• 24 Apr
    • 霞城公園の桜 2017

      霞城公園西門の桜が一番好き。         石垣と桜は良く似合う。   東門は人が多い。     桜~堀~線路 の山形ならではの風景。     この野球広場もなくなるそうだ。     南門の石垣に階段が整備された。   その隣の土堤も舗装され、階段が出来た。   残雪も少なくなった蔵王。   馬見ケ崎川の桜回廊を通って仙台に帰る。   ここも満開。 来年も桜を見られるだろうか、毎年心配になる。

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  • 17 Apr
    • 一目千本桜(船岡~大河原)

      白石川河畔の一目千本桜。 川沿いに船岡から大河原まで散策します。   さくら歩道橋からの眺め。左は市民農園。   今日は25度もあるが、曇っていて風が強い。   堰と桜と蔵王が望める絶景ポイントだが、今日は蔵王が見えない。   桜の下をジョギングする人。    ときおり雲が切れて陽射しがのぞく。   大型犬3匹を連れてお散歩。   この季節はどこを撮っても失敗なし。     御神輿が終わった団体。   ダックスとトイプーがじゃれる。   歩道も満員。   千桜橋から見る船岡城址。 橋を渡って登れますが、特に何もありません。 大河ドラマ「樅の木は残った」の舞台。  千桜橋からみる桜。   千桜橋下の階段。   大河原駅に近づくと花見会場になる。  

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  • 10 Apr
    • 山形だけの年間三隣亡 2

      三隣亡の由来   三隣亡の由来は全く不明である。 江戸時代よりも前の古い暦注解説書には書かれておらず、江戸時代になってから散見されるようになった。   興味あることには、江戸時代の本には「三輪宝」と書かれ、「屋立てよし」「蔵立てよし」と注記されていた。 すなわち、現在とは正反対の吉日だったことになる。   これがある年の暦から一変したのだそうだ。 恐らく暦の編者が「よ」を「あ」と書き間違え、それがそのまま「屋立てあし」「蔵立てあし」と伝わってしまったのではないかと推測されている。   その後「三輪宝」の吉字が凶日を意味するのではおかしいということで、同音の「三隣亡」に書き改められたのである。 由来を思えば全く馬鹿げた悪習である。   馬鹿げてはいるが、「向こう三軒両隣を滅ぼす」と言う話だとご近所さんでこの迷信を信じる人がいたら、以後の近所つきあいが難しくなる。仏滅とはまた違う難しさだ。   それが三隣亡迷信がなかなか廃れない理由である。   (続く)    

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  • 03 Apr
    • 山形だけの年間三隣亡 1

      三隣亡という風習を御存知だろうか。 それは、建築行事を避けるべきとする暦注の一つである。文字通り、「三隣亡の日に家を建てると、向こう三軒両隣が滅び、その家だけが栄える」という考え方である。三隣亡は元々大安や仏滅のように日ごとの吉凶を表すものだが(平素三隣亡)、山形県では全国で唯一、「年間三隣亡」という風習がある。この風習は廃れるどころか、近年ますます強まり、住宅着工数を大幅に押し下げている。「年間三隣亡」は寅、午、亥の年の立春から翌年の節分までとされる。つまり12年のうちの3年がこれに当たることになる。山形では年間三隣亡の年に必ず住宅着工が減る。これは山形特有の現象である。世の中の景気とは関係がない。山形では1960~70年代は年間三隣亡の年は持ち家の住宅着工戸数が10%の減少だったが、1980~90年代は15~20%、2000年以降は20%と、減少幅が次第に広がっている。 年間三隣亡は庄内地方が主な地域と見られることがあるが、実は県内全域で浸透している。(続く)

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  • 27 Mar
    • 錦ケ丘ヒルサイドモール

       山形から48号線で仙台に向かうと、愛子付近で錦ケ丘ヒルサイドモールが見えてくる。ここに新しいキッズスペースが出来た。 入口のカフェはずっと前から閉店したまま。ここが空いたままだと寂れた印象を与える。  たまご舎は中央エスカレーター左に移転した。  2階北側に出来たキッズスペース「感性の森」。  見取り図  木製の迷路、遊具があります。キャラクター、ゲームはありません。子供の創造性を引き出す空間だそうです。  大人だけだと入れないので注意。大人はあくまでも「こどもの付き添い」で。  開園したばかりで平日ということもあってか、入室しているのは1組だけだった。  錦ケ丘は「子育てタウン」を唱っている。ようやく子供中心の店作りにしようと決めたのか。 2階は子供服の店とか、  駄菓子の店とか、  広いおもちゃ売場とか、  アンパンマン遊具コーナーとかが揃った。 中途半端なブランドショップを誘致するよりはこの路線の方が良いかもしれない。

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  • 20 Mar
    • これが噂の「ダールラーメン」

