ぼくらは、辺境へ行かなければならない。 | イージー・ゴーイング 山川健一

ぼくらは、辺境へ行かなければならない。


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 奈良・京都の旅から戻って、シャワーを浴びてコーヒーを飲んだところだよ。
 今回の旅の関東編をさらに行い、森田健&山川健一の共著の、パワースポットを紹介する本を刊行する予定です。

 とにかく、ものすごく楽しい旅だったので、いい本になると思うよ!

 今夜は眠ってしまう前に、自分自身のためのメモとしての意味もこめて、ぼくらがなぜこんな本を書くことにしたのかについて記しておこうと思います。

 森田さんとの最初の共著は『あの世はどこにあるのか』だった。この本のクレジットは森田さんだけになっているんだが、実際にはぼくが彼にインタビューすることによって構成されている。

 そして、ぼくらが王虎応氏にインタビューする『運を良くする』、外応についての『幸運の印を見つける方法』とつづく。パワースポットの本は、したがってぼくらがタグを組む4冊目の本ということになります。

 個人的には、『リアルファンタジア』『神をさがす旅』とスピリチュアル系統の本がつづいた。

 なぜか?

 それは、ぼくが痛切に「宗教が死んでしまった」と感じているからだ。
 既存の仏教は葬式仏教と言われるように、遺族が支払う金額によって戒名の松・竹・梅のランクがあったりする。
 阪神・淡路の大震災、そしてオウム真理教事件の時にも、日本の仏教界はその無力さを露呈させてしまった。

 キリスト教やイスラム教などの一神教の世界では、「神の御名にかけた」戦争とテロリズムが止むことがない。


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 これは、宗教学者の山折哲雄さんもお書きになっているが、「宗教というものの耐用年数が尽きたのだ」と考えざるを得ないではないか。
 しかし、人間は宗教の存在なしに、生きていくための倫理──つまりほんとうの優しさや思いやりというものを身につけることはできない。

 宗教がないと、物欲や色恋(いわば恋愛欲と色欲)、親殺しから子殺しまでなんでもありになってしまう。
 自殺者は増える一方だ。

 ぼくは感覚的な文系人間なので、最初からこんなふうに筋道立てて考えていたわけじゃないんだよね。自分が惹かれるものを本能的に追いかけてきて、「なんでだ?」と後になって考えてみたらそう気がついたということです。

 『リアルファンタジア』ではヘミシンクという音響技術の力、さらにアインシュタインの相対性理論や量子力学に端を発するゼロ・ポイント・フィールドやホ ログラフィック・ユニバースという学説の力を借りて、「目に見えるだけが世界のすべてではない」「死後の世界は存在する」という結論に辿り着いた。

 『神をさがす旅』は島旅紀行だが、屋久島の守り神や、加計呂麻島で出逢った前世からの友人、奄美大島の湯湾岳で出逢った幽霊のことを書いた。紀行文なの で、最初から意図してああいう本を書くつもりはまったくなかった。実際に体験したことを書いていったら、ああいう本になった。

 幽霊やラップ音のところが怖くて読めなかった──という感想をたくさんの方々からいただいた。同時に、「私も同じ湯湾岳で幽霊としか思えない存在に出 逢ったことがある。地元では、あそこは登ってはいけない山だということになっているのだ」と知らせて下さった方もいらっしゃる。
 あるいは島の別の場所で、「あなたと同じような体験をした」と知らせてくださった方々が複数名いらっしゃる。
 ラップ音に関しては、このブログにコメントを寄せて下さった方々がいるので、皆さんのご存知の通りの状況だ。


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「目に見えるだけが世界のすべてではない」
「死後の世界は存在する」
「幽霊は怖い」
「ラップ音を聴いた」

 これらはすべて、きわめて原始的な宗教──アニミズムではないのか?
 それは、一神教や仏教各派の教説のように体系化されておらず、洗練もされていないし、ある意味ではいかがわしい匂いがプンプンするだろうが、既存の宗教が既に失ったひりひりするようなリアリティを持っていはしないだろうか?

 山や巨石や巨木に神々が宿っていると信じるアニミズムは、じつはすべての宗教のスタート地点だったはずなのに、今では辺境の地に追いやられてしまっている。だからぼくらは、辺境へ行かなければならない。
 辺境とは島々であり、東北であり、飛鳥の里や京都の外れだ。
 そして同時に辺境とは、胡散臭くみなされ軽蔑されかねない思想や哲学、近代科学では解釈しようのない現象そのものでもある。

 幽霊は怖い、島々に宿る神々は恐ろしい、東北の闇は怖い、飛鳥の里や京都の外れには大和というものがスタートした時からの怨霊や時空を記述する方程式のようなものが隠されている──そういう感覚をこそ大切にするべきだと思うのだ。

 金を盗む。
 名誉を盗む。
 誰かの女(男)を盗む。

 それでもいいのか、と考えるのは「罪」について考えることだ。しかし、そういう作業を長らくつづけた既成の宗教は死につつあるのだ。
 だったら(以前どこかに書いたことがあるが)、「罰」を怖れるほうがはるかに有効ではないだろうか。金を盗んでバレたらたいへんだ、あいつの女(男)を 盗んだのがバレたら自分は殺されるかあいつが自殺してしまうかもしれない。そういう大衆の辺境に属する思考方法こそが、これからはぼくら一人ひとりを支え てくれるのではないだろうか。

 パワースポット。
 チープな言葉である。女子供のシャレみたいなもの? たしかにそうかもしれない。だからこそ信用できる。
 幽霊や神々を怖れる感覚こそが、神々や大自然の力に守られたいという謙虚さを生むのだ。


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 このブログの4枚の写真を見てほしい。
 これらはすべて、取材に同行してくれた女性編集者が撮影してくれたものだ。こういうのをオーブ写真という。スピリチュアルな世界ではエンジェル写真などとも言う。

 単なる偶然? 
 光の加減でたまたまそう撮れた?
 どう考えていただいてもかまわない。
 しかし、七福神の今津正美さん もそうなのだが、彼女は今津さんの書籍を担当することで、こうした写真をパワースポットでなら意図してかなりの確率で撮影することができるようになったのだ。

 自然や神々の気がそこにフォーカスする、パワースポットというものは確かに存在すると今のぼくは思っている。それを探し出し、その原理を解明する辺境の旅の相棒として、森田健以上の人はいない。

 栂尾・高山寺は、じつはぼくの前世に深く関係のありそうな寺で、ぼくはここ20年この寺に何度も通っている。そんなことを何も知らない森田健は、同じ栂尾で女性の師について道教の修行をしているのである。こんなことが偶然起こるとは、とうてい考えられない。

 閉塞し硬直した価値観に風穴を空ける真面目な一冊にしたいと思ってます。