2016-08-18 00:25:20

新鮮な読書体験──文学とデジタル

テーマ:イージー・ゴーイング

子供の頃から、誕生日が来ると夏休みになった。
大人になってからは、ずっと小説を書いていたので、夏休みも普通の日も関係なかった。今は大学の教員をやりながら小説を書いていて、教員というのは8月の前半はいろいろ仕事があり、ようやく夏休みに入った。

 

ずっとiPhoneが手元にあり、メールやニュースをチェックしたりゲームをやったり、そしてリリースしたばかりのJacksを読んだりしている。

 

Jacksには自分の本が85冊入っているので、文字通り拾い読みするわけだ。短編小説を読みはじめ、最後まで読んでしまい、結局朝まで他の小説も読んでしまったりする。空海や新選組のことが気になって、単語を検索してその部分を読んだりする。

 

そんな夜を繰り返していると、不思議な感覚にとらわれる。ひとつは、小説やエッセイを読むという行為が、ドラクエやポケモンGOやメールやニュースと同じ地平に存在する気がするということだ。すべてがiPhoneのなかにあるのだから。

 

それからもうひとつは、時代と年齢の感覚が消えるということだ。
これをうまく説明できるかどうか自信がないのだが、23歳の時に書いた小説も33歳の時の作品も、43歳、53歳、63歳の時点の文章もすべて同じひとつのファイルに収録されている。今ではぼくも読者の1人としてそんな複数の作品を瞬時に行き来する。すると、時代と年齢の感覚が消えていることに気がつくのである。

 

大袈裟な言い方をすると、過去、現在、未来へと時間がつづいていくニュートン流の時間感覚が、過去も現在も未来も同時に存在しているという相対性理論的な時間感覚に変容している。

 

すなわち、それがビーイング・デジタルであるということだ。

 

文学とはもっともアナログなもののようだが、脳の機能はハイパーテキスト的である。小説とデジタルは、案外と親和性が高いのだとぼくは思う。

 

※ハイパーテキストについては、明日にでも『希望のマッキントッシュ』の中の文章を紹介します。

 

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