      3月の286号線を山形に向かう。道路には全く雪がない。 釜房湖を過ぎて右手にこの看板。20年ほど前からこの看板に気がついてはいたが、なかなか立ち寄るチャンスがなかった。  これがドライブイン「みしま」。今日こそ「ダールラーメン」に挑戦するぞ。 入り口に写真入りのメニュー。ボリュームがすごそう。 店内は家族連れ、トラックドライバーなどのグループが多い。 「ダールラーメン」は辛めのあんかけラーメンとある。ライスはとても食べられないので、単品780円を注文する。  待つ間メニューを熟読。ここはラーメンと焼きそばの店なのだ。 ベトコンラーメン(納豆入り)だって!  さあ、来ました。この店の1番人気のダールラーメンです。確かにあんかけラーメンですが、その「あん」自体が辛い。ウズラの卵とエビが2個ずつ入っています。しょうゆ味の五目ラーメンに辛いあんをかけた、というのがダールラーメンの正体。熱いあんのおかげで麺が最後まで熱々。ボリュームたっぷり。辛くて熱くて、寒いのに汗びっしょりになります。夏なら大変だな。名前の由来はメニューに、「とろ~り、ダラー、ダール!!」とあったのでこういうことかなと納得。

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  • 13 Mar
    • 忘れない、あの日を、あの人を ~悲しみの始まりの場所~

       春を恨んだりはしない -震災をめぐって考えたこと-  池澤夏樹2011年9月11日 中央公論社・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・日本のメディアは死体を映さなかった。本当に人が死んでゆく場面は巧みに外されていた。カメラはさりげなく目を背けた。しかし、遺体はそこにあったのだ。女川に「仮土葬場」という案内と標識があった。雨に濡れた地面の下に亡くなった人たちがいる。冷たい地面の中で、その地面と同じ温度になってしまっている。もう生き返ることはない。あの頃はよく泣いた。あの時に感じたことが本物である。薄れさせてはいけないと繰り返し記憶に刷り込む。津波の映像を何度となく見直し、最初に見たときの衝撃を辿り直す。しかし背景には死者たちがいる。そこに何度でも立ち返らなければならないと思う。遺体の捜索に当たった消防隊員、自衛隊員、警察官、医療関係者、肉親を求めて遺体安置所を巡った家族。たくさんの人たちがたくさんの遺体を見た。彼らは何も言わないが、その光景がこれからゆっくりと日本の社会に染み出してきて、我々がものを考えることの背景となって、将来のこの国の雰囲気を決めることにならないか。死は祓えない。祓おうとすべきでない。さらに我々の将来にはセシウム137による死者たちが待っている。撒き散らされた放射性の微粒子は身辺のどこかに潜んで、やがては誰かの身体に癌を引き起こす。こういう確率論的な死者を我々は抱え込んだわけで、その死者は我々自身であり、我々の子であり、孫である。この社会は市の因子を散布された。放射性物質はどこかに落ちてじっと待っている。我々はヒロシマ・ナガサキを生き延びた人たちと同じ資格を得た。今も、これからも、我々の背後には死者たちがいる。 震災以来ずっと頭の中で響いている詩がある。ヴィスワヴァ・シンボルスカの「眺めとの別れ」。その最初のところはこんな風だ・・・ またやって来たからといって春を恨んだりはしない例年のように自分の義務を果たしているからといって春を責めたりはしないわかっている わたしがいくら悲しくてもそのせいで緑の萌えるのが止まったりはしないと  これはシンボルスカが夫を亡くした後で書かれた作品だという。この春、日本ではみんながいくら悲しんでも緑は萌え桜は咲いた。我々は春を恨みはしなかったけれども、何か大事なものの欠けた空疎な春だった。桜を見る視線がどこかうつろだった。古歌の「深草の野辺の桜し心あらば今年ばかりは墨染めに咲け」を思い出したのは当然の連想だったろう。桜の華やかさは弔意にそぐわない。 春を恨んでもいいのだろう。自然を人間の方に力いっぱい引き寄せて、自然の中に人格か神格を認めて、話しかけることができる相手として遇する。それが人間のやり方であり、それによって無情な自然と対峙できるのだ。来年の春、我々はまた桜に話しかけるはずだ、もう春を恨んだりはしないと。今年はもう墨染めの色ではなくいつもの明るい色で咲いてもいいと。 日本の国土は世界でも珍しい四枚のプレートの境界の真上にあり、世界の地震の2割は日本で起こる。こういう国土で暮らす我々は、自然と対立するよりも「受け流して再び築く」という姿勢を身に着けてきた。わたしたちは攻撃しない。わたしたちは執着しない。意識しないで生きてきたけれど、この姿勢は日本で暮らす必然の知恵、本能に近いものだったのかもしれない。 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 池澤さんの文章は静かだ。私が訪れた被災地も静かすぎて、静寂の音が聞こえるようだった。 3月11日の死。そして、それから累々と続く死と悲しみ。これらをすべて忘れないこと。 今も、これからも、我々の背後には死者たちがいる。死をまっすぐに見つめる。眠りではなく二度と蘇ることのない死を受け入れる。 忘れてはいけない。悲しみの始まりの場所のことを。 2017年3月11日14時46分、仙台の街頭では鎮魂の鐘が鳴らされ、道行く人々は立ち止まり東に向かって黙祷した。辰つぁんは山形の駅前にいたが、鐘も鳴らなければ足を止める人も皆無だった。 現在、震災による死者は1万5893人、行方不明者は2553人となっている。 

