」だ。本当は、何をやるにしても、十九歳の時のマインドをいかに持続するかということが最大の課題なのだ。そのためにこそしたたかになる。セコくもなる。今はそう思っている。

 ミック・ジャガーもボブ・ディランも中原中也も小林秀雄も太宰治も谷崎潤一郎も、セリーヌもヴィアンもミラーもユグナンも、そしてあのドストエフスキーも、みんな十九歳だったことがある。彼も彼女も、そしてこのぼくも、かつては十九歳だった。それは、なんて素晴らしいことなのだろうか。

 

 

 いかがわしく、それでいながらイノセントで、臆病なくせにいつも戦闘的なわんぱく小僧。彼は、もちろん、もう子供ではない。充分にワルでしたたかでセコい眼をしながら、同時にピュアなマインドもどこかに持っている輝かしい存在。それが、彼なのだ。わんぱく小僧はその時、既に人生のピークに達しているのである。彼は、今こそ、トップに立っている。

 十九歳は、ゆっくりと、ぼくらの目の前を通り過ぎていった。少しずつ、ピリオドが近づいてくる。だが、いい。やがてどこかで迎えるその瞬間に、ぼくらはあの眩しい光のただ中へ戻ってゆくだろう。

 皆さんが書き終えた卒業制作は、十九歳のマインドの確かな刻印なのである。人は、自分自身の幻の十九歳へ向けて、少しずつ時間を使い果たしていくのだ。皆さんは今書き終えたばかりのその卒業制作に向かって、ゆっくりと成長していくにちがいない。

 その作品が存在するのとしないのとでは、人生の意味が大きく異なってくる。だからこそぼくは敬意の気持ちを込めて「おめでとう!」と言いたいのである。

 

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