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  • 06 Mar
    • 忘れない、あの日を、あの人を ~自分は偶然に死ななかった~

      ・・・自分は偶然に死ななかった。イモリは偶然に死んだ。自分は淋しい気持になって、暫く足もとの見える道を温泉宿の方に帰ってきた。遠く町端れの灯が見えだした。死んだ蜂はどうなったか。その後の雨でもう土の下に入って了ったろう。あの鼠はどうしたろう。海へ流されて、今頃はその水ぶくれのした体を塵芥と一緒に海岸へでも打ち上げられていることだろう。そして死ななかった自分は今こうして歩いている。そう思った。自分はそれに対し、感謝しなければ済まぬような気もした。然し実際喜びの感じは湧き上がっては来なかった。生きている事と死んで了っている事と、それは両極ではなかった。それほどに差はないような気がした・・・                                                              志賀直哉「城の崎にて」  万石浦を過ぎ、女川第一小学校脇の高台に出ると景色は一変した。そこは水浸しの荒野だった。女川の中心部だった場所に車を停める。 木造の建物は一軒も残っていない。破壊された鉄筋のビルが何棟か打ち捨てられているだけである。 海中に倒れたままのビルもある。生涯教育センターには窓から車が入り込んでいる。車が倒れないようにロープがかけられているが、車を撤去することは難しいのだろうか。 4階建ての商工会館は屋上まで水没した。屋上に逃げた4人の職員がさらに給水塔に昇り、胸まで水に浸かりながら九死に一生を得た。 カーナビが「女川駅」と教える場所には何もない。駅舎もホームも、レールさえも。一切が何処かへ流失していた。 鷲神浜は、Sさんの実家があった場所。浜は広い更地になっていた。Sさんの母親は実家から300mも離れた路上で発見された。 マリンパルは敷地全体が水没し、海の中に悲しげに立つ。沈み行くベネツィアのようである。違うのは、あたりに人影がまったくないことだ。6mの防波堤は何の役にも立たなかった。  遠くの高台に女川町立病院が見える。町立病院は海抜18mに位置するが、驚くことに津波は病院1階の1.9mの高さにまで来た。女川の津波は地震の僅か30分後に襲来した。その高さは海抜20.3mに達し、海抜16mの病院駐車場を飲みこんだ。 駐車場には多くの供花がある。はるか遠く、はるか下に海を見降ろす場所である。ここまで波が来たとは、とても想像がつかない。 病院の掲示には、内科・外科の診療は月~金の午前中だけ、整形・小児科・眼科・皮膚科は週1回、半日だけ、とある。  福島第一原発は5.7mの津波を想定し、海抜10mに建てられた。そこに14mの津波が来て炉心溶融に至った。 女川原発で想定された津波は9.1mだったが、安全を見込んでそれより5.7m高い海抜14.8mの場所に建設された。しかし地震で大地は1m地盤沈下。原発は海抜13.8mに下がった。そこに押し寄せた津波は13m。差引き僅か80cmの差で、女川はオナガワと呼ばれることを免れた。  ・・・その屍たるや通路に満ち、沙湾に横たわり、その酸鼻言うべからず。晩暮の帰潮にしたがって湾上に上がるもの数十日。親の屍にとりついで悲しむ者あり、子の骸を抱きて慟する者あり。多くは死体変化して父子だもなお、その容貌を弁ずに能わざるに至る。頭、足その所を異にするにいたりては惨の最も惨たるものなり・・・ これは岩手県気仙郡綾里村村誌に書かれた明治三陸津波の記録である。この津波は、明治29年6月15日、午後8時7分に襲来した。地震自体は震度2~3と軽度であったことが逆に油断を招いた。「入浴中の19歳の女性が風呂桶ごと流されたが助かった」と新聞は伝えた。死者・行方不明者の合計は21,959人。沿岸部の住宅地は壊滅した。当時にあっても民家を高台へ移動することは不可能ではなかったが、三々五々、元の敷地に家屋が再建され、ついには津波前と同じ集落が形成されてしまった。 そして昭和8年の昭和三陸津波で再び大被害を被った。それは3月3日午前3時に襲来した。深夜であったため、人々は津波の来襲に気づかず、逃げる方向も何も分からなかった。生存者は「寝ていたら、いきなり唐紙を破って水の塊が入ってきた」と口々に言った。震度は5で、地震被害は軽度だったが、津波の被害は甚大だった。死者・行方不明者合計は3,064人に達した。 このとき壊滅した集落もまたぞろ同じ場所に修復され、昨年の震災を迎えた。人々が同じ場所に家を再建した理由は、先祖から継承した土地への愛着であり、浜に近いことが漁業に便利であったからであり、津波は天の定めとする諦観のせいであった。 東日本大震災では死者・行方不明者は、19,185人である。今度こそ高台移転は叶うだろうか。被災の記憶は一世代と持たないのである。 陸(おか)を選んだ自分は助かり、海を選んだ友人は亡くなった。自分に「生かされる」理由などなかった。生死は偶然の結果である。 女川原発が無事だったのは単なる幸運だった。女川原発と仙台駅の直線距離は56km、女川原発と石巻駅のそれは僅か17kmである。波の来方によっては、仙台は「センダイ」に、石巻は「イシノマキ」なっていたかも知れなかった。  あの年の桜は悲しみを吸い上げて咲いた。春が来るたび、桜梅桃梨は海辺で繚乱せよ。死者を眠らせ 荒ぶる海を鎮めよ。 

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  • 27 Feb
    • <さくら野百貨店仙台>自己破産 負債31億円

       <さくら野百貨店仙台>自己破産 負債31億円 河北新報 2/27(月) 12:16配信  さくら野百貨店仙台店(仙台市青葉区)を経営するエマルシェ(同)は27日、仙台地裁に自己破産を申請し、破産手続き開始の決定を受けた。売り上げ減少が主因。代理人の弁護士によると負債額は約31億円で、社員やパートなどの従業員約120人は26日に全員解雇された。  食料品など自前の売り場は閉鎖した。ドコモショップなどのテナントは営業を続けている。午前10時から取引先など債権者への説明会が市内で開かれ、約200人が出席した。青森、岩手両県にあるさくら野百貨店は青森市の別会社が経営している。  東京商工リサーチ東北支社などによると、2006年2月期に193億2600万円の売り上げがあったが、郊外や近隣店舗との競争が激化。人気ブランド「H&M」などテナント誘致に力を入れたが業績悪化に歯止めがかからず、16年2月期の売り上げは79億3900万円まで落ち込み、4期連続の赤字となった。  同社は1946年創業の丸光(仙台市青葉区)が前身。78年に丸光など東北の百貨店5社が経営統合して百貨店連合を設立。大手スーパー、マイカル(旧ニチイ)傘下として「ダックシティ」「ダックビブレ」と社名を変更しながら東北で6店舗を経営した。  01年9月に経営悪化から民事再生法適用を申請。02年9月からさくら野百貨店に社名変更して再スタートを切った。05年4月に青森、北上など5店舗の経営を別会社に譲渡。10年8月からエマルシェとしてJR仙台駅前にある仙台店のみを経営していた。  安藤俊社長は「ご迷惑をお掛けするお客さま、お取引先さまに心からおわびを申し上げます。70年の歴史のあるさくら野百貨店仙台店をこのような形で閉じることについては痛恨の極みというほかありません」とのコメントを出した。   夜中に貼られた閉店のお知らせ↓        仙台駅前の一等地に建つさくら野百貨店       レストランの写真にもばってんが。閉鎖されたのだろう。    夕方のテレビで閉店を伝えるニュース↓    私が仙台に来た頃は丸光だった。 それがニチイになり、ダックシティになり、ビブレになった。 さらにダックビブレと迷走。この辺でこの店はだめだなと誰もが思った。 さくら野になったのは2002年のこと。  店内には高級品と大衆品が混在し、古本市、質流れ品市などが定期的に開かれ、方向性が見えなかった。       このポイントはどうしてくれる!?            また今日、衣川のニュージーランド村閉園のニュースが流れた。       ニュージーランド村閉園 奥州の観光施設、従業員解雇   岩手日報  奥州市衣川区日向の観光施設、とうほくニュージーランド村が閉園したことが3日分かった。施設を運営する愛媛県西条市のファームは、多額の負債を抱えて民事再生手続き中で、市などによると現地採用の従業員15人は1月末で解雇された。同社は施設の売却手続きを進めているが、事業再生の枠組みからは外れる見通しで、今後の跡地活用は不透明だ。  同施設は昨年12月から冬季休園中。3日は入り口にシャッターが下ろされ、ホームページに閉園のお知らせが短く掲載されていた。  ファームの代理人弁護士によると、飼育していたポニーやヤギなどは同社が他県で運営する施設に移し、従業員は1月31日付で解雇した。市と水沢公共職業安定所によると、同市と一関市の計15人が解雇された。

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    • 忘れない、あの日を、あの人を ~1年後の被災地~

      石巻のシンボル、日和山に登ってみる。山から南側を見ると住宅地が丸ごと消えていた。市立病院など、コンクリートの建物だけが疎らに残る。日和大橋は津波をかぶったがなんとか耐えたようだ。 津波とは単なる大波でなく、海底から海上までのすべての水の移動だと初めて知った。今回の地震が放出したエネルギーは阪神大震災(M7.3)の1,450倍で、津波の遡上高は観測史上最大の40.4mに達した(宮古市重茂姉吉地区)。それにしてもなんという広さに波が来たことだろう。  山を降り、旧北上川の中洲まで行く。 ここには岡田劇場、ハリストス正教会、石ノ森萬画館、料亭、マリーナなどがあり、石巻観光の中心だった。地盤沈下で中洲の大きさは一回り小さくなった。160年の歴史があった岡田劇場は、基礎を残して跡形もなかった。 石ノ森章太郎が映画を観に中田町から自転車で通った劇場だった。ハリストス正教会は明治13年に建てられた白亜の建物である。木造の建物が川の真中で倒壊しなかったのは奇跡といってよい。  萬画館は浸水したものの建物は無事だった。現在は休館していて、中を見ることはできない。全国から来た人たちの応援の書き込みがある。川の東西をつなぐ内海橋は、押波と引波で上流下流から瓦礫がぶつかり、満身創痍となった。震災直後は大量の漂流物と遺体が橋に引っ掛かっていて、人々はそれらを乗り越えて橋を渡った。 河畔のプロムナードは柵が壊れ、川の水がベンチの下まで来ている。とてもくつろいで座ってはいられない。 南浜町は海も川も近い日当たりの良い住宅街だったが、1年経たずに草原に変わった。240号線沿いには手作りの慰霊所があり、手を合わせる人が後を絶たない。海から強い風が吹いて来る。風が吹くと悲しくなくても涙が出る。 門脇(かどのわき)小学校は由緒ある学校だ。海岸から700mの距離にある。   建物は残っているが窓は破れ、壁には焼けた跡がある。地震後、近隣住民が車で避難してきた。7mの津波が車を押し流し、校舎に衝突させた。 衝撃でガソリンが発火。100台余りが次々に燃え上がり、校舎に引火、全焼した。学校には児童もいたが、教員が教壇で橋を作って3階から裏山へ避難させた。プールには今でも大量の海水が貯まっている。 小学校の隣りの墓地では墓が遺骨ごと押し流された。葬られても死者は安眠を許されなかった。永遠のことなどないと知れば無常感はつのる。  市立病院は旧北上川、太平洋の両方に面して建ち、思えば危険な立地であった。ここが機能していれば、石巻赤十字病院の負担は半分になった。新しい市立病院は海から2km離れた石巻駅前駐車場に再建されることが決まった。 日和大橋を越え、女川方面に向かう。240号線の中央分離帯に巨大な鯨大和煮の缶詰が転がっていた。  この巨大缶詰は、「鯨の大和煮」からスタートした木の屋石巻水産のシンボルマークだった。巨大缶詰には20t以上の魚油が入っていたが、元の場所から300mも北に流された。缶詰はちょうど中央分離帯の真中で止まったため、交通の邪魔にならず撤去を免れた。 岸壁にあった同社は跡形もなくなったが、金華鯖の缶詰が工場跡の泥の中で見つかった。その缶詰は掘り出されて、避難所の人たちの貴重な食料になったという。 女川街道を万石浦まで来た。 地盤が沈下したせいか、海面が上昇し、道路と同じくらいの高さに見える。万石浦の緩衝作用で津波被害は小さかったが、地盤が80cm沈下した。場所によっては海岸線が数10m後退した。海岸では浸水防止用の土嚢積みが行なわれている。 かつては防波堤の下に砂浜があり、潮干狩りもできた。震災後はアサリ採取用の造成干潟も砂州も干出しなくなり、岩礁から貝類が消えた。満潮になるとマンホールや側溝などから海水が逆流し、地区のほとんどが膝下まで浸水する。台風と大潮が重なった場合、大洪水が懸念される。 万石浦沿岸を走るJR石巻線は小牛田~石巻~女川を結んでいたが、現在石巻~女川間は運行されていない。線路にはロープが張られて立ち入れない。 浦宿駅のホームは基礎の鉄筋がむき出しになった。その下を潮が刻々満ちて行く。潮は次第に急流となり、見ている間に線路が水没した。未明、住民は潮が満ちる音で目を覚ますという。 昔、浦宿浜の知人を訪ね、この駅で降りたことがある。知人の消息はここには書かない。 JRは石巻線の浦宿駅~女川駅間2.5kmのルートを山側に移転する予定だ。この駅は廃止になる。鉄筋が錆びても、レールが水没しても、そのまま朽ちて行くしかないのだ。

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  • 23 Feb
    • ひっぱりうどん

      2月19日の山形の街。(霞城セントラル24階から)雪が消え、なんとなく春の気配がただよっている。 蔵王の山並みにも真冬の峻厳さはない。 駅前はこの通り雪が全くない。日曜なのに人通りも少ない。 五十番など日曜休みの飲食店が多い。仙台では考えられないことだ。 駅では雛飾りのスタンプラリーが行なわれていた。ここはエスパル一階。  ここはコンコース。   駅の1階の「澤正宗」でひっぱりうどんを注文する。880円。昔は「引きずりうどん」と言ったものだが、語感の悪さからか最近は「ひっぱり」などとしゃらくさい名前になっている。 運んできたおばさんが「食べ方分かりますか?」と聞くので、「バッチリです!」と答えた。 鯖の水煮(缶詰)、ネギ、納豆、卵黄に麺つゆを加えて激しく混ぜる。ここにうどんをひっぱってきて絡めて豪快に食す。つゆは濃い目だが、うどんのゆで汁が加わってちょうど良くなる。考えてあるのだ。うどんは何でもいいのだが、ここでは稲庭うどんを使っていた。見た目上品とは言えないが美味い。美味いが上品でない。子供の頃、冬の土曜日の昼食はいつもこれだった。(夏はもちろん水ままと漬物)  連れはひっぱりうどんは美的でないと小海老かき揚げ蕎麦を頼んだ。これも美味そうだった。850円。 

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  • 20 Feb
    • カネのサブロ

      冬、山形の人と喋ってっど、ときどき「カネのサブロ」ていう単語出でくるんだ。・・・きんなカネのサブロでみぢの氷割りした・・・ていう具合。 県外の人は何のことだがわがらねべげんと、これは「金属製のシャベル」の意味。シャベル、シャベル、シャベロ、サベロ、サブロて変化したんだべな。 今年の山形は雪うがくて、道端の氷も例年より厚い。カネのサブロでも歯立だねくて、2500円のツルハシ売れで売れで、JOYでは入荷待ちだっけど。 氷割りした翌日は朝から腰痛いっけな。

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  • 17 Feb
    • 光の春  もうすぐ3月

      昨日仙台は最高気温が16.5℃もあり4月の陽気だった。 今日も小雨ながら17℃。   この冬、(ここまで)仙台は比較的雪が少なかった。 何回かは降ったが、翌日には晴れて解けた。  雪かきは一度もしてないし、根雪にもならず鶴嘴(つるはし)で氷を割ることもなかった。   去年の冬は何度も鶴嘴を振るった。 氷は塊のままだとなかなか溶けないが、砕いておくとすぐに溶ける。   氷の下がアスファルトの場合、それを傷めないように振り下ろした鶴嘴を寸止めする。 それには少々コツがいるし、腰を傷めやすい。   寒い日はときどきあるが、少しずつ日は長くなり、夕方5時でも明るくなった。 日の光の中にも、どことはなしに春を感じるようになった。   近所の公園にも子供たちの姿があった。       気象予報士、故・倉嶋厚の「気象歳時記」に次のような記載がある。   ・・・・・二月の光は誰の目から見てももう確実に強まっており、風は冷たくても晴れた日にはキラキラと光る。 厳寒のシベリアでも軒の氷柱から最初の水滴の一雫が輝きながら落ちる。 ロシア語でいう「光の春」である。 ヨーロッパでは二月十四日のバレンタインの日から小鳥が交尾を始めると言われてきた。 日本でも二月にはスズメもウグイスもキジバトも声変わりして、異性を呼んだり縄張りを宣言する独特の囀りを始める。 ホルモン腺を刺激して小鳥たちに恋の季節の到来を知らせるのは、風の暖かさではなく光の強まりなのである。 俳句歳時記の春の部には「鳥の妻恋」という季語が載っている。   「光の春」の元のロシア語は「ベスナー・スペータ」と言う。    

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  • 13 Feb
    • 山形市、児童文化センター廃止 利用者激減で来月末

      山形新聞 2017年02月10日    今年3月末で廃止される方針の山形市児童文化センター=山形市霞城町    山形市は霞城公園内にある市児童文化センターを3月末で廃止とする方針を固めた。老朽化などに伴う措置。利用者には公民館事業を充実したり、他に交流の場を確保したりすることで対応する。  センターは子どもの健全育成を目的に1963(昭和38)年に開設された。子ども料理教室や体験学習会など多岐にわたる活動の場として利用されてきた。  2015年度の利用者数は4584人で、10年前の05年(7573人)から大きく減少。霞城公園整備計画で17年度までに撤去することになっており、老朽化のため廃止を決めた。  センターで活動中のグループは拠点を移して活動を続ける。市は、市議会3月定例会に関連議案を提出する。来年度に施設を取り壊して更地にする予定。     小学生の時、辰つぁんは卓球少年だった。 T君、A君と山大紫苑寮とか、桜町にあった県立病院の娯楽室に入り込んでは卓球をして怒られていた。 児童文化センターができたとき、我々は飛び上がって喜んだ。 センターのホールには立派な卓球台があって、無料で何時間でも遊べたからだ。 子供が多人数いるときは並んで勝ち抜き戦になった。3本勝負で勝てば続行、負ければ列の後ろに並ぶというルールが確立した。 辰つぁんはそれまでに上手になっていたので、10人抜きくらいは普通だった。 そのまま中学でも卓球部に入り、今のテニスにつながっている。 取り壊しの前にもう一度ホールの中を見たいものだと思う。    

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  • 06 Feb
    • H商店のH君 4 Face Bookで

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    • H商店のH君 3 最後の日は青空

      H君は中三でも身長は150cmほどで、卓球部だった。なぜだか私を、「閣下、閣下」と呼んだ。年賀状が戻って来て以来、私は彼と話すことを避けていた。彼の家に遊びに行くこともなくなった。区画整理でH商店の建物が撤去されたと同時に「そうめんや」はやめたようだ。所詮小狡い性格は、地元で長く商売を続けることには向いていなかっただろう。H君はどこかで元気にしているだろうか。中学の卒業式の後、校門を出たところで「じゃあ」と言ったのが最後になった。その日はとびきりの青空だった。彼が私に送り返した年賀状は大事に保存してある。年末にそれを見て、手紙は鉛筆で書くものではないと確認する。年に一度だけ彼のことを思い出すのである。(続く)

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  • 30 Jan
    • H商店のH君 2 消えたH商店

      城南町にあったH商店は敷地に豪勢なH家の母屋と、複数の蔵と石造りの工場を有していた。 工場では米、麦の製粉と飼料作りをしていた。 H家の長男H君は中学で、「そうめんや」と呼ばれていた。 今でこそそういうことはなくなったが、あの頃は子供を家業で呼んだのである。 家が銭湯なら子供は「ふろや」、精肉店なら「にくや」と呼ばれた。同級生はもちろん、教師もそう呼ぶことがあった。 喧嘩をすれば「●●ふろや」、「腐れにくや」と罵られた。 昭和50年以降、「山形駅周辺整備事業」が始まり、H商店の建物群は取り壊されることになった。 「H家の石造りの建物は歴史的価値があり、移築保存される」という噂もあったが、いつのまにか立ち消えになり、すべて更地になった。 H商店の建物は城南町から消えた。 跡地は面白みのない新興住宅街になっている。 区画整理で、あの頃の道路もすっかり変わってしまったが、三中をキーストーンにすればH家のあった位置が特定できる。 当時三中から見て北東の位置に国鉄が有した1000坪ほどの広場があり、H家はそれに接して北側にあったのである。 H家が別の土地で営業をしているのか、H君が家業を継いだのか、誰に聞いても分からない。 (続く)

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  • 23 Jan
    • H商店のH君 1  戻ってきた年賀状

      中学生まで、年賀状は鉛筆で書いていた。 ある年、三中の同級のH君に年賀状を出したら、1月5日頃に返信の賀状が届いた。 その賀状には、「明けましておめでとう 今年もよろしく」とあった。 が、その字は間違いなく自分のものだったのでびっくりした。 皆さん、この意味が分からないでしょ? 宛名面を見ると、なんと自分が書いたH君の住所が消しゴムで消され、私の住所に書き直されていた。 さらに差出人欄の私の住所が消され、H君の住所が上書きされていた。 H君は私から届いた年賀状の宛名と差出人名を書き換え、そのまま再投函したのだった。年賀状に消印がないことを悪用したのだ。 彼は小柄で、顔に雀斑が多かった。 普段悪い人間ではなかったのに、中学生とは思えない悪知恵と吝嗇さに驚くとともに、自分の出した葉書が彼の許にないことがひどく虚しく、悲しかった。 以来数十年、年賀状は鉛筆で書かない。 H君に年賀状を出したのはその1回限りである。 何十年経っても、年賀状の季節になると彼の小狡さを思い出す。 彼の家は貧乏ではなかった。 貧乏どころか、H君の家はH商店といい、城南町に広大な敷地を有していた。 彼の家に何度か遊びに行ったが、広すぎて帰り路に迷うほどだった。 (続く)

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  • 16 Jan
    • どんと祭翌日の大崎八幡宮

       どんと祭翌日の大崎八幡宮。 あれほど多かった露店はすべて撤収し、一軒もない。境内も昨日の混雑が嘘のよう。元旦から続いた狂騒もしばし落ち着くことになる。  提灯と電線の撤収。  御神火はまだ燃えている。1週間は燃やし続け、すべてを灰にする。  燃え残る大黒様。燃えないものは不燃物としてまとめられる。  まだゴミ、もとい正月飾りを燃やしに来る人がいる。  

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    • 初市と近江商人    

      山形の一年は初市で始まる。初市は江戸時代初期から続く正月の伝統行事である。1月10日、十日町から旭銀座までの目抜き通りを歩行者天国にして、約270軒の露店が並ぶ。紅白の蕪・白髭葱、臼と杵・梯子・雪へら・まな板などの木工品、団子木・船煎餅・小判などの縁起物が山と積まれ、新春の雰囲気を盛り上げる。団子木はミズキの枝に繭玉を多数飾ったものである。ミズキは名の通り水を吸い上げる力が強く、日照りでも枯れないことから、五穀豊穣を祈るのだという。色とりどりの繭玉を見ていると本当に福が来るような気がする。幸福に色があるとしたらこんな色だろう。 白髭葱は湯がいて酢味噌でいただく。山形名物どんどん焼き、大福まんじゅう、庄内名物どんがら汁の屋台には終日長い列ができる。元来初市は物の売買よりも、商人が市神様(商売の神様)に一年の繁盛を願う行事だった。蕪は商いの株が大きくなるよう、白髭葱は長生きできるよう縁起を担いだものである。かつては初市で銭撒(ぜにまき)という行事が行われた。群集の中で自分の年の数の一文銭を撒けば、その年の厄落しになるといわれた。しかしそれを拾う人の間に喧嘩や怪我人が出て、明治40年頃に禁止された。十日町では近江商人が建てた巨大な蔵群が威容を競う。歴史的にみると初市は紅花、近江商人と深く結び付いている。近江商人の歴史は奈良時代に高麗からの帰化人を近江に配置した所から始まった。 彼らは農耕、定住を基本とする日本人と違い、移動を苦にせず、営利の観念に富んでいた。近江地方から徐々に商売を広げ、各地に市場を形成していった。山形藩では最上義光の死後、後継争いが勃発。9年後の元和元年に改易となり、最上家は近江に移封された。すると近江商人と山形との関係が強まり、山形へ移住するものが相当数に上った。山形藩五十七万石は、改易後僅か五千石に減らされ、藩主が次々と替わった。そのため商業への統制力は弱まり、外から来た近江商人にとっては都合が良かった。近江商人が山形に進出した最大の目的は紅花である。紅花は京都の西陣織の染料に使われた。当時赤い染料は紅花以外になかった。紅花は葉のふちに鋭い棘があるので、花摘みは朝露で棘が柔らかくなる朝方に行われた。摘み取った花は水を張った盥(たらい)に入れて足で踏む。水を切り、竹すだれに並べて2日ほど陰干す。発酵して粘りが出たら薄く丸めて筵に並べ、天日で乾す。これを紅餅と呼んだ。 紅餅は山形から荷駄で大石田に運ばれ、最上川水運で酒田港へ。さらに北前船で敦賀に入って京都に送られた。 中継地として大石田も大いに栄えた。芭蕉は紅花大尽といわれた鈴木清風宅に滞在し、「まゆはきを俤(おもかげ)にして紅粉の花」の句を詠んだ。京都では紅屋の手で、紅餅から真っ赤な紅が作られた。紅は京女の唇と頬を妖しく彩り、反物を神秘的な色に染め上げた。紅花から採れる口紅・頬紅は、重さにして生花の0.3%と微量で、「紅一匁、金一匁」と言われるほど高価だった。肥沃な山形盆地では、紅花の他、米、果樹、桑、生糸、煙草、大豆、小豆、青苧(からむし)等の栽培が盛んであった。青苧はイラクサ科の多年生植物で、蚊帳と上下(かみしも)の原料として重用された。近江商人はこれらの物産を上方へ運び、帰り船に東北になかった木綿、古着、繰綿等の衣料品を乗せ、往復で巨利を得た。 ところが明治初年、上海経由で安価な洋紅(化学染料=アニリン)が輸入されると、紅花産業は一気に衰退に向かう。明治10年にはほぼ壊滅したとされる。紅花は現在、山形市近郊高瀬地区で細々と栽培されているだけである。それは品種の保存と、宮中の式典用衣装の染色のためだという。紅花を失った商人達は売れる物を求め、古着、布団、油紙、合羽(かっぱ)、鞄、菓子など様々な方向に商売替えをして行ったが、往時の輝きは戻らなかった。近江商人の経済活動は利潤を関西に吸い上げ、関西財閥の基礎を盤石にしたが、東北には資本の蓄積をもたらさなかった。幼時祖母と十日町を歩くと、祖母は「ここは近江商人の店、ここも・・・」と蔵を指さして言った。その語調には好意的とは言えない響きがあった。山形の庶民は、近江商人を「阿漕(あこぎ)、吝嗇」と反感を持って見ていたようだ。 最上川流域の旧家には、紅花商人が京都から持ち帰った江戸時代の雛人形が伝わる。このあたりでは雛祭りが盛んに行われ、「雛のみち」と呼ばれている。近江商人が常食した近江漬は「おみ漬け」として山形名物になっている。昭和30年代、初市の日は必ず大雪になった。小学生は防寒帽でしっかり耳を被い、ランドセルごと雪だるまになってどんどん焼きに並んだ。温暖化のせいか、近年山形も雪が少なくなった。初市に雪が降ったのはここ10年で2度しかない。山形市の中心部には最上家ゆかりの史跡が数多く点在する。桜の美しい山形城址(霞城公園)、三の丸土塁、市内を網の目のように潤す御殿堰、小京都の雰囲気を残す寺町、秀吉に処刑された駒姫を弔う専称寺・・・。三の丸土塁は現在立ち入れないが、かつては子供達の格好の遊び場だった。土塁には鬱蒼と雑木が茂り、東側は深い空堀になっている。堀の底は昼でも陽が当たらず、蔓草が蛇のように足に絡みついた。そこはいつもざわざわと風が巻き、風に混じって人の声が聞こえる気がした。言葉は聞き取れないが、うぉ~ん、うぉ~んと、泣きながら人を呼ぶような声だった。 離れて40年以上になるが、生まれた町はいつまでも懐かしいものである。

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プロフィール

辰つぁん

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山形市生まれ。仙台市在住。 ダックスフント2匹を連れて毎日広瀬川遊歩道を散歩してます。